呼んでほしい名前は





一日の最後の授業。
鳴り響いたチャイムの音にこれ以上ない位に脱力して、周りには気付かれないように息を吐く。
「よ……」
限界まで張り詰めていた緊張の糸が一気に緩んで、机の上にへたり込んでしまいそうだった。
危うく声に出してしまいそうになった安堵の声を呑みこんで、首周りを解す。
(……よかったぁ……何とか当たらずに済んだ……)
手に滲んだ汗の所為で若干波打ったノートに目を落とすと、改めて苦い思いが込み上げてきた。
黒板に書かれたものを、そっくり書き写しただけ。全く理解出来なかった。
単語も文法も数式も記憶の彼方に吹っ飛んでいった今の状態では、英語や数学なんて命がけの綱渡りだ。
現役の時でさえ特に頭が良かった訳でもないのに。
(方程式とか因数って、日常使わないものだもんな……バイトとかで役に立つわけでもなし)
心の内で言い訳をしつつ教科書とノートを鞄につめるが、今日当たらなかったと言って明日もそうだとは限らない。
せめてXとYの使い方くらいは思い出しておかねば。でなきゃ高2の冬を越せる訳が無い。
HRにて担任教師が連絡事項を淡々と告げるのをボンヤリ聞きながら、これからの日々に思いを馳せる。
この一日で全部とまではいかないが、何となく雰囲気は掴めたように思う。
中学校の時のように苛烈な嫌がらせや無視ゲームみたいなものがあるでもなく。
かといって全くもって問題が無いかと言えばそうとも言えない、何とも生殺しのような状態だ。
はぁ、と、思わず溜息。
とにかく、無い分の知識や記憶を、何とか補わなくては。当分は苦手な勉強漬けになるだろう。
あと、周囲への適応。どうしても今の自分と状況の間に、壁を感じてしまう。
周囲の同級生には、無い筈の世代の壁を感じるし、父でさえ、何だか他人みたいだ。
いや、父だと名乗る見知らぬ他人――そんな風にさえ思える。きっと母も同じだろう。
家に帰るのも、何だか気が重い……と、そんな風に考えかけて首を横に振って払った。
そんな馬鹿な。帰れる場所があるのに憂鬱になるなんて、そんな事があってたまるか。
「……あ」
気がつくと、いつの間にか周りは雑多な談笑や鞄に付けられたキーホルダーが擦れ合う音等で溢れていた。
どうやらHRが終わったらしい。足早に運動部のユニフォームを着た生徒が横を擦り抜けた際の風圧で我に返った。
「…………」
(……とにかく帰ろう。そのうち、慣れていくよね)
何もかも。
彷徨うような、地に足のつかないこの感覚も感情も、そのうち無くなるはず。
未練がましい記憶など消えていって、いつしか現実と統合されていく。
もう一度深く息を吐くと、鞄をしっかりと閉めて椅子を引いて立ち上がった。
窓の外がふと目に入る。ああ、雲が厚い。傘を忘れてきてしまったのに。










「え……どういう事?」
昇降口を出て少し歩いた所で呼び止められ、掲げられた用件に唖然として立ち尽くす。
朝にも見た、化粧で整えられたクラスメイトの女生徒が、悪びれた風無く手を合わせている。
その向こうに見える校門付近には、見知らぬ制服を着た他校生らしき少年達が数人いて此方を窺っていた。
どうやら彼女の連れらしく、声を掛けられた事で無条件に注目されてしまっている。
値踏みするような無遠慮な視線が寄ってきて、非常に居心地が悪い。
「だからー、お詫びするって言ったじゃん?今日ちょっと手持ち寂しくてさ。ね?」
「え……でも、流石にお金なんて……」
声を掛けてくれたのは嬉しいけれども、校門のギャラリーが気になるので早い所納得して去って欲しい。
気もそぞろに断りを入れるが、女生徒は根気強く食い下がってくる。
「ケーキ奢ってくれんのと、ほぼ一緒だって!また今度美味しい店連れてってあげるからぁ」
「……う……ん」
確かに、それなりの喫茶店でケーキセットを奢るような事があれば、結構な額を持っていかれる事になっていたろうが。
それより何より、学校の帰りに飲食店に寄り道、という言葉に心が揺らされる。
(帰り道にケーキ……かぁ……)
何気ない一言なのだろうが、「美味しい店連れてってあげる」という言葉が甘美に響いた。
「ね? 何なら、この場では借りるって感じでいいしぃ」
金には人一倍の執着があるとは自負しつつも、押し切られて鞄を開けてしまっている。
それで相手が嬉しそうな顔をするのを見てしまうと、要求はアレなのに抵抗の意思が弱まっていく。
ああ、つくづくお人好しの親の血を引いているな自分は、と溜息が出た。
「解った。じゃあ、貸すって事で……私、今日は千円しか持ってないんだけど……」
というか、これが自分にとっては手持ち金として最大値かつ大金なのであるが、それを言っちゃ引かれるだろう。
世間との物価のズレは何となく理解しているので、しぶしぶ財布を出しながら女生徒を窺う。
「えっ、千円? マジ?……あー……でも、いいよ。うん。じゃあ、お願い」
促されて、戸惑いながらも財布の口を開けてみた。
宣言した通り、中には燦然と輝く存在感の千円札が一枚と、小銭が少々。
昨日までの自分が使わずに大事に取っておいたものだろう、その一枚を恐る恐る引っ張り出した。
本当にいいんだろうか、こんなの。だって現金渡すなんて普通じゃない気がする。それ以前に、
「……また今度、一緒に遊んでくれるんだよ……ね?」
こんな言葉と一緒に、懐の紐を解くような人間は、自分なんかじゃない気がする。
夢か何処だかいつだかの自分は、生きるために金銭にがめつくて、いっそ他人なんか全部拒絶していて。
でも、それは何よりも不幸だと、頭の悪い生き方だと理解できたから、変わりたいと思ったはず。
「うんうん!アタシら友達じゃん?今日はムリだけど、また遊ぶ時あったら誘うし!」
思い止まろうかとした手から、あっさりと千円札が取り上げられて、空になった手が所在なく揺れる。
「ありがとー、ちゃん!マジいい人だよね!」
じゃあ、明日学校でね、と可愛らしく手を振りながら校門へ駆け寄っていく「友達」を、眺める。
両横を流れていく全く関係のない下校中の生徒達と同じように、他人事のようにそれが目に映った。
(……トモダチ)
あれが、私の、友達。
そう、お詫びだから。ケーキを奢るのと一緒だ。仲が良ければそれくらいの事だって、普通はしたりする。
明日からも、私は何事もなく過ごしていかなくてはならないのであって。



自分の吐いた息がやけに白くて、視界が霞んだ。
持って行かれた時の形のまま、中途半端に彷徨っていた手にゆっくりと視線を落とす。
冬の外気が冷たくて、指先が赤くなっていてチリチリと痛む。そこに白いものが舞い落ちて、じわりと溶けた。
どうりで、寒いと思ったら。
「……わたし……」
自分はもう、一人きりじゃない。せっかくこうして話せる相手が出来たんだから。
現状が一番だと納得しなくちゃいけない。自分を押し殺せば丸く収まる。
波も風も、立てちゃいけない。でもそれって、


結局、同じなんじゃ、ないの?


(……………馬鹿、みたい)
あの千円があれば、上等な手袋のひとつ、買えたかもしれないのに。
その事に気付いた途端、凍りついていた足がゆっくりと溶けて、踏み出せた。
冷たい指先を握り込むと、たどたどしく足取りで、校門から発とうとしている彼らを追う。
陰口社会で鍛えられた地獄耳は、拾いたくない会話も拾ってしまう。
でももう、解っていたから傷は小さかったし、裏切られたような感覚も覚えなかった。彼女は、「違う」。
「……――おかえりい。補給できた?」
「……ん。でもあの子、千円しか持ってなかった」
声のトーンが先程とは別人みたい。女って凄い生物だ。かの人が女性が恐いと宣うのも今なら理解も出来る。
「うそ、まずしー!でも服装とかモサかったし、逆に何か可哀想じゃない?」
ええまさに。仰る通りですとも。お金が無くて、貴方達みたいにブランドのコートなど買えませんから。
そんな事を考えると、卑屈だなあと思う反面、これが本来の自分なんだと痛感する。
誰かのとても楽しそうな、笑い声。その中に自分も入れたらと思ったりもしたけれど、
でも不思議な事に、あそこに入りたいだなんて、全然羨ましいだなんて、思えない。
(……こんなの、違う)
「友達」なんかじゃない。
初めて言われたその称号は、嬉しいどころか吐き気がする。「イイ人」だなんて言われたってちっとも嬉しくない。
こういうのは、欲しくない。こうなりたかったんじゃない。
求めていたのは、もっと――……もっと。
何故だか急に悔しくなって、腹立たしくなって、言いようの無い感情を奥歯にためて食いしばった。
ずんずんと歩きながら、思わず鉛色の空を見上げた。白い息と、無数の花弁のような雪が、落ちてくる。
薄っぺらな布地で出来た上着なんかじゃ寒くて、ずずっ、と、鼻水をすすった。
「変わる」って、何だろう。
強くなることなのか。弱くなることなのか。
追いかけていた彼らの背は目前に迫っていた。唇を噛みながら、小走りに掛け寄る。
だらだらと談笑しながら歩く集団の前に躍り出て、地に足を突っ張った。
少年達が戸惑いながら立ち止まり、真ん中にいた「友達」の女生徒も驚いて息を呑んでいる。
「な……何?どうかし……」
「……返して」
息切れしながら言うと、白い息が散った。
裏返りそうになる声のトーンを落として、震えそうになる手を真直ぐと前へ伸ばす。
「……やっぱり、返して。私、そのお金が、家族の次に命よりも大事だから……ごめん」
訳が分からず疑問符を浮かべる相手に言い放ち、更に手を突き出す。
ややあって、やっと突然の状況を飲み込んできたのか、困惑顔を見合わせる少年達を尻目に、
女生徒は完璧にアイメイクの施された目を吊り上げて言い返してきた。
「は、は?……意味解んないだけど……さっきはいいっていったじゃん。今度また誘うって、」
「いい!……行きたく、ないから」
自分自身の大声量に、きん、と頭が痛んだほどだった。喉もヒリヒリする。
道往く人が奇異の視線を向けてきた。眼前の彼らは勿論の事だ。でも構わない。
お情けの友情なら、お断りだ。上辺だけの言葉なんか、願い下げだ。
周りが恐ろしくて変われない自分なんか、歪みながら変わっていく自分なんか必要無い。
「気に入らないなら……直接言ってくればいい」
強がりで笑ってやろうとしたのに、上手くいかなくて、余計に情けない声が出た。
そんな、届かない場所で、離れた場所で文句を言われたって、嗤われたって、言い返せないじゃないか。
どんな事だって、相手に面と向かって浴びせられる方が、いっその事ましだ。
「……友達って、多分、こんなのとは違う」
それがどんなに辛い言葉だったとしても、受け入れられたかもしれない。
やっと、やっと、気付いたのに。
本当の事を、失礼だなんて思いもしないでズケズケと言ってくれたあの人も、
平気で人を傷付けて、酷い言葉を包み隠す事無く当り散らしてくれたあの人も、ここには、いない。
それが悲しくて悲しくて、仕方なかった。拒絶して、逃げてきたくせに、私は。
「ちょ、どうしちゃったわけ?ちゃ…」
「そんな……」

――ああ、私は。

「呼び方されるくらい、なら」

――私の、帰りたい場所は、ここじゃなくて。

「"地味ゴリラ"って呼ばれた方が、まだマシよ!」
単なる誰かの暇つぶしで放り込まれた先の異世界に、変わってしまったんだ。
誰にも必要とされなくても、罪が赦されなくても、嫌われたって其処にいたいと思うのは。
「マシな自分」を見つけさせてくれたあの場所。あの人達なんだ。



「何……バッカじゃないの?ホント意味解んない!こ、こんなん返すし!」
頬を赤く染めた少女が、先程の千円札をポケットから掴み出すと、地面に投げ捨てた。
「ちょ……ウケる! え、何なの地味ゴリラって……何で自分で言っちゃってるのあの子!」
言い放った勢いで出た鼻水を啜りながら、少年達が笑っているのを睨みつけた。彼らからすれば、当然の反応だろう。
何でか、言いだしっぺの本人に言われるのに比べて万倍ムカつく。
構わず、濡れたアスファルトの上に落ちてふやけた千円札を掴むと、踵を返して全力で走って逃げた。





どうしよう。どうしよう。どうしよう。
やってしまった。明日からどんな顔して学校に行けばいいのか解らない。
どうしよう。どうしよう。
気付いてしまった。ここには両親が生きているのに。生まれた場所で、いるべき世界で、確かな居場所なのに。
(私は、私は……)
あんな夢の世界へ帰りたいんだと、確信してしまった。
違う違うと何度も心の中で繰り返し叫んでも、家に居る筈の両親よりも、今は「彼ら」に会いたい。
少なからず、大切に思い始めている事に、気付いてしまった。これは、現実からの逃避だ。
がむしゃらに、なんにも考えないで、ひたすら走った。
薄く積もった白い絨毯に足をとられ、避けきれなかった通行人にぶつかりながら、意味をなさない謝罪を呟きながら。
降りしきる雪の中をひた走る。無意識そのもので、どこに向かおうなんて気は更々無かった。
どこにあるのだろう。どこまで走れば行けるのだろう。解らない。足が、胸が、頭が痛い。
やがて力尽きて、辿りついた公園の冷たい電灯の鉄柱に寄りかかる。
辺りは既に暗く、人の気配など何処にもない。
「……はぁ……は……」
切れ切れの息を落ち着かせようと胸を押さえて辺りを見回すと、そこが昨日自分が居た公園であった事を知る。
日のとっくに暮れた後、寂しげなブランコや滑り台が、ほの明るい屋外灯の光に浮かび上がっている。
雪が音を吸い取ってしまっているのか、辺りは馬鹿に静まり返っていた。
よろよろと電灯から体を離すと、景色の開けた方へと歩み寄る。
そうして、街を見下ろせる高台のギリギリの位置に立ち、安全用の柵に上半身を預けて顔を腕に埋め込んだ。
まだ整わない息の煩い音を、体内で聞く。情けなくて溜まらず、凄まじい倦怠感に襲われた。
どうしてこうなんだろう。こんな風になってしまうんだろう。
前を向こうとしたって間違ってしまう。楽をしようとして、苦しい道に入ってしまう。
踏み出す足は、必ずしも前へ出るとは限らない。





「……おい、」
雪の降る音に紛れるように、名を呼ばれた。
声で誰だか解る、という以前に、自分をそう呼ぶのは、最早彼とあと一人だけだ。
どうして、ここに居るのかは解らない。帰りの遅いのを心配して、探しに来てくれたのだろうか。
振り向かずにゆっくりと顔だけ上げると、白に覆われた街並みが見える。いつの間にか随分時が経っていたらしい。
「風邪ひくぞ。……もう、遅いし」
先程と変わらぬ、雪が夜の闇に溶け込むように、低く淀みのないトーンで促される。
あまり怒る事のない彼は、昔から優しかったような気がする。叱ってくれるのはいつも母で。
「ほら、帰っておいで」
そう言われるのが、言ってくれるのが、今はとてつもなく辛く感じた。
どこにいようとも、宙ぶらりんな在り方しか出来ない。どちらに居ようとも文句しか言えなかった。
「……ごめんなさい」
そう言ってしまった後で、無性に悲しくなってしまって尚更父親の方を向けずに俯いた。
何を、謝ってんだろう。それに対して、彼からの答えはなく、暫しただの無言の間が落ちる。
「わたし、もう……嫌だ…」
何がなのかは、解らない。どちらの世界が夢なのかを考えるのも、嫌だ。
両親が死ぬのも嫌だ。ガイやルークが居ないのも嫌だ。
明日からの現実が嫌だ。
口先やそれらしい決意ばかりで、実際にはちっとも上手くやれないのが、凄く嫌だ。
そんな周りの全てに勝手に絶望して、自分を可哀想だと思ってる自分が愚か過ぎて、気持ち悪い。
「……」
その言葉を噛み締めた後というように、もう一度、低く名が呟かれる。
それは呼びかけだったのか、単なる応じの言葉だったのか。すう、と彼が息を整える気配を感じた。
「どんなに願っても、人は簡単に変われやしないさ」
「……!」
見透かされたような鋭利な言葉に驚いて、思わず振り返る。そこに居たのはやはり――けれど。
「お父さ……?」
彼が痩せた体に纏っているのは、色の褪せた長袖のシャツと、皺のよったズボンだけ。
家の中にいる時とそう変わらない。自分の記憶に辛うじてある、いつもその格好の父の姿そのまま。
なのに彼は寒さに震えもせず、穏やかな表情を湛え、雪景色の中に立っている。
気にする事はない、と、その口の端が上がった。
「いつもの上着が見つからなくてな。……それと、お前と母さんに貰った、あの、時計も」
ごめんな、と苦笑する父の言葉に、息を呑んだ。
あれは、二つともあの深淵で――……いいや、だってそれは夢で。でも。
言葉を失ったこちらに対して、彼はもう一度訴える。白い息滑らかに空気に溶けた。
「なあ、。人はそう簡単に変われるもんじゃない」
それは、同じ言葉だった。念を押す様に言われた言葉に戸惑う。
「……でも」
こちらが眉を顰めても、笑みを湛えたままそれを崩さない彼は、どこか現実味を欠いていて違和を感じる。
やがてさらにその目が細められた。ふふ、と彼は皺を深くして笑う。
「何だかお前、変わったなぁ……まるで、」
変わらなきゃ、自分なんて愚かなまんまじゃないか。確かにどれだけ願っても変われないのは認めるが。
――あの深淵にあって、殺意に至るまでの人の感情を知った。
諦めきれずに、必死に愛を乞う自分を見つけた。
何気ない言葉の温かさと、冷たさと、喜びを、私にくれた。
だから今、変わろうとしてもがいている。
「今じゃない別の人生を、生きていたみたいだ」
「え……?」
不意の言葉に、顔を上げた。
視線を馳せる先で、どことなく読めなかった父の微笑に寂しさが溶けて混じっている。
そこに、直ぐ傍にあるのに、今にも消えそうな笑顔が胸の中の何かを駆り立てた。
手を伸ばそうにも、言葉を掛けようにも、それを擦り抜けて彼は何も言わずに宙を見上げる。もそれに倣った。
月も星もない暗闇の中にあるのは、何の感情も無く落ちてくる無数の光の粒だけ。
あとから、あとから。
たくさん、たくさん。
雪が降る。
いくつもいくつも、後から後から降り積もる。
無音に、無慈悲に、舞っては、落ちて。全てを、隠して、失くしてしまう。
(――――――……!)
びくりと、腕が震えた後に、心臓がドクリと重い血液を送り出す。脳の奥で、瞼の裏で、閃光が弾ける。
何かが、フラッシュバックする。
暗闇、雪、力無く立つ愚かな自分。
鋭い痛みが、爪が、目を覚まさせようとするかのように震えた腕を引っ掻いた。
「……ぁ、あ…っ…」
胸に抱いた暖かさを思い出した途端に、上を向いたまま見開いた目から、どっと涙が溢れ出した。
霞んでいた記憶が頭の中に押し寄せてきて、混乱に頭を抱えて呻く。
「……ああぁ…っ……」
ぽたり、と伝った赤い雫が、白の大地に赤い染みを作った。熱くて、痛かった。
慌てて袖をまくって見ると、腕には無数の引っ掻き傷が付いている。
気付かされた事を、教わった事を、生きるモノの本能を思い出して、当たり前の事が悔しくて、
止めようとしても涙が止まらなかった。
それは、生きようと、もがいて、絶たれた道先に構う事無く。
それは、ひどくやさしい、わるい夢。
(……私は…)
降ってくる静かな光を、濡れきった目に焼き付ける。
空を眺めながら、父は呟いた。
「………もう、往くといい」
ただ生きる事を望む事が出来るようになった。たったそれだけの進歩だと、自分では思う。
理由も、価値も、いまだどこにも見当たらないのに。
「誰もお前の事を決める権利は無いから。自分で歩いていけるさ」
その言葉と同時に、ズキンと激しい痛みが体を駆け巡る。
腕だけではなかった。足と肩を主に、立っているのが困難な程の激痛に見舞われて思わず蹲る。
みるみる内に、身体中に引っ掻き傷ではない、刃物等による細かな傷が出来ていくのを、見開いた目で追う。
頭がグラグラして、熱くて、まともな言葉を発する事が出来ずに喘いだ。
「時間を掛けていけば、痛みを伴っても、変えていける。自分を決めるのは、自分だけだよ」
先ほどよりも直ぐ傍から降ってきた声にやっとの事で顔を上げる。
数歩先で自分と同じように雪を見つめていた父が、目の前に膝をついて肩に手を置いていた。
傷だらけの娘を見ても、相変わらず穏やかなだけの笑みが、こちらを向いている。
それを、不思議だとも思わなくなっていた。どちらが現実かを、選んだ後だったから。

「痛いのは全部、きっと不幸な事じゃない」

朦朧とする頭が、全てのリアリティを遠ざけていく。声が、遠く近くに響いた。

「たくさんの痛みを知れば、たくさんの悲しみを知れば、その分は優しくなれるさ」

詩を詠うように、子守唄を口ずさんでくれるように、「父」は言葉を紡ぐ。
眠りの淵に誘われるかのように、ひどく体が重い。
無防備な心に、暗示のようなそれらが染み渡っていく。

「一人でも多く、赦せるように。大きいよりも、小さい幸せをいくつも感じられるように、」
ずっと、私にそうなって欲しいと、願っていてくれたんだろう。
優しく。果てしが無く、優しく。
「なれるさ」
悲しむだろうけれど、苦しむだろうけれど、いつかはそうなって欲しいと。
諦めなければ今じゃないいつかに、そうやって変わっていく。そう、なれる。
力なく頷くと、やさしく頭を撫でて貰えた。
いいこだね、と、呟いた彼の声に、暖かい手の感触に、悲しいまでの愛しさをやっと思い出した。
そうして本当に、これで最後なのだと、感じた。

ぎゅう、と苦しいまでの抱擁のあと、
「また会えて、嬉しかったよ、……――さようなら」
とん、と軽い音がして体が無重力に包まれる。


体と同じく空に投げ出された手の見える向こう側の高台の上で、父親だった人が微笑んでいた。
落ちているはずなのに、奇妙な浮遊感。
普通なら、死んでしまうと焦っていたのだろうが、そうはならない事を自分はもう解っていた。
そうだ。現実は、「あっち」なんだから。
どんなに奇妙不可思議な虚構の物語よりも、ずっと非現実的で、理不尽で、命の保障すらない世界。
地球上ですらない、とても不安定で「居場所」かどうかも定かでない――帰りたいところ。
きっと目を覚ませば、牢屋に入れられたり殺されかけたり、また虐げられる生活が待っているのかもしれない。
「……おとうさん」
けれど。
見送ってくれる「夢の人」に、ありったけの微笑みを向ける。
呼んだ言葉に、応えてくれなくたっていいの。
私には、呼ばれたい名前が、他にもあるから。





振り返りながら行くといい。「いいこと」だけを。手にした「強さ」は、今は脆いから。
寂しい時には、あなたの奥底で"うた"をうたってあげる。















落ち着け。何を焦っているんだ、自分は。
ガイに言われた事に対して、あんまりにも動揺していたからだろうか。
ルークはカーテンを握る手の力はそのまま、呼吸を深くする。
そうして、耳をすましてみると、ちゃんと“それ”は聞こえた。不本意な能力だったが、思わず安心してしまった。
と同時に、自分よりも随分ゆっくりで健やかとも言える脈動が無性に腹立たしい。
後はそれが、何処にいるか、だ。まさか意識も戻らなかったような人間が外へ逃げたとも考えにくいし、屋敷の中か。
「……って」
と、はやる気持ちで部屋の中を振り返って、一気に脱力した。
(こいつはあぁ……!)
何かもう、気が抜けすぎてその場にしゃがみ込んで盛大に息を吐く。
「ったく……ベッドから落っこちてただけかよ!」
柔らかく、大きなマットレスに施されていたであろうベッドメイク。滑らかなシーツに呪縛され、ただでさえベッドが
嫌いだもんだから、もがき苦しんだ挙句にそれらに絡め取られたまま下に落ちた、と。
そんな複雑なエピソードがありありと伝わってくる絵ヅラだ。これは。
ベッドの陰に巨大な白いミノムシが転がっている。
入り口から見た時には見事にもぬけの殻に見える上に、冷静さを欠いた頭で部屋の中に踏み入っても一瞬解らない。
見えているのはボサボサの髪の先の一部だけで、艶のない地味な色合いの髪は屋敷の人間には見覚えが無い。
何重も布にぐるぐるに巻き込まれているせいで、息遣いもあまり聞こえない。というか息できてるのかコレ。
近付いて恐る恐る覗き込んでみると、謎の呻き声が聞こえる。結構苦しんでいるらしい。
「ハァ……」
眉を顰めて前髪を片手でがしがしと掻きつつ、再び一度息を吐く。
(なんだ……思ったより断然元気そうじゃねぇか……)
ガイの様子からしてかなり危ないんじゃないかと思っていたのに。
焦ってしまった自分が馬鹿みたいだ。いや馬鹿だった。
そもそも、何で自分はあんなに取り乱したんだろう。
「……………」
考えていたら、段々と腹が立ってきた。周りにこんなに心配させたまま、こいつときたら世話の掛かる。
「おらっ!」
取り合えずミイラのように絡み付いているシーツを掴み、力任せに引っぺがしてやった。
ぺいっ、と床に放られて転がったは「ぷはっ」と気道を確保したようだが、目を覚ます様子は無い。
(たくまし……)
と、ルークは呆れるのを通り越して感嘆の念さえ抱いた。
顔上半分に蔭を落とし、健やか(?)に眠るを見下ろす。顔が赤い……そういえば熱があると言っていたっけ。
やっぱりガイの言った、意識が戻らず危険な状態、というのは本当なんだろうか。
このまま眠り続けたら、死んでしまうかもしれない、って。
「………おい」
ぺち、と手の甲で軽く頬を打ってみる。
「………」
反応無し。
「おい、こら」
引き続きぺちぺちと顔を往復で叩いてみたが、やっぱりなぶられるままに反応を返さない。
いつもは自分よりずっと早く起きて、ペールの所に手伝いに行ったりしていた程だったのに。
「いい加減に……!」
ついには胸元の服を掴んで揺さぶってみたりもした。
何で、こんなにしてるのに目を覚まさないんだろう。命に関わるっていうのに。
穏やかな寝息さえも、忌々しく聞こえてくる。
(……どうしたら……)
胸倉を掴んだまま、起きる可能性がある方法を考えてみた。叩いても揺さぶっても駄目なら――
「……あ」
ふと、思い至って、ポケットの召喚石を取り出す。暫く透明な石を眺めていたけれど、徐に。
たちまち、それは自分の意識に反応して、指の間から赤い光を放った。
「――っい」
引き攣るような呻き声。
くぐもった一言がシーツの塊の中から発せられると、ビクンと揺れた。
ルークが、やったか――と、思う間もなく、勢い良くそれが跳ね起きる。
いくら剣の稽古で優れた反射神経を持つルークと言えども、予測不能のそれには対応が追いつかない。
の頭が猛スピードで弧を描くコース上には、ルークの顔が有り。
ガンッ、という、人体と人体が接触した、潔い音が響き渡った。
「……痛ってぇえ―――――!!」
「いだあ―――――ッ!!……うわっ、ぃぃい痛い痛い痛い―――――!!」
そして、二人分の断末魔も。
の場合、『誓約の痛み』+『ルークに激突』+『第二次誓約の痛み』という三重苦であったという。





おや、と呟いて、暮れた後の中庭で道具の片づけをしていた老庭師が顔を上げる。
「お」
屋敷の一角から遠く響いてきたその悲鳴を聞いて、彼と話をしていた使用人の青年も同時に声を発した。
「……どうやら、心配は無さそうですな」
澄ました顔で、けれども安心したように言うペールに、くだんのの容態について話していたガイは苦笑した。
その後で一度息を吐くと、ああ、と噛み締めるような笑顔で頷いた。
「……あれって、大丈夫な声なの?何があったのかしら……」
偶然そこに居合わせていた、赤みがかった金髪のメイドが訝しげに顔を顰めながらぼやく。
彼女のマイナスの感情を埋め合わせるかの如くいい顔で、ガイは白い歯を輝かせた。
「王子様が、お姫様に目覚めのキスでもしたんじゃないか?」
咄嗟に何かを突っ込もうとしたカルミアだったが、爽快な笑顔の輝きに気圧され、結局何も言わずに黙り込んだ。


こうしてそのひとは、異なる世界をえらんだのでした

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