さかさまの現実





木枯らしが宙を遊ぶ。
葉を落とした木々が、寒さに耐えているのを見て、今この世界が冬を迎えているのだと悟る。
ひたひたと、裸足の足で音を立てながら、見覚えはあるのに信じ難い周囲の景色に心細げに歩を進めた。
住み続けるには周りへの体裁も悪くなり、逃げるように捨てていった町。
断ち切った筈の記憶は今もこの場所の地理を覚えていて、足が無意識に「そこ」を目指してしまう。
行かなくてもいいのに。見なければいいのに。
まばらにすれ違う人達が此方を見て少しだけ訝しむような顔をするが、誰もが結局無関心に通り過ぎていく。
裸足なのは勿論、遥か遠くの惑星のこの服ならば当然か。
まだ寝巻き(だと思う)なぶんだけ、地味だから良かったが、やはり少し恥ずかしい。怯みつつ、とにかく進んだ。
あの角を曲がって、数歩先には、きっと何にも残っていないんだ。
更地になっているのだろうか、それとももう別の家族が住まう新しい家が建っているのだろうか。
前者なら寂しくて堪らなくなるだろうし、後者ならきっと、どうしようもない嫉妬心に身を焼かれる事になるだろう。
どっちにしろ、見ないに越した事はないと、解ってはいたのに。
なのに、

「……そんな……」

周囲のモダンな住宅群から完全に浮いた、古き、良きとは言えない時間の流れる佇まい。
壁が黄ばんだり、一部を金属でつがわれた屋根が錆びてその機能を果たせていなかったり。
全体的に傾きがちな、昭和建築を匂わせる危うさは当時のまま――いや、更に少し古くなったような気がする。
「家が……」
思わず掠れた声で、心で慄いたままの言葉を口から漏らしていた。間違いなく、懐かしき我が旧家である。
差押さえられた後、訳有り物件の烙印を押され、買い手も付かず、老朽化も激しかったために取り壊されたはず。
(……げ、幻覚?)
寂しいような、残念なような、複雑な気持ちになった。
こんな事、有り得るもんか。大体、あんなに訴えてもわめいても、異世界から帰れなかったのに。
確か、喚び出された時にだって儀式を通したと聞く。ルーク自身も望んでいなかったけれど、『誓約』という戒めで
この身は彼に呪縛されているのだし。あっさり解決、なんて、都合が良すぎる。
けれど、もしかして。
「還してくれたの……私を?」
もしかして、意識を失っている間に送還の書とやらが見つかったのかもしれない。
だからルークはさっさと還してくれて。そうなんだろうと思ったら、何でだか、寂しく思った。
結局、呼び出された時も還される時も、こっちの都合なんてお構い無しだなんて。
その時。


「おかえり」

当たり前のように繰り返されてきた日常の中のような、

「……どうした、。そんな所で突っ立って」

ごく自然に優しいその声が、自分の背に掛かってくるなんて、絶対有り得ない事なんだ。
どんな声だったかすらも、危ういくらいの掠れた記憶しかないのに、それははっきりと自分に語りかけてくる。
瞠目したままの顔を、ゆっくりと背後へと向ける。そこには。
宵の薄暗さの中、壮年のはずなのに若白髪の多く混じった、うだつの上がらない印象の男性が立っている。
細身で、疲れが溜まったように落ち窪んだ瞳には、けれども穏やかで暖かな眼差し。
「………お父さん……?」
口が力なく呟くのと同時に、くらりと眩暈さえした。やめてくれ。いくら夢だからってこの展開は、鬼門すぎる。
きっと精神が参り切ってるんだ、逃避するにももっとマシな夢もあるだろうに、しっかりしろ自分、と必死で心を叱咤する一方。
お構い無しに、男性は笑みを深める。
「ああ、ただいま。寒かったな……今日は暖かいものを食べよう」
戸惑いで、思考諸共固まった自分の背を優しく押して玄関へと誘う手に、逆らうことなど、出来なかった。





(でも、考えてみれば……)
頼る親戚もいないのに、子供ひとりで残されて。
何とか生き延びて、ギリギリ成人できたはいいものの、ある日突然胡散臭い魔法で異世界に召喚……
……――なんて。どれだけ漫画じみた展開なんだろう。
地味に人生を送ってきた自分が体験するには、いささか劇的すぎていやしないだろうか。
自室の扉を背に冷たいノブの感触を後ろ手に確かめながら、息を吐いて目を伏せた。
どこからか、今この状況の設定がおぼろげに頭に浮かんでくる。
家を見ての通り、相変わらず我が家は極貧で、けれども両親は普通に生きていて。
それで、自分は高校生を続けていて、でも、やっぱり人と接するのが苦手だったから、あんまり楽しくなくて。
(な、何だろう……これって、普通に現実的なような……)
都合がいいと言えども後者の方が納得できるし、圧倒的に前者の方が夢物語だ。
襲ってくるリアリティに、全ての現実と非現実が引っ繰り返って、嫌な汗が滲む。
もしかして自分は、長い長い夢を見ていたんじゃないのだろうか。
だって、目の前に広がる世界は、あまりにも輪郭がしっかりしている。
部屋の明かりをつければ、あっという間にそれがあっさりと肯定されそうで、暗いままのその中に歩を進めた。
置く物が情けない事に不足しているから殺風景なのは、「今のここ」も同じだ。
一見片付いているように見えても、整頓の要領がなっていなくて本棚が乱雑な並びをしていたり、
机の中や物置の中があまり綺麗じゃない所は、紛れも無く自分臭い。
捨てた筈のカバン。新品同然だったから、売り払った筈の辞書類。
教科書は高校2年生のものだ。自分ではそれを手に入れた記憶は無い。一年の途中で退学した筈だった。
壁に掛けられた制服は、あんなに馴染まなくてごわごわしていたのに、もうすっかり肌に馴染む手触りを指に伝える。
更に視線を巡らせると、古い大きな姿見が置いてあった。
あまり自分の姿を映すことに執着しないのか、むしろ出来るなら目を逸らしたいのか、表面に埃が溜まっている。
恐る恐る指で拭って、そこを覗き込むと。
「うわ……あんまり変わってないっていうか……」
ほんの少しは若くなった(ような気がする)冴えない女がうつっている。
冷や汗を浮かべながらも間抜けな笑みを浮かべる様は、花も恥らうと喩えられる年頃だなんて思えやしない。
(17歳でこれかあ……。同い年でこうも差がつくもんなのかしら……本当世の中不公平な)
心の中で呟こうとした愚痴をつぐんだ。
滲み続けていた冷や汗が、ふと止まる。
「どうしてそんな夢と、この現実を比較しているの?」と、冷静な自分が呟いた。
「…………」
私は――。
その時、コンコン、とドアをノックする音が暗い部屋に響いた。
反射的に返事をすると、微かな軋む音と共に開いた隙間から明かりが差し込んでくる。
「……夕飯、出来たぞ」
逆行になる男性の顔を、眩しげに見返した。記憶の中の父親と、容姿が同じ人物。
私は、夢を見ているのだろうか。それとも夢を、「見ていた」のだろうか。




家定番の『味噌煮込み雑炊』。
貧しい時もひもじい時も病める時も凍えるときも、一食当千の強い味方である。
萎びた野菜の切れ端だって、半ば消費期限の危うい食品だって、味噌と出汁の魔法で残された最後の旨みを
引き出され、そしてそれらをたっぷりと吸収した米の甘味と相まって、すっからかんの胃を満たしてくれる。
実は一人一膳弱ずつしか入っていない白米も、雑炊にすれば二膳は食べたという気になれるのも魅力だ。
弱点といえば腹持ちが悪いくらいか。
「うまいか?」
「え。あ……はい。……おいしいです」
ちゃぶ台の上にどんと置かれた土鍋から昇る湯気の向こう、柔らかな微笑と共に問われる。
慌てて返事を返しつつも、どうにも居心地の悪さを感じて、俯き気味に目を逸らせてしまった。
そんな様子に、男性は眉を顰める。
「……どうしたんだ?何だか、変によそよそしいというか……」
どうしたもこうしたも、と答えたかったが、状況的に変なのは確かに自分の方だ。
「ごめんなさ……いや、あー……ごめん」
こんな感じの口調で、合ってたっけ、親に対する昔の私は。頬に冷や汗が伝う。
何しろこちらの感覚では家族と言えど5年近くの隔たりがあるのだ。再会は嬉しくない筈はないが、何とも気まずい。
父親は、本当にこんな感じの人間だったろうか。普段は何を話していたんだっけ。どんな感じに接していたんだっけ。
「学校で、嫌な事でもあったのか?お前は、全然話してくれないから……楽しくやってるか?」
「えーと、……はぁ」
少なくとも楽しそうでないのは確かだけれども、聞かれても困る。昨日までの詳細な記憶はまっさらだし。
話題提供も、心配してくれるのも嬉しいが、そのトピックで突っ込まれるのはかなりマズイ。答えようがない。
「そ、そういえば!あの……お母さんは?」
苦し紛れに引き攣る笑みを浮かべながら、話題の完全転換を促す。
この際「不自然」という言葉には引っ込んでいて貰おう。
「……ん?」
男性……父は、問われて一瞬目を丸くした後に「ああ」と呟いて視線を下の椀を持つ手に落とした。
「今日は、夜勤なんじゃないかな……パートの」
「……そう」
そういえば高校に入ってから学費も掛かってきたし、生活も苦しくなってきたから働く時間が増えたんだっけ。
でも、夕飯は遅くても家族揃って取っていたと思っていたけれど。
火から上げても熱を逃がさない土鍋は、まだコトコトと雑炊を煮立たせている。
優しい味噌の香りと暖かな蒸気で、狭い部屋の中は二人きりでも暖かい。
(せっかくだからお母さんにも会いたかったんだけどな……)
とはいえ、いたらいたで二倍の気まずさになるのは目に見えているが。
ぱくりと、再び箸を口に運ぶ。五臓六腑に染み渡っていく米のエネルギーと、素朴な中に果てしない深みのある味付け。
久しぶりに感じる自分以外の手の『家庭の味』に、何より『日本の米の味』に、じぃんと酔いしれる。
ちら、と父の方を窺うと、それに気付いて頼りなさ気だけれども優しい笑みが帰ってきた。
そうだよね。お母さんには、明日にでも会えるはずだし。
そうなんだ。多分、これが現実で。未だ長い夢の間隔が抜けないけれど、こんなにも立派な現実がここにある。
これで、いいんだ。





「あれ?」
部屋に戻って今度は電気を付けてみると、その違和感に気付いた。
(ない……無くなってる?)
夕食に行く前に着替えて机の上に畳んで置いたはずの、あの白い服が見当たらなかった。
自分が今持っているどれよりも、肌触りが良く高級そうな布地で出来ていた、この世界のものではない服。
売ったら高かったかも……とも思ったが、デザインに需要がないだろうから、無理か。
(………。……まぁ、そりゃ、そうよね。あるわけないんだもの……)
しばらくぼんやりと何も無いそこを見遣った後に、気だるく溜息をついた。
カーテンを閉めようと夜を映す窓に近寄るが、ふと気が変わって、安い布地ではなく窓枠に手を掛ける。
古くなったアルミサッシが、カラカラと音を立てて躓きながら滑った。
つんとした冷気が肌を撫でるのに構わず少しだけ身を乗り出すと、空を見上げる。
(あれ。晴れてるのに……)
夜空に星が見えない――当たり前の事の筈なのに、それだけの事に驚いている自分がいた。
月は小さくて色が無くて、星共々に空を覆う汚れた霞と溢れる電気の光に、存在感を奪われている。
吸い込む空気には、排気ガスや家電から吐き出されるものが交じり合っていて、妙に苦酸っぱいような気がする。
遠くから車の行き交う音や家庭雑音なんかが耳に流れ込んできて、絶える事が無い。
「……オールドラントの……キムラスカ・ランバルディア……バチカル」
金髪の美青年が教えてくれた、世界の名前。
確か、そんなだったな、と、地球にいる事を実感しながら、どこかの宇宙にある惑星の名前を呟いてみる。
一生縁などないだろうと思われる、壮麗で豪奢な屋敷。傅く使用人達。飢える事を知らない程の沢山の御馳走。
贅の限りを尽くした暮らしもいい事ばかりではないのは解ったけれど、これほど願望の具現化した世界は無い。
「やっぱり、そんな美味しい事はない……かぁ……」
あーあ、と嘆息して、窓枠の上に組んだ手の中に顎を埋めた。
だったらもうちょっと上手いこといけばよかったのに。夢を見るのも下手糞って。一人ごちて、目を閉じた。
眠ったら、また行けるのだろうか、会えるのだろうか。
王子様のように爽やかな、けれど大変に失礼な使用人に。厳しいけれど自分の本質を見てくれる老庭師に。
ああ、そうだ。本当は優しいメイドの少女にも、もう一度会いたい。謝って、お礼を言わなくちゃ。
あの自己中心的で我儘な貴族の息子は、もう一回くらいは殴るか謝って貰うかしないと気が済まない。
(……絶対喜んでる……とか思うと腹立つなぁ、なんか)
「はっ!せーせーするぜ!」とか言ってそう……。
出来るならばもう一度――そう願ったが、疲れていたのだろうか。その日は何の夢も見る事は無かった。










心臓が、痛い。
いや、心臓だけと言わずに、あまりの緊張に全身がどことなくチクチクする。
乱れる呼吸を隠して、朝の空気に佇む校門をは肩身の狭い思いでくぐった。
(ここでいいんだよね…!?私、変じゃないわよね…!?)
冷や汗を掻きながらオドオド歩いている様は充分人の目に不審に映る、という事を突っ込んでくれる者は残念だがいない。
とはいえ、遠い記憶だけを頼りにあまり長居もしなかった高校へと登校する羽目になっているのである。
場所は多分、ここで合ってる筈だ。昇降口へ向かって歩いている生徒も同じ制服を着ているし。それに。
(……何だか、いい年して無理してるみたいで恥ずかしい……)
体は(多分)17歳だが、まだ20歳の気分が抜けないし、元から老け顔なのが尚更。
今朝も姿見の前で「これで外に出にゃあならんのか」と散々嘆き苦しんだくらいだ。メイド服の比ではないが。
いや、でもこの厳しさこそ現実。今度は頑張るんだと誓ったじゃないか。根性根性。
(教室は……と)
意気込んだ傍から情けないが、昨日までの記憶がすっぱ抜けているので、身の回りにあるものから情報を得るしかない。
ノートの表紙に書いてあったクラスと出席番号を頼りに、何とか行くべき場所にたどり着く。
無機質に並ぶ教室群。上履きが廊下の床を擦る音。談笑しながらHRの開始を待つ生徒達。そんな感覚が何だか懐かしい。
が。そうも言ってられない状況に、早くも直面した。
(せ、席が、どこなのか分からない)
下駄箱は名簿順だったので難を逃れたが、座席位置はどうにもならない。朝の今の時間、埋まっている箇所を除いても
三分の二はまだ空席である。
(……これは人に聞いた方がいいかな……)
適当に座って面倒な事になるよりは、覚悟して聞いた方がいいだろう。
これがコミュニケーションの第一歩になる可能性だってあるし、勇気を持つと決めたんだから、出来るはず。
丁度その時、横を擦り抜けていく人の気配を感じたので、半ば反射的に声を掛けた。
「あの、おはよう」
「え……あ、ああ…」
が、一瞬にして挫けそうになった。
…よりにもよって咄嗟に男子の方に。確認してから声をかけろよ自分、と後悔しても遅い。
何か、相手の反応も薄いし、気まずい事この上ない。
加えて当の男子生徒は勿論、教室の中にいた生徒達まで驚いたようにこちらを注視しだしたのに、此方こそ驚いた。
何で皆そんな珍事件でも起きたかのような反応なんだろう。朝の挨拶をしただけなのに。
(まぁ……以前の私だったら、天変地異の前触れ並みの事だろうしな)
とはいえ、今もそんなに変わったもんじゃないが。
「ええと……私の席、何処だったか忘れちゃって……教えて貰えませんかね」
もう相手から「おはよう」なんてマトモな返事が返ってくるのは諦めて、用件をさっさと口にする。
聞かれた男子生徒は「はぁ?」と、さも奇妙な物でも見るかのように顔を歪めたが、そろそろと指を一方向に向ける。
「……そこ」
なるべく関りたくない、というのを態度で示しながらそっけなく答えると、直ぐにから離れていった。
「あ、ありが……」
確かにちょっと頭の足りない感じの質問だった事は認める。
お礼を言おうと引きとめようと手を伸ばしかけるが、そこかしこで起こったヒソヒソ談義に押し留められてしまった。
『……さんが喋ったよ……』『……珍しいよね……』と左方から聞こえれば
『……〜君に話しかけるなんて……』『……のくせに……』などという不穏な空気が右方から漂ってくる。
(飛ばし過ぎちゃった……のかなぁ……)
とにかく、自分の境遇に見合わない行動だった事は良く解った。うん。普通を装うつもりが悪目立ちしてるし。
これからは気を付けよう、と抱負も新たに、言われた通りの席にそそくさとつくと。
「何だよお前……さんからもモーション掛けられてるの?さすがモテ男君だねぇ〜……」
「……やめてくれよ」
向こうで友人らしき同級生に冷やかされている先程の男子がいる。
(……格好良い人だったのか……そういえば女子の目も痛かったような)
顔を見ずに話す癖があって気付かなかったが、確かに改めて見てみると、それなりに整った顔かもしれない。
一部から嫉妬の念を感じたし、彼はモテるんだろう。しかし。
美形の大安売りみたいな場所で妙な免疫が出来ているせいか、感覚が麻痺している。
大体彼らは、日本人とは顔の造形が違ったし。……って。
いや、これでは夢と現実を混同する痛い人だ。現実にいる人間を見られなくなったらお終いだ。
「……おいおい、何かさん、こっちに熱い視線送ってきてるよ?」
ぼんやりと思いを馳せながら、同じ方向を見ていると、同級生が男子生徒に耳打ちした声に、はっとする。
慌てて顔を逸らそうとするも、煩わしそうな表情が此方をチラリと見遣る方が早かった。

「……うっざ」

友人にしか聞こえないようにと小声で呟かれた声だったが、意識が向いていたせいで耳が拾ってしまった。
「……」
そのごく短い言葉に、心臓の一部を突かれたような感覚を覚えて眉を顰める。
(……あれ?)
何故そんなに不快感が募るのか理解出来なかった。
「ウザイ」なんて、同じ言葉、前に何度も言われた気がするのに。目の前で容赦もなく言われたわけでもないのに。
どうして、痛みがこんなにも違うんだろう。嫌な気持ちになるんだろう。
「……っ」
じわじわと後から無性に腹が立ってきて、奥歯に力を籠めた。別に、あんたに気があったから見てた訳じゃない。
そんな事を言われる筋合いもない。けれど此処からじゃ、そうも言い返せない。
(……何あれ!自分らで勝手に言ってくれてさ……あーあー、あんなのがモテるなんて世も末だってのよ)
もうちょっと女子に対する態度をとってくれたっていいんじゃないかイイ男。本当、爽やかじゃない。
背に鬱々とした哀愁を背負いながら俯いて座っていると、ふいにポン、と後ろから軽く肩を叩かれた。
「おはよぉー、さん」
「……っえ!?」
まさかこの四面楚歌において、自分に友好的な人がいるとは。
驚いて振り向くと、そこに立っていたのは友人知人にすれば心当たりの無い事この上ない印象の少女だった。
「ゴメーン!今日も見せてくれるー?一時間目、あたし当たるしさぁ」
「は……?」
間違いなく校則に抵触するだろう脱色と染髪を繰り返した髪。
お洒落に着崩した制服から除く四肢の割合が多くて、女の自分でも目のやり場に困る。
ほんのりとラメがのった目元に高圧的な雰囲気の漂う笑みを浮かべて言われた言葉に、何が何だか、と戸惑った。
「おはよ……あの、見せるって何を……?」
聞き返すと、途端に笑顔は消えて、不快そうな顰め顔に取って代わる。
「ハァ?だからー、英語の宿題じゃん。何?嫌なわけ?」
「ううん!ごめん!……あの……ちょっと待って」
相手の迫力と恐さに圧され、慌ててカバンの中をまさぐってノートを取り出す。
そういえば、高校生には予習だとか宿題だとかいうものがあるんだった。
(しまった……そんなの、全然やってないや……)
多分今日の分は真っ白なノートを手に思巡していると、焦れたらしい少女に半ば引っ手繰るようにそれを奪われてしまった。
あ、と制止をかける間も無く、踵を返される。
「ありがと!さんって真面目でイイ人だよねー!友達でよかったぁ」
ノートを手にして先程のように笑顔を向けてくれた彼女を、何も言えず見送った。色々と突然の事で驚いた、けど。
(と……友達って、言ってくれてたよね……今の)
何か違う気がするけど。
他人から言われた初めての言葉にドキドキする。
そうか。何だ。完全放置プレイかと思ったが、自分にもこんなに立場の強そうな味方がいるんじゃないか。
他の皆みたいに無視せず、気さくに話してくれてるし。
あらためて先程の、今までにはない友好的な挨拶だとか遣り取りだとかを思い出してみる。
少し恐い部分もあったけれど、普通の友達みたいで嬉しい。
避けられたりしなかったのは、自分にとっては重要な事だ。
この調子で少しずつ、他の人とも話せるようになっていこう。



――けれど、貸したノートが返ってきたのは、一時間目が終わった後だった。
ぱしん、と、机の上にノートが叩きつけられる。
「ちょー……何でやってないの?おかげで恥かいたじゃん!」
怒り心頭な様子の彼女に、返す言葉の持ち合わせもなく首を竦めた。
休み時間の雑音に紛れる程度の怒鳴り声だったが、周囲の席で談笑していた生徒達は一瞬こちらに意識を向ける。
けれど、いずれも何事も無かったかのように数瞬後には雑談を再会させる。
まるで「いつもの事だ」とでも言うように。
そんな周りの様子に気をはらう余裕無く、は少女に謝った。
「ご、ごめん、昨日ちょっと具合悪くて……何もやってないの」
彼女が怒るのは当然だ。うっかり呆けてないで、最初からちゃんとその旨を伝えておけばよかった。
折角「友達」と言ってくれた彼女の存在を失いたくない。怒りの表情を少しでも和らげたいと必死に言い繕うが
言い訳じみたその言葉に「何それ」と、ますます眉が吊り上ったので冷や汗が溢れた。
「本当にごめんなさい」
そう訴えて頭を下げる。
ややあって溜息が聞こえたので顔を上げると、彼女の眉間の皺が消えていたのでホッとした。
「……いいよ。許してあげる。でもその代わり、お詫び1、約束だかんね」
「へっ? お……オワビ?」
そう言い遺して去り往く背を見ながら安堵に浸る一方で、どこか惨めな思いを噛み締めた。
席へと戻った彼女は、自分と違って沢山の友人に囲まれていて。
自分もあの中に加わってはいけないだろうか、と考えかけて直ぐとんでもない、と首を横に振った。
(……友達って言って貰えるだけで充分だもの)
あんな中で何を喋っていいのかも皆目分からないし。
でもそのうちきっと、出来るようになる。前の自分と今の自分は違うのだから。
私は、変わらなきゃダメなんだ――
そう信じて、窓の外を心も無く眺めながら一人きりの休み時間を過ごした。
(……たった10分なのに……どうしてこんなに、長く感じるんだろう)


決意や展望とはうらはらに、空はどんよりと曇っていた。


隠れているのに心に重い言葉と、明白なのに軽くて仕方がない言葉

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