「……――あぅっ! ……くそ!」 ……また――! そんな思いを抱く間もない程急激に、視界に映る自室の色彩が反転した。 そう錯覚を覚える程の激痛。加えて胃がよじれるような吐き気。 ――ルーク―― 声がする。 ――ルーク―― 何度も、何度も名を呼んで来る。 ……ルーク……ルーク―――――― いいや、「声」じゃない、それは響くような痛みを伴いながら頭の中に木霊す、「音」だ。 「……ッ……ぐッ…」 馬鹿な、そんな筈はない。そんなおかしな事がある筈がない。 自分はただの人間だ、それ以外の何かであるわけが、ないじゃないか。 「ちくしょう……何、なんだよッ……」 全ては現実には無い事――――――記憶喪失の後遺症の所為で引き起こされる幻聴なんだ。 自分を呼ぶ声を頭の中から追い出そうと、助けを求めるように必死に首を振る。 そうすると乱暴な動作に頭痛が酷くなって、吐き気まで増して胃のある辺りと口元を、思わず手で押えた。 苦痛を和らげる効果なんか無いのは解っていたけれど、新鮮な空気が欲しくて、体を引きずるように窓辺に向かう。 いつもは幼馴染の青年が立っているそこに、縋りついて膝をついた。 つめたい夜の空気が纏わりつく汗を冷やして、肌寒さを感じた。けれどももう、動くのも億劫だった。 (……ガイ……ヴァンせん、せい……) それ以外の誰でもいい、助けて、気持ちが悪い、助けて。 けれどもそれに応えるのは、ひたすら名前を呼んで来る無機質な知らない声。 今に限った事じゃない、そのうち治まるとは解ってはいるけれど、痛いものは痛いし、自分の身体が異常を訴えている のはやっぱり恐い。原因が明確でないなら尚更。 ――――ルーク――…――ルーク―――― まだ、呼び続けている。痛みがしつこく付き纏ってくる。 (何だよ……どうしろって言うんだ!) 気のせいでしかない筈のそれに応えてやる義理も無ければ、その方法さえも解らなかった。 成す術のない自分が悔しくて、治まる気配のない痛みが不安で、奥歯を噛み締めて耐えるのが精一杯だった。 「ホラ、水。……調子はどうだ?」 繊細な装飾の施された銀製の水差しからグラスに水を注ぎ、にっこりとした笑顔を付けてガイは差し出してきた。 「あ、ど、どうも。……大分落ち着いてきました」 ベッドの上に身を起こし、戸惑いがちにそれを受け取る。透明な液体に、微かに自分の影が映し出されている。 ここ数日で付いた傷が沢山あったはずなのに、その殆どが治りかけるか、消えるかしていた。 水を零さないように注意しながら手の甲のテープを捲ってみる。ペリ、と小さく音を立てて剥がれたその下には カサブタも消えかかったような痕が残るのみだった。 「へえ。本当に効いたんだな、あの怪しげな肉。譜術も薬もまるで駄目だったのに」 「……っ!」 びくり、と。 自分の手を眺めながらいささかボンヤリとしていた所、至近距離に声を聞いて驚きに肩を揺らす。 意識した行動ではないのだろう、何気ない風でガイが同じく手を覗き込んできていた。 反射とも習性とも判断つかないが、思わずベッドの上の限られたスペースで後ずさる。 「おっと。……悪い」 慌てて身を離したガイは元の椅子に掛けなおす。 それを心持ち後ろに引き、そうしてベッドから遠ざかるようにすると改めて苦い微笑みを浮かべた。 「昼までは、このまま死んじまうんじゃないかって心配してたくらいだ。それだけ動けりゃ、上等だよ」 「………」 咄嗟に何かを言おうと思ったのだが、自分でも何を口にすればいいのか分からなくて唇だけが不自然に動いた。 「…………あの……」 ようやっと声は絞り出せたものの、結局次が浮かんでこなくて沈黙が落ちる。 以前と変わらないような態度でガイは接してくれているが、彼とこうしてまともに向き合うのは雨の日の前―― ――風の強い月の夜に、負の感情をぶちまけた時以来である。 あの時のガイが恐くて、何かを言えば、また鋭く睨まれてしまうのではないか、 丸みを帯びた語り口が冷たいものに変わってしまうのではないかという恐怖が勝ち、喉から言葉が出てこない。 でも、触れずに、先へ進むなんて無理だ。見ないふりをして、これからも宜しくなんて出来ない。 不規則になりがちな鼓動を抑えて、グラスを支える両手にぎゅっと力を込める。 「…………すみませんでした」 でも、結局。 膨大な量の言いたい事に整理がつかず、残りかすのように抽出されたその言葉だけが弱々しく口を衝いた。 あれだけの醜態を晒した上に、こうして迷惑をかけたのだ。 今は自分が何を訴えようが、言い訳にしかならない気がした。 一言だけの謝罪は、音素の灯りに照らされる静かな空間に溶け、じわりと広がるように消えていく。 間が、その場を制した。 何を返されるのか、どう思われるのか、見当もつかずに震える小さな丸い水面を凝視する。 もし、またあの深く底知れない翳りがガイの顔に落ちたら。そう考えただけで―― 「……謝るの、下手だな。は」 不意に溜息のように小さく落とされた言葉に、はっとして顔を上げる。 「……え……?」 言葉の意味を図りかね、恐れも傍らに除けて相手を窺った。 「許さない」という意味かと思って肝が冷えたが、向けた視線の先には変わらない微苦笑がある。 「そういう時はちゃんと、目を見て言うもんだぜ。……って、ペールに言われたじゃないか」 「……あ」 記憶に呼び起こされる、中庭での情景。 あんなに真剣に厳しく言われたのに、どうして自分は忘れてしまうんだろう。 簡単だけれどとても難しい事、何気ないけれど大切な事、出会って間もない自分に、色々教えようとしてくれたのに。 (なのに、私は) どうせ他の人間と同じで、嫌いになるんだろう、なんて決め付けたんだった。 その言葉も笑顔も全部、上辺だけなんじゃないかと疑いさえしたんじゃなかったか。 「……ご、ごめんなさい、ガイさん、私は――――」 自己嫌悪に耐え切れなくなって、思わず詰め寄ると、 「ほら、それ」 口に笑みを保ったまま眉の皺に渋みを深めたガイが、ぴ、と指を立てて此方を指す。 訳も分からず唐突に勢いを挫かれ、続きを言いあぐねて困っていると、やれやれ、と肩が竦められた。 「"謝る"ってのはさ。ちゃんと相手に、"何が悪かったのか"を解ってもらってないとダメなんだよ」 「え……?」 そう言って、にこりと柔らかい笑みを浮かべると、ガイは居住まいを落ち着かせるように足を組みなおす。 シンプルで当然にして、尤もな言葉に過ぎない。 もう一度頭の中でそれを反芻していると、次第に思考に明るみが射して来るような気がした。 「……何の事か解らないのに、謝られたって困るだろ?」 手を口元にやって考える。 (謝るのが、クセみたいになってるから……) 相手に嫌な顔をされる度、とくに何も考えず頭を下げていた。それで益々、嫌な顔をされる事が多かった。 ただ単に自分の存在が悪かったのだろうと、謝ればそれで済む事だろうと、安易に。 「……そっ、か……」 頭を下げるばかりで、その逆なんか知らなくて。どんな気持ちになるかなんて、考えた事も無かった。 「だから……だから、怒ったのかな……ご主……いや、ルー……あー、ええと」 「ん?ルークの事か?」 半ば独り言のような呟きに、ガイが目を丸くして首を傾げる。一体何を言い淀んでいるんだ?と、傾いた顔が語っていた。 何とも言えず、頬の横をタラリと一筋汗が伝っていくのを感じる。 「いや……呼び方や口調がキモいと、ダメ出しを喰らいまして」 結局、どうすればいいのか。 本人の居ない所で、前にする相手によって、扱いを変えるなんて気分が悪いし。 だいたい、向こうが最初に飼い主として敬えというような事を言ってきたんじゃないか。 かと言って名前で呼んだら「馴れ馴れしくすんな」と怒られそうだし……とブツブツとぼやいていると、 丸くした目を更に大きく見開いたガイがおずおず訊ねてきた。 「の方から、謝っちまったのか?」 「え?……ああ、はい。迷惑かけたし、さっき珍しく寄って来てくれてたもんだから、この機会に、って思って……」 寄って来てって、野生動物かい、というツッコミを入れたそうな表情を一拍後押し隠し、ガイは痛みに耐えるように 頭に手を置いて深い息を吐いた。その仕草の真意を図りかね、寄る辺なく相手を窺う。 私の方から、とはどういう事だろう。悪かったのはこっちの方なのは明白なのに。 「……あのう……やっぱり『迷惑かけた』じゃ漠然とし過ぎてダメでしたかね」 状況を考えると尤もな理由だとは思うが、いまいち具体性に欠けるかもしれない。 その問いを聞いているのかいないのか、金の髪を左右に振ったガイは考え込むように一人顎に手を当てる。 「いや、違うんだ……あいつの性格じゃ、先手を打たれると動揺して動けなくなるタイプだから……」 主語はルークを指し示しているのだろうが、その後続く言葉はどうも独り言向けのようだ。 益々解らず、眉を顰めていると。 「いくつか聞くが」 切りをつけて此方を向いたガイの顔は真剣で、「は、はい」と、こちらも思わず姿勢を正す。 「気付いてからこっち、ルークに何か言われたか?」 「アホ、馬鹿、ムカつく等色々な事を」 「こう……何か持ちかけられたとか」 「喧嘩を売られました」 「……何か受け取った物はないか?」 「『誓約の痛み』は大量に頂戴しました」 眉間に力を込めて聞いてくるガイにつられ、こちらも力んで誠心誠意をつくし、事実を答える。 短くもテンポ良く質疑応答を終えた後、先程よりも頭痛が酷くなった、とでも言いたげにガイは片手で頭を抱えた。 「……溝の一本も埋まってないなオイ……」 「は?みぞ?」 ぼそりと零れた台詞は、どうやら此方に向けたものではないらしい。いや、と手を前で振ると、彼は薄く笑った。 「まったく、揃ってどっちも謝るのが下手ってか。……厄介だなぁ」 呆れたような、でもどこか可笑しそうに言われた言葉に、今度は此方が目を丸く見開く番だった。 「あやま、る……?」 どっちも、という事は、ルークの事も指しているのだろうか。いや、まさか彼に限って。 耳を疑うとは、この事である。気になる内容に感じられて聞き返そうとするも、再び落ち着いた眼差しを向けられて 詰め寄りかけていた身体をぐっと引き戻した。 ガイは両膝の上に肘を置いて手を組み、そこに顎を乗せる。 「……それは置いといて、な。話を戻すが、。お前は俺に、何を許してほしかったんだ?」 探るような青い瞳から、思わず目を逸らす。 一番言いたかった事は、その通り口にしてしまった「申し訳ありませんでした」という言葉だけれど。 ガイの言う通り、何に対してかも明確に示さないで謝るなんて、変な話だ。 「私は……」 でも、沢山の事があり過ぎて、色んな事に気付かされて、それを語りだしたらきりがない。 整理しようにも、ガイの視線に気圧されてしまって、焦った頭は上手く働いてくれない。 「だ、」 けれど彼らは、呆れて去っていった今までの他の人達とは違って聞こうとしてくれている。 何か言わないと。何か。答えないと。理由は何だった?私は、何が悪かった? 「……だって私は、こんなに周りに嫌な思いを……迷惑……かけてしまっているから」 声が裏返って、引き攣った。喉の奥がヒリヒリする。 やっと言葉が出て来たのに、どうしてだろう、言葉を重ねる度にとても嫌な気持ちになる。 何だか解らない、自分でもそう思っているし、事実には違いないし、理由として尤もだ。 でも。 「――……」 また、目を見てそれを言う事が出来ないのは、一体何故だ。 「……ち、違う!」 低く名を呼んだガイが何かを言う前に、下を向いたまま大きくかぶりを振って、自分自身でそれを否定した。 思わず手に込める力の加減を忘れてしまい、ピシ、と小さな鋭い音が走る。 そうだ、そんな事じゃない。 つ、と手首にまで伝う冷たい水に、ぐちゃぐちゃに考えが混ざった頭の中が洗い流される感覚を覚える。 恐がるな。正直な言葉は、臆さなければ大丈夫。 一度ぎゅっと目を閉じて自らを奮い立たせると、今度は挑むように、顰めた眉はそのまま、海のような色の瞳を捉える。 「そ……そうじゃない。そんなんじゃ、なくて……私が謝りたいのは……嘘をついた事です」 「………ウソ?」 怪訝な顔で同じ言葉を繰り返すガイに、ゆっくりと頷き返す。 チリッと手の平に痛みが走った。ひび割れたガラスに、強く圧し付けた皮膚が食い込んだのかもしれない。 構わず、かすれ気味の喉に唾液を飲み込んで続ける。 「復讐……したいだとか。それしか理由がないからだ、とか……誰もいないからとか……」 やはり声が震えた。 耐え切れなくなって顔を下に向けると、しみだした水にインクのように赤色が混じっているのが見えた。 「……そんな事は、」 化け物でも嫌われ者でも、自分が何であってもいい。 そんな事には関係無くその色は身体の中に息づいていて、明確な意志を持って流れている。 「本当はどうでもよくて……周りに嫉妬ばかりして。……ただ単に、自分が楽に生きたかっただけで!」 叫ぶように言うと、ポタリと一滴がシーツに落ちて薄紅の染みを作る。 ガイはただ黙って聞いていた。 「あの日言った事ぜんぶ……全部、嘘でした。そうやって、格好をつけられると、思ってました」 月の明るさに冴えた、冷たく翳ったガイの表情を覚えている。 彼がどうしてそこまで普段と違う顔をしたのかは解らない、けれど、それらは過ちとも言うべき言葉だった。 「……心のどこかで、自分が可哀想なんだって言えば助けて貰えると思っていたんです。……怒られて当然」 だから、ごめんなさい、ともう一度口にする時は、ちゃんとガイの方に目を戻した。 けれど今度は、ガイの方がばつ悪そうに俯き加減に目を逸らしてしまった。 「………そう、だな」 苦味を孕んで低く響く小さめの返事。 またしても気に触っただろうかと狼狽する此方を他所に、ふと、目は此方を見ないままガイが顔を上げる。 「……解った。許すよ……。その代わり、忘れてくれ」 「え……?」 懇願のように聞こえるその言葉に、訳が解らず眉を顰める。 目を閉じたガイは、心を落ち着かせるように、平静を保つように続ける。 「もう、お前も解ったんだろう。……だったらもう、あの夜の事は忘れろ」 「あの、何で……」 強い言い口に、何だか言い知れない不安を感じてわけを聞こうとする。 けれど目を開いたガイは穏やかな顔で、その有無を言わさぬ様子が追求を拒んでいた。 「きっとその方が、これからも上手くやっていけるさ。……な。あん時はどうかしてたんだ、俺」 そう言って、振り切るように、今度こそ此方に向かってにっこりと笑むガイは、そう、いつもの「ガイ」だ。 優しくて、あまりにも爽やかな麗しい笑みの攻撃に、気圧されて引き下がるしかない。 「は……はい…」 思わず熱の昇る頬を隠すために、深く頷くふりをして顔を隠す。腑に落ちないものを、心の隅に押し退けて。 「そんじゃ」 と、暫しの間の後、ガイの声。 「俺も、お前に謝らないとな」 突然言われたのは、あまりに身に覚えがない言葉だった。 ガイは此方の手から割れたグラスをそっと取り上げると、取り出した白い布を握らせてくれる。 そして、新しいグラスに水を注ぎ足し、ベッドの傍らのキャビネットに置いた。 「……弱い奴だと思ってた。他を傷つけるのも恐くて出来ない臆病者だってさ」 「………」 その通りだ。今だって傷つけるなんて到底出来ないし、自分が傷付くのを恐れている。臆病者以外の何でもない。 「でも」 ガイの、微かな笑みを含む視線は、この手に持つ赤色の汚れが滲む布に移される。 「大事なモンのために、必死になれる。思ったより、強いんだな、は」 そうして、見誤っていた事に対して悪かった、と、頭を下げた。 何をおいても大事な物をとりもどしたい、と。けれど彼の言う“強さ”は結局、弱い心から来る縋りつきの精神に過ぎない。 「そ……そんな!?わ、私は別に……そういう大層なあれでもなくて」 よって恐れ多い言葉に大いに慌てたが、それよりも、何だろう、この複雑な気持ちは。 一応女の身としては、強いと言われるのは喜ばしい事なのか果たして。 そんな後ろ暗い心を隠しつつ、身の置き場に困って慌てふためいていると、ややあって 「ところで」 と、姿勢を元に戻したガイの眇めた目とぶつかった。 「もう一つ、嘘を吐いただろ」 「え……な、何」 笑みの消えた半眼に、どこか迫るようなものを感じて、なんとなく背筋が緊張に硬くなる。 ガイは、はあ、と深く短い息を吐いた後、また声のトーンを落とした。 「……聞いたところによると、『死んでもいい』なんて事を言ったとか何とか」 「……あ」 それは、確かに。でもガイに言った事ではないのは記憶にも、彼の口ぶりからしても明らかだ。 多分カルミアに伝え聞いたんだろう。ヤケを起こしていたとは言え、また酷い事を言ったものだ。 「それは……でも、その、すみません。本当にそんな事は思っていなくて、私は……」 さっき言った事をもう一度繰り返すべきだろうかと途方にくれていると。 「……解ってるって」 その様子を楽しむかのように、ガイは不意に笑って姿勢を変える。 呆気に取られているこちらを覗きこむようにして、続けた。 「そんな事考えていなかったなんて、解ってるさ。でも、それを一番解っていたのはきっと――……ルークなんだよ」 「……え……?」 言葉が、名前が、夜の静けさに際立って、鼓膜を強く振るわせた気がした。 あまりに都合のいい言葉すぎて、中々理解の範疇に入って来ない。 「はは……ま、まさか」 有り得ない、またガイの言う冗談なのか、幼馴染の苦しい庇い立てなのか、どっちなんだ。 無理もないじゃないか。あんなにルークに嫌われてるんじゃ、信じようにも信じられない。 自分の事を理解してくれているどの口が、アホだ馬鹿だとあんなに酷い言葉を紡ぎだすというのか。 けれども決して否定しきれずに、口を噤んで可能性を考え出した此方を見て、青年は唇の端を持ち上げる。 「ルークが何を感じたのかは、解らない。でも、あいつだけは、お前が生きていると言い張ったんだ」 「そん……」 そんな事がある筈がない。 いつだって此方の取り付く島はどこにもなくて、拒絶しかなかった。 どこかへいってしまえ、とか、いなくなればいい、みたいに言われたり思われたりしてたのも覚えている。 その時の冷たい眼差しも、言葉も、思い出すだけで震えが来る程に、恐い。 「連れ戻して来いって言ったのも、ルークだ。俺達は………もう、殆ど諦めてたしな」 どことなく口惜しそうに、ガイは言う。 「……うそ……」 「嘘じゃない。旦那様……公爵に、お前を殺せという命令を取り下げろって、直談判しに行ったりな」 うそだそんなの、と呟くけれど、嘘吐きは、自分だ。 ほんの少しだけは、知っていた。 だってそうじゃなきゃ、こんなに怒りも悲しみも感じなかった。「ここ」に帰りたいなんて思わなかった。 彼が私の嘘を見抜いていたように、本当にごく、ほんの少しだけ。 「意地張りすぎなのが、残念なんだけどな。 ……でも多分お前の事、誰よりも沢山考えてたんじゃないかって思うよ、良かれ悪かれ……な」 本当は、優しいんじゃないかって。 「嘘だ……だって……」 時たま、こちらの事を考えて行動してくれたりして、吃驚する。 皮肉や悪口を言いながらも、楽しそうに笑ったり。実は素直だったり、単純だったり。そんなに知っているのに、私は。 感情に任せた言葉は、きっと彼を傷つけた。見開かれたエメラルドグリーンを間近で見るのが辛かった。 緊張と恐怖で冷たくなった指先に、両頬の温度は温かくて心地よくて。 「おいおい……何も泣かなくてもいいだろ」 「……だって」 心の昂ぶりに連動して、またしても涙腺がいつの間にか緩んでいた事を、ガイの苦笑が教えてくれる。 でも、自分が涙を流している事を自覚したのは、本当に「その事」に気付いてからだった。 (……だって、それじゃあ) 呆然と、考えた。 自分なんか居なくなればいい、だとか、居なくなって嬉しいんでしょう、なんてそんな事を考えたのだ。 きっと気になんてしてくれない、考えてくれないって、意地になってたのだ。 でも実は、寂しくて助けて欲しくて、本当はこの手を、誰かに取って欲しかったのだ。 気付いていて、それであの時、腕を取ってくれたというのなら。 「……それじゃあ、」 ここに居てもいいと、本当は肯定していてくれていたのは、他でもない。 成り行き上たった一人の、私の飼い主様だったんだ。 (……きみは……君は……優しすぎる) 彼はとんでもなく、優しすぎる。 目の奥がつんとして思わず顔に手をやると、こんな事で泣いている自分に吃驚した。 変だ。うれしくて嬉しくて、堪らないのに。涙は悲しい時に出るのに。 「帰って来い」と言われた時の、あの不思議な感覚。ああ、これは嬉し泣きってやつなんだと、初めて知る。 これから生きていこうという、この場所に、こんなに優しい人が居る。 もう、寂しい事だけは、きっとないんだろう。 ああ、よかった。本当によかった。 「……だから、言ったろ?」 口に手を当てて、涙を止めようと必死に嗚咽を噛み殺していると、ふと、ガイが穏やかに呟いた。 くしゃくしゃの整わない顔をそちらに向けると、彼は自慢げに微笑んだ。 「俺の幼馴染を、見くびるな、ってさ」 そう、あんまりにも誇らしげに言われたものだから、笑ってしまった。 |
ガイ独壇場。 次回で、この一連の事にやっと一区切りがつく予定です
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