君がこの腕で眠るなら





カタン、と、あまり音を立てないように洗面器を水場の台に置く。
やっと肩の荷が下りた、と首や肩を回しながら、ガイは一息ついた。
深夜なせいか、普段は忙しなく人の行き交う洗濯場には、蛇口から漏れる雫が落ちる音だけが大きく響く。
使っていた器具を片付け終えると、最後に布巾を洗おうと絞られた形の布をパン、と広げてみせた。
「……ん?」
白い。
新品ではないのに、この白さを保っているとは、ファブレ家の使用人もいい仕事をしてる。
……じゃなくて。
(こっちだったか?)
今のは熱冷ましに使用していた方だったかな、と、もう一つの布も広げてみるけれど。
「…………」
こちらも、真っ白。
が拭った筈の血は、跡形も無く消えていた。
そういえば、手当てした後の包帯も、傷は塞がりかけてていたとはいえ――。
「………」
暫く黙ってそれを眺めていたが、やがて諦めたように、二枚の布巾を水を湛えた洗面器の底に沈める。
小さく溜息をついてから、ざぶ、と手袋を取った手を水に浸して洗い始めた。











「はーっ、さっぱりしたー…」
首に掛けたタオルで濡れたうなじをガシガシ拭きながら、は声に出して清涼感を賞賛した。
多少……いやかなりオヤジ臭い振る舞いである事は自覚しつつ、見ている者もいなければ気を割くのも面倒だったので
気にしない事にして中庭のベンチにの上で体を伸ばす。
ペールのお下がりはゆったりとしたデザインで、思い切り伸びをする動作の妨げになる事がない。
謎のテリーヌの副作用だかの脂汗と長らく纏っていた身体中の垢をすっかり洗い落とし、
まだ水分を含むボサボサの髪をそのまま、夜更けの涼みを頬に感じて楽しむ。
(夜も遅いからどうかと思ったけど、やっぱりお風呂に入れてよかったなぁ……)
と、本人はご満悦だが、風呂と言えど例によって細工をした毎度お馴染み裏庭の庭木用水道である。
あの後、そのままだと気持ちが悪いだろうから身体を洗ったらどうだ、とガイに勧められたのだが、
時計の針は深夜もいいところの時刻を指していた。確かにその申し出は願っても無いが、
ガイにも迷惑が掛かるだろうと遠慮したところ、気前よく音機関のレンタルを提案してくれたのである。
(本当、ガイさんには感謝してもしたりないや……)
心の中で御礼を述べながら傍らの拳二個分程度の音機関を見遣る。
使い方まで丁寧に教えてくれた―――――のだが、実は音機関の話がしたかったんじゃないかと疑わしく
なるまでの長い説明に、更に夜が深まったのは言うまでもない。
感謝はそれはもう、溢れんばかりにしている、けれど。
「…………はあぁ……」
嘆きとも溜息ともつかないものを口から漏らすと、折角の清々しさが疲労感に取って代わる。
今度こそちゃんと言って逃げよう、うん。何だか知らないが、「わかる奴」と思われてるフシがある。
気が弱いせいで話の腰をうまく折れないのが祟ったか。
今度こそ、と決意をしてみても、どうせこの性格のせいで実行は不可能だろうが。
再び息をついて、ボンヤリと見上げた。息を呑むほどに綺麗で、神秘的な夜の空が瞳に映る。
「月……じゃ、ないや。えーと……レ、ル……『ルナ』だったかな」
思い出すように、確かめるように、その名を呟いてみる。
満点の星空の頂点に静かに君臨する、薄い青緑に彩られた淡い光の球体。
確か、ガイにそう教えて貰ったんだっけか。この世界では、月の事を『ルナ』と呼ぶのだと。
ルナの光を受けながら、中庭の花や木々が微かに揺れている。
辺りは空にあるその光源の御蔭で闇に落ちず、深夜の中庭にあって美しい公爵邸のぐるりを見渡せた。
青白く浮かびあがる建物の輪郭。中世の欧州に似た厳かながらも絢爛な様相は、非現実的でさえある。
「………、」
その感覚に、小さく自嘲する。
自分が異物だという意識がいつまでもあるから、こうしてふとした瞬間に現実逃避してしまうんだ。

僅かな風に遊ばれて擦れる草木の葉の囁き。
その陰に隠れてひっそりと鳴く虫の声。まだ起きている人がいるのだろうか、屋敷のどこからか時折人の立てる音がする。

自分が実際に聞いている“現実の音”。
耳から入ってくる、今此処にいるのだという事実を暫し堪能した後、ゆっくりと自らの両手に目を落とした。
我ながら、良く言えば健康的で逞しい腕である。
「………」
そのくせ何かを掴もうとしたって、直ぐに取りこぼしてしまうような情けない二本。
だけれど、それさえ無ければ、何も抱けなかった。触れられなかった。
「……ごめん、……ね」
ぽろりと、口からこぼれ出た言葉。
袖口からのぞく赤い筋に気がつくと、あの時の恐さや寂しさが思い出されて涙が滲む。
ひっそりと、何度も、祈るように謝罪する。他の傷は、ほとんど消えてしまったのに。
刻みつけられた苦しみは、呪いのように身も心も侵している。
あんなにつらい事は夢であって欲しかった。
でも夢ならば、自分はここにこうして居る事は出来なかった。
「……守れなくて、ごめんなさい……」
心で思うより、声で言葉にして響かせる方が存在感も決意も強くなる気がした。
呪いは消える事無くこちらを責めるというより、叱ってくれていた。
しゃんとしていろ、少なくとも生きてるならば、と言われているような気がした。
ふわりと、吹き付けた冷たい風が、前髪と頬をくすぐっていく。
ああそうだ。これは呪いではなくて、戒めなのだ。
「…………きっと、今度は、ちゃんと」
決意というにはまだ弱い。出来る所から、確実に、少しずつでいい。自分は変わっていきたい。
口元と両の掌を、ぐ、と力を込めて引き結んだ。
(……守るから)
これから出来る大切なものを、もう二度と失う事のないように。
それが何なのか、誰になるのかはまだ分からないけど、きっと守ってみせるから。






「……ん?」
そうして感傷に浸って暫らく、あらためて周囲の景色を視界に捉えると。
彩度の低い風景のその端に、一部分だけ鮮やかな色が混じっているのに気がついた。
(あれ……?)
気のせいかと思ったが、好奇心が勝って、確認するように目を凝らす。
するとやはり、それが“ある”……いや、“いる”?視力も誇れる程ではないし、確信は持てないが。
このベンチから幾つかの花壇や生垣を越えた向こう、屋敷の中で離れのようになった建物がある。
中庭に向く大きな窓は開け放たれていて、そこに引っ掛かっている赤い布かと思ったそれは、どうやら息づいている。
(何だろう……あれ?……あそこって確か……)
思い当たる事が何であれ、それがまさか人でない事を祈りつつ、及び腰で近付いてみる。
「わ、……ちょっ……!?」
ある程度予測はついていたけれどもそれは的中した。
ここは確か、召喚の儀式の際に被害を被ったルークの本来の部屋だったか。
事も曖昧なまま牢屋へ直送され、そこから応接室で運命の審判を下され、仮の部屋だという場所にルークと一緒に
放り込まれ、何やかんやで現在に至るまで縁が無かった場所だ。
流石公爵子息と言いますか、この離れひとつで以前家族で暮らしていた家に匹敵しそうである。
綺麗に直って元の通りに(元は知らないけれど)整えられているのを、今は感心して見ている場合じゃない。
「……ッ……くッ…」
薄闇の中、はっとするように映えた赤く長い髪の下、呻吟の声が漏れる。
遠くから見つけて嫌な予感はしていたが、その窓辺にかじりつくように蹲って呻き声をあげているのは、ルークだった。
(え、ええっ……こ、これってどう見ても、苦しんでるよ、ね……!?)
把握した瞬間、気が動転して、一気に頭から血の気が引いていく。
食いしばった歯の奥から漏れ出る声は酷く強張っていて、大きく肩で息をしながら悶えている様子が痛々しい。
下を向いた顔は恐らく苦悶に歪んでいるに違いない。
明らかに普通じゃない。
悶え苦しむ人間を前に、どうすればいいのか咄嗟に解らなくて、竦み上がる程の不安に襲われる。
「……っ」
大丈夫か、と声を掛ける事にも頭が回らなかった。大丈夫な筈ないじゃないか、こんなに苦しんでいるのに。
(えっと、ええと、ど、どうしよう……い、医者……もしくは誰か……誰か人を……!?)
根が張ったように硬直して動かない足とは裏腹に、取るべき行動を早急に選ぼうとする頭が混乱して、
纏まらない考えが浮かんでは消えて焦りが募る。
医者……って、お屋敷にいるんだっけ?こんな時間じゃもう屋敷にはいないかもしれない。
誰か……どこに、誰を呼びに行けばいい。公爵子息の一大事とあらば誰でもいいだろうが、また勝手に屋敷内を
駆け回ったら、再びあらぬ混乱を招くかもしれない。
(が、ガイさん……ペールさんは……!?)
しかし、頼りのガイとペールの部屋の場所の記憶がかなり危うい。
突っ伏して唸るルークを前にしたはいいものの、パニックを起こして動けず、冷や汗を流す事しか出来ないでいる。
(ど、ど、どうしよう……どうしよう……)
目の前のこの人は、どうしてこんなに危ういんだろう。
いつもは、普段は。ふてぶてしくて、尊大で、すぐに怒鳴ったりするくせに。
似たような状況が、前にも一度あった気がする。
その時も彼は酷く苦しそうで、痛そうで、でも、心配して触れようとした手は――――…。
「………」
記憶が胸をかすめると、怖気がついて下唇を噛んだ。
触れようとした手は、強く払われ、拒まれたのだ、あの時。「構うな」という言葉が心に食い込んで、勇気を奪う。
「……あ…」
だけれど。
ぐ、と垂れ下がった拳に力を入れる。あの時と今は違う。少なくとも、私は。
二人の間にまた風が吹きこんで、窓辺に突っ伏しているルークのゆったりとした襟と赤い髪を靡かせる。
冷やりとした夜の息吹は、きっと身体の温度を奪っていくだろう。
何はともあれこのままじゃいけないんだ、と、肩から力を抜いて握り締めていた手を解き、そっと前へと伸ばす。
根を下ろしてしまったような足を無理矢理地面から引っぺがして歩を進める。
「………あの、」
拭いきれない恐れで震える声と指先で、白い上等の服の肩に触れた。
その瞬間。
「ガ……――ッ!」
弾かれるように上体を起こしたルークが、縋るように手をガッチリと強く掴み返してきた。
「うおあぁっ?!」
あんまりにも突然すぎて予想外すぎて、思わず涙目で情けない悲鳴を上げてしまった。
それを聞いて意識をはっきりさせたらしいルークは、誰か別の人物だと思い込んでいたのだろうか。
鼻の先に迫る思いがけない相手の顔を、大きく見開いた目で捉えて硬直した。
に至っては心停止寸前ほどの衝撃に今現在続くこの状況を加え、塩か灰か砂にでもなって散りそうである。
やがて、はっと先に我に返ったルークが慌てて掴んだ手を投げ捨てるように離して、後ずさる。
「お、お前かよ!……何だよ!何でここにいんだ!」
怒鳴られるように問われ、全身白化の状態から何とか舞い戻ってぎこちなく口を動かす。
「いや、だ、だって……そんなに苦しそうにしてるから、吃驚して……放って置けなくて」
「……え……?」
それを聞いて、釣り上がった眉と目が一瞬困ったように、驚いたように形を変える――けれど、直ぐに戻ってしまった。
その反動のようにルークの顔には先程よりも不機嫌な色が深まり、こちらを威嚇するように睨みすえてくる。
「うっせぇな!お前には関係ねーって言ってんだろ!?俺に構う――……つッ!」
痛みがぶり返したのか、増したのか、言葉の途中で顔を歪めて、耐え切れないとばかりに膝をついて床に崩れる。
「……っあの!あ……」
呼ぶ言葉が、なかった。彼を呼んでもいい名前が。
「……っ……ルーク君!」
咄嗟の事に思わず、窓からという失礼も顧みることなく部屋に踏み入って手を貸す。
弱っているからか、今度は拒絶こそされなかったものの、先程とはまた違った意味の驚きに見開かれた瞳が向られた。
彼がどうしてそんな表情を向けるのか覚って、苦笑を漏らす。
「あ……ごめんなさい。やっぱ、私が言うと『ご主人様』って変よね。でも、『あなた』や『君』じゃ呼びにくいから……。
 とりあえず、具合が悪いならベッドに行った方がいいよ」
翠の深い色合いが何かを語ろうとしているのが恐くて、何だか恥ずかしくて、早々に言葉を重ねて顔をそらした。
その意思を汲んでくれたのか、そこまでの余裕が無かったのかは解らないけれど、特に不平を言うでもなく、
ルークは荒めの息を一つ吐いて脱力する。そして少しの間を置いて。
「いや……外の空気、吸いたい……から」
そう、ぽつりと呟いた。
珍しく「命令」ではなく「要望」を口にした彼に、内心で驚きを覚えつつ、疲弊した様子を見る。
温暖な気候とはいえ、夜の野外は冷える――でも。
「……そっか。えーと……じゃあ、ちょっと待ってね。こ、心の準備するから」
そう告げた此方を、「一体何のことだ」と言いたげに怪訝な顔をしたルークが見つめてくる。
でも、そうでもしないと今この近接状況だって耐えられるギリギリの所でしかないのだ、自分の性質上。
ともかく一度目を閉じ、胸に手を置いて2、3度深呼吸を繰り返す。漸くルークもそれに気付いて納得したような顔をした。
私は大丈夫大丈夫……と眉間に皺を寄せて言い聞かせるようにぶつぶつと口にした後。
よし、と気合を入れて、ルークのすぐ傍らに屈み込む。
「ハイ!じゃあ肩貸します。覚悟は出来てますんで、どうぞ遠慮なく!」
無駄に力んで言うと、横のルークが苦痛に顔を歪めつつ、何だそりゃと呆れて肩を竦めた。
「いや、遠慮なくって……無理してんなよ。お前、男嫌いなんだろ?ぶっ飛ばされでもしたら堪んねーし」
「だからそれは語弊があると言うか……まあ違いないんだろうけど……と、とにかく、大丈夫だから、ね」
多分、と最後に口にしそうになるのを何とか止め、必死に食い下がる。
「覚悟ねぇ…」と、こちらの言葉を胡散臭そうに聞いていたルークだったが、暫らくして諦めたように溜息をついた。
そうして、おずおずとその手が伸ばされ、首の後ろをくぐる感触に、やはりぞくりとしてしまう。
声無き悲鳴と早鐘を打つ心臓を抑え込み、回された腕を掴んで固定すると、ルークを支えながら立ち上がる。
「おい、震えてんぞ、足。重い…………わきゃねーわな、お前怪力だし」
「すいません耳元で喋んないで下さい顔こっちに向けないで下さい」
それだけで、充分致死理由になり得る。例えこの状態で何を言われようが、破壊力に大差は無い。
突っぱねるような言葉(実際はいっぱいいっぱいなだけ)に何だよ、と、ルークが唇を尖らせる気配がしたが、
構ってられない。言われる通り、ルークの体重くらいなら今の自分にとっては支えるのに全く苦にはならないけど。
でも、恐かったのだ。触れる他人の身体がとても恐かった―――――以前は。
「なあ、やっぱ……」
「平気。……平気なんだよ」
今は、もう、大丈夫。
全くとは言えないけれど、誰にでも、というわけにはいかないけれど。この人はきっと、大丈夫なはずだから。
納得がいかなさそうに眉を顰めているルークに、「中庭でいいよね」と言って、足を前へ出す。
そうして踏みしめるような足取りで、外へと向かって歩き出した。










ふう、と大きな溜息を空に向かって吹き上げ、仰け反るようにしてルークはベンチの背もたれに身体を預けている。
「あー……いってー……」
そう低く呻き、片手で頭を押えながら顔を顰めるそのコメカミには冷や汗が伝い、頬に張り付いた緋色の髪が艶かしい。
苦痛を耐えるその横顔は、月の幻想的な光を浴びて、何とも……非常に不謹慎ながら綺麗だと思う(同時に悔しい)。
取り敢えず運ぶ役目を終えて去るべきか否かを内心オロオロと考えていたが、何となく、心持ち距離をおいて
同じベンチの端っこに座らせてもらった。心はさざめくも、それを隠して暫らく黙って月を見る。
「あ……その……」
だけれど、いつまでも黙ってその場にいるのも変な気がして、話題も決まらないまま声を掛けてみた。
するといつもより元気の無い三白眼が、ダルそうに此方をチラリと窺ってくる。
しかしそれも一瞬で、すぐにツンと逸らされた眼は閉じられてしまった。
「……ぁ……」
「………後遺症、なんだってよ」
不意にその口で紡がれた低い声に、「え」と顔をルークの方へ戻した。
「時々、変な声が聞こえて、すっげぇ頭が痛くなんの。……記憶を失くしちまってから、ずっと」
「え……こ、え……?」
何の心境の変化があったのか、突如として自らの身の上を語ってくれたルークに気を取られて、言葉が疎かになる。
でもその内容は聞くだに何とも不思議で、それでいて言い知れない不安を心に残していく。
どうして、だって、ルークは普通の人間なんじゃないのか。この世界にとっては、自分よりもずっと。
「……大丈夫なの?」
思わず聞いてしまうと、
「大丈夫なわけあるかよ。痛てえっつってんだろ」
恨めしそうに、睨まれてしまった。
「あ、ああ、ゴメン……」
何だか脱線したような気持ちを揉消しつつ力なく謝る。
話を止めたルークは仰向いた体を今度は屈むようにして頭を抑え、治まらない頭痛に耐えているようだ。
「あークソ……何か今回はしつけーな……」
発見した時よりは落ち着いたようだが、まだずっと痛むのだろうか。
独り言はいつもの憎まれ口然としているが、コメカミを何度も揉みながら悶えている様子はとても痛々しくて心配になる。
「…………」
なら、と、心に思う所があって、手をそっと彼の後方へと移動させた。
そして。

バシン

「……っぐはッ!!」
「ああっ!?」

思ったよりも大きく深い音がしたのと、悲痛なルークの悲鳴で、咄嗟に力加減を誤ってしまった事に気付いた。
「あ、あいだだだだだだだ!!」
当然速攻で襲い来る『誓約の痛み』に加え、
「てっめ……いきなり何しやがんだこの馬鹿ッ!!」
と、脳天に主人直々の鉄槌を喰らい、ベンチの上で悶える。
「す、す、すみませんごめんなさい今の失敗!背中を……背中叩いてあげようと思って……!!」
「だから何でお前に叩かれなくちゃなんねんだよ!!俺に何か恨みでもあんのか!?」
よほど痛かったのだろうか、うっすら目に涙を滲ませながらルークは怒り狂う。
いや、恨みがない事は無いんですがね、と、頭を摩りつつぼんやり考えながら、手を振って必死に否定した。
「ち、違うの。痛みが少しはマシになるかなって思って……私も小さい頃、よくしてもらったから……」
とは言え、決して今さっきの攻撃まがいになってしまったような行為ではないが。
「………、……本当かよ」
溢れんばかりの懐疑心を瞳に宿すルークを、どうにか宥めすかす。
結局、「騙されたと思って」という事にして、やっと許して貰えた。それでも眇められた視線の温度は限りなく冷たい。
「嘘だったら、タダじゃおかねーからな」
「そ、そんな恐ろしい事言わないでくださいよ、何とかしようとしてる人に……」
どことなく全面的に損をしているように思えなくも無いが、深くは考えないようにして、再度ルークの背の後ろに手をやる。
今度こそは細心の注意を払いつつ、力加減を充分に考慮して事に臨む。
トン、トン、と規則的に手の平で背中を叩きはじめた。
「……どう?」
「何か……よく分かんねぇ」
まあ、考えてみたら確かによく解らない行為だ。
「えーと……いわく、痛みが分散されてマシになるって話らしいんだけど」
「オイ、それって結局痛てーんじゃねーか」
もっともなルークのツッコミに苦笑を漏らす。
規則的な音は何だか懐かしいように感じて、気持ちが落ち着いて来た。
「いやね、ほら、赤ちゃんとか、こうやってあやすと安心して泣き止んだりするし。
 ルーク君もお母さんとかにしてもらったんじゃない?」
いつになく饒舌に問うた後、暫らく答えが帰って来なかった。
赤ん坊の時の事なんて知るか、と言われそうだと思ったけど。
「……わかんねーよ。……記憶、無いから」
少しだけ、予想とズレたその言葉は、気のせいか何だか少し寂し気に聞こえた。
「あ、そ……っか」
ごめん、とまた出掛かった言葉を、喉の所に止めた。
彼自身の事を、こっちが勝手に悲しい事だと決めるのはよくない気がしたから。
不評ならばやめようかとも思ったが、どうにも『誓約の痛み』が襲ってこないのは「続けていい」という答えらしい。
暫らく背を叩く優しい音だけが、月明かりの下、心地よい中庭の闇に響いていく。
自分の耳でそれを聞きながら、暖かな記憶を心の内に見つけていた。

子供の頃の一時期は、何だか夜が恐くて、無性に寂しくて、眠りたいのに眠れなかった。
人々の生活音も止んで、道路を車が走る音さえも途絶えて、鳥も虫も全てが寝静まって、全てが夜闇に呑まれていく。
朝は遠く、自分だけが世界に一人ぼっちになったような気がして、不安で不安で薄い布団を握り締める。
堪らず母をゆり起こしてしまって。そしたら、安心して眠りに落ちるまで、背を優しく叩いてくれた。

誰かに何かをしてもらっている、という感覚はとても心地が良く、独りではないのだと安心できる。
人の温もりが背中に触れるたび、冷えた身体があたたかくなっていく。
あの時と同じような感覚をルークも覚えてくれればいいと思うのだけれど、どうなんだろう。
判らないけれど、彼の表情を窺い見ると、眉間の皺は消えて、どこか重そうに瞬きをしている。
けれどその眠気を認めるまい、と、必死に抗っている様子だった。
これは効いているとみてもいいのだろうか、と安堵の笑みを浮かべかけたところ。
「……さっき……名前」
話す事で眠たいのを振り払おうとでもしているのか、唐突に口を開いたルークに慌てて返事を返す。
「え?……あ、あー……ごめんなさい。何かどさくさに紛れて、咄嗟に呼んじゃって……」
さすがに名前で呼ぶのは馴れ馴れしかったか。動揺してしまった勢いだったのけれど。
「……何か、気色悪りぃ」
にべもない言われように、「あ……そうですか……」と明後日の方向を遠く見つめて深い溜息を吐く。
まあ、それは分かっていたのだけれど、うん。
「あの……冗談は抜きにして、じゃあ私は一体何て呼ばせて貰えばいいのかなーと……」
どうしろというのだ、というのも、もうそろそろ限界値を超えそうだ。なのに。
「……知るかよ」
思わず余分な力が入ってしまいそうになる叩く手を何とかなだめ、引き攣る口の端を何とか笑みの形に保つ。
自分から話を振ってきておいて一体何なんだそれは。今後一切呼ぶなって事か。んな殺生な。
「うーん……確かに呼びにくいのよね、『ルーク君』って……『く』が二回も続くし……」
じゃあ「ルークさん」?何かかえって馬鹿にしてるように聞える気がする。やっぱ立場的にも『様』か?
ブツブツと独りで愚痴っていると、そっぽを向いたまま、「だったら」と、同じく独り言のように彼も呟いた。

「何も付けずに呼べばいいんじゃねーの」

それは本当に、何気ない事のように呟かれた何気ない言葉だったから、聞き逃しそうになった。
聞き間違えたと思って思わず「え?」と聞き返したけれど、むこう向きのままの相手から返事は無い。
長い赤毛のせいで隠れて、どんな表情をしているのかも、全く解らない。
「……えーと」
やっぱり、また。優しさが、解り辛すぎるんだ、この人は。

「……え、ええと……あの……ル……ク?」

驚いて、戸惑って、でも折角の許しを無駄にするまいと、何とか焦って声を引っ張り出した。
本当に、いいのだろうか。本当に自分も、彼の名前を、そういう風に呼んでもいいって、言ってくれてるんだろうか。
恐る恐る、口にすると。

「……何だよ、」

と、短い返事が返ってきて、何でだかそれで凄く安心して、嬉しくなって。そうして、

「」

と、今までそうだったかのように、至極あたりまえの事のように、呼ぶ声が響く。

「……え……」
名前、呼び捨てにしてくれた。
「…………」
依然彼は、こっちを見てくれない。
でも、こっちも呆然として、何も言えない。
じわじわと色んな気持ちが、たくさんの思いが湧いてきて、少しだけ目頭も熱くなって。
何も言葉を発せなかった。ただ、
「る……る、るーく」
と、もう一度その名前の舌触りを確かめたいと思って口にすれば、流石に照れくさくなったのか、眠気はどこへやら
目を吊り上げたルークが振り返ってくる。
「だあぁもう!お前もーちっと自然に呼べねーの!?逆に気持ち悪いわ!!」
「ごごごごごめんだって私呼び捨てなんて今まで一度もしたことなくて!!」
大抵「さん」づけだし、大体にして呼び捨ての文化はそう馴染みのあるものじゃないし。
親しい他人もいなかったから、なおさら。
「は?今まで……一度もない?」
「は、はあ……だって私、ずっと友達とか、居なかったし」
「……あー、そりゃまーそんなじゃなぁ……」
呆れたように目を細めたルークの言葉に、ガンッと小突かれたようなショックを受ける。
ていうかそれ、ルークにだけは言われたくないのだが。
「言っとくが、俺は飼い主様なんだからな。お前と友達なんて、冗談じゃねえっつーの」
ふん、と、憮然と組んだ腕を見せ付けるように、ルークは言ってのける。
いつもどおりの尊大な様子が、「らしいなぁ」なんてすら思えて苦笑した。
「……分かってるよ。………でも私は嬉しいんだ。呼び捨てされるのも、するのも」
やっと、認めて貰えたと、そんな風に思える。
怒ったり笑ったりしながら、ちゃんと向き合って話が出来る。
「ありがとう、ルーク」
初めてが嬉しいから。「ありがとう」と言えるのが嬉しいから。
私は此処が居場所だから、幸せなんだ。
言われた言葉が、どんな意味なのか解らない、というかのように、翠の瞳がしばし見開いたまま固まった。
それがみるみるうちに驚いたような、困ったような色に変化していき、
「べっ、……別に、呼び方なんて、んな大した事じゃねーし……」
ひどくばつが悪そうに、ルークが言いよどむ。
初めて会った日の夜もそうだったけれど、彼はお礼の言葉を言われるのに慣れてないのか、何ともむず痒そうだ。
彼からすれば何でもないことなんだろうな、と苦笑が漏れた。それが解り難い優しさなのだと、今は知ってる。
「いやいや……かなり大した事だよ……当初それで喧嘩もしたし」
「う」と呟いたルークは複雑な表情を浮かべると、つんとそっぽを向いた。
「あれはお前が悪いんだろ!やたら突っかかってきてムカついたし!」
「そ、そりゃどうもスミマセンでした。……じゃあ、痛みも治まったみたいだし、部屋に戻って寝ましょうか」
心とは反対の憎まれ口で返すと、ルークの方もそこで初めて気付いたようで、「え」と目が丸くなる。
そういえば、いつの間にか彼はもうすっかり元気なように、此方の目にはうつるのだが。
「……………」
「……………」
何も言わずに、数秒間。このぎこちない、不自然な空気の居心地悪さといったら。
一緒にいる理由も無い訳だし。
折角話が出来るようになったのに勿体無かったかな、と、何だか自分の言葉を後悔した。
同じく無言を貫くルークの方はどう思っているのかは分からないけれど。
しばらく後、穏やかな夜風が吹いた時、それに紛れるように、
「……まだ痛てぇ」
と、小さくルークが訴えたものだから、今度こそ素で噴出してしまった。
何年ぶりか、もしくは初めてか。声に出して笑うのをルークは呆気に取られて見ていたが
おもむろに怒りの形相を露わにすると
「わ、笑ってんじゃねー、地味ゴリラ!!」
と、本日何度目かの怒りの戒めを発動し、の断末魔の悲鳴が中庭にこだます。


どこからか迷い込んだ猫が、にゃんと鳴く。
どこかのあの子に似ている気がして、ふと、感謝の笑みを浮かべた。
その後、また、規則的な柔らかい音が、夜の中庭に長く響いていた。



わがままな少年が安心して眠りに落ちるまで、ずっと。


ここに至るまでお付き合い下さった方に感謝します

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