碧の目、白い髪――――忘れる筈もない、その容姿。 「……あっ!」 思わず、指を指してしまうほど、驚いた。 彼は、現実にはいるはずのない夢の中の人のはず……だったのだから。 いつから、自分は予知夢を見てしまうような能力を得たというのだろう。 夢に出てきた気になる人が、次の日目の前に現れる、なんて、ベタな少女漫画みたいだ。 しかし、良く解らない興奮に息を荒くするの指の先で、青年の方は完全に困惑しきったような、 訝しげな顔をこちらに向けてくる。何だ?俺はこいつに心当たりなんてあったか?と語る青年の顔と の驚いた顔を見比べて、しんらが尋ねた。 「さん?……ギンコさんを知ってるの?」 知っていることは、知っているが。青年の反応があまりにも鈍いので、の方もおかしな事を 言ってしまったと焦ってきた。何しろ、直接会った、と言える状況ではなかったのだから。 やはり、自分が一方的に見てしまった予知夢だったのだろうか。 それにしたって、夢で会った人ですよね、なんて恥ずかしいセリフを、本人を前に言えるわけもなく。 「え、あ、いや。えぇと…………………ギンコさんって、女の人だと思ってて」 「……何でだよ」 誤魔化したとも言えないの失言に、ギンコは律儀にツッコミを入れてくれた。 庭の敷布の上には、先程から新たな人物がもう一人加わった。 「……で、気が付いたらこの山中に倒れていて、その足でここに辿り着いた、と」 ギンコにとっての話は、しんらの話を二度聞かされているようなものであった。 どこか疲弊したように見えるギンコといえども、自分にとっては家へ帰るための唯一の光明だ。 それ故、話を聞いていてもどこかテンションの低いままの彼に、内心も焦る。 「どうですか?ギンコさんは各地を旅してると聞いてましたし……勿論知ってますよね?」 はまだ、しんらと廉子の世間知らず説を諦めきれずに問いかけた。 とは言いつつも、最早その割合は20%を切ってはいるが。 むしろ、なかば諦めるために聞いた、というのが正しいのかもしれない。 色んな場所を旅してまわっているというギンコに聞いて、そこで答えが返ってこなければ決定打だ。 何しろ、特定の人しか目に見えない蟲という生き物だの、文明の欠片もない生活様式だの に、ここを現代日本でない場所だと疑わせるような事ばかりなのだから。 「……悪いが、聞いたことがねぇな……」 渋る事もなく、あっさりと下された結論に、はがっくりと肩を落とす。 ほぼ諦めていたとはいえ。それからの事を、全く考えていなかった。 認めざるをえない。ギンコは、見た目は異様とも言える青年だが、日本語を使い、各地を旅して回っていると 言ったのだ。そんな人物が、日本の首都名や、交通機関、文明の利器の名を知らぬはずがない。 愕然とするしかなかった。 ショックが大きくて、目の前にある状況をどう受け入れればいいのか、解らない。 だって、西へ行っても、東へ行っても、北へ行っても南へ行っても、どんなに探そうとも、帰り道が無い、なんて。 じゃあ一体、自分はどうすれば……? 焦点の合わない目で黙り込んでしまったを見ていると、何だかその原因が、事実を言ったまでの自分にあるような 気がしてギンコはばつが悪くなった。しんらも、落胆と絶望を隠せる余裕のないを見て、気を揉んでいるようだ。 (……んな事言われてもなぁ……) 話をいくら整理してみても、原因に思い当たりそうな蟲は記憶にない。 聞いた事もない場所から、人間を連れてくる蟲?あるいは、記憶を操作する類の蟲か? 後者にしても、このように鮮明に、信じ難いような記憶を細かく構築できるはずがない。 まさか、とは思った。 有り得ない事だと言い聞かせつつ、頭の中で勝手に仮説が立つ。 この世とは違うどこからか、は来たのではないか、という事だ。 我ながら馬鹿馬鹿しい、と余計な思考や場の悪い空気を払うように首を振ると、 ギンコは懐の蟲煙草を取り出して火をつける。 ふぅ、と深く煙を吐き出すのと同時に。 「う、わぁ!?」 またも、頓狂な悲鳴が上がったので、そちらを見ると。 「な、何だコレ……!さん、大丈夫!?」 ギンコの吐き出したタバコの煙が、にぐるん、と巻きついていた。 ぜい、ぜい、と肩で息をしながら蹲る。 やっと振り払った、というか、消えてくれた煙から開放されて、は両手を床につきつつも、ギンコを見た。 何だったのだろう。一体何の、攻撃だったのか。実害はなかったが。 見上げた先のギンコは、驚きに目を瞠っているばかりで、悪意の欠片も、悪びれた様子もない。 唯ただ、何でだ、と、こんな事が起こるとは思っていなかった、と目が語っている。 それでもは、荒い息をきらして問いかけた。 「な、何なんですか、今のは!」 とにかく、少なくとも心地のいいものではなかった。 の抗議の声に、やっとギンコは、は、と意識を取り戻すと、悪りぃ、と気の無い謝罪を口にする。 「今のは、蟲の一種でな。煙の形をしていて、すぐに消えるモノなんだが……」 説明はしてくれるものの、戸惑いを含んだその口調には眉をひそめる。 に、しても、今のも蟲か。やはり想像を絶する生き物だ。 こんなものが、人間と同じ空間に生きているなんて、全くここは本当に不思議な、 「……こいつらは、同胞に好んで巻きつく習性を持ってる」 「……え?」 ギンコの、狼狽したような態度の原因を自身が理解するのには、結構な時間を要した。 ………………………。 そうして、思考も何もかも、ぴしりと固まる中で、彼の言葉がリフレインする。 同胞。同胞? 同胞、というのは、同じ類…今の場合なら、蟲であるという事を指すのだろうか。 そして、同じ蟲に好んで巻きつく習性を持つ彼らは、それはもうに嬉しそうともとれる勢いで巻きついていて。 ………………………。 「……………嘘」 「やー……嘘じゃねェけど」 煙草を口から離し、後ろ頭を掻きながら、ギンコは困ったように言う。 手に持つ、火のついたそれから直接上がる微かな煙さえも、引き寄せられるようにを撫で付けては消えていく。 何故。一体、どうして。 「……アンタ、蟲なのかい?」 一切の躊躇なく単刀直入にギンコは聞いてくるが、答えが欲しいのは、自分の方である。 「め、めっそうもない!人間ですよ!ちゃんとお腹痛めて生んでもらいましたよ!」 慌てて、首を振る。 冗談じゃない。あんな卵生、もしくは細胞分裂で生まれてきそうな生物と自分が、一緒であるはずがない。 「いや……蟲ン中には妊婦に寄生する例や、人の形をとるものもある。……そういった事や、心当たりは?」 なんて事だ。蟲というものの中には、そんな気味の悪い類のものもいるのか。 淡く発光しながら、ふわふわと漂っているものばかり蟲だと思っていたは驚いた。 まして、ギンコのいうような心当たりもなく、今度も首を振る。 そもそも、今まで蟲なんかいなかった……見えなかったのだから。 の言葉を受けて、顎に手を置き、ふむぅ、と考え込んだギンコだが、今の段階での判断は難しいであろう。 彼としては、しんらを調査しに来ただけだったのだが、思わぬ所で興味深い存在に出くわした。 好奇心が少しだけ気分を高揚させているのか、表情は変わらないが、ギンコはどこか楽しそうに申し出てくる。 「ちっと、体を調べさせてもらってもいいかい?」 「…ぇえ!?」 他意はない、と解ってはいても顔に熱が集まるのを止められないだったが、一連の不可解な事象を 解決せんがため、ぎこちなくも頷く他の選択肢は無かった。 (ひいぃぃ……早く終わってえぇぇ……) 座敷の一角、しんらも見守る前でギンコと対峙したは、声無き悲鳴を上げていた。至近距離にギンコの顔がある。 目の状態を確認したり、熱を測ってみたり、脈をとってみたり、口の中を覗いてみたり。 にとっては地獄の業火に焼かれて拷問を受けているかの如し恥ずかしさだった。 ギンコの方はただ何時も通りの手順を実行しているだけで、ばかりが焦っているのだが、 述べた順に側からの解釈をしてみると。 頬に手をおかれたり、大きくて少し温度の低い手で額を覆われたり、手を握られたり、顔を極端に近づけられたり、 と、途中で何度、目を回しそうになったろう。 一通り終えたギンコがから離れたが、当然平然としていて は余計に自分が恥ずかしくなった。 「少しだけ体温が高いような気がするが……まぁそれも異常ってこたぁねーな……」 いや、体温が高いのはあなたのせいなのですが、とは口が裂けても言えない。 50も過ぎた医者ならともかく、年の若い、ましてや"いい男"に、顔やら手やらと触られて、男性に免疫のない 自分が平気でいられるはずがないのである。 二言三言用件のやりとりをする以外縁の無かった自分には、今という状況は耐えられるものではない。 変な汗をかいてしまった額を、考え込んでいるギンコに気付かれないように拭う。 「見た目……身体はどう見ても人間だな……。何が一体……。……ここ最近、何か変に感じた事は?」 あさっての方向を向いていたが、いきなり此方に顔を戻してきたギンコに、は慌てて汗を拭う手を引っ込めた。 「えっ!?……えーっと、えー……」 今まで、問われた事とは全く違う事、しかもどこか不謹慎な事に思いを馳せていたのもあって、中々思考が 落ち着かなかったが、必死に記憶を呼び覚ます。 とは言っても、思い当たる事が多すぎて、何から口に出せばいいのやら。 「……その、さっきも言ったように、昨日目が覚めたら突然知らない場所で……蟲が見えるようになってました。 後は、よく転ぶように……と、いうか、何か体が思うように動かなくて。それから……」 つ、と視線を上げると、本人はそのつもりはないだろうが、どこかダルそうに見えつつも、真剣に話を聞こうと しているギンコと目があった。 「……?」 「あ、いえ……」 言えん。 夢であなたに会った筈なんです、そして今日また再会したんですよ、などとは。 大体、あの時の事は思い出すだけでも身悶えたくなる。 向こうは覚えてない(というか知らない?)ようなので幸いであるが、少し寂しい気もする。 不自然な所で言葉を切り、黙り込んだを、ギンコは訝しそうに見たが、 そこで証言は終いだ、と踏んで続けて質問を投げかけてきた。 「一昨日……気を失う前までは蟲は見えなかった、て事か……。体が思うように動かない、というのは、どんな風に?」 「バランス……いえ、平衡感覚が保ちにくいというか……気を張っていないと転びます」 成る程、さっきも。 奇妙な悲鳴と共に、鈍い音が響いていた事を思い出しているのか、微かにギンコの口の端が上がる。 「今日まだ二日目だけど、よく転んでるよね。昨日は15回以上転んだりぶつかったりしてたし。今日は朝だけで5回」 しんらが横から、なるべく隠していたい事をリアルに証言してくれる。 実は今日は森に出て帰ってきた時の事を足せば20回を越える失態を犯しているが、恥の上塗りはしたくないので 汗を隠しつつ黙っていた。その様子を見て、ふぅん、と含み笑いをした所を見るとギンコにはバレたようだが。 「なるほど……ねェ。その運動神経は自前、ってこたぁねぇだろな」 「ち、違いますよ……」 やはり意地の悪い笑顔は、あの時、光の河で見たものと変わりない。 ギンコは、そうか、と納得すると、またも浮かんだ疑問を口にする。 「……の、ワリにゃあお前さん、生傷らしいもんも見当たらんな」 しんらもも、え、と目を丸くして、改めてその体を見回してみるが。 「本当だ……。あんなに何回も、派手に転んでたのに……」 普段気が回るくせして、しんらのこういう、デリカシーに関する部分が鈍いのには参ってしまう。 「しんら君、ハデって……。でも……運が、よかったのかな?」 立て続けに、小さな奇跡が起こって、傷がつかなかったのだろうか。 転んだり、引っ掛けたりした時は、ちゃんと痛みを感じるけれど。 「んなわきゃ、ねーだろ。………………」 首を横に振ると、ギンコはまた考え込む体勢に入る。今度は深く。 しかし、じぃ、との体を食い入るように眺めながら思索にふけってしまうものだから、堪ったものじゃない。 (た……助けてー……) 唯でさえ、見つめられる事なんて得意ではないのに。 何をしているんだと呆れられようが、今すぐにでも穴を掘るか、衝立を立てるかして隠れたいのを堪えるのに必死だ。 そうして、緊張感とぎこちなさが、高まる所まで高まろうとした時。 ギンコは顎に置いていた手を、す、とこちらに伸ばし、の片腕を取る。 驚くを他所に、平然とした様子で手を握ったまま、返したり開いたりと観察してみせる。 「あ、あの、」 とまどう先で、ギンコは取ったの腕を持ち上げると、手首辺りに鼻を近付け、くん、と一嗅ぎした。 「あの……!?」 ええと昨日風呂は入ったよね、貸してもらって! と、ばくばくと煩い心臓を押さえながら、見当違いな懸念が怒涛のごとく襲ってくる。 解っている。解ってはいるんだ。ギンコは純粋に自分を調査してくれているのであって、こちらが考えてしまって いるようなやましい事は、彼からは微塵も感じられない。けれど、自分の方がもたないのだ。 「あの、何か臭いましたか?さっき転んだ時草を潰してしまって、青臭いのは自覚してて……」 半ばぐるぐると目を回しながら口走る意味不明な台詞に、答えるのが億劫な様子で、ギンコは顔から手首を離す。 「……これは、憶測だから、間違ってたら悪りぃんだけど」 言いながら、片手はそのまま、もう片方の手を彼自身の荷物の中に伸ばす。 「指先を少しだけ、な。ちっと痛いだろうが、我慢してくれ」 そう言って、すっ、と取り出したのは、よく切れそうな銀色のメスだった。 の温度の高まった血の中に、冷たい血が、さっ、と混ざる。 「えっ、何を……ちょっと待っ…」 何かの確信があるのか、ギンコは曖昧な返事を気にする風もなく、固定したの指先に刃を当てると、力を込めた。 「……っ」 ぷっ、とした感触に、思わず目をぎゅっと瞑る。 とたん指先に広がる鋭い痛み。 そっと目を開けると、ギンコの持つ自分の手の先から、普段見ることの少ない赤い液体が 膨れ上がっているのが見えて思わず背中を震わせた。 「ギ、ギンコさ……」 血を見た動揺で言葉を発する事のできない自分の代わりに、しんらが心配そうに声を掛けてくれる。 「ちょいと失礼」 そう言うやいなや、ギンコは。 ぱくり。 「……へ……」 間の抜けた、呆気に取られた声が、としんらの口から同時に上がった。 もう、指先の痛みなんか、欠片一つ残さずぶっ飛んでいった。 とにかく、舌の感触がどうだとか、そういう事は、内なる底からぐんぐんと膨れ上がってくる よく解らない感情に押し上げられて、解るはずもなくて。 「うーん……」 にとっては、永遠とも、一瞬とも取れる時を経て人差し指を口から解放したギンコは、唸った。 「……甘いな」 バタンッ! と、昇った熱に頭をやられて目を回したに、 「うわあ!さん!?」 しんらは悲鳴を上げて駆け寄った。 |
積極的と見せ掛けつつ、相手を全く意識していないからこそ出来る行動なのかと
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