伸べられた手





「…………死、ぬ……」


結局、部屋のほんの隅っこ、柔らかい絨毯も行き届いていない床の上に、
は安息の地を見つけ、膝を抱えて座っていた。
やっと落ち着く事が出来た今、次に戦わなければいけないのは。
ぐぅぐぅと激しく空腹である事を訴えてくる腹と、凄まじい喉の渇きである。
今朝から、一滴の水さえ体内に摂り込んでいない。それどころか全力で走りまくった上、大量の脂汗やら冷汗やらをかいた。
それに、それに…プチ(?)対人&異性恐怖症の自分とした事が、二人の人間相手にあれだけ熱弁を振ったのである。
普段使わない口を酷使しすぎて口の中が乾くし、今思い出しても、
(あああ何であんな事言ったのよ…今思えば凄く変だったかもしれない…)
恥に炙られて悶えながら、また変な汗が出てくる。…いけない、これ以上水分を減らすのはマズイ。
人間、食料がない状態でも水さえあれば、何日か生きられる。というわけで空腹もあるが、今は水分が切実に欲しい。
「み…水…」
しかし、虚しく喉に貼り付いたような声は、誰に届く事もなく。また、ここを出て水を貰いに行けるような勇気も出ない。
と、なると、この部屋に戻って来るだろうルークを待つしかないのである。
去り際の彼の様子を思い出すと、あんまりアテにはしたくないが。
はあ。
と、水分の含まれていない息を吐き出す。
こんなにブルジョアな部屋にいながら、飢えと渇きに苦しんでいる人間というのも、そういないんじゃ。
する事もなく、勝手に部屋のものを触って怒られるのも嫌だったので、ひたすらじっとするだけなのだが。

「……………」

ごそ、と上着のポケットをまさぐって時計を取り出すと、2時56分をさしていた。
………デジャビュ?
また、有り得ない時刻を指し示しているんですけど。
この星の人だって、まさか午前3時に元気いっぱいなんて事はないだろう。恐らく時間がずれているのだ。
朝、全力で走っていた時に8時半くらいだったから、地球で今が14時56分として、およそ7時間程経過している事になる。
呼び出された時の記憶を、非常に曖昧ながらも手繰り寄せて考えると、今は20時くらい…か。
普段なら残業をしている頃だろうか。それが終わると、徒歩で帰路につき、適当に家事を済ませ、深夜まで内職をして。
午前1時半過ぎに就寝、5時に起床――――暇な時間なんて、1分たりともなかったのに。
今はこうして何するわけでもない時間を、信じられない事に持て余していて。
段々、いらいらとしてきた。
この、素晴らしく無駄この上ない時間を、別の何かに当てられられたら――――それこそ靴下の修理とか、向こうの部屋の
掃除とか洗い物とか、造花作りとか、醤油の蓋閉めとかetc…――――そうすれば、幾分後で自分が楽できるのに。
けれども。
気付いて、溜息をつく。
その"後で"というのは、いつの話になるのやら。
(あ〜…でも…そんないきなり生活リズムを変えるなんて無理よ…)
何もしなくていいというのを頭で解ってはいても、どっぷりと漬け込まれて染み付いた貧乏根性は絶えず体を動かそうとする。
「はぁ…もう…」
それに逆らう事を諦め、よっこらせ、と立ち上がった。
外に出る勇気は、相変わらずない。
と、いうわけで、いじらなければ大丈夫だろう、と部屋の中を見て回る事にした。

ソファが目に入る。
(…売ったらいくら位になるかな…)

ベッドに目を移す。
(…骨組みの頑丈さと装飾から見て50万は…羽毛蒲団も合わせると締めて65万弱くらいには…)

部屋に置いてある置物に目を向ける。
(リサイクルショップで5000円…)

…――――て、はっ!
いや、こんな事を考えている場合ではなくて。というよりも、他人の家の物に値段をつけてどうする。
ぶんぶん、とセコイ思念を振り払って、ふと見上げると。
(…何だろう、この表…)
全く読めない文字っぽいものがニ、三行書かれた下には、ずらっと…恐らく形が似ているので数字と思しきが
並ぶどこかで見たようなソレが、壁に掛けられている。
どこで見たんだったか。かなり馴染みのあるものだが…。眉間に皺を寄せて唸る。
「…まさか…カレン…ダー?」
曜日らしき表記を先頭に、整然と7列に並ぶ数字は、どう見てもカレンダーにしか見えない。
…のだが、どうもこうもその長さときたら、これまでが見知ってきたものの2倍はある。
(7列×9行…60日くらいあるじゃない!?まさか、これで一月だっていうの!?)
数えてみて、愕然とする。けれども二ヶ月分、という風には見えない。
しかし、その横に据え付けられた時計らしきものを見つける。文字盤の数字の数は12。地球と同じだ。
先程のの予想は当たらずとも遠からず、午後8時40分を指していた。
つまりこの星は、1日は24時間、けれども60日で一ヶ月、一年はおよそ700日、というわけか。
…何て、気の長い惑星なのだろう…。小鼻をおさえて眩暈を落ち着ける。
落ち着け、こんな事で驚いていたら、きっと後々心臓がもたない。ここは異世界なのだから。

…さて、次は。
大きな本棚が目に留まる。
背表紙を見ても何の本なのか全く解らない。無駄とは知りつつ、一冊を手にとってパラパラ、と中を見ても
妙に丸くてクネクネした文字ばかり並んでいて、太刀打ちできそうもなかった。
(……せっかく時間があるのに、本も読めないなんて…)
忙しい日々がいつか一段落したら、一度読書をしてみたい、と思っていた。
それも、激動の中、暇も金も無いために夢と化していたが。
しかしこの分だと、暇は出来てもそれが叶う事は難しいだろう。
残念に息をついて本を閉じると、元の位置に戻す。
と、端に少しだけはみ出している赤い装丁の本を見つける。背表紙には何も書かれていない。
(…ん?)
中を見ると、印刷による統制のとれたものとは違う、たどたどしくいびつな何かが並んでいる。
これは果たして文字なのか、ひょっとしたら落書きなのか。疑わしくなるほど、アーティスティックな書体である。
「途中からは白紙だ…」
誰かのノート…にしてはハードカバーだし、違うか。感じからして、日記帳のような。
しかし、この部屋の主と言えば。
「………」
気のせいよね、うん。少なくとも、毎日の思い出を欠かさず綴るような繊細な人に見えなかったし。
いずれにせよ例に漏れず解読不能なので戻しておく。


「………………」


さぁ、もう、する事がない。
ううん、と伸びをしてみると。
「うわっ……と」
一瞬、視界が白く染まり、気が遠くなりかけてフラリとよろける。
やばい、タフである事だけが取柄のこの私ともあろうものが、意識を失いかけるなんて。相当に体は参っているらしい。
多分今、血液は水分不足でドロドロなのだろう。
そう思うと、体の限界をおしてルークの帰還を待っているのが馬鹿らしくなってきた。
「水…だけなら、もらえるわよね…?」
さすがのチキンハートも、生命の危機に瀕しては奮い立たせなければならない。
扉に、そろりと近付く。
緊張に唾を呑み込もうとするが、渇きに渇ききった喉は、呑み込む唾液さえ分泌してくれなかった。
そ、とノブを手にし、ゆっくりと、回す。
ドキドキと、心臓が煩い。
いい人に会えますように、と一心に願う。あと、出来れば集団に会いたくない。複数の冷たい視線は体に毒だし。
ノブを回しきると、慎重に、ドアを引く。
開いた…まずは、外の状態の確認を―――――…


「…………………」

「…………………」


…――――ぱたん(閉)。 ゴッ!!(開)
「ぶっ!!!」
ダルそうな翠の目と赤い髪が視界に入った途端、思わず閉めてしまった扉は隙をおかずに外側の人物に勢い良く開けられ、
したたかに顔面に洗礼を受けたは呻いた。
「何閉めてんだよ、地味ゴリラ」
入ってきたルークは相変わらず不機嫌そうに、顔をおさえるに言い捨てると、本棚から先程の
赤い本を引っ張り出して、乱暴にベッドに座る。
「い、いや、ごめんなさい、つい……――――って! じっ、ジミ…地味ゴリラ!?」
もしかしなくても自分の事を指しているだろう言葉に目をむくと、面倒臭そうにルークは此方を顧みる。
「文句あんのかよ」
「あ、あるに決まってるでしょうが!?」
女として付けられたくないあだ名のゴールデンが、二つも揃っているではないか。
小学校や中学校の頃ならともかく、成人してからこんな心にストレートを叩き込むようなあだ名を喰らうとは
思ってもみなかった。まさか、これから、こんな屈辱的なあだ名で呼ばれ続けるのか?
本人だけならともかく、第三者がいる場でもそう呼ばれるのだとしたら、恥ずかしいにも程がある。
今の内にどうにか定着しないよう、手を打たなければ。
「も、もうちょっとこう…ええと…――――っていうか、名乗ったでしょう、私!だって!」
「うっせーなあ。お前なんか、ブスだし怪力だし、地味ゴリラでいーんだよ」
「んなっ…」
何ですって、このガキャ――――!!と、声に出せずに叫びながら、頭を掻き毟る。
いや、過去にも似たような悪口散々叩かれたし、慣れてるけど!やっぱり腹が立つもんは立つし!
"お仕置き"を喰らうのは勘弁願いたいが、やっぱりここは言わせて置けないぞ、とルークに向き直ると。
(…あれ?)
今回は何か調子が狂う、とでも言おうか。
ボルテージが上がりに上がりまくっているこちらに対して、ルークの方はその半分もない。
これまでの流れなら、負けん気の強い彼の事、もう2、3言ほど悪態が返ってきそうなのだが。
相手にされてないのとも違う、何か、どこか落ち着かないような、そわそわした様子が垣間見える。何だろう、
「どうかし…」
コンコン、と、声を掛けようとした所にノックの音が割り込んで来る。
それまで気の定まらない顔をしていたルークは、はっとして早口に「入れ」とだけ言うと、本を手にしたまま寝転がり、
そっぽを向いてしまう。
「……?」
眉を顰めるの後ろ手で扉が開き、「失礼します」と、メイドが一礼して入ってきた。
その手には、銀のトレーを持っている。メイドは部屋のテーブルにそれを置くと、また一礼して部屋を出て行った。
後に残されたのは、呆ける自分と何を考えてるのか解らない少年と、湯気を立たせる銀のトレー。
向こうを向いたまんまのルークは、こっちを放ったらかして完全に傍らに人無きが若し。

どうしよう、とは固まった。

取り敢えず、喉が渇いてお腹が空いて死にそうだし、地味ゴリラなんて嫌だし、ルークとは口論の途中…のはずだし。
処理しきれない頭の中の混乱を、一つでも解決させようとルークに恐る恐る声をかける。
「あの…」
けれどもルークは聞こえていない筈は無いのに、の声には反応しない。あーそうですかもう私の事なんて無視ですか…。
狼狽して視線を落とすと、そこには暖かい湯気と美味しそうな匂いを放つ具の沢山入ったスープと、色鮮やかなサンドイッチ。
伏せられたカップの傍らには、美しい装飾のティーポット。
ごく、と思わず喉が鳴る。
さすがは貴族様。こっちにしてみれば後にも先にもありつけそうもない程、充実した食生活を送ってらっしゃるようで。
しかし、ルークは食事をするために、出て行ったのだと記憶しているのだが。
夜食の準備だろうか。どっちにしろ、今のにとってそれらは、目の猛毒、嫌がらせ以外の何物でもない。
物欲しい気持ちを振り払って、もう一度ルークに声をかけた。


「あ、あの!」
「……食えば」


「……え?」
ひどくぶっきらぼうだったが、およそ彼の口から出たものだとは到底思えない言葉に、一瞬頭が白くなる。
「…え、あの…え…?」
一言言ったきり再び沈黙したルークは、二度は言わない、と背中で語っているみたいだ。
は暫らく目をしぱたいていたが、ゆるゆると、この状況を理解した。彼は、そして、この食事は。
「……い、いい…の?」
「いちいちウッセー奴だな……いらねーのかよ」
ちっ、と舌打ちして起き上がり、此方を睨みつけてくるルークは、この上なくばつの悪そうな顔をしていた。
は、驚きつつも、笑みが零れそうになるのを必死で抑えた。だってあんなに邪険にしてたのに。
成る程、照れているらしい。人間らしいと言うのか、子どもっぽいとでも言おうか。
「い、いる!すごく、欲しい!…その……あ、ありが…ありがとう」
まさか、まさか。食事の用意をしてくれるなんて、思ってもみなかった。
もの凄く驚いて、もの凄く嬉しくて。
弱っている所に与えられたのもあって、深々と頭を下げて御礼を言ってしまった。
けれど、ルークの方もビックリしたように、目を瞠っていて。
やっぱりちょっと何かおかしかったのだろうか、と、不安になるが。
「べっ…べ、別に!……あー、その、まずくっても知らねーからな!」
彼の戸惑いが妙に大きいのが不思議だったが、もしかしたら、慣れていないのかもしれない。
とにかく何を置いても飢えと渇きにこれ以上耐えられなかったので、有難く銀のトレーに手をつける事にした。
まずは水分補給だ。ティーポットを傾けてカップに中身を注ぐと、ふわり、と世にも芳しい香りがしたので、驚く。
注がれた液体は、美しい紅色をしていて。
(こっ…これってもしかして……紅茶というやつ?!うわー、綺麗な色…!)
水以外あまり飲んだ事のないにとっては、究極の嗜好品である。
一口飲んでみて、喉を滑り落ちる芳醇な味と鼻を抜ける香りに、思わず恍惚の息をつく。
なんて、なんて美味しい飲み物なのだろう。指先から、じぃんと温まっていくみたいだ。
続いてスプーンを手に取り、適度な量の肉と野菜をスープと一緒に、口の中へ運ぶ。もぐ、もぐ、と2、3回咀嚼して。
「………う」



瞬間、カシャン!とスプーンを取り落としたを見て、ルークが慌てて身を乗り出した。
「お、おいっ!やっぱ、何か駄目だったのか!?」
ぶるぶると震えるを見て、懸念していた事が当たったのかと動揺する。
はこの惑星の生物ではないのである。もしかしたら、食べているものが違うかもしれない。
ともすれば、毒になったりして。
しかし、ルークが狼狽する先で、は再びスプーンを手に取ると、猛然とした勢いで食事を再開させた。
「お、おいしい…!私、こんなの初めて食べた!美味しい!すごく美味しいよ!」
呆気に取られたルークだが、それはもう嬉しそうに、美味しそうに料理を平らげていくを見ていると、
自分が作ったわけでもないのに何だか得意な気持ちになった。
あまりに見事な食いっぷりに思わず唇が笑みを形作りかけているのに気付き、はた、と我に帰って。
「じゃ、じゃあな。俺、風呂入ってくっから」
いつにない自分に決まりが悪くなって必死で渋面を作ると、逃げるようにその場を立つ。
予想よりも素直な反応に調子を狂わされたが、と馴れ合うのは御免だ。
邪魔な事に変わりはないし、一刻も早く出て行って欲しいと思ってる。



部屋を出て、廊下を歩く。
いつものようにかったるく、ボンヤリと歩いているつもりなのだが、気が付くと頭の中に何度も同じ言葉が繰り返している。
「……ありがとう、……か…」
記憶を失ってから、この屋敷で過ごした七年間、失望や諦めといった負の感情を示された事は多々あったけれど、
感謝の念を、しかも心の底から抱いてもらったことなんて、あったろうか。
慣れない、というか、未体験のむず痒さに戸惑うばかりだが、ふと、それをもたらしたのが
だという事を思い出して、いらっとする。
(な…何であんな奴なんかに…!)
そうだ。よく考えてみたら、なんかに感謝されたって、ちっとも嬉しくも何ともない。
しかも、自分は食事の用意をしてやったのだ。礼を言われて当然じゃないか。

「おや、おぼっちゃま。何やら、ご機嫌でいらっしゃいますな」

しかし、階段を降りてホールで出くわしたラムダスにそう指摘され。
「うっせーっつーの!!」

そんな事ないはずなのに、何でか、変に恥ずかしかった。


素直になるのはムズカシイ。

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