『帰っておいで』 ああ、ずっと待っていたんだよ、その言葉を。 ずっと求めていたんだよ、迎えに来てくれるその手を。 『帰っておいで、早く――』 叶いっこないって、思っていた。 でも決めたから、変わるって。だから、次に目が覚めたら私は、 『早く、ここへ、帰っておいで――“”』 ……――え……? 施設内では数少ない女性作業員が医務室から顔を出して此方を見ると、こくりと頷いた。 入室をしてもよい、という旨らしい。やっとか、と息を吐いてガイは廊下の壁から背を離し、組んでいた手を解いた。 未だ動揺の余韻を残すロータスに続いて、あまり広くは無い白を基調とした部屋に入る。 今日という日までは大したトラブルの無かった施設の中で、この部屋はあまり使われる事はなかったのだろう。 ベッドや薬品棚、机の他にはさして目立つものがなく、最新の設備と比較すると、少しばかり粗末な場所だった。 簡易の医療ベッドに横たわるに近付いて、紫の髪の青年は同じ色の眉を顰める。 「……ひどいな、こりゃ。治ってきてる傷もあるが……何より、衰弱が激しい」 あれから、ガイの目の前でふつりと意識を失ったきり、ベッドの脇からのその声にもは反応を示さない。 今みたいに異性に覗き込まれれば、普段の彼女ならば大袈裟なくらいの過剰反応を示したのだろうが。 抵抗どころか、不規則な弱い息が辛うじて繰り返されるているばかりである。 「重傷者の場合、安心させるとかえって危ないという話もあるが……」 言いながら、ちらりと向けられた視線に対してガイは笑うに笑えず、中途半端に困った顔をする。 「帰っておいで」という言葉に、とても幸せそうに、は頷いた。 あんな事があったのに。こんな目にあったのに、恐がるようなことはせず、迎えに来た自分を見て微かに笑った。 直後、力が尽きたように意識を失ったのを見た時には流石に狼狽したが。 気力だけで生きている状態の人間を安心させるのは危険だ。 けれど、にとって、自分達が安心できる存在になれていた事を、喜ばしくも思う。 「一応、水は飲ませたよ。体を拭いて応急処置もしたけど、肩と足の傷は、ここじゃどうにもなんないね」 処置してくれたふくよかな中年の女性作業員は、肩を竦めてそう言った。 それを受けて彼女の上司は「ふむ」と頷くと、顎に当てていた手をの上に被さっている布団へと掛ける。 「失礼するよ」と言いながらロータスが白い布を取り払うと、入院着のような服を着せられたの体が露わになる。 そこから覗く手や足はテープや包帯だらけで、満身創痍という言葉が相応しい。 少し大袈裟なような気もしたが、白光騎士団や軍の兵を相手取ってどうにか逃げ果せたのが素人だというのだから、 その状態も無理のない話だ。 あの日の激しい雨風は逃亡の味方になってくれただろうが、同時に体力を奪われもしただろう。 「足の方は、手当されてたみたいだからマシだけどね。肩の方は……」 「ふーん……炎症を起こしてるな。熱もそのせいだろう。こんな傷で衛生環境の悪いとこにいたら、当然だろうな……」 衛生環境云々という以前に、ゴミ山のただ中である。 作業員の言葉を引き継いで淡々と言うロータスの言葉は、状況とは裏腹でどこか呑気な印象さえあった。 他所事のようなそれに対してガイは少し眉を顰めたが、押し払って前へ進み出る。 「……世話になりました。屋敷になら専属の医者も譜術士もいますんで、早急に診て貰います」 こんな所でどうこう言っていても埒が明かない。下手に外から医者や譜術士を呼ばれても困る。 何より、詮索をされると厄介だ。 そう思っての手を取ろうとするが、それをふいにロータスに阻まれた。 何だ、と訝しみを込めて彼を窺うと。 「まあまあ、ちょっと待ってくれ。少し、試したい事があるんだ」 「……試したいって……」 好奇の光をその浅い茶色の瞳の中に見て、今度は憚る事なくガイは顔を顰めてみせる。 己が探求する対象に湧き上がる興味を抑えられない気持ちは解るところもあるが、それでもわきまえるべき時もある。 人の命に関わるところなら、なおさら。 しかしガイが返答をしようとするのも無視して、ロータスはすうっと目を伏せた。 彼はおもむろに、精神を集中する姿勢に入る。 「“……――癒しの光よ”」 此方を手で制した格好のまま、彼が音素の中でも特異な「音」の属性を持つ第七音素を扱うべく詠唱を始めた事が解って、 喉まで出かかった文句を引っ込める。 「第七音譜術士<セブンスフォニマー>……だったんですか?」 ガイは意外だ、とばかりに目を瞬いて呟いた。 詠唱の譜を聞く限り、一部の人間にしか扱えない第七音素の、その中でも癒しの力を発揮するものと思しかった。 ガイの問いに、けれどロータスは「いいや」と、手を振ってみせる。 「……素養はあっても才能はまるで駄目でな。治癒士<ヒーラー>の学問を齧った程度だ…――“ファーストエイド”」 フォンスロットから取り込まれた大気中の音素が、譜に従って掲げられた手の先に収束し、淡い光が生まれる。 それがの体に触れ、消えた。 「…………………」 一同、その一連を固唾を呑んで見守るが、暫らく経ってもに変化は無い。 意識が戻るどころか、頬についた微かな傷1つすら、治る事はなかった。 やがて落胆と呆れを含んで、ガイが深く長い息を吐く。 「………本当に才能無いんだなぁ……」 期待して損した、というのを余す所なく視線で訴えてやると、ロータスは大いに憤慨した。 「失敬な!そりゃ、本職の人間の半分も威力が無いのは認めるけどな!皮膚の表面をくっつける位は俺にだって出来る!」 拳を振りかざして喚く彼から視線を外し、もう一度を窺うものの、治癒の効能は微塵も見て取れない。 やがて一通り言い分を訴えたロータスが、取り繕うように咳払いと共に言葉を切り出す。 「ま……まあ、その。思った通りだった。これなら高炉の中でも生きていられた事が頷ける」 効かない譜術を使って見せた彼の言わんとする事を計りかね、ガイは首を傾げて言葉を待った。 まさか本当に苦手な譜術の練習をしたという訳でもあるまい。 「この女性……この身体には、音素が一切作用しないらしい。加えて、音素信号にも反応しない」 ちら、と、やや下から此方を睨むような視線が差し向けられたので、少し息を詰まらせる。 「さて? ……これは一体、どういう事だろうな」 腕を組みつつ、抑揚のない声。含みを持った問いともつかない言葉が、ロータスから投げかけられる。 「音素が……無い」 言葉を頭の中で反芻し、やがて理解に至るが、それ程抵抗は無かった。何せ、"召喚獣"だから。 「なるほど。てことは、譜術士じゃなく、医者に見せなきゃならんという事ですね」 何かを探るような探求者の目から顔を背け、ガイは何事も思う所無いかのように頷いて見せる。 いつも通り飄々と受け流したその態度が、逃れを許そうとしない相手の癇に触れたようだ。 ピクリと、元々釣り気味だった目と眉の傾斜が、更に増す。 「何故、驚かない?」 「いや、はは……驚いてますよ?」 流石にここまで説明も無しに非論理的な事を押し付けられれば、学者の端くれとしても黙ってはいられないか。 こういう腹芸系でも実直な手合いは、避わすのが難しい、とガイは内心で冷や汗を掻きつつあくまで笑みを浮かべる。 その白々しい態度は、更にロータスの気を逆撫でする要因にしかならないようで。 馬鹿な、と、彼は煮え切らないガイの態度を薙ぐように、手を払う。 「治癒術が効かないって事は、体組織に癒合する音素が含まれてないって事だ。 音素信号に感知されないって事は、生物固有の音素振動数を持たないって事じゃないか!」 まくし立てるように目の前から滑り出てくる言葉を、聞いているしかない。指摘されれば指摘される程、苦みが増す。 同じにしか見えないのに、こんなにも自分達とは違う存在なんだな、と少し複雑な思いが湧いた。 「有るはずがない、こんなこと!……有り得ない事じゃないか?何であんたは平然としてる?」 人間じゃない、とか、そういう事以前に。 この世界の決まりごとで立証出来ない現象を前に、職業気質の強いらしいロータスは取り乱しているようだった。 いや、これが当然の反応なのだろう。皆の「化け物」という言葉が具体的で理論的なものに入れ替わっただけだ。 普通じゃない。変。得体が知れない。それでも、 「……そういう体質なんです。それだけ……ですよ」 苦笑いを深めて、そう言う他ない。「詮索はするな」という牽制の眼差しも込めて力の入った目を向けると、相手は 詰め寄ってきた姿勢のまま、ぐ、と呻いてたじろいだ。 ややあって眉をハの字にすると、がっくりとこれ見よがしに肩を落とす。 はあ、と、一陣の風の如き溜息が生まれた。 「……俺は一体……どうやって報告書を書けばいいんだ……」 エクトプラズムと未練たっぷりの恨み節を口から吐き出しつつ敗北感に打ちひしがれるロータスに、ガイは心の中で合掌する。 自分が察するのも何だが、こうまで肝心な部分をぼかされては、ろくな文書など作成出来まい。 事態が有耶無耶なまま言明出来ない状態で、国営施設を一存の下に停止させたとなるだろう彼に幸あれ。 「……以上です」 西日の射すファブレ公爵邸の豪奢な応接室。 毛足の長い絨毯が敷かれた床に片膝をつき、報告を終えたガイは頭を垂れた。 召喚獣が連れ戻された、と、屋敷の中もそれなりに騒がしかったが、当の主は他所にも忙しい身らしく、具体的な報告は 二日後の、しかも暮れかかった今になる。一拍の後、それらに対する主人の言が下った。 「……そうか、ルエベウス――高炉の中、とはな……」 どうりで見つからない筈だ、と、公爵は息を吐く。 「その場に居合わせた者達は?」 公爵とは向かい合わせのソファに掛ける男性が問うて来る。彼は城の官職で、内務大臣の部下という立場らしい。 こんなに嘘のような報告を前にしても動じた様子がないのは、についての事情を既に知っているからだろう。 どうやら、公爵家の中だけ、という範囲制限は若干拡がったようだ。 「口外しない事を、責任者に約束させました」 「その責任者というのは」 厳しく目が細められる。 「確か、名前は……ロータス・ウォースリー氏と」 「結構……」 満足そうに、彼はソファに深く掛けなおす。察するに、相変わらず表沙汰にはしないつもりだろうか。 「ですが、流石に混乱は大きかったので……」 「あらぬ噂が立つ事もありましょうな。そこは、此方でも取り計らいましょう」 ガイの言葉に鷹揚に頷くと、皺の無い上等な服を身に纏った官職の男は膝の上で手を組む。 どことなくその男に見覚えがあると思ったら、近頃公爵に説明をせっつきに来ていた使者の一人だったか。 何度か来る度、の事を誤魔化されては憤って帰っていく姿を目にしていた。 今のうってかわったこの余裕の態度はどうだろう、召喚獣の事が決定的になって、鬼の首でも獲ったかのようだ。 「しかし、かの施設で見つかったのは幸いと言うべきか……いや、好都合と取るべきですかな」 どこか笑みを含んだ物言いを、ガイは前髪の下から密かに窺う。 (……好都合?) その言葉を脳内で咀嚼しようと思考に耽る間もなく、割り込んできた硬い声に断ち切られてしまった。 「その話は後で聞こう。……して、の様子は?」 渋い顔の公爵が此方を向いたので、歪めた眉を慌てて正すと再び深く頭を下げた。 「……は。一昨日から意識が戻らないままでして……報告の通り譜術は効かないので、医者に任せています」 屋敷へ連れ帰ってきてから二日。 人のあまり寄らない三階の端の部屋のベッドに、は眠っている。 「特に肩の傷が酷く、炎症からくる熱が――……」 任せていると言っても、この世界の治療は音素に頼る部分が多く、医者は何かと勝手の違う体に首を捻って 応急処置にまずまず立派な毛が生えた、程度の事しか施せずにいた。 投薬と、氷嚢、水分補給、化膿した肩の傷周りを常に清潔な状態に保つ事が精々である。 中でも頼みの綱は投薬で、医者は栄養剤も兼ねていると言っていたが。 誰も近寄りたがらないので医者が帰った後は自分がを看ているのだが、一向に反応が無いのが心配になってくる。 熱も下がらないし、あまり快方に向かっているようには思えない。 それらを聞き終えると、公爵が溜息を吐く横で、官職の男が眉を顰めた。 「困りますなあ……今更死なれては」 ごちた男に対して、公爵は「いい加減に黙ってくれ」とでも言うような一瞥をくれたあと、顔に訝しみを隠せないでいる こちらに対して有無を言わせず労を称する。 「ご苦労だった。下がってよい」 「……――」 どこか、腑に落ちない。 けれど自分のような身分の者に説明が成される事は無いだろう。どうにも気持ちの悪い流れだ。 「……は」 かと言って雇い主に逆らえる筈も無い。心の中のわだかまりを顔には出さず、言葉に従って退室するしかなかった。 パタン、と後ろ手に閉められたドアの前で、それとなく耳をそばだてる。 『――預言が……是が非でも――……』 『……が外れれば――…の要に…』 暫らくして聞こえてきたのは、どことなく関係が無さそうな内容の話だったので、仕方なくその分厚い扉を後にした。 穏やかな日の光が、鮮やかなオレンジ色に染め上げられている。 最後の温かみを浴びながら回廊を歩き出し、ガイは畏まった場からの開放感にひとまず酔った。 けれども思考はあまり晴れない。 (どうにかならんもんかね……) 今日も容態に変化はなかった。明日も、もしかしたら明後日も? まだ一週間と経ってはいないが、果てしなさを感じて気が滅入った。そこまで人間の体力はもつものだろうか。 いや、ここは彼女の、他の長所が無い分突出した「しぶとさ」を信じたい所だ。 そして、公爵や城の動きも気になる。何かを密かに推し進めているようなら、調べてみるのも―― 考えながら歩を進めていると。 通り過ぎようとした柱の影に、鮮やかな色彩を見つけて立ち止まる。 「……。……そんなとこに隠れて、何してるんだよルーク」 見るからに忍んでいる様子ではあったが、それに対して彼の髪は損な色合いをしていた。 「なっ、べ、別に俺は隠れてたわけじゃ……」 返答は歯切れ悪く、思い切り目を逸らしているあたり、本当に隠れていたつもりだったようだ。 幼い頃からかくれんぼが得意だったルークにしてはろくな隠れ方じゃない。よっぽど慌てていたのだろうか。 「じゃ、何してたんだ?の事、聞きにきたんじゃないのか」 「はぁっ!? ふざけんな、んなワケあるかっつーの!」 呆れて、肩を竦める。 どうしてこう、捻くれた物言いしか出来ないのだろう。 ここまでプライドが高く育ってしまったのも問題だ。……その原因は自分にもあるとは思うが。 少なくともこのままじゃもルークも同じ轍を踏み続ける事になる、と、そう思って、近頃はルークにそれとなく 行動を促したりもしているのだが。 「……そーかい」 逆にアダになってる気がしなくもない。 ガイに眇められた目で見られ、ルークは ぐ、と言葉を喉に詰らせる。 しまった。隠れなくても良かったんだ。“偶然その場を通り掛かった”という事にすれば良かった。 どんなに自分の浅はかさを呪ってみせても、もはや意味は無い。 「おっ……お前こそ、こんな所で何してんだよ!」 それでも必死に自分の立場を守るため、つん、と鼻を高い位置にして腕組しつつ返してみせる。 あくまで白を切るつもりか、とガイの目は訴えていたが、そんなの知らない。 自分はこの廊下を普通に歩いていただけだ。暇だったんだから、しょうがない。 暫らくして諦めたのか、白々しい眼差しを引っ込めると、看病疲れの窺える相貌で使用人は肩を竦めた。 「俺は旦那様に、の事を報告に行ってたんだよ。お前も様子を見に行ってやったらどうだ?」 がガイによって連れ帰られたという報せを聞いたのは一昨日のこと。 今しばらくは危険視、という事で隔離されるように三階の隅の部屋に入れられたという事以外を、自分は知らない。 こっちから聞こうとするのは、心配しているみたいで癪に障るし。 なのに度々様子を見に行っているガイは今みたいに「自分で見て来い」と言うばかりで何も情報を寄越さない。 どうだっていい事なんだから、そう明ら様に隠さなくたっていいのに。 「うっせーな!無事だったんだから、それでいいじゃねーか」 意地でも会ってやんねぇ、という意志が固まる一方、口を閉ざされると逆に気になってくる。 「またそうやって変な意地を……」 「意・地・じゃ・ねえ!!……あーもう、とっとと行けよッ、肩の包帯取り替えるんだろ!!」 人から改めて「意地」を指摘されると、図星なのに腹が立つ。かっと血が昇った頭で、思わず言い返すと はぁ、と目の前でガイが惜しげの無い盛大な溜息を吐いてくれた。 何だというんだ、一体。まるで人を馬鹿にするみたいに。 「ルーク。にしてる手当ての事を、俺は公爵にしか言ってない筈なんだが」 しかも今しがた。と、ガイは至極きっぱりと、そう言ってみせた。 「あっ」 思わず滑った口を、手で塞ぐが、遅い。コメカミから汗が一筋流れ落ちた。 デジャヴュとでもいうのだろうか。ついこの前とは自分とガイの立ち位置が逆のようだが。 「……あー……あっ、歩いてたら、耳に入ってきただけだ……たまたま!」 唸った末に仕方なく、話を聞いていたというは譲歩してやる、と舌打ちをしながら認める。 しかし言葉を聞いた後、ガイの顔が僅かばかり曇った。 眉尻が下がって伏せ目がちになる。苦笑に達しないような、曖昧な表情。 「……そうか。聞いてたんならさ、解ってんだろ。……あんまり良くないってさ」 「……」 低くなった彼の声のトーンに合わせて、ルークは胸の前で組んでいた腕の力を緩ませた。 ガイの言葉に戸惑いを覚えて、逸らせていた顔も正面へ戻す。 「良くないって……」 さっき――背に貼り付けた扉の中から聞こえてきた、若干くぐもった彼の声。 淡々と成される報告は、正直聞いていても頭を通り抜けていった。 『困りますなあ……今更死なれては』という言葉を耳にした時、嫌な気分になったのは覚えている。 「……チッ」 別に、様子を見るくらいなら、暇だし行ってやってもいいかも、なんて思えてきた。 ガイや他の者が言うように、はこのまま死んでしまうかもしれないんだし、せめてもう一回くらいは。 でも―― 「な。"ご主人様"が声を掛けてやったら、ひょっとするとも目を覚ますかも……」 「いやだ」 ガイの説得の言葉を、強く遮る。 何に対するとも言えない苛立ちを覚えて、眉間に皺を寄せ、ガイを睨むように見返した。 当然相手は、この上まだ言うか、と、眉を顰めたが。 「……あいつ」 こればっかりはどうしようもない。どうにも出来ない事だ。 「俺が、大嫌いなんだとさ」 何でもない事のつもりで言ったのに、妙に苦味を感じた。 「……だったら、顔見ねー方が気が楽だろ、お互い」 それを振り切るように、あっさりと言い捨てる。 色々と、言い足りない文句はある。でも、正面から言われたんだから仕方ない。「大っ嫌い」と。 そんな相手と今更どう向き合うという事もない。わざわざ両者気まずい思いをする事もないんじゃないか。 「嫌い……って、が、お前に?」 心底意外そうにそう問い返してくるガイに、ぶすっと口を尖らせたまま、事実だ、と頷いてみせる。 「そーだよ。俺だって嫌いだし?丁度いいじゃねーか」 再び「フン」と横っ面を向けるルークの前で、ガイは暫らく考え込んでいるようだったが、やがてまた、溜息を吐いた。 いくら呆れられようが、こればかりは変えられない事なんだと、半ば開き直って心の内で舌打ちする。 「……それはともかく……ほら、これ」 ずい、と何かが近付けられる気配を感じて横目で顧みると。 「な……」 そこに突きつけられていたのは、潰れて歪んで、一瞬何かは解らなかったが。 「見つけた時、が大事そうに持ってたんだ。……カルミアが言ってた時計って、これだろ?」 千切れた鎖の端を持つガイの手にぶら下がって揺れるもの。確かに、見覚えがない事もない気がするが。 それにしたって、記憶にあるよりボロボロだった。それを「受け取れ」と言うみたいに、ガイは持つ手を差し出してくる。 もう時計とも言えないどころか何の役にも立たない塊を、どうしろと言うんだ。 「何だってんだよ……い、いらねーよ」 思わずそう返すと、常は自分に甘い幼馴染の眉間に、いつになく僅かな皺が寄った。 「駄目だ。お前が誤って捨てちまったモンだろ。……お前がどうするのかは、ちゃんと決めなきゃな」 「……」 そんな事を言われたって。 不満はあるのに口に出せず、半ば無意識にガイの手から“それ”を受け取ってしまった。 手の中で、異世界の物質を恐々と持て余す。 (何か……変なの……) どうしてこんなのが、踏んづけただけで壊れるような脆い物が、そんなに大事なんだろう。 そう考えると少しばかり重さが増したような気がして、改めてその全容を眺めてみる。 多くは破損してしまっているが、小さな部品が目一杯詰っている。 どこがどういった役割を担っているのか見当もつかないが、これ全部で、1つの物を動かしていたの だと思うと、妙に不思議な気持ちになった。 (……これ、直らないのかな……) 時計なんて、素っ気無く時間を報せるだけのものに過ぎない。 買い換えればいいって、それが一番早いって思うのに。 「なぁ、ルーク」 らしくない感情に捉われていた所に名を呼ばれ、慌てて顔を上げる。 視線の先には、眉間から皺を消した子守役の青年が、穏やかな表情を浮かべていた。 何も解らなかった頃から今でも、変わらない。ガイの諭しの言葉には、どうしても反論が出来ない。 「本当は、どうすればいいのか解ってるんだろ?……何を言わなきゃいけないのかも」 ぽんぽん、と、肩を叩かれながら、言葉が降ってくる。 「俺は……」 何をどう返せばいいのか解らず、口をつぐんだ。 解っているんだろう、と言われても、自分ではそれを掴みあぐねている。 いいや、気付きたくないだけだ。ここまできて、いや、ここまできたからこそ、なお更――今更。 「だってさ、記憶失くしてから初めて出来た、お前の"友達"だもんな」 答えは、とても簡単だったけれど。 それはいつも、曖昧だから。言われるまでは、避けているから気付けない。 「…――え」 ガイの言葉は心の内にストンと落ちたが、やがてじわじわと居心地の悪さを募らせていく。 トモダチ?友達?友人だって?あの、地味ゴリラが?自分の? 何にも勝る違和感が押し寄せてきて、頭がついて行かなかった。 何やかんやがモヤモヤと膨張し、やがて限界まで張り詰めた後、やっと「自分らしい」反論が口をついて出る。 「はぁああ!? 何言ってんだよ! 俺の初めてのダチって、お前だろ!?」 よもやここにきて、「俺は友達じゃなくて使用人です」とでも言うつもりか。 頭の血管を破裂させんばかりに詰め寄って抗議するが、彼はニコニコと満足そうな笑みを浮かべるだけだった。 「いやあ、俺やナタリア様は、前からお前を知ってたし、ずっとダチだったさ。 でも……純粋に、お前が記憶失くした後に出会った人間って、が初めてじゃないか?」 そういえば、確かに、そうだ。 皆、最初から自分を知っている人間として接してくれたし、良くしてくれた。 ずっと軟禁されていたせいで、それ以外の人間とは出会う事がなかったし。 ガイの言う通りに、は自分を知らず、こちらもを知らない訳で――だから、なんだろうか。 上手くいかないのは。認めたくないと、意地をはってしまうのは。 かしずく人間ばかりで、「嫌いだ」とストレートに本当の事を言ってくる人間なんて、初めてだから、どう接すればいいのか。 でも「友達」だなんて、有り得ないような気がして、気持ち悪い感情に心底動揺する。 「……って、だからって、何でそうなんだよ!冗談じゃねーぞ!少なくとも俺はあんなの――」 「あっ、そういえばこんなのも拾ったんだが」 憤慨していつもの如く食って掛かろうとする目の前に、また時計とは別の何かが掲げられる。 皆目分からなくて、噛み付く姿勢そのままにピタリと止まった。 彼が何をしたいのか、また言いたいのか、今度は全く解せない。 手袋を嵌めたその手の先にちょんと摘ままれている、紙屑。所々、文字のような物が見える。 当の本人はニヤニヤとした笑みを浮かべてこちらを見ているが。 ゴミ?紙くず?何だろう、これもどこかで見た覚えが…… (……――って!!) それが何なのかが判ってしまった瞬間、反射的にそのゴミを取り返そうと目を瞠る程の素早さで手が出る。 が、ガイは華麗にそれを避わしてヒョイと手を高く掲げ、追尾を許さない。184(ガイ)-171(ルーク)=13cm(屈辱と読む) 「………………」 「………………」 顔を赤くも青くもする自分と、微笑を浮かべたままのガイは、しばしそのままの体勢で対峙した。 まさかと思いつつも、どうしても見る限りそれは紛れも無く自分が書いたものだった。 でもそれは確かに捨てた記憶があるし、人に見られて歓迎できるようなものでもない。 ていうか、自分の日記なんて第三者、しかも幼馴染になんて見られてたまるか。 「……お前……マジ趣味悪いんじゃねーか……」 腹の底から搾り出した声は、低く震えている。 「おいおい人聞きの悪い。の上着のポケットから出てきたから、何だろうと思ってな」 意地の悪そうな笑みを潜めたガイの言葉に、驚いて目を丸くする。 「……あいつが?」 「何で持ってたかは分からないが……」 数日前の日付。読める形をギリギリ保つ自分の字で綴られた、気持ちの羅列。 クシャクシャに丸めてゴミとして捨てたのに。何で。 「……嫌いなんて、嘘に決まってるさ」 どうして、こんな形で戻ってきたんだろう。どうして、あいつが持ってたんだろう。 「お前も、そうなんだろ?」 キザなウインクと共に、カサリと時計を握る方とは反対の手に、紙クズを握らせてくれる。 日記の事といい、勝手に「友達」認定といい、お節介な使用人の言葉が無性に気に入らない。 「……別に、俺は!」 「あーわかってる、わかってるって。だからといって好きなわけじゃない、よな」 元・日記を大人しく引き渡して逃げるように身を引いたガイを、思い切り睨み付けてやる。 あたりまえだ。誰も好き好んで、あんなのを親しく思うはずがない。 後ろ向きで。臆病で、うじうじしてて。 「でもまあ、嫌いじゃない……よな?」 食い意地だけは人一倍。生活する事に関しては呆れるほど真剣だし、特にメシがどうとか熱く語られた日には。 こっちの事なんて放っておけばいいのに気を遣ってばかりで、メイド服が壊滅的に似合わないほど可愛くない。 「………」 総合するとやっぱり、変な奴。 何だか馬鹿馬鹿しくなってきた。ふっと眉間から力が抜けて、何だか苦笑が漏れる。 「…………まぁ、な」 同時に、そんな風に言えた。 ガイは「だろ」と言って同じように苦笑した後、爽やかに白い歯を輝かせて親指をぐっと突き出す。 「ほら、顔見るくらいは、飼い主の仕事だろ」 そして強引にこちらの体を反転させて、背を押す。 勢いに負けて一歩踏み出した後は、観念して自分で先を歩きだした。 答えは至極簡単だったのに。 意志とは逆に全てが動いて。行きたい所に、なかなか行き着けない。 「……え?」 あまりの突然の事に、は冷や汗の浮かぶ硬い笑顔で呻いた。口の端が引き攣って、情けない声が漏れる。 夕日が沈んだ後の、宵待ち。 風が、草と、そして懐かしいとも言える人工物の匂いを運んでくる。 裸足の足の裏に、コンクリートの冷たい感触。遠くから絶えず響いてくる、車の行き交う音。 高台にある公園から一望出来るのは、ぽつぽつと電気を灯し始めた、見慣れた町並みだった。 「な………え……?」 情けない笑いを浮かべながら、もう一度呟いてみる。 けれども、誰もそれに応えてはくれなかった。 「帰っておいで」って、それは――……どこに? 結局、来てみたはいいものの。 「…………」 静まり返った、三階の廊下。くだんの部屋の前で、ルークは憮然と腕を組んで仁王立ちしていた。 ありったけの威圧感でもってして閉まった入り口を睨みつけてみるものの、扉にしたらいい迷惑である。 いい加減詮無き事をしてたってしょうがない、と眉間に皺を寄せたまま息を吐いた。 そっと耳をそばだてて中の様子を窺おうとするも、物音一つしない。 (やっぱやめとくかな……) 気まずい。舌打ちをすると、諦めて引き返そうと思ったのだが。 「意識が戻らない」とガイは言っていた。それにしたって、息をするのや衣擦れの音くらいしてもいいんじゃないか? 何故だか、違和感を感じる。まるでそこに、“いない”みたいだ。 いや、まさか。 息を吐いて、ポケットをまさぐる。召喚石と共に、触り心地の悪い機械クズの感触を確かめた。 ここにこれが有るんだから、居ない筈がない。何をくだらない事を、と自分の思考に苛立った。 小さく咳払いしてドアノブに手を掛け、音を立てないように少しだけ開く。取り合えず、生死の確認くらいはしてやるべきだろう。 ごく僅かな隙間から見えたのはベッドの端。カーテンの開いた窓から射す夕日の光が、物の影を濃くしていた。 調度品も、空気も、何もかも――息を止めたように、そこに存在している。その様子に眉を顰めた。 おかしい。人のいるはずの部屋なのに。 時計も備え付けられていないそこは、ぴんと静まり返っていて、気配らしきものが無い。 「………」 先程よりも隙間を広げてみたものの、やっぱりよく見えない。見えないというか、「見当たらない」。 意を決して扉を開け放つと、無遠慮に部屋に踏み込んだ。 乱暴に扱われた扉が音を立てて風圧を生み、自分の長い髪がそれに遊ばれる。 (……どういう、ことだよ) 見開いたエメラルドグリーンの双眸に映るのは、空のベッド。シーツの乱れが、人の居た事を示しているけれど。 部屋は間違いない。けれどは居ない。 (また、逃げたのか……!?) 咄嗟にそう思って夕日の差し込む窓に駆け寄ってみたが、そこは閉じられ、鍵まで掛かっている。 両のカーテンを握り締めて、ルークは言葉を失った。 毎日繰り返されるように、それはいつもと変わりなく、今日最後の輝きが地平の下に沈んでいく。 やがて、あたたかい光が、ふっと消える。 薄暗い部屋の窓辺で、カーテンを握る手に知らず力が篭った。前にも、似たような。 掴んだ腕を振り払われた時に感じた気持ちが、じわりと、止まった思考の向こう側に広がった。 『友達だもんな』 ――答えは、こんなに、簡単だったのに。 |
どうしても切りたくなくて、長くなりました
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