太陽(レム)の光は、頂上にそびえる王城から、裾野の貧困街にまで平等に穏やかな光を降らしていた。 例えどんなに、"上" と "下"で人々の暮らしが違っていても。 「おい……まただ!怪我人だぞ!水汲み場に倒れてたんだと」 あばら屋と呼ぶのも不自然ではない家屋が軒を並べている通りに、慌てて男が駆け込んでくる。 整備の施されていない道に足を取られながら必死に叫んでいると、家事の手を止めた女達や、 軒下で談笑していた老人達が、脅えたような表情で振り返った。 貧しいこの区域には、昼間は働きに出ていて男は殆どいない。その不安感も手伝ってか、人々は縋るように 報せに来た壮年の男の周りを囲んだ。 「またなのかい?水汲み場か……あそこは旧市街に近いからねぇ……」 「まったく、国の兵士どもは何をやっとるんじゃ。魔物を逃がしておいて、まだ捕まえられんとは……」 伸びっ放しの髭を湛えた老人が眉を顰めて言うと、その横に居た中年の女が腕を組んで「はん」と鼻を鳴らす。 「どうせこんな端ッ切れの集落に、お上が腰を上げてくれるもんか。兵隊さんは貴族様を守るのに忙しいんだろ」 それを聞いて、皆の顔は一様に不安げに沈む。過ぎた言葉ではあるが、特に強く否定できるような要素はなかった。 「あの酷い雨の日以来、これで何人目だろうね……ああ、恐ろしい」 「今回はヨハンナ婆さんのせがれだってよ。可哀相に……婆さんもろくすっぽ動けねぇってのに」 苦味を含んだ顔で男がそう言って、肩を竦める。 「まぁまぁ、ヨハンナさんの事は暫らく皆で面倒を看てやりゃいいさね。それより……ルチルは大丈夫かねぇ」 痩せた、気風の良さそうな女が眉を顰めた。けれども回りも同じく眉を顰めるばかりである。 「あの子は小さいから、もう幾分も体力がもたないだろうに。あの薄情者はろくに家にも戻らないで……」 「元々そういう奴だったさ……いてやっても、薬も食べ物も買えないんじゃね……」 誰ともなく、溜息を、つく。 「……何にせよ、お偉いさん方と兵隊さんに、早く何とかして貰いたいもんだ」 期待を込めずに呟く。この貧民街では日々の生活だって楽なものではないのだ、口を開けば暗い話題しか出てこなかった。 (えーっと……ここは多分そう、右だった筈だと思う。うん) と、何度目かの適当な葛藤を頭の中に展開し、は分岐点を選んで進んだ。 馬鹿に広い上に同じような回廊が縦横に拡がっているものだから、大雑把な位置把握と進路決定しか出来ない。 相変わらず、すれ違う度に脅えるように距離を取っていく使用人達を横目に、溜息を押し込めながら主人の部屋を目指す。 まあ、最初の頃に比べると、大分極端な反応は無くなってきた……と感じられない事も無い。 (ルエベウスかー……) 先ほどの遣り取りを思い出し、実はそんなに記憶に無い施設の名を心に呟いた。 実際に見たのは高炉の中と外の一部だけだったし、どんな人達がどのように働いているのかも知らない。 検査だと公爵達は言ったけれど、ゴミ焼却兼研究施設なんかで、自分の体の何をどう調べるのだろう。 (痛い事されないといいけど。体調べられるのとかって、苦手なのよね……) 身体測定みたいなものなんだろうか。というか、そのレベルで勘弁願いたい。 容赦なく知らない人に、自分の発育不良だったり余分な部分だったりを明るみにされるのは、本当に欝になる。 とは思う一方、此方に来てからの自分の身体の一部異常っぷりの原因は知りたいし。 この前みたいに皆と認識が違っていた所為で、ウッカリ死にかけるなんて事は以降遠慮したいし。 それに、もしかしたら。 (召喚術……だっけ。正体さえ解れば、あの『お仕置き』から開放されたりするかも……) 今朝方からのルークの絶好調ぶりを思い出すと、以降の未来、いったい彼に幾度『誓約の痛み』を喰らうだろうか。 ぞっとするような事を考えていると、無意識に顔に翳が落ちる。 恐ろしい。周囲には半ばギャグとして認識されているようだが、絶対服従の証なんだからめちゃくちゃ痛いのに。 「痛がり方が悪いのかな……これでも真剣に痛がってるんだけどな……」 どんなに病める時も挫けそうな時も、「顔色いいじゃない」と言われるエセ健康体と間の抜けた顔せいか。 どうしたもんかと首を傾げていると、いつの間にか中庭への入り口に到達していた事に気付く。 噴水や鮮やかな花をつける生垣が光を受けるそこに、ペールの姿は無い。 別の場所の花壇にいるのか、買出しだろうか。 少し残念に息をつきながら、向かって左手に見える目的地の建物へ向かう。 (ルークと一緒はどうなんだって言いながら……これってまさか帰巣本能じゃないでしょうね……) 無駄に遠回りをした自覚はあるが、こうして何だかんだで本能の成せる業で帰って来れている。 まさか動物にあるというあの感覚か。 という事は、結局、自分でもここを巣だと思ってしまってるんだろうか。苦笑してその大きな扉に近付くと。 (……あれ?開いてる……) ドアノブに手を掛けようとした時に気付く違和感。 咄嗟に、無用心だなあ、という思いが湧くが、確か自分が先ほど出た後はメイドがきちんと閉めていた筈。 それが、だらしなく数十センチほどの隙間を空けて遊んでいる。 部屋から出掛けたのかな、という可能性は、中から聞こえてきた大音量の怒鳴り声によって否定された。 「その言い方は何ですのルーク!!また貴方に何か事が起きたのではないかと、わたくしは心配で……!」 (……わ!?) 予想外の衝撃に驚いて、思わず仰け反る。 女性の声…だった。ただし、メイドの落ち着いた言葉遣いでもなければ、シュザンヌの穏やかな口ぶりでもない。 恐る恐る中の様子を窺うと、金髪の少女がベッドに座るルークの方へと身を乗り出している。 (あ……あの人、確かさっき中庭で見たドレスの……) 「関係なくなんてありませんわ!わたくしは貴方の婚約者ですのよ!どうしてそんな事を仰いますの!?」 「どうしてもこうしてもあるか!親が勝手に決めたんだろ!オイ、ガイも何とか言ってやれよ!」 顔を赤くしたルークが助けを求めるように視線を馳せた先には、苦笑したガイもいる。 相変わらずだ、と物語る彼の様子を見る限り、この3人は知り合いなんだろう。というよりも、少女の言葉である。 (……ああ!確か今朝、ルークが言ってた……ええと、ナタリア……様?) ガイの補足説明によって明らかになった、ルークの婚約者であるキムラスカ・ランバルディア王国の王女、ナタリア姫。 それが彼女だと言うのなら、ルークに対しての態度も、美しい装いも頷ける。 絵本で見て憧れたような、正真正銘のお城の王女様を見れた事に、童心が甦ってきて何だか感動を覚える。 「お姫さま」という存在に抱いていた自分のイメージとは、弱冠異なるみたいだが……。 (っていうか、ちょっとルークさん……あんな綺麗な人と比べられたら堪らないんですけど……) 此処からじゃ顔は見えないが、ふわりと靡く金の髪から露わになる白磁のようなうなじ。 モデルのようにすらりと伸びた四肢体躯には、嘘のように無駄な部分などない。 それを証明するかの如く、凝ったデザインの緑のドレスが似合っている。 先に顔を合わせたセシル少将といい、この世界には本当に美人しかいないのだろうか。 (何か……違う意味で人外扱いされてるような可能性出てきた……) そりゃ、こんな人達と比較してモノを言うなんてルークも人が悪いというものだ。どうにもならないだろうよ。 「ばっ……馬鹿!あんま顔近付けんな!」 「あら」 のむなしい思考に構う事無く、部屋の中で3人は楽しそう(?)にじゃれ合っている。 完全にタイミングを逃してしまったのもあるが、何だか自分が此処にいる事が急に憚られた。 入りにくい、と言おうか。自分の知らない関係が、少しだけ、寂しいとでも言おうか。 当然の事のはずなのに、いったい何を考えているんだか。 でも、公爵にはここで生活しろって言われているわけだし。玄関でセシル少将も待っていてくれるわけだし。 入るか、入らざるか。声を掛けていいものか、邪魔をしない方がいいのか。 ぐだぐだと逡巡していると、二人の小さな悲鳴が聞こえて。 「ま、まあ……わたくしったら……大丈夫ですの、ルーク?」 「だぁ――――ッ!!い、いいから早く退けよお前はああ!」 何がどうなったのか、いつの間にかナタリアとルークがベッドの上で縺れ合っていたので思わず顔に熱が昇る。 (うわ!婚約者同士だからって、そんな過激な……ま、まったく近頃の若者はませてるんだから!) いや、まだこっちも20歳だけど。 自分が奥手過ぎるのが悪い事は解っているが、だから尚更眼前の光景はちょっと刺激が強い。 「て、いうか……」 見ているのが居た堪れないくらい恥ずかしいのと同時に、何だかちょっと眉間に皺が寄る。 (あ、あんにゃろー……あそこで赤くなるって事は、やっぱ私をまるで女だと思ってないって事じゃない!) 半ば解っていた事だが無性に悔しい。別にルークが誰をどう思おうが構わないが、この扱いの差は釈然としない。 そうして、扉から少し離れた所でアタフタしつつ、中を覗いては(出歯亀精神)ジタバタしていると。 「ん?」 さすが鋭い、気配を察知したらしいガイが此方を見て呟く。 「あっ……」 目が合ってしまい、思わず上げてしまった悲鳴を隠してしまいたい思いにかられる。 「あん?」 ガイの様子を訝しげに見遣った後、ルークも、何だ、と此方を向いた。 「……どうかしまして?」 そして、婚約者の気が自分から逸れた事を不思議に思ったろうナタリア姫も。 「………」 ガイは何故か、何処となく焦燥と苦味を混ぜたような表情を此方に向けた。 「………」 3人の、異世界ならではの色とりどりの瞳に凝視され、は背中と言わず全身に変な汗が滲んだ。 「………」 此方を見とめた途端、上気させていた頬の朱をひそませたルークは、何という事はなく「居たのか」と目を僅かに瞠った。 「………」 ナタリアも部屋の入り口の方を振り返って、純粋に驚いた顔をした―― ――のだが、直ぐに目尻が釣り上がり、意思の強い瞳が此方を睨みすえた。反射的に、ビク、と背筋が反り返る。 「まあ!何です、おまえは!断りも無く主人の部屋のドアを開けて、中を盗み見るなど、無礼な!」 たちまちルークの上にあった身体を反転させ、ツカツカとヒールの高い靴の音を響かせながらナタリアが近寄って来る。 後姿から予測出来た通り、やっぱり美人だ―――――なんて見惚れているような暇もなく。 「えっ、あっ、あのっ、ええええと、ドドドドドドアは最初から開いてたんですけども……!?」 盗み見る形になってしまった事は否定出来ないが、不可抗力と言おうか。 蚊帳の外だった激情の矛先が、突然此方へ向かって来た事に混乱して焦って、頭も舌も上手く回らない。 どぎまぎしていると、とうとう鼻先の所で隙間だけ開いていたに過ぎなかった扉が、バタン!と両方一杯に開放される。 「ああ…………」 隠れようもなく、及び腰になった情けない姿が、全員の前に曝け出された。 嘆くようにガイが名を呼んだのも、腰に手を当て、憮然と此方と対峙するナタリアには聞こえていないようである。 「あ、あ、あああの……あのその……」 真っ直ぐで気の強そうな瞳に容赦なく射られ、言葉がうまく出てこない。というか、何を言ったらいいかも解らない。 しかしてそんな事はお構いなし、とばかりに金の両眉の真ん中に、ビシッ、と皺が刻まれる。 「しゃんとなさい!それに、そのだらしのない格好は何です!一人だからといって身だしなみを疎かにしていれば、 屋敷全体の品位を落としかねませんわ!」 「ごっ、ごめんなさい!」 「背筋が曲がっていましてよ!そんなに足を開いて立つものではありません! 公爵家に仕える者としての自覚を持って、動作はもっと優雅になさい!」 「ごごごめんなさい!ごめんなさい!」 一部誤解があるような気がしないでもないが、機関銃のごとく指摘される事はどれを取っても正しい。 それに思考も行動も追いつかなくて、取り合えず怒られた事に対してペコペコと平謝りするしかない。 庭師のお古の寝巻きを着たまんま、屋敷の中を徘徊するなんて非常識だと自分でも思うし。 性分と言えばお終いだが、舌足らずでオドオドした態度しかとれないでいるのもきっと印象が悪い。 突然の出会いに加え、有り難いお説教に目を回していると、ナタリアの向こうからルークが声を掛けてきた。 「おう、何だよ、意外に早かったじゃねーか地味ゴリラ。……んで、親父は何だって?」 ベッドから立ち上がり、衣服の乱れを整えながらごく自然に話すルークに対して、ナタリアは眉を顰めた。 ちょうど同時に、ガイがサッと顔を青くして冷や汗を浮かべるのもから遠目に見えた。 「ルーク?……どうしてこの者と、そんなに親しそうなんですの?」 見ている限り、屋敷の中には彼が懇意にしているメイドも特にいなかった。 軟禁状態だったのだから、他に仲のいい貴族の娘もいないし、このアレな性格では簡単に友人が出来そうなものでもない。 今の状態に不満があるとはいえ、剣と師匠とガイくらいしか興味を示さないこの婚約者に、ある意味安心していた。 と、いうのがナタリアの思考である。故に、この疑問が出てくるのは当然だろう。 この、公爵子息の部屋に突然現れた寝巻き女は、一体誰なんだ、と。 「あ……あの、私は……――って……うッ」 ルークの問いに答えるべきか、ナタリアの疑いの目を覚ますのが先か、どちらにしようかと曖昧に口を開きかけた所、 二人を跨いだ向こう側からの、ガイの視線と気配に息を呑む。 今、余計な事言っちゃ、ダメ、ゼッタイ。 何だか知らないが目が真剣だ。 それが成し得る業か、そんな感じの言葉が音を介する事無くありありと伝わってくる。 開きかけた口に手で蓋をして密やかにウンウンと頷くと、ガイもすわらせた目で「よし」と相槌を打った。 (ナタリア様……確かに素敵な人みたいだけれど、下手な事言うと混乱を招きそうな感じだものね……) というか、今正に泥沼になりかけというか。いや、同じ部屋で暮らしてるって事が既に大問題だし。 とにかく、ガイの意向に反しないでおこう。むしろ大賛成。変な誤解が生まれても困る。 「はあ?親しい?地味ゴリラと俺が?何言ってんのお前」 それを知ってか知らずか、ルークが片眉を顰め、小指で耳の穴を弄りながら悠長に言う。 「親しいじゃありませんの!今までの貴方からは、考えられない事ですわ!……それに、幼馴染のガイならともかく、 どうして……ええと……ジミゴリラさん、と言ったかしら……この者は貴方の部屋に来るんですの?」 あしらうような婚約者の適当な態度にもめげず、ナタリアが声を張り上げる。 いやちょっと待った。「ジミゴリラさん」ってそれ、名前と違う。 余計な事は言わないと決めた手前だが、口を塞いだ手をどかしたい衝動に駆られつつも動向を見守っていると、 謂れのない不義を問い詰められたルークが煩わしそうに眉間に皺を寄せる。 「しょーがねーだろ。親父の命令で、コイツは俺と……」 「「わ―――――!!!」」 思わず、叫んだのは、奇しくもガイと同時であった。 何でよりにもよって、一番話がややこしくなりそうな情報を真っ先に持ってくるんだ、このご主人様は。 「なっ……い、いきなり何だよ。どうかしたのか、お前ら……」 「い、一体何なんですの?」 ルークはガイを、ナタリアは此方を、それぞれ近くにいる絶叫の発生元を振り仰いで目を白黒させた。 普段からこうなのかは知れないが、突然の事でナタリア姫も気が立っている所があるようだ。 この状況では、順をおって説明するのにもそれなりの時間を要するだろう。 慎重に言葉を選ばないと、こちらの『ルークの召喚獣』というデリケートな立ち位置は正しく伝わらないかもしれない。 「な、ナタリア様!その……コイツは、ペールん所に新しく入った庭師見習いなんですよ」 その気持ちは、彼女の事をよく知っていそうなガイも正しく同じと見える。 突拍子も無い事を言い出したあたり、それらしく誤魔化して、一先ずこの場をどうにか収めようという魂胆のようだ。 「ペール?……ああ、あなたと同室の。……それにしても何だか……不思議な顔立ちをしてらっしゃいますのね?」 「え?いや、私は……その」 訝しげにジッと顔を見られて、コメカミから冷たい汗が伝う。やっぱり、この世界に日系の顔立ちは目立つのか。 「え、ええ。先の戦で辺境にあった故郷を失くして、行く当ても無い所を、遠い血縁の者と知り合いのペールが 彼女を引き取ったとかで……」 「そ、そうなんです。えーと……じ、自分の生まれの卑しさは自覚してますが、何とかペールさんに頼って公爵家に……」 ガイの言葉の尻にのっかって、どうにか「それっぽい」事を冷や汗を隠しながら必死に言い繕う。 物凄く曖昧で、更に悲惨な話だ。胡散臭いくらいに。 勝手に親戚の知り合いにしてしまったペールに心の中で謝った。 ルークはというと、未だナタリアの事を察する事も無ければ、突然浮上した猿芝居のシナリオに、 何がどうなってるんだ、と眉毛を八の字にして首を傾げている。 「ナタリア様が視察に出られてから急な話だったもんで、服も身辺も、まだ整っていなくて。 だからペールと同室の俺が色々面倒を見てるんです。彼女がこの部屋に来たのは、俺を訪ねてきたからですよ」 「ルークではなくて?」 ナタリアが、未だ眉間に不安そうに皺を寄せて言う。 「は、はい。そうです、ガイさんです。私は、ガイさんに会いに来ただけですので」 ナタリアの心象を勝ち取るにはあと一息、と、も食い下がる。疑いの眼差しも、もう少し押せば消えるだろう。 デタラメとは言えガイの作り出した話は筋も通っているし、何をおいても彼女の杞憂を除かねば平穏は訪れない。 「でも、それならば何故、さっきルークはあんなに親しげに……」 「ルーク……様にも、ガイさんからご紹介頂いて。ガイさんの御蔭でお声を掛けて頂けるようになって、光栄に思います」 我ながらよく口が回ったものだが、この筋書きでいいのだろうかとガイを窺うと、王族二人の向こう側から ガイが「ナイス!」と爽やかな笑顔で密かに親指を立てていてくれたので、ホッと安堵に笑みが漏れる。 が。 (って……あれ……?) ふと、背筋から脳天にかけて、じわりと嫌な感触が這うのを感じた。 「……そ、そうですよね、ルーク様……」 冷や汗を湛え、唇の片方が引き攣った不格好な笑みを貼り付けながら、ルークを窺うと。 「……ああ、うん。そうだよな。ガイのおかげでな」 ガイに負けない麗しい笑顔が返ってくる。しかし十中八九ルークの笑みが麗しい時は、事態が芳しくない時だ。 「………ハ……ハイ、ルーク……様」 ビキビキとくる『誓約の痛み』を堪えながら、必死に何でもない風を装って土気色の顔で頷いた。 何に対して怒ってるんだろうか、この人は。適当な話にムリヤリ合わさせたのが悪かったか。 「まぁ……そうでしたの…」 不自然なルークの様子を疑う事無く、やっと納得した様子でナタリアは頷いた。 「ごめんなさい。わたくしったら、事情も聞かずに怒鳴ってしまって……」 「い、いいえ!その……ご心配されるナタリア様のお気持ちは、もっともですから……」 何だか良心の痛みを感じつつ、驚くほど素直に落ち度を詫びた王女に畏れを感じて首を横に振るが。 「そーだよ、何が悲しくてこんなんと。俺は何もしてねぇってのに、迷惑だ」 反省して俯いている彼女に、気遣いの言葉もなくルークは口を尖らせた。 ドサクサに紛れて「こんなん」と指差してきたのに、危うく「何だとオイ!」と抗議をしそうになって必死で自分を戒める。 折角丸く収まりかけていたのに、あちゃあ、とガイも額を押えずにはいられない様子だ。全く婚約者がコレだと大変だ。 たちまち目の前にあった金の眉の間に再び皺が寄り、赤い髪の少年を振り返る。 「元はと言えばルーク!貴女が早く約束を思い出して下されば、わたくしも不安にならずに済むんですわ!」 「約束?」と、首を傾げながら、思わぬ反撃を受けて怯むルークを見遣った。 「お、俺のせいだってのかよ!だいたいお前な!約束って、ガキん時のプロポーズなんて覚えてるワケねーだろ!」 あらまあ、プロポーズ。 人を散々こきおろして我侭放題のこのルークが、女性にプロポーズなんて隅に置けない事をしているとは。 婚約者なんだから当然といえば当然だが、意外なのと同時にちょっと何だか複雑だ。 「ですから、早く思い出して下さいと、何度も申し上げているのではありませんか!!」 「無理だっつってんだろ!わかんねー奴だな!!」 また、始まった。 見ていて思うが、似たもの同士と言おうか喧嘩するほど仲がいいとでも言おうか。 いや、話を聞くかぎりはルークがプロポーズの言葉を忘れたのが悪いのか。 記憶喪失とはいえ、それは確かに悲しいかもしれないなあ、と考える。された事ないから解らないけども。 そもそも、ガイやペールのような気風の人物でないと、ルークとは誰でも口論になりそうな気もするが(自分含め)。 「まあまあ、ルークも久しぶりに姫様の顔を見れて照れてるんですよ」 しかしてそこでガイが、すかさず鮮やかなフォローを入れてくれる。 さすが二人の事を知り尽くしているだけの事はあって、ナタリアは「あら」と頬を染めて口論を止めた。 ルークは「照れてねえ!」と頭を掻き毟って喚きたてていたが、軽くスルーされた。 我が主人ながら、哀れだ。また事を荒立てたくなかったので、黙っていたが。 「さて、誤解も解けたようですし、一息いれましょうか。姫様も朝からずっと動きっぱなしで大変だったでしょう」 お茶でも淹れて……と、腰を上げようとしたガイに対して手で制し、ナタリアは首を振った。 「結構ですわ。それよりも、ガイ。今日これから、わたくしの供をなさい。もう執事長には話をつけてあります」 萌ゆる木のような色の瞳には、常にも増して強く不敵な光が灯っている。 突然のナタリアの申し出に、ルークと共に眉を顰める傍らで、ガイは顔を青くして「ゲッ」と言いかけた言葉を呑み込んだ。 「へ!?……い、いや、光栄ですけど、な……ななな何で俺なんですか!?」 腰に手を当てたナタリアが近付くと、ガイはその倍のスピードの動きで、部屋の中距離を取る。 こういう事まで慣れた中なのか、脅えきったガイの様子に構う事無くナタリアは言葉を続ける。 「お前でないと、ある程度自由がききませんもの。それに、その剣の腕前があれば心強いですし」 「け、剣の腕って……一体何処へ行かれるおつもりなんです?」 女性嫌いとは違った悪寒が走ったのか、ガイの顔に疑問符が付き頬の筋肉が更に引き攣る。 「先程も言いましたでしょう。雨の日に現れたという魔物を倒しに行くのです!民が困っているのを放っておけませんわ!」 もう、じれったい、と片眉を顰めた後、胸を張りそこに手を当てて高らかに言う。 おいおい、王女様がそれは無いだろ、とガイ、ルークの二人が咄嗟に思い浮かべただろう考えを自分も抱いたが。 彼女の言葉の一部に、ん?と、眉間に皺が寄った。 (雨の日……?街に現れた魔物……?……って、まさか……) もしかしなくても、という話である。は掌に汗が滲むのを隠して、何となしにナタリアから顔を背けた。 やっぱり、素性を言わなくてよかった。 よく解らないが、また更にナタリアには誤解があるようだ。 確かなのは、彼女が士気を上げて倒したがっているのは、恐らく自分であろう、という事だ。 「とんでもない!街にお連れするのだって危ういのに、まして魔物退治なんて……何かあったらどうするんですか!?」 「だから、お前に頼んでいるのです。ガイがいるのならば安心ですわ。並の兵士よりも腕が立つんですもの」 「お、お褒め下さるのは嬉しいんですけど……って、わっ!ちち近付かないで下さい……ま、魔物なんていませんって!」 腰を屈めて必死に逃げ惑ううちに、咄嗟に口をついて出た言葉にナタリアが訝しげに首を傾げる。 「いない……って、そんな筈はありませんわ。現に、魔物によって傷付いたという民衆もいるのですから」 雨の日に現れた魔物は捕まっておらず、街の住民を害して逃走を続けている。街医者には人的なものでない傷を負った 人間が何人か担ぎこまれているし、浮き足立った警備の手は、ともかく上の階層に固められているのだという。 「え……民衆を?」 ナタリアの言葉に、ガイが呟いて驚いたような顔で此方に視線を寄越した。そんなの、此方こそ驚いた。 見るとルークもガイと同じような表情で此方を見ている。 違う、と、ナタリアには気付かれないよう、声は出さずに首を振った。 確かに屋敷脱出の際、白光騎士とは相対した覚えはあるが、一般人を傷付けるような事はしていない筈。 というかそんな恐ろしい事、できやしない。 とはいえ彼らとは先日やっと理解をしあえたばかりだし、信頼なんて、きっともろくて不確かだ。 疑われるのも当然かもしれないが、やってないのは本当だ。 「あ、あの……」 目の前の、眉を顰めてこちらを見る自分の主を、縋るような思いで顧みた。 また、ひとりになるなんて、いやだ。そんな思いが、咄嗟に浮かぶ。 ルークはばつが悪そうに顔を歪めた後、小さく舌打ちをした。 「だっ!」 思いっ切り足を踏んで、「黙ってろ」とでも言うかのように此方が何か口にしようとしたのを遮る。 「……まーつまり、なんだ、その……何かの間違いなんじゃねーの?多分」 普段どおりの気だるそうな視線と口調が、部屋の向こうで追いかけっこをしていた使用人と王女に向けられた。 「間違いって……まぁ、呆れた!貴方はいつから、そんな呑気な考え方をするようになってしまいましたの!?」 「ルー、ク……」 ルークの物言いは当然ナタリアの導火線に触れたが、はルークの意外な行動にただ目を瞠るばかりである。 信用してくれているのだろうか。そう思うと胸に湧き上がるものがあって、呟いた名前に敬称を忘れた。 でも、ブーツで踏まれると結構痛いんですが。 「そうですよ、ナタリア様。噂が大きくなってるだけですって。きっとそのうち収まりますから」 宥めるような口調のガイも、言葉はナタリアに向けてはいるが、こちらへの気遣いが感じられる。 心臓のあたりが温かくなって、口元が情けない形に緩んだ。 自分を気にかけてくれる人がいる。いや、元は違ったのが、こういう関係になれたのだ。それが、とても嬉しい。 「ガイまで!………いいですわ、魔物がいようといなかろうと、街に出てこの目で確かめれば済む事です。 噂が偽りならば収めねばなりませんし、真実ならば国を担う者として黙ってはいられませんもの」 幼馴染二人の言葉が、よもや誰かのためなどとは知る由のないナタリアは、一瞬失望したような顔をする。 しかし。 「問答は無用です。さあ、ガイ、供をして頂きますわよ!貴方には事の次第を見定めて貰って、後でしっかりと、 外を見れないルークに口述して頂きますわ!」 きっ、と顔を上げたその瞳には、烈火の如く感情が宿っていて、逆らえる者など誰もいないかのようだった。 いや、多分きっと誰も逆らえないのだろう。ぐわし、と俊敏に逃げ回っていたガイの襟首を掴むと、そのままずるずると 引き摺って部屋の出口へと向かう。 「ひいいいいいい!!はははは離して下さいナタリア様!!は、離して……離してぇえ―――――!!!」 青を通り越して紫がかったような顔色でガイが叫ぶが、とルークは勿論止められないし、またナタリアも歩みを 止める様子など微塵も無い。恐らく、玄関に至るまでの道すがらの誰にだって阻止出来まい。 無駄な労とは知りつつ、扉近くに居たが止めようかと手を彷徨わせた先で、ガイの身体はズルリと部屋外へ 吸い込まれていった。 「あ……あぁ……」 「では、ルーク、ジミゴリラさん、御機嫌よう。くれぐれも御忍びの事は内密にお願いしますわね」 他の者の耳に入れば大騒ぎになりますので、と、未だ悲愴な叫びが漏れてくる隙間からニッコリ可憐な笑みが覘いて、 パタンと優雅に扉が閉まる。 「…………」 「…………」 そして、ガイの、聞くも無惨な断末魔が少しづつ遠ざかっていくのを、ルークと二人で金縛りにあったかのように聞いていた。 目的を言わなきゃいいのかもしれないが、既に軽く大騒ぎは起きているだろう、と思ったが、ツッコミを入れる先が無かった。 何と口火を切っていいのか解らず、暫らく途方に暮れる。全てが怒涛だった。 「………ナタリア様って……その……ルークには勿体無い人だよね……」 何とも言えずぎこちなく引き攣った笑顔でそう言うと、ルークは疲れきったような表情で 「……まぁな……」 とだけ返して頷いた。怒る気力も無いようだった。 (あ。名前……訂正するの忘れた……) |
ガイが拉致られました
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