「……だから、多分大丈夫だと思うぜ。薬だってちゃんと、打ってたんだし……」 聞き取れなかったのだろうか。 表情を失い、もう一度言って、と要求したカルミアに、ガイは繰り返した。 すっかり夜の帳の下りた中庭を離れ、とルークの様子を見に行こうかという道の途中である。 それとなく心配そうにしていたメイドに、親切心で状況を説明しようかと申し出た。 最初は別にいいと言い張っていたくせに、何故かこうして彼女は聞き入っている。 ルークと似たタイプだなと内心苦笑しつつも、女性であるには違いなく、ある程度離れて聞いて貰った。 連れ帰って数日、意識が戻らなかったので、医師による投薬をは受けていた。 効果は見られなかったが、それでも食事をする事が出来ない分、それが栄養面でも助けになっていたはずだ。 けれどもそれを聞いて、見開かれたカルミアの顔が蒼白に近くなっていく。 「……じゃあ、そのまま、ずっと今日まで……?」 「あ、ああ。……何か問題でもあるのか?」 聞くが、医師の処置に間違いは無いはずだし、譜術が通用しないのなら他にどうしようもない。 にもかかわらず、色の悪い顔を俯かせて独り言のように彼女は呟いた。 「……だめよ」 「え?」 今度は此方が彼女の言葉を聞き取れなくて、問い返す。 しかしそれに彼女は返してはくれず、暫しの沈黙の後、突然顔を上げた。 「わっ!?」 近付かれてはいないものの、急な行動に吃驚してガイは仰け反る。 「駄目よ。だってあの人、毒が効かないんだもの……薬だって同じだわ」 ガイの反応に構う事無く、訴えるように彼女は言うのだが、今一度意味を図りかねてガイは首を傾げた。 何の事だろう、と思ったが、彼女がに復讐しようとしていた事を思い出す。 「……まさか、」 「ええ、そうよ!毒だって使ったわ!でも効かなかった。だから……だから、薬も多分効かない」 じゃあ、と、ようやくガイにもカルミアが何を懸念していたのかが解った。 ただ、良くも悪くもないものを、体内に入れていただけ。 どうりで回復どころか、弱っていっているように見えたわけだ。 「そんな……よく今までもって……」 つい先程大丈夫、と言った手前なのに、焦燥を多分に含んだ呻きが口から漏れ出る。 ずっと様子を見ていた自分がこんな事を言うものでもないけれど、思わず呟いてしまった。 でも、は先程、元気そうな悲鳴を上げていたし。いやでも、遅かれ早かれ、このままでいい筈が無い。 とはいえ、何日も食べていない人間に、どうやって薬以外で栄養を補給させれば。 「……っ」 「あっ、……お、おい!?」 呆然と考え込んでしまったガイの前から、ふいに踵を返してカルミアが走り去る。の部屋の方角ではない。 (何だってんだ……) 二重に戸惑いつつ、とにかく医師に相談をするべきだろう、と、ガイも直ちに向かう目標を変更した。 「い、痛たた………な、何だっていきなり……」 「……いっ、つうぅ……」 そりゃあ、決意を胸に、ここに居る事を選んできたわけだけれど。 ズキズキとする額と、いまだ続行中の締め付けてくるような激痛に耐えつつ、は目に涙を溜めて何とか声を絞る。 しかしながらダメージの大きさはお互い様なようで、問われた先の赤い髪の少年も、目尻に涙を滲ませて 顎を押さえつつキッと睨み返してきた。 「てっめぇこの……!いきなり起き上がんじゃねェよアホ!!」 「……えっ!?あ、アホって……そっちが前振りなく攻撃してきたんじゃ!?」 どうにも身体に力が入らなくて上手く起き上がれないまま、果敢にも応戦する。 状況は圧倒的に不利だが、流石にこの仕打ちに黙っておけるものでもない。 「うるっせぇ!お前の方が怪力なんだから、ちったぁ考えて行動できないのかよ、この馬鹿!」 「いや、なっ、何それ……何で………って、いだだだななな何でもいいからやめて痛い!」 鬼か、この人は。 絶好調な『誓約の痛み』にこの口の悪さ。決意も吹っ飛びかねない理不尽と不条理の併せ技である。 言い返す程の体力ならまだ持ち合わせているが、誰が見ても同情に値する(誰もしてくれないが)大怪我なのに。 「……ったく、あーもー、やっぱムカつく……何か損した!せいぜい思い知れってんだよ、この」 成す術ない自分の目の前に立ち、憮然と見下しながら、ルークは怒鳴る。 偽りのない暴言と、隠す事のない感情と。 「地味ゴリラ!」 心に浮かんだ、そのまんまの呼び名を。 そう呼ばれた方がマシだと確かに叫びはしたけれど、やっぱり何だか、微妙に嫌だ。 「……あ、」 彼の口から声を聞くのが、随分久しぶりな気がする。 その声にふと、我に返った。あまりに突然の流れで熱くなってしまい、周囲の状況に気付かなかったけれど。 (あれ………私……) そういえば、と、目をしぱたく。 下にあるのは、雪の積もったコンクリートなどではなく、豪奢な模様の毛足の長い絨毯だった。 肌触りのいい上質なシーツと、見上げた先には曇天ではなく、天井に吊り下がるシャンデリアが見える。 一見、全く持って自分には見合わない世界で、またも現実かどうなのかが疑わしくなってくる。 頬を抓って確認したいところけれど、何故か既に顔の両側がヒリヒリと痛い。 そう、この道理の通らない痛みも、酷い言葉も、不毛なやりとりも、どれもこれも現実で、随分久しきもの。 (……やっぱり、ここに、帰って来れたんだ……) 知らず、心の何処かで嬉しがっている自分が口惜しくて、くしゃりと顔を僅かだけ歪ませる。 目の前に会いたかった人がいる。向こうは限りなくそうじゃななさそうだけれど、でも。 こちらの大きな心の動きにまるで気付かず、ルークは続ける。 「急に消えたら驚くだろフツー。したら、ベッドから落ちてただけって、お前本当にアホじゃねーの!?」 夢だったんだ。本当に全部。 帰る方法が見つかったからさっさと戻されたんじゃなかった。それどころか、この怒涛の文句の波はどうだ。 日の暮れた後の薄暗い部屋を背景に、不機嫌な様子で口を歪めた、生意気そうな少年の顔。 男のくせに腰にまで届く程の長い髪の色は、炎のような赤。やる気のない伏せ眼がち瞳の色は、貴石のような翠。 今まで生きてきた「現実」にとっては、有り得ない容姿。けれどもその「現実」にいたどんな人々よりも、忘れ得ない。 夢などではなくて、彼らはそこに、居るのだ。そうして、私を、無視しない。 延々悪口を言われているというのに、じっと感慨に浸っていると、流石にルークも違和感に気付いて 気味悪そうに問うてくる。 「……ってオイ、聞ーてんのかよ。何いきなり黙って……」 「へっ?」 そこでやっと、我に返ったようにルークも言葉を噤んだ。状況に呑まれていたのは彼も同じだったのだろう。 「………」 不自然に言葉を切ると、小さく舌打ちをしてそのまま黙り込む。 明かりの点いていない空間の中で、ルークの顔の輪郭ははっきりとはしないけれど、見えない事は無い。 その顔は恐らく、気まずそうに歪んでいるのだろう。 さっきまでは意識せず言い争っていて気付かなかったが、お互いが言葉を失うと、 こんなにも静かで居心地の悪い空間だったのだ。 「……………」 「……………」 首から上だけで固唾を呑みつつ、しかめっ面の少年を見つめる。コメカミから滲んだ冷や汗が伝う感触が奔った。 背を向けたい。逃げ出したい。目を逸らせば楽になる事は解っている。そうすれば自分を守れると解っている。 けれどもう、そうしてはいけないのだと、もう、決めている。 ただ、決めたところで自分はどうすればいいのか、解らないけれど。 傷付いた事実と傷付けた事実、すぐには埋める事の出来ない空白と、距離があった。 失ってしまったモノと、それ以上に生まれたモノが、確かにあった。 人生の何分の一にも満ちる事のない、この数日で。 「………、」 唇を噛む。色んな事……その全てを無かった事にしてしまうには、それは少し大きくて、多い。 ルークにも同じ気持ちがあるのだろう、だから彼は「帰って来い」と言ったのだ。きっと。 「あ……、」 かすれて、大した音量は出なかったが、どうにかして声帯を震わせる。 張り詰めた空気が震え、出した声に対して、ルークがピクリと身動ぎをした。 「あの……」 「………」 声が問い掛けの形になるほどに、ルークの眉間の皺が深まっていく。 その表情は怒っている、というよりは強張っていると言った方が適切かもしれないが、真意は解らない。 今一度勇気が湧かなくて、中々喉の奥から核心の言葉が出てきてくれなかった。 「あーその、えー………ど……どうして、ここに?」 たっぷり溜めた後、結局そんな言葉が出た。 「……は?」 何を言ってんだ、と言いたい気持ちをふんだんに含んだ気の抜けたルークの声。 自分でも、この状況にとっては最上級にどうでもいい上に突拍子もない事を聞いたなと、恥ずかしくなった。 「どうしてって………そりゃ、当たり前だろ。俺ん家だぞ、ここ」 仰る通り、ごもっともですとも。下らない事を聞いてすんません。 無難すぎる質問に肩透かしを喰らったのか、若干苛立ちを募らせたようにルークは声低く答える。 「そ、そうですよね。……あっ!あの、ごめ……っすみません、ベッド1つしか無いのに」 見渡してみるが、以前居候をさせて貰っていた時よりも若干小さくなったように感じる部屋に ベッドは一つしかない。ルークが使うものと、(断固拒否したが)自分のために用意されたもの、二つあった筈なのに。 その一つしかない安息所を自分が占領していたという事だ。 慌てて場を譲るために立ち上がろうとするけれど、やっぱり身体に力が入らなくて上手くいかない。 その様子に、ルークは呆れたように半眼で此方を一瞥したあと、脱力気味に肩を落とした。 「別にいーって。ここ、俺の部屋じゃねぇもん。暴れようが壊そうが、好きにすりゃいい」 言葉の棘に容赦なく心を串刺されて「うぐ」という呻き声しか出てこない。 毎回毎回、いる部屋や接した物が悲惨な末路を迎えてしまうのは不可抗力だ。不幸な偶然が重なった結果だ。 (わざとじゃないんですが……) しかし故意だろうと、住む場所を提供している側からしてみれば堪ったものではないだろうが。 それに、と、ふいに甦った記憶が思考に蔭を落とす。 目に入ってくる、貧乏目には眩しいばかりの建物……ああ、ここはあの公爵邸だ。 あの時自分は、この屋敷の中を蹂躙して駆け回り、多くの住人達にまで危害を及ぼしたんだ。 正当防衛だったと主張するには、自分に備わった力は強すぎた。 けれども精神は弱すぎて、身を守るために力に頼る事が精一杯だったのだ。 (………こんな事して貰って、いいはずない) 顔も体も、丁寧に手当てが施されている。与えられた寝床は、怪我人という事を除いても身に余る程で。 牢屋が然るべきか、むしろ発見され次第殺されていても不思議ではなかったのに。 この屋敷にいる誰もが、自分を許しはしていないだろう。 牢屋で聞いた事が本当なら、ああやって殺されかけたのは公爵が処刑を承諾したという事だろうし。 なのに。 貴族と言うにはどこか品のない格好をした、仏頂面の少年を仰ぎ見る。 私が生きてここに居る事を、この人はどうして許してくれているんだろう。 本当、自分の情けなさに呆れる。 「……ごめんなさい。……迷惑をかけないって、言ったのに」 初めてここに来て、ルークと言い争った時。「迷惑をかけないから出て行かせてくれ」なんて自分は啖呵をきったのに。 奥歯を強くかみ合わせて、深く謝る。しかしそれを聞いた途端、ルークの顔が何とも苦い物を口に含んだように歪んだ。 「あ、謝んなよ。うぜえな」 「………」 何だか届かないこの想いが切ない。あまりに取り付く島のない切り返しに、少し目元が引き攣った。 「……え?でも……ほら。私、ご主人様にたくさん悪い事したり、迷惑を……」 折角、こうして二人で話せているんだ。この期に解決するが吉、と食い下がるも、言葉を重ねる程に ルークの顔の苦味が増していくのは何故。 「だーもう!ウゼェっつってんだよ、お前謝んな!それにその棒読みの呼び方とか敬語、マジキモイんだよッ!」 あんたは一体、何でそんなに私が嫌いなんですか。 本当に解らない。どうしていいのか皆目見当もつかない。 世の中には種族を超えても解り合える絆が存在するのに、種族は同じでも永劫解り合えない仲もあるのか。 「……あのですねぇ!呼び方も敬語も、そうしろって命令したじゃないですか!それに謝るなって、他にどうしろと!? そもそも、じゃあ何であなた様はこんな“ウザイ”所にいらっしゃるんですか!」 逆ギレが解決をよぶものでもないと、充分解ってはいる。解ってはいるが限界だ。 こちらの方からバッキボキの最大限に折れているというのに、この態度。 謝罪している相手に対して暴言とは、さすが公爵子息様にして箱入り息子のルーク様である。 「んなの俺の勝手だろ!大体、俺は嫌だっつったんだよ!けど、ガイが行って来いって言うから仕方なくあい――」 「え?」 「あ!」 瞬間、ルークが脊髄反射と思しき素早さで口を手で覆う。 上がりかけていた此方の怒りのボルテージもたちまち落ちた。 自分の言動に自分自身で驚いて固まるルークを、眼を丸くして眺め見る。 「嫌々だ」とは、言ったものの、それにしたってその言葉の続きは。 「……あ、あの」 「………………」 目を逸らしつつ塞いだ口の中でモゴモゴ言葉を濁す彼を見ていると、あらぬ期待が高まってきて体温が上昇する。 此方を嫌って避けていたルークだから、ありえない事、まず無い事だろうとは思う。 でも、そんな彼がここに居るのは、彼の言葉尻から察して、もしかして「あい」に来てくれたとか。 「もしかし……」 「あ、あいっ………開いた窓がないか見に来ただけだ!」 何を言われるのも阻止するように、口を開放したルークは力強く言い切った。 「…………」 「…………」 此方を油断無く警戒する眼差しでねめつけながらルークは後退りをすると、 後ろ手でシャッとカーテンを閉める。自分の仕事ですと言わんばかりに。 「……はい……?」 ちょっとした緊張に硬くなっていた体から、一気に力が抜けていく。 思わず気の遠くなりそうな頭を横に傾げた。 「……ま……ま……窓?」 「……そーだよ!」 思いっきり、睨まれる。 文句あっか、と肩を怒らせてキッパリと言い張るルークに、どうつっこんでいいのか解らない。 「お…………お疲れ様、です」 そう言葉を返す以外、何と言えるだろう。 貴族なのに使用人に戸締りの確認に行って来いなんて言われたら、そりゃあ嫌だろうよ。 「仕方なく」でも実行するこの人は凄いよ本当に。 最早これ以上何も掛ける言葉など無かった。 「…………」 「…………えー…と…」 また気まずい雰囲気に突入してしまうのだろうかとウンザリする。 が、そうはならなかった。 バタン! という大きな音。 何の前振りも無く乱暴に開けられた扉によって、固まった空気は突然切り裂かれる。 「……えっ」 「な……」 あまりの事に二人、電流を流されたようにビクリと顔を上げ、部屋の出入り口へと視線を向けた。 「………」 この部屋において3人目となるその乱入者は、灰色掛かった青の瞳を据わらせて、ぜえぜえと肩で息をしている。 全力で走って来たのだろうか、美しい赤金の髪を高い位置で纏めた髪型は乱れており、灯る怪しい眼光が その容貌の可憐さを全くの台無しにしていた。 「あれ?お前……」 「か……カルミアさん……?」 戸惑うばかりの二人の反応を無視してカルミアはつかつかと中に進み入ると、ルークよりも少し近くに仁王立つ。 身動きの取れない体を、冷たい、それでいて熱い怒りの篭る眼差しが刺した。 その凄まじい剣幕に、思わずは震え上がる。 「あの……ど、ど、どうし……」 「……あなたね……」 声と一緒に、ふるふると、その華奢な肩が震えていた。 態度は恐いが、前に襲われた時とは様子が違うような気がする。 どういうつもりでカルミアが此処に来たのかは知れないが、彼女は右手に皿を持っていた。 彼女が震えるのに合わせて、盛り付けられたオードブルらしきものもプルプルと柔らかく形を変えている。 (な……何なんだろう、アレ) 鮮やかな緑色をした、テリーヌ……だろうか。 いずれにしても、長く食べ物を口にしていない飢餓状態の身体が、本能でぐう、と腹から間抜けな音を出させる。 ルークが「お前は…」と言いたげな視線を向けてくるが、生理現象と欲からは逃れられないのだから仕方ない。 視線だけで彼に「ほっといて下さい」と訴えていると、今一度カルミアが声を荒げる。 「あなたねぇ!」 ぐ、と、そのまま振りかぶった。 「っ」 殴られるか――!と思って、目をギュッと閉じて備える。 ただし不思議だったのは、振りかざされたのは料理を持った右手だ、という事。 「!?」 突如、塞がった視界の中で鼻を摘まれたので、思わず口を開ける。 「呑気に意識失ってる場合じゃないでしょう!」 ガパンッ!、と、そこに勢い良く怒りと、えもいわれぬ味と食感の“何か”がぶち込まれた。 「……がふぁぶぐうぅ!!」 「お、おい!何すんだよお前!?」 皿が唯一の気道となる鼻をぐいぐいと塞ぐ今、咀嚼もほどほどに“何か”を喉に押し込むしかなかった。 しかし飲み込むごとに意識は薄れ、とにかく八割がた口の中が片付く頃には。 「ちょっ……何食わしたんだよ一体!ヤベーんじゃねぇかコイツ!?」 珍しくルークが慌てて心配をしてくれる声が聞こえたのを最後に、またも世界は闇へと落ちた。 |
今に死んだっておかしくない扱いの主人公ですねえ
←back next→