庭師殿はかく語りき





射し込む光に、朝もやさえ浮かぶ広い廊下を歩く。
自分以外に息づくものの気配はまるでなく、ただ、一つの足音だけしか響かない。
騒音や雑踏に慣れてしまった感覚から、不思議な心地に囚われつつ、当てずっぽうに見つけた階段を下りていく。
幸いというか、何と言うか、人には会わなかった。
窓から見かけた裏庭の方角を、忘れないように意識しつつ進んでいたのだが、どうにも其処へ通じる出口は見当たらない。
こんなに広い邸で、前にも後ろにも進めなくなるなんていう状況よりはマシだが、このまま適当に進み続ければ、
きっとその状態に陥る事は必至である。ここは裏庭の方角が解っているうちにショートカットした方が賢い。
と、そう踏んで、目的地の見える窓へと手をかけた。
「う"っ…高…」
ここは一階のはずなのに、と窓を乗り越えようと足を枠に乗せた状態で、意外な高さのある地面までの距離を見下ろした。
軽く、2メートルちょっとはあるんじゃないか?体育が苦手な自分的には、遠慮願いたい高さである。
多分、着地時の足へのダメージは小〜中、覚悟せねばなるまい。鈍くさい自分の事、下手したら捻挫とか、被害大の可能性もあるが。
(ええい…もう、ままよ!)
覚悟を決めて、飛び降りた。
さんはジャンプの時目をずっと瞑っているから着地に失敗するのよ、と体育担当教師に指摘された事が頭をよぎる。
だから、今回は目を開けていた。そのお蔭で、というわけではないけれど。

すとっ

軽い音とともに、忍者のように方膝をつき、アニメ宜しく着地する自分がいた。
体勢は格好いいが、顔に情けないくらい大量に疑問符が貼り付いているので、それも台無しである。
(な…なにこれ…出来ました先生……じゃ、なくて。な、何が起こって…)
ものすごく、体が軽かった。重力なんて、殆ど感じない程に。
思わず無意識に調子に乗って、格好いいポーズで着地してしまう余裕が有るほど、滞空時間が長かったと、いうか。
信じられない怪力に、軽くなった体。これも召喚術のせいなのだろうか?
今、体重計に乗ったら何キロだろう、と余計な思念に囚われがちな頭を、ぶんぶん、と2、3度振るう。
考えても解らない事に時間を浪費してもしょうがない。とにかく、今は。

(さ…さあ、て)

少し離れた先には、あの、土と汗にまみれて働く男性の背中が見える。しかし。
あの、すみません、という何の変哲もない言葉が、喉に引っ掛かってなかなか出てこない。
良く思われていないだろう可能性が極めて高い、面識のない人物なのである。所在なさげに、上げようと思った手が彷徨うが。
ああ、もう、何やってるの。
両手で、ばちんと頬を挟むように叩いて渇を入れる。何にも、恐いことは無い。取って食われるわけじゃあるまいし。
「す、すみません!」
こんな人気のない時間の作業中に、突然声を掛けられるとは思ってもいなかったろう男性は、吃驚した面持ちで振り返った。
彼が持ち上げようとしていた土嚢は、手から離れてまた元の位置に戻る。
この段階では、正とも負ともとれない反応だな、と思いつつ、そのどちらもが返らぬうちに要件を持ちかける事にした。
「トイレって、ど、どこにあるか教えていただけませんか!?」
緊張で、かみつつ妙に力んでしまった語尾に舌打ちを心の中でしながら、迫るように問いかけた。
が冷汗をかきつつ見つめる先で、男性はこれ以上ない位の戸惑った顔をする。
「えっ、?あ…ああ、そこの角を曲がって…中庭をぬけた先に…」
咄嗟に、とも言うべき調子で、言う方向に指をさす。
「あ、あ、ありがとうございますっ!!」
は、びゅん、という効果音が付きそうな勢いで頭を下げると、そこから先は男性の顔も見ずに中庭へと走った。
よかった、という気持ちと、恥ずかしい、という気持ちがない交ぜになったまま、広い中庭と言われた場所を突っ切る。
まともに目を開けて通りかかったなら、とても綺麗な庭園に感嘆の息をもらしていたかも知れないが、今は生憎余裕がない。
猛然と、見える西棟の入り口だろう場所に駆け込む。そこで男性の言ったとおり、トイレを見つける事ができた時は
助かった、という気持ちで腰がぬけそうだった。あの男性は、こちらをどう思っているか知れないが、恩人だ。





無事に用を足し、戻ってきた中庭を、今度こそは余裕を持って観賞する事が出来た。
小さな公園くらいの広さの其処は、綺麗な円形をしていて、花の絡まったアーチや憩いのベンチが置いてある。
作り物でなく息づく花や植木は、一つをとっても誇らしいまでに見事なものだった。管理者の腕の良さが窺える。
およそ人の家の庭にしては豪勢なものである。流石はというべきか、やはりというべきか、公爵邸である。
その一角に、先程の男性を見つけた。運んできた土嚢を下ろす作業をしている所をみると、目的地はここだったのか。
向こうも、口をあけて突っ立っているこちらに気付いたようなので、気まずくなる前に、と頭を下げる。
と、おずおずと返してくれた。それだけで、の心は軽くなる。
無視、されなかった…。
(…ここに、あの土袋を運んでくるのかな…)
そんな事を考えながら、は元の部屋ではなく裏庭の方へ足を向けていた。






「あの…これ、どこに置いたらいいですか?」
8袋も手に持てば見えなくなる視界に苦戦しつつ、中庭の男性に声をかける。
「………え?」
さっきと同じように、吃驚した様子でこちらを見止めると、彼はそのまま暫く固まってしまった。
余計な事を、してしまっただろうか。
不安になるが、男性はゆるゆるとその呪縛から逃れると、戸惑ったまま人差し指を上げる。
「じゃあ…こちらに2袋と、あとは…向こうに」
返事を聞いて、思わず、口元が綻ぶ。よかった、少なくとも不快に思われている様子は、今のところないみたいだ。
いそいそと持っていたものを積み下ろすを、男性が本気で驚いたという顔で眺めている。
それに気付いて、今更ながらに、はっとした。
(し…しまった…)
リヤカーに限界5袋の土嚢をついつい、あ、まだ持てる、おお、まだ持てる、と結局8袋も素手で持っているのである。
…異常さをアピールしてどうする。そんな人間業じゃないものを見た男性の反応は、とても正しい。
「まっ、まだ、持ってきた方がいいですかね!?」
取り繕うように裏返る声で問いかけると、また間をおいて、戸惑いを含む反応が返る。
「あ、ああ…それではあと…5袋頼もうかの」
鈍いながらも返してくれた相手に、ペコッと会釈をすると、裏庭へ走った。
(拒絶はされてない…よね)
やっぱり、部屋で彼を見かけた時の印象は間違っていなかったのかもしれない。
手早くひょいひょいと、土嚢を5袋持つ。昨日は忌まわしい働きしか出来なかったこの怪力が今は役に立ってくれるのが嬉しい。

中庭に戻ると、男性はまたが声を掛ける前のように、活き活きと仕事を再開させていた。
こちらに気付いて上げた顔には、先程までの動揺は一切なく、穏やかな笑みさえある。
「おお、すまん。それは適当に置いてもらって構わんから、こちらに来て土をあけるのを手伝ってくれんか」
予想もしていなかった言葉や態度に今度はが目を丸くするが、好意的な様子がとても嬉しくて、一も二もなく頷いた。
閉鎖的な邸という空間の中、昨日の様子では敵しかいないかもしれないと思っていたのに。
ましてやのうっかり見せてしまった怪力も、男性は恐れる様子はなく作業を手伝わせてくれている。
「新しく花壇を作ろうと思っていてな」
ざぁ、ざぁ、と、ひたすら袋に詰まった土を花壇になるだろう場所にあける。
作業の手を止めないまま、男性はに話しかけてくれた。
「好きにしてよい、という場所を賜ったんじゃが、予想以上に広かった。いや、助かったわ」
ふ、と笑みに皺の深くなった顔が此方を向いたのに、自然も笑みを返していた。
せっかく話しかけてくれているのだから、何か気の利いた話題を返そうと必至で言葉を探すが上手くいかない。
つくづく人付き合いの下手な自分を悔しく思ったが、沈黙はいたって穏やかだった。
一緒にいる彼の人柄がそうさせるのか、作業が楽しくても活き活きと働く。
そのまま暫く、土が広がる音しか二人の間には響かなかったのだが。


「お前は、、と…いうのじゃろう」


そういえば、名乗り忘れていた自分の名前を、初対面である筈の男性が口にしたので驚いた。
――――だが、
「…そう、ですけど…。………まぁ…そりゃ…知ってますよね」
ここで働く人間であれば、知っていて当然だろう。昨日の、主の息子が起こした事件を。
兵士が二人も負傷し、部屋は半壊し。そしてそれをやったのは異界の化け物だと言うし。
それなのに、ここに置いてもらう事になった。申し訳ない気持ちで、顔を俯かせただったが。
「ふむ。…他の者はどうか分からんが…お前の事はガイから聞いておるよ」
「…ガイさんから?」
予想外の名前を聞いて顔を上げると、の正体を知った上で、それでもまだ向けてくれる笑顔があった。
「わしは、ペールという。ガイとは同室でな。ここで庭師をさせてもらっているんじゃ。
 …よろしくな、」
そうして、言葉と同時に、土にまみれた手が差し出された。
ペールの言った事を、向けてくれる笑顔に含まれる感情を。
戸惑いながらも、ゆるゆると理解したは、笑みを浮かべて頷いた。
「………はい!」
同じく土まみれの自分の手を、差し出されたペールの手に重ね合わせた。





「…――――なんて事、言うんですよ。本人を前にそういう事言いますかね本当…」
誰もいないのをいい事に、主の息子の陰口を叩くなんてとんでもない事かもしれないが、今まで味方が居なかった分、
ペールの人柄の良さも加わっては溜まった愚痴を吐き出していた。
たった一晩の間によくもまあこれだけ、と言いたくなる程募った不満を、ペールはうん、うんと作業の手を止めずに聞いてくれる。
「でも、ペールさん、こんなに綺麗に庭を整えてるのは、あの人のためでもあるんでしょう?…腹とか立ちません?」
聞けば、彼は屋敷の人間は勿論、ルークの心が少しでも癒せるよう、一生懸命庭の手入れをしているのだという。
その心が、この素晴らしく美しい庭を作り上げているのだ。
だったなら食虫花の2、3本、部屋の前に植えてやって地味に嫌がらせをしてやる所だが。
今朝の仕打ちといい、思い出せばルークのどこを癒すべきなのか、ペールの考えは自分には理解できなかった。

言い草に対して、ふふ、と含むような皺枯れた笑いの後。
「……ルーク様は」
やんわりと、諭すような声音に、思わず手を止めてペールを見る。
彼も一旦手を休めて、ルークのいるだろう部屋の方角に目を馳せていた。
「本当は、とてもお優しい方だ。わしらのような下々の者どもにも、分け隔てなくお声を掛けて下さる」
それって当たり前じゃないですか、同じ人間として――――という思いを、咄嗟に口にしそうになったが、言えずに噤んだ。
ここは、誰もが平等を主張できる世界なんかじゃない。昨日のガイの話を思い出す。
例え幼馴染の友人でも、彼は身分の差という障害を、しっかりと自覚していた。
有り得ないのだ。ルークのあの態度は、貴族として、常識として。だからペールのような感想を抱くのも、きっと間違いじゃない。
それに、と思う。
ルークは確かに総括すると我侭放題のお坊ちゃんだが、昨日の夜、空腹と喉の渇きに苦しんでいた自分を助けてくれたのは彼だ。
物凄くぶっきらぼうではあったが、が今まで食べた事のないような上等な食事を、彼は差し出してくれた。
驚きつつも、とても感謝した事は覚えている。
黙ったまま反論しないの反応を肯定と取って、ペールは続ける。

「それに……とても、お可哀想な方だ」
「………え?」

可哀相?こんなに贅沢な暮らしをして、我儘放題なのに?
どうして、とペールを振り仰ぐと、彼の眼差しは心持ち沈んだものに変わっていた。
そのまま目を伏せ、思い出を探るように語りを続ける。
「ルーク様に記憶がない事は知っておろう。お医者の話では、誘拐された時の心の傷をご自分で隠すための記憶障害だと…」
「え……心の…傷?」
は頷きながらも、少なからずショックを受けていた。
誘拐された事が原因だとは聞いていたが、物理的なものだと思っていたから。
そんな精神的なもの…心の傷、だなんて。全てを忘れてしまう程、つらかった?
「7年前、この邸にお戻りになられた時には…以前の記憶はおろか、言葉を発する事も、歩く事さえお忘れになっていた」
懐かしむように、発せられた言葉。穏やかな口調とはうらはらな、告げられた衝撃的な内容に、は愕然とした。
「………そんな、それ…」


言葉を、発する事を?

歩く事を?

忘れていた、なんて、それは。

忘れていたなんてものじゃない、記憶を失くしたなんてことで済むようなものじゃない、それは、


「それって、ほ、とんど……生まれたばかりの状態じゃ、ないですか…!?」
信じられない。
顔でそう語るの言葉に、ペールは頷いた。
「それからは、その身を案じられ、邸の中でお過ごしになられる事を余儀なくされてらっしゃる」
真っ白な状態から、7年も―――――
外の世界を知る事もなく、同じような立場の人間がガイ以外殆どいない状態で、ずっと?
想像がつかなかった。そんな状態で0から育った人間が、どんな風になってしまうのか、なんて。
もしかしたらルークは、まだまともに育った方なんじゃないのかとさえ、思えてしまう。
漸く、彼の心を癒したいというペールの気持ちが、解った。
ルークの、後先考えない行動も、礼儀や遠慮を欠いた行動も、ことごとく子供っぽいその全てに、合点がいった。
そうか、ルークは、子供みたい、なんじゃなくて。

「……知らない、だけ…って事ですか…」

突然呟いた声に、ペールは僅かに目を丸くしたが、ゆるゆると目尻の皺を濃くして、笑んだ。
休めていた手を、最後の一袋にかけて、ばさ、と中身を解放すると、よっこいせと立ち上がり、腰をとんとん、と叩く。
も同じように立ち上がり、手の土を払った。
振り仰ぐと、夜の影は完全に去り。
まばゆい光で、公爵邸はあますことなく照らし出されていた。
鳥が、全ての目覚めを歌っている。
ふわ、と、まだ冷気をはらんだ風が頬をかすめ、ペールと自分の服を揺らせた。
見上げる空は地球の、が見たどんな空よりも深く、青く、緑がかっている。
その彼方には、ぽつぽつと岩のようなものが浮かんでいるのが見えた。
オールドラントという世界―――――本来、自分が居るはずの無い大地に、立っているのだと感じた。
「…さ、後はもうわしがやっておく。手伝わせてしまって、すまなんだな、」
気持ちいい朝日を一緒に受けながら、ペールはに言う。
すまなかった、なんて。は首を横に振った。
「あの、いえ………ありがとうございます。ペールさん」
ここへ来て、とてもいい出会いをした、とは思った。あれだけ帰りたがっていた元の世界では、一人ぼっちだったのに。
「部屋に、戻りなさい。そろそろルーク様も起きなさるじゃろう」
そうだろうか、あの調子だと、まだ蒲団に包まったままだと思うけれど。頷き、踵を返した。
去ろうとするの背を見送ろうとしたペールだが、ふと、それに声を掛ける。
「」
「はい?」
目を丸くして振り返るに、変わらぬ穏やかな顔をペールは向ける。
「ルーク様を、」
そこで、一瞬躊躇するように言葉が途切れて出来た間は、気のせいかと思うほど短くて。
「……いや。…わしらは立場上、お傍におる事が出来んのでな。よろしく頼む」
「……はぁ、まあ」
ペールの様子に首を傾げつつも、苦笑を湛えながらは頷く。
正直、昨日出会ったばかりの人間なので、どうなるか解らないし複雑だ。
しかも中身は子供とはいえ「いい子」とはお世辞にも言えないようだし。
自分は出来た人間でもないので、これからも付き合っていくのだとしたら、相当骨を折る事になるだろう。
それでも、ペールの顔を見ていると、これから出来るところから努力をしていこう、という気になった。

満足気に頷き返すペールに会釈をすると、今度こそ、我が主様の部屋へと足を向ける事にした。


ペール氏の口調が微妙です。 彼には後々お世話になるので、出会って頂きました。

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