"雨の日には魔物がでるのよ" どこの誰も知らない御伽噺に、小さな頃はよく枕元で耳を傾けた。 貧しい家の窓から入る月明かりに、幼い少女の痛々しい姿が露わになる。 か細い吐息は今にも途絶えてしまいそうで。 「……ちくしょう」 見るも惨い少女の姿を前にして、彼の顔には怒りの形相が浮かぶ。 「ちくしょう、畜生……」 それしか言葉を知らないかのように、彼は呟き続けた。もう、その言葉しか無かった。 勇気を忘れた彼には猛然とした激情しかなく、血が滲む程握り締められた拳は、決意の固さを表していた。 どんな慈善国家と謳われようとも、大国になるには裏の顔を持たねばならなかったろう。 軍事国家の風潮の強いキムラスカであるならば、そういった『諍(いさか)い事』に関する面はどこかに必ず あるだろうとは思っていた。 ただ、それは平和を愛する多くの民衆が触れる所ではなかったろうし、触れたくもない部分である。 右手に厳ついゴールドバーグ。左手に一切の隙の無いセシル少将。 別に両手を拘束されているわけではないのだが、引っ立てられているかのように、ロータスは進むしかない。 前を行く所長は一度も此方を振り返る事はなく、非常灯の点いたルエベウスの薄暗い階段を地下へ降りていく。 見知った建物の中を歩いている筈なのに、何だか薄気味悪い。 「所長。確か改装中だから、この先には立ち入れない……んでしたよ、ね?」 作業中につき立ち入りを禁ずる旨が書かれた頑丈な扉の先には、静かで無機質な廊下が続いているばかりだ。 空気の重さに耐え切れなくなってきて、苦し紛れに問うと、 「もう少し頭のいい発言をしたまえ。君はこれから国の為に働く一員になるんだよ」 冷たい所長の返答に、後戻りはもう出来ないのだと知る。 刺すようなゴールドバーグの視線が此方を射抜いてきたので思わず首を竦めた。 (……何なんだよー……五体満足で故郷に帰れるんだろうな、俺は……) 臓器の一つだって失いたくも取替えられたくもない。というか、そういう事に関りたくない…なかったのに。 まったく、あの良く解らん女の… 「彼女が発見された時、炉に異常はなかったという事に間違いはないね。ウォースリー君」 「……え、はっ?」 慌てて顔を上げると、最奥らしい突き当たりの扉を前に所長が立ち止まって、此方を探るように見ていた。 「は、はぁ。隔壁に破損はありましたが、高炉は通常通り、他の廃棄物を処理しきっていましたし」 恐らくあの時の異常事態の事を問うているのだろうと察して、頷く。「彼女」とは、あの得体の知れない女の事だろう。 隠し立てする猶予もなかったので、洗いざらい白状する事になってしまった。 ガイとかいったか。どことなく只者じゃない雰囲気を纏った青年の威圧は恐かったが、こうなってしまっては仕方ない。 「そして、ウォースリー殿は怪我をしたその女性を治癒しようと、ファーストエイドをかけたのでしたか」 先程自分が言った台詞をなぞるように、ゴールドバーグがヒゲを揺らして言う。 「ええ。その、あんまり自分は得意ではないんですが、譜術はちゃんと発動しました。……でも」 「しかし、効果が無かった。そしてセンサーも、彼女の音素振動数を拾うことは出来なかった、と」 というよりも、音素振動数を持たない身体だ、と自分はさっき彼らに説明した。そうだ、と頷く。 その返答に頷き返すと、壁のレバーに、所長が手を掛けた。扉の開閉装置らしい。 重々しい音と共にレバーが下ろされると、黄泉の扉が開くかのように、暗く鈍重な動作で扉が開いていく。 カチン、と音がして青白くて嫌に明るい室内灯が自動的に点き、やや広めの部屋の中が明らかになった。 「これは……」 それらを前に、ロータスは唖然として呟く。 大小様々な装置が居並び、夥しい数のスイッチやボタンがついたコンソール、モニターがはめ込まれた室内。 重厚な扉を含め、その先にはベルケンドの音機関、シェリダンの譜業産業の神髄が具現化されていた。 そして、部屋の中央。 ステージのようになった白い円形の台の上には、数多くのパターンの譜陣を描く事が可能な技術が施されている。 察するに、此処は擬似的に譜術発動のシミュレートが可能な部屋、なのだろう。けれど。 「な、何なんですか、ここは……」 ぐるりと譜陣のステージを取り囲むように、何本もの太い柱が立っていて、それにはベルトが何本も付いている。 何かを拘束する事を目的とした、頑丈な特別製のベルト。 「所長……ここで一体、何を?」 問い掛けても、年に対してしわの深い顔に変化は無く、静かに上司は此方を眺めている。 別に彼らはその装置で自分をどうこうしようなんて言うんじゃない、多分。 でも。 ベルケンドの研究所でアルバイトをしていた頃、バチカルに建設中だという施設の掲示を見たのを覚えている。 「ここは、"人々の生活を豊かにして、音機関の発展の可能性を示す施設"ですよね?」 擬似譜術フィールドの台座の表面はまだ新しいが、僅かに何かが焼け焦げた跡がある。 「何を、するっていうんですか……?」 同郷の者にゴミ処理場勤めと言われようとも、毎日の勤務が結構面倒で文句を垂れようとも、それで良かった。 確かにこんな大きい施設、慈善だけで国が建てるとも思えなかった。 けれど、慣れ親しんだはずの場所に別の役割があったなんて、知りたくは無かった。 「確かに、この施設は、キムラスカ軍の全面的な協力の下に運営している」 厳しい表情をした二人の軍人へ視線を馳せた後、所長は項垂れるロータスの肩に手を置いた。 「しかし、戦争なくして、我々の此処に至るまでの技術の発展はきっと無かった」 所長の言葉には、先程までとは違って一抹の苦味が含まれていた。 確かに、そうだ。ここでの実験が無ければ、「全て」を分解して音素として音譜帯に戻すという、 ルエベウスの誇る技術は生まれていないだろう。 「全ては、その方向性だ。……嫌な思いをさせてしまうかもしれない。でも」 何かの痛みの上に、何かの代償の上に、人々の安息も発展も成り立っている。 不確定なものが、不安定なものが出来うる限りあってはいけない。 「"何なのか"を知る事で、活路が拓ける事もある。それはきっと、我々と、何より彼女の為になる」 所長の言うように、それはどんな形であれ、双方にとっては「前への一歩」だ。 もちろん、個人的には踏み出したいわけではなかったけれど。 (ぬあぁぁ……だ、ダメ!私もう駄目死にそう……いや死ぬ絶対死ぬ) 多分心臓発作とか何かで、と思うくらいに、鼓動が早く大きい。 動くに動かせない身体を石の如く硬直させながら、は心のうちで絶えず絶叫する。 わずかな身じろぎで、はね気味の柔らかく赤い髪が、容赦ない穏やかな寝息が、首筋をくすぐる。 その都度、奇声と共にこの、自覚皆無で寄っ掛かって来ている罪な男をブン投げたい衝動に駆られる。 先程はしっかりと心の準備もしたし、中庭というゴールがあったために頑張れた、何とか。 でも、今のこの、永劫とも感じる悲劇的な状況はどうだろう。 拷問だ。 紛うこと無き、恐るべき拷問だと言える。 流れとしては、取り合えずルークの気の済むまで付き合ってやろうと、引き続き背を叩いていた。 手を抜いたり、力加減を誤れば『お仕置き』を喰らうかもしれないと、それはもう丁寧に細心の注意を払って ご指示通りにしていたのだ。例え手が痺れようとも。 いつかは「よし」とご主人様が言ってくれるのを信じて、待っていたのに。 何か反応が無いな、と思ったら、いつの間にかルークは眠ってしまっていた。 寝てるなら言えよ!と感覚を失った手と、完全に湯冷めしてしまった身体をさすりながら思ったのは置いておいて。 ふいに、ぐらりとルークの身体が傾いたかと思うと、安定を求めて一方に倒れていく。が。 「うわっ……ちょっと……!」 向かう先、放物線を描きつつある彼の頭の着地地点には、ベンチの肘掛がある。 小声で呟きながら、慌てて首を覆うようなデザインの襟元を咄嗟にガシッと掴んだ。 取り合えず惨劇回避。 (打ち所が悪かったら下手すると死んじゃうかもしれないしね……) 「ふぃー」と息をついて額の冷や汗を拭った。 がくんと身体を引き止められて、不快感を眉に示したルークだったが、逞しくも起きる様子が無い。 さてそれじゃあ再び部屋に運び入れてやるか、と、心の準備をするために彼から離した手を胸に置き深呼吸。 を、しようとしたのだが。 とさり と、肩付近に重みを感じた後、目を開けるのが本気で恐かった。そして冒頭に状況は戻る。 というわけである。 (どどどど、どうしよう……ああどうしよう。これ本当に寝てるんだよね?) 深呼吸のために胸に置いていた両手が、ルークの頭に押さえつけられている。 ここは逆らわずにやり過ごすべきなのかとも思ったが、でも、こういう状況はやっぱり好き合った者同士が なった方が自分はいいと思うし。 今は不可抗力だけれど、これから先、彼が自分に対してそういった感情を抱いてはくれないだろうと思う。 だって自分なんか、と思いかけて、それ以上は考えないようにした。劣等感は、元々無い魅力を益々奪うだろうから。 だから、こういうのを嬉しいと思ってもいけないし、このままいていい訳じゃない、寂しいけれど。 (……って、嬉しくない!恐いんだって!寂しくも無いし!) 自分の中にいきなり入り込んできた未知の感情、胸の奥からうずうずと湧いてくる微かな感覚に吃驚して、 否定の声を上げてしまう。何だろう。恐いから、だから近寄りたくないだけなのに。 思わず手を無理矢理動かして遠ざけようとすると、ずるりとルークの身体が肩から落ちた。 「……っ」 ……嗚呼、星が綺麗だ。 先程よりもずっと、体勢的に楽になった。大音量の心音で、彼を起こしてしまう心配も無い。 ルークの方も、身体を完全に横にして安定させる事が出来て、更には頭まで落ち着ける場所を得て満足そうだ。 先程までは湯冷めした上、夜の空気に肌寒ささえ感じたが、今はもう上等なひざ掛けみたいなものがあるので平気だ。 (……ははは……長い髪のお蔭で下半身全体的にあったかいやー……) 世界中何処を探しても、こんなに上等なひざ掛けなど見つからないだろう。何しろ材質は公爵家の一人息子だ。 悲劇的状況は変わらず、ある意味で悪化した。 何で膝枕。逃避するあまり、ノリツッコミに走ってしまう。 もうこうなったらヤケクソだ。 これは大きな人形……ただの「人形」なんだと自身を落ち着かせようと呼吸を繰り返した。 そうして火照った頬も夜風に冷まされて、心も同じように凪いでくると、冷たい外気の存在感が増してくる。 膝の上の暖かさが、純粋に有り難くなった。 「……はぁーあ…」 脱力して、肩を落としながら溜息をつく。 起きやしないだろうと高を括って、そっと顔に掛かる邪魔そうな髪をはねてやった。 さらさらとした赤く焔のような色を見ても、もう驚かなくなった自分。綺麗だと、感嘆はするけれど。 ぐうぐうと、無神経にいびきをかくのが、「人形」だなんて思えるものか。 僅かなスペースの中でルークが身じろぐと、彼の余裕のあるズボンのポケットから、カシャンと何かが転げ落ちた。 目を丸くしてそちらを見ると、見覚えのある透明な石と、何かの鉄くずのような小さな塊が石畳の上にある。 この石は確か、そう、全ての始まりとなった石だ。 拾い上げてまじまじと見ると、得体の知れない威圧感のようなものを感じる。 この石の力によって、自分は服する事を余儀なくされ、今ここにいる。最初こそ恨みはしたが、今はもう、違う。 そして、もう一つ。 見た瞬間は、一体何だろうと思った。殆ど原型すら留めていなかったし、ルークが持ち歩くにしては ひどくみすぼらしい物のような気がして、それと気付かなかった。 「あれ……これって」 千切れた鎖を持った時の感触。手の中で何度も弄んだ記憶があるから、覚えている。 でも、どうして、と問う視線をルークに向けるが、眠る彼が答えてくれるはずもなく。 時を刻まない時計が、目の前で揺れる。 けれども「大事なもの」が此処にあるかもしれないと覚った時、新たな時を刻む音が聞こえ始めている自分には、 もう必要がなかった。 彼は、これをどうするつもりだったのだろう。返してくれるつもりだったのだろうか。 そうだとしても、今ここで密やかに返されるものではないだろう。 「……今までずっと、ありがとうございました」 小さく笑んで礼を言うと、透明な石と一緒に、そっとルークのポケットに戻しておいた。 「……ルーク」 今日という日にやっと赦された名前を、その口で人知れず呟いた。 呼び捨てなんてやっぱり何だか口に馴染まなくて、変な感じがしたけれど、これからずっと、そう呼べるんだ。 ずっと先…―――――この先私は、誰かと、君と、どう関っていくんだろう。 やっと、少しだけ近付いたに過ぎない。 これからなんて想像もつかないし、私の事なんてどうでもよかったり、するかもしれないけれど。 でもかなうなら心の片隅でいいから、覚えておいてね、私の事を。 今までの自分を清算して、望むような自分に変われたら。そしたらいつか、返して貰いたいから。 「どうかそれまで、持っていてね」 了承の得られない、一方的な、ささやかな約束。 「………に、しても…」 結局身動きはとれないまんま。現状を考えると忙しなく体温が上がったり下がったりして依然疲れる。 そして初めての膝枕を体験して解ったが、これ、結構血流を阻害する。痺れてきた。お尻も痛い。 いい加減に発狂してしまいそうな衝動を抑えて空を仰ぐが、ああ、本当に星が綺麗だ。 焦がれに焦がれる暁は、まだまだ遠い。 「早く朝になってぇ……」 悲痛な悲鳴は、誰にも届く事無く虚しく消えた。 |
訳の解らん部分は伏線なんで、気にせず読み飛ばして下さい。
夢主の心境の変化。片思いの兆しが見えてきたような気がする。