最初の夜明け





『地味ゴリラ』

柔らかい音素灯の光に照らされる机の上。
広げた日記帳の新しいページに、ルークは半ば乱暴にガリガリとペンの先を立てて、そう書き殴った。
今日の題目だ。
忌々しい思いもあるが、自分が付けてやったこのあだ名は、意外にしっくり口に馴染んだ。




『今日、すっげームカつくことがあった。
親父が集めてきたガラクタん中の本に書いてある事をやったら、何か変なのが出てきた。
俺の部屋をめちゃくちゃにするし、いう事は腹立つし、ブスだし怪力だし、最悪だ。
しかも、親父もお袋もガイも、みんな、全部俺に責任を押し付けやがるし!
何でだよ!本は親父が用意したもんだし、ガイだって承知したじゃねーか!
なのに、還せないからって、一緒に暮らさなきゃなんねー事になるし。あーもう、ムカつく!


けど、メシ用意してやったら、「ありがとう」って言われた。
何か、スゲー変な感じ。
食材の余りで適当に作らせたヤツだから、大したもんじゃねーのに、「おいしいおいしい」って
ガツガツ食ってた。まあ、こんな奴だし、ろくでもねー生活してたんだろ。
今だって、何でか知んねーけど床の、しかも絨毯もひいてないようなトコで寝てるし。
変な奴だ。
こんなのと、これから先一緒だなんて、冗談じゃねーよ。
早く還す方法、見つかんねーかな。』


たまった鬱憤を吐き出すように一気に書き終えると、幾分気分も晴れた。息をついて椅子を引く。
「……ったく、何なんだっつーの」
いきなり人の生活空間に上がりこんできたくせに。文句をもう一言くらい言ってやろうと思ったのに
風呂から上がって部屋に帰ってきた時には、当の本人は気持ち良さそうに眠り込んでいた。床で。
一応、部屋を去るときにガイがベッドをすすめていた筈だが。
謙虚なのか、はたまたそういう習性を持ってる奴なのか。よくもまあ、こんな硬くて冷たい場所で寝られるものだ。
とにかくこれじゃあ肩透かしである。怒りのぶつけ所もなく、自分もベッドに入るしかないじゃないか。
つまんねえの、と、ぽつんと思って、大人しくベッドにもぐり込み、枕に頭を静めた。










やけに静かな目覚めだった。
いつもなら、最悪の立地条件に相応しく、大通りの方の車の騒音や、酷いときには、マフラーに空けた穴から
爆音を轟かせながら走っていくバイクの音なんかがこの部屋には響くのに。

朝日が昇る直前の、独特の空気の冷たさと、静けさ。
鳥のさえずりよりも早く、自分は目覚める。
いつも通りのはずの、朝。
多目に睡眠を取れた朝は、目覚まし時計に起こされる前に、起きる事が出来る。
頭は起きていても、まだしっかりと開かない目はそのままに手探りで来るべき時を待っている筈の目覚まし時計を捜した。
アラームのスイッチを切っておかないと、必要の無い騒音を響かせてしまう事になるだろうから。
しかし、どんなに枕元をパタ、パタ、と探っても、目的のものは見つからず。
諦めて伸ばした手をそのまま、残るまどろみに、少しだけ、と身を任せる。
(…あー…床がつるつるして…きもちいい……)
直接触れる頬に全く凹凸を感じさせない、スベスベとしてひんやりとした感触を楽しみつつ、再び夢の世界に落ちそうになる。

――――って、はっ!!
つるつるスベスベした床…大理石の床のお蔭で、迅速におかれている状況の記憶を復元させる事が出来た。
こんなに美しくも高貴な床の上で目覚める事が出来るなんて、常にない事だ。
常にない事が、昨日突然に自分の身に降りかかってきたのだから仕方ないが。
手をつき半身を起こしながら、驚いた心臓から一気に全身に送られた冷えた血のお蔭ですっきり開いた目を、辺りに彷徨わせる。
といっても、カーテンが開いたままになっている窓から、薄く白んだ光が入ってくるのみで、
部屋の中は7割がた闇に落ちていた。
だんだんと暗闇に慣れてくる目に映るのは、当然狭き我がボロ部屋などではなく、威風を湛えた様相の。
はぁ。
朝一番に、思わず溜息をついた。
まさかこれが、覚めない夢、なんて事はないだろう。

ふと、澄ませたわけでもない耳に、静寂の中、息遣いが聞こえた。
それこそが、をこの状況に落とし入れてくれた張本人の寝息なのだが、そんな事を全く無縁としたような
どこか間が抜けていると思わせる程に、健やかなものだった。
窓際に近い方のベッドへ目を寄越すと、モノクロの世界で周囲の色にくすんだ、それでも鮮やかな赤い色が浮かぶ。
どう見ても人毛として不自然すぎる色が、とても自然に見える彼の髪。
かぶった羽毛蒲団が息に合わせて上下している。
(…人間、どんな状況でも寝られるのね……お互い…)
昨日は散々言い争った間柄だと言うのに、結局ルークもも、この部屋で眠ったのだ。
流石に、自分で自分に呆れた。
と、言っても、昨日は物凄く疲れていて。
お腹が一杯になったところで、抗い難い程の眠気に襲われて、それからの記憶が曖昧なまま、今に至る。
子供か、私は。満腹で安心して、警戒心も何も無くその場で思うがままに眠ってしまうなんて。
しかし、もしもあのまま起きていたら。
きっと、他の部屋へ行け、だの、何でここで寝るんだよ、だの、例によって不毛な言い争いが勃発していたと思う。
彼の性格からして、きっとそうだ。絶対素直に「おやすみ」を言うタマじゃない。
会って一日と立たずして、ルークの思考パターンはある程度把握できて来た。
と、すると、先に寝こけていてよかったという事か。
無抵抗のこちらに何も言う事が出来ず、ルークも仕方無しにベッドに入ったのだろう。

「んー…」
すうすうという息の中に、無防備な呻き声を聞いて、思わずは笑いそうになった。
人間というのは、眠っている時程に、自分自身を余す事なくさらしている瞬間はない。
生意気でダルそうな目をして、ストレートに最悪な口の悪さを発揮してのけた昨日のルークだったが、今は見る影もない。
何だかよく解らないが、ざまァ見ろ、という気になった。してやったり、というか、見てやったり、というか。
しかし。
こっちが起きて、趣味悪くも寝姿を観察している事などは知る由もないルークが、ごそごそと寝返りを打ち、此方を向く。
の余裕は、そこまでだった。
「……――――」
妙な優越感を募らせていた所、愕然となる。


あれだけ、自分にとって嫌な言葉を散々浴びせかけ、遠慮も気を遣う事も容赦も一切なく、存在否定をしてきた奴だ、コイツは。

まさかのあだ名である「地味ゴリラ」の名付け親でもある、とんでもなく失礼な奴なのだ、コイツは。


なのに。なのに、だ。


(…――――何、カワイイとか…思ってしまっているのよ私はあぁあああ…!!!)
ぐぁあ、と音をたてないように頭を抱えて悶える。
自分で自分の、無意識の甘い考えが許せない。
見た目がよければ何でも許される、なんて、断固としてそんな事があってはならない、と、自分は考えていた。
特に外見の事で色々苦労した思い出のある自分が、それを認めるわけにはいかないのだ、絶対に。
だのに、目の前のコイツときたら、見た目だけはやたらいいもんだから厄介なのだ。
まったく、寝姿まで、いつ何時寝起きドッキリカメラに狙われてもバッチリOKな程だとは。
これが自分だったら、お笑い番組か恐怖番組に投稿されそうな映像が取れる所だろう。
(…寝顔なんて、絶っっっっ対に見られたくないわね……)
ふぅ、と思考を落ち着かせつつ、自分の、見た事は無いが、ひどい寝顔なんかを想像して気分を下降させる。
(………………アレ?)
見られたくない、と思いつつも、現状をよく考えてみると。
昨日の夜――――ルークが戻ってくる前に、眠ってしまったと、言うことは。
(…や…………やってしまった……)
目から額までを手で多い、落胆の息をつく。きっと向こうも見たくなかっただろう醜態を、曝け出していたという事か。
つくづく、迂闊であった。
だいたい、男女が何故に同じ部屋で眠るんだ。そこから考えておかしいじゃないか。
そう考えを巡らせつつも、出したくない答えはもう、頭の中で認めていた。
(…ぜんっぜん…人間扱いされてないって事よね…多分)
ここは女扱いされてない、と考えるべきかもしれないが、昨日の周囲の扱いを視野に入れ、謙遜しつつ考えるとそうだ。
もしかしたら、謙遜もなにも、その通りという可能性もあるが。
ルークにとっては、異性と眠る、なんて意識は微塵もなかっただろう。
こっちは目覚めてから、意識しまくってしまって大変だというのに。
彼が自分を女扱いしないのは当然だし、有難いとも思うが…やはりそこはどうなのだろう、少し悲しむべきではないか。
とにかく、男っ気生まれてこの方まるで無しな人生を送る自分にとって、ルークの寝顔は毒だ。
なるべく顔をそちらに向けないようにしよう、と反対側を向いて膝を抱えた。



「――――っ!」
瞬間、ぶるっと体を震わせる。
別に寒いという意識はなかったし、一昨日までの生活を思えば、この部屋は充分に暖かい。
と、すれば、それは人間が生きている限り付き纏う、生理現象と呼ばれるようなもので。
ヤバイ、と、またも嫌な汗が滲んできそうな予感に襲われる。
(そういえば…ど、どうしよう……私、トイレの場所を知らない……)
何とか、ここで生活するという事に落ち着いたのに、盲点だらけだった。
その中でも最も困るべきものを、は見落としていた事に今更気付く。
トイレに行けなくて困る、なんて、本当に子供か私は。あんまりにも情けない事に、しばしどうしようか、と座って考える。
ちら、とルークを見るが、こちらの苦労を知らずにぐっすりと気持ちいいまでに眠り込んでいる所を起こすのは
気が引ける。というより、そんな恥ずかしい理由で彼をわざわざ起こしたくない。
ルークが目覚めるのを待とうか、という案も頭をよぎるが、目に入った時計の時刻は午前5時27分。まだまだ早朝だ。
今に朝日も昇るだろうが、この調子だとルークが万が一早起きをしたとしても、7時…一般的な社会人が遅めの目覚めを
迎える時刻にすら、1時間半以上の空白の時間がある。それまで耐えるだなんて、想像したくもない。
じっと床に座っていると、更に体が冷えて悪化しそうなので、おもむろに立ち上がる。
ルークのベッドを迂回しながら窓辺に到達すると、ちょうど夜明けの朝日が顔を出す瞬間に立ち会った。



「…――――ぅわ、……」



冷えた空気が一気に、射し込んだ光に暖められていく。
眩しさに目を眩ませながらも、そこにうつる、窓枠サイズの景色。
人々が暮らすそこは、異世界という言葉を使わなければならない程に衝撃的な世界が広がっているわけではなかった。
けれども、何もかもが、あの、が暮らすゴミゴミとしたコンクリートジャングルとは違う。
三階の東向きの窓から見えるのは、いつかの時代の異国の町が、みずみずしい朝の光に照らし出される光景だった。
この世界の人々にとっては、毎日繰り返される何てことはない景色なのかもしれない。
けれどもは、ひたすらそれに感動を覚えた。
久しぶりに――――きれいだ、という感情が湧いた。
朝早く人気のない町は、まさに、に今までとは違う世界に連れて来られた事を自覚させる。


そんな中、視界の端に動くものがうつったような気がして、は窓の直ぐ下に目を向けた。
邸の高い塀に囲まれ、朝日の恩恵を受けられないまま冷たい影を落とした裏庭に、珍しく動いている人間がいる。
邸で働く人物なのだろうが、昨日見かけたような執事服やメイド服に身を包んではおらず、動く作業に適したシャツにズボンを
身に着けていた。積み上げられた土嚢の山から、一袋ずつ持ち上げ、よっこい、よっこいとリヤカーに移動させている。
朝から土と汗にまみれているその人物を、何もする事がない自分にとっては少し羨ましい気持ちを抱きながらも
感心して見ていた。しかし良く見れば、それが老年に入り始めた程の男性である事に気付いて、驚く。
あんなきつい作業、若い者に任せればいいのに。
けれど、その人物以外に起きて働いている若者は、周りにいない。
おそらく僅かにいたとしても、それぞれの役職に従事しているのだろう。
5袋ほど積み終えると、えっちらとリヤカーを引いて裏庭から消え、しかし暫く経つとまた戻ってきて土嚢を積む。
…大変な作業じゃないか。
しかし不思議なのは、その顔には重労働に対する苦痛が何処にも見止められず。
むしろ活き活きとして仕事をやっているという事だ。
「……………」
人は見た目が何割…だか何だかと言うけれど。
何となく、見ていて、あの男性ならトイレの場所について聞いても教えてくれそうな気がした。
と、いうよりも…今現在、助けを求められそうな相手が他にいないというのもあるが。


「ん"ー…」
「!」


突然の唸るような声に、驚いて振り返る。
朝日に照らし出された部屋の中、蒲団にまみれたルークのうっすらと開けられた翠の目と、視線が交わった。
ぱし、ぱし、と焦点の全く合ってないそれは、いっぱいに顰められている。
は妙な緊張に、冷汗をかいて黙るしかなかった。どう、リアクションを取ればいいのか、解らない。
窓を背に貼り付けて、顔を引き攣らせていたが、取り敢えず、挨拶をしてみる事にした。

「お……おは…おは、よう…ゴザイマス…」
「……………」

状況が解っていない、というか、殆ど意識がない、というか。
ルークは小さく瞬きをするだけで、何の反応も返さない。
ここで起きてくれたら、と、は淡い期待を彼に寄せた。
そうなら、知らない人に恥を晒す事も、毛ほどにしかない無い勇気を振り絞る必要も無くなるのだから。
しかし。


「…まぶしい……」
「は?」


顔で朝日を受けたルークは、物凄く忌々しそうな顔で呟いた、かと思うと。

「…ぁに、カーテン開けてんだよっ」

ぼふんっ
と、の顔めがけて勢い良く当たり心地最高(?)の枕が飛んできた。
とてもいい材質で出来たそれは、しなやかな動きで顔面から剥がれると、力なく、べしょ、と床に落ちる。
「………………………………」
視界をいっぱいに遮っていた枕が消えた向こうには、射し込む朝日から逃れるように頭まで蒲団を被って
再び眠りの世界に落ちるルークがいた。



あ、そうなんだ。枕なくても寝られる派?
うん、私もだよ。というより、ベッドか剣山の上でない限り、どこででも眠れる自信があるよ――――

―――――…って。


(…あんたがカーテン閉め忘れてたんでしょうがぁぁああああ!!!)
と、いう無言の叫びを背後に、は部屋の外へ旅立つ事にした。


多分主人公が見たのは、町全体ではなく、貴族の暮らす家々……だと思います

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