天梯、降り届きて





「ロッ……ロータスさん、ロータスさん!ちょっと、対応お願いしますよ!」

広大な敷地を有すると言っても、"建前部分"の焼却炉が馬鹿に大きい上に4つもあるものだから、
実際に人が行き来する場所なんて全体の半分もない。そのほぼ全てが自動で稼動しており、大きな施設と言っても
少ない時は20人前後しか業務に従事していない日もある。今日はそういう日だった。
『ルエベウス』の研究棟と業務棟の中間に位置するその部屋は、共通の休憩室となっている。
そこへ、騒がしく名前を呼びながら繋ぎ服の作業員が駆け込んできた。
午前中の研究棟での仕事も終わり、のんびりと休憩室を独占していた嘱託研究員の青年は、驚いて出入り口を振り返る。
危うく淹れたてのコーヒーを膝の上にぶちまけるところだった。
額に滲んだ汗を手の甲で拭いつつ、半ば抗議を含んだ声で問い返す。
「な、何だ?一体どうしたんだ」
驚いてずり落ちてしまったこちらの姿勢を見て、立場上は部下にあたるその男は多少悪びれたようだ。
根本的に分野――開発とゴミ処理業務は作業内容も知識技術の面でもそれぞれ違う。
しかし、作業の為に雇われた地元の人間より、国の要請でベルケンドから招かれた研究員の方が
立場が上という事になっている。一応は。だから責任もこちら側に被ってくるというわけで。
「いえね、公爵家から遣わされたって御方が今しがた、いらしたんですけれども……」
早い話が、客人が誰であっても上に通さなければならないと言う事で、自分の出番なわけだ。
しかし部下の口から出た言葉に、口に運びかけていたコーヒーの水面を息で吹っ飛ばす。
「なっ、……コウシャク……ってまさか、かのファブレ……」
せめて「侯爵」の字違いであって欲しい。あまり変わらないけれども。
だが万が一、この巨大なバチカルのほぼ頂点付近に居を構える王族が相手だとしたら、尚の事荷が重い。
「ええ、何というかまぁ……ご本人さんは、そのまさかのファブレ公爵家から来たって仰ってるんですけど」
「冗談だろ……いや、冗談じゃないぞ」
「いえ、どっちですかそれ」
非常に奇特な事だ。
大口の出資元という以外干渉の無かった王家直結の家人が訪ねてくるとは、一体何事か。
ただでさえ、上の役職者が不在の時なのに。
ていうか何より、そんな超有名所というか、雲の上の世界というか、そんなのに関わる相手に会うなんて畏れ多い。
「それはまた間の悪い……ご覧の通り、今俺以外は留守なんだ。日を改めてもらえないのか?」
「そうお伝えはしたんですがね。とても重要なうえに急を要する事なんだとか……」
それを聞いて、青年は「どうしろっていうんだ……」と呻く。
常からここに用がない類の人間が訪ねてくる時は大抵、面倒な事を引っ提げてくるものだ。嘱託の自分が下手をして
不興でもかったら怖い。対応に窮して項垂れていると、眉を八の字にして作業員の男が困惑の声を上げる。
「そう言わないで下さいよ。今日は責任者って言えるの、ロータスさんしか居ないんですから……」
だから嫌なんだ。もし万が一の事があれば、責任は分担されずに自分一人で負う事になるじゃないか。
とはいえ、何かあっても正規の役職者ほど処罰も重くないだろうが。
どうしようもないか、と、やがて観念の溜息を吐く。
「……で、その遣いの御方ってのは? そういえば、何であんなに慌てていたんだ?」
「それは……」
ようやくホッとした顔で続きを言おうとした男の言葉が、入り口の向こう側からの声に掻き消される。


「……ぅぉおおおおおおおー!! 最新の音素式映像投影機だッ! あ、ここで操作が可能なのか〜!
 スンマセン、これちょっとばかし触ってもいいですかね!? へぇ、このボタンで子機の角度が変わるのかあ!」
「う、うわああぁぁッ、設定変えないで下さい―――――!!」
「ああっ、これ! もしかして第五音素発生装置のプロトタイプ!? くうゥーッ!いいフォルムだなぁー…っ!
 俺も自分で作ってはみたけど、水を湯に変える規模だもんなぁ! ちょっと中見せてもらいますよ、っと!」
「き、機密事項ですってばちょっとおおぉ!!」


「…………」
……――コト、と、口をつけたばかりの、熱いコーヒーがなみなみと入ったカップを、机の上に置く。
「あのとりあえず……まず、あの人止めて貰えますか? 我々、立場的にどうする事も出来ないんで……」
湯気を立てる芳しくも高貴な黒い液体が、完全に冷め切ってしまう頃にしかここには戻れないだろう。
影を背負った力ない顔で言う作業員を前に、ロータスは静かに確信した。










「……そんな事を急に言われてもな……。例えプロデューサーからの命令でも、
 国民の血税で動いているものを簡単には止められんよ。城からの正式な要請でもなし」
ルエベウス――訪ねた先の応接室のソファに腰を下ろし、ガイは出されたお茶のカップを傾けていた。
向かいの席に掛ける「ロータス・ウォースリー」と名乗った人物は、見たところ20代半ばでガイより4つ5つ上くらいだろうか。
ちょうどバーガンディと呼ばれる色をした短髪に浅い茶の瞳の、華やかではないが精悍な容姿の青年である。
眉間に皺を寄せて厳しく腕を組んでいる様には、今着ている白衣よりも軍服や銀の鎧が似合いそうだった。
彼が、城どころか実は公爵家からの正式な遣いとも言い切れない自分を迎えてくれた、ここの職員だった。
尤もロータスが言うには、そんなに立派な立場の人間でもなく偶々今日は当直が自分しかいなかった、という事らしいが。
それもあって、益々そんな施設を動かすレベルの事は通せないようだ。
内心溜息を吐きつつも、取り敢えずは食い下がる。
「一応、事が起きた時には炉を停められるんでしょう?その旨を、書簡として持って来たんですが」
そう言うと、姿勢はそのままに、ちら、と相手の瞳が此方を窺う。
その眼差しには、疑念だとか驚きだとか、あげくの果てには「アンタ大丈夫か」とでも言いたげな哀れみまで含まれていた。
「書簡って、これか………本気で言っているのかい?」
封を切られて卓の上に広げられた紙切れを一枚、ペロンと持ち上げて半眼でロータスは言う。
流石にガイのコメカミからも冷や汗が流れ落ち、貼り付けた笑顔が引き攣った。半ば以上、ヤケクソである。
目の前に掲示される上質紙の上には、その高級な材質にはそぐわない文字が――いや、ミミズの這った跡がある。
「はぁ……“間違って捨てたものがある”……ねぇ」
鼻で溜息を吐いた彼は、もう一度書簡とされるモノに目を走らせ、小さく呟く。
こんなに紙面の上で惨劇が起こっていても、読み取ってくれたロータスにガイは内心でスタンディングオベーションを送った。
「……公爵家の印もあるから偽装じゃなさそうだが……最後の署名……ルー…ク・フォン…ファブ、レ?」



元を辿れば数刻前――。

カルミアと別れた後はルークの部屋に場所を移し、いつもの立ち居地――大きな窓際に陣取る。
「けどな、俺が一人で行って、いきなり譜業を止めろって言ったって、まず相手にされないと思うぞ?」
考えるように顎に手を当てて言うが、ガイ自身、そんな突拍子もない事に対して名案は咄嗟に思い浮かばない。
まして国営の研究機関に、例え公爵子息の友人とはいえただの奉公人が突撃しても、あしらわれるのが関の山だ。
身分を証明出来るものも無いなら、尚更。「公爵家に仕えている」という所からして疑われるかもしれない。
「ファブレ家の人間っていう、ちゃんとした証拠が無いと……」
「……あ? それって、例えば?」
考え込んでいる所に、ルークが首を傾げながら訪ねてくる。え、と反応を返しながら、問われたガイは考え込んでみた。
「そうさなぁ……公爵家の人間直筆の命令書とか、家紋の入った書簡……とか、かなァ」
とはいえ、公爵に申し出たって、3日稼動した後の焼却炉の中にが居るか確かめたい、なんて話が
通じるはずも無い。ルークの様子からして限りなく確信に近いけれど、所詮は憶測。
万が一動いてくれたって、一度殺そうとした人物にどんな処遇が為されるか。まず自分たちは近付けなくなるだろう。
騎士達が下手をしてが抵抗すれば、また余計な騒ぎになるかもしれないし。
「……はーん……直筆、ねえ」
どうにかして個人レベルで動けないかと模索するガイを他所に、大儀そうに溜息を吐きながらルークが呟いた。
とうに解決策など出た、とでも言いたげな様子の彼を窺うと、その顔には自信が満ち満ちている。
「ルーク?」
「なんだよ、簡単なコトじゃねーか」
あんまりいい考えを抱いていそうにないのを感じて釘を刺したかったが、意気込んだルークが顔を上げる。
「俺が命令書を書いてやりゃいいじゃん? ラムダスに便箋とか印とか持ってこさせっから、お前その辺に隠れてろよ」
「ぇ、ぇえ?……う、うーん……」
意気揚々と腰に手を当ててルークは言い放った。何だかうきうきとして、どこか嬉しそうだ。
自分の権力を使って、人助け(?)のためにこういう命令書を作るのが初めて、という事で、浮かれているらしい。
「心配すんなって。マジの内容は伏せて、ラムダスには練習用だって言っとくからさ」
ガイは、微かな頭痛に耐えながら苦笑いしか出来ない。
確かに公爵家の嫡男であり、成人の儀はまだと言っても、ここの法の上で結婚出来る年齢に達しているルークなら、
本来その立場に在ってそれなりの発言権は持っているだろう。流石に国の施設をどうこう出来なくたって、
その書簡なら丁重に扱われるべき物になるだろうし、立派な身分証明にもなる「はず」だ。しかし。



「……やっぱり、駄目ですか」
「いや、駄目とかそういう事以前にだな。……それよりこの、"ルーク・フォン・ファブレ"ってのは、本当なのか?」
半ば以上諦めて力なく再度窺う此方に、むしろ哀れみの眼差しを湛えながらロータスは問い返してくる。
察してくれる彼の稀に見る人柄に感銘を受けながらも、最後までミミズ字のそれを示されるままに注視した。
字の形云々はともかくとして、ファブレ家の書簡という事よりも最後のサインに彼の興味は引かれたらしい。
「噂にしか聞いた事はなかったが………あの、深窓の」
軟禁されて、かれこれ7年。
世は移ろい、存在すら知らない者もいるだろうが、かつては幼い頃から公式の場に出ていたルークの所在は、
今や一般人にとっては眉唾物に等しい。“深窓の”と称されるのも解らないではないが、本人のあのご健在な様子を思うと
とてもじゃないがそんな表現とは縁遠い、と引き攣った笑いが漏れた。
「ええ……まあ」
取り繕うように頷くと、ロータスの疑わしげな表情が強くなる。
「おいおい。だったら、おかしくないか?ルーク様なら、17、8歳には成られてるだろう。どう見たってコレは……」
しかし万が一にも本当に本人の字なら失言になる、と、言葉を最後まで続けられずにウーム…と考え込む。
書簡「もどき」と真剣に睨み合いをする羽目になったロータスを前にして、ガイは人知れずホロリと涙した。
すんません。本人の向上心か不器用さか、どっちかが祟って字は不得手で。一応まだ「7歳」なんで勘弁して下さい。
その心の訴えが、相手に届いたのかどうなのか。
「と、ともかくだ。誰であろうと、停めろと言われてハイそうします、という訳にはいかん。
 だがまぁ、公爵家からの要請って言うなら、邪険には出来んからな……」
彼なりに、問題にならない程度に譲歩はしてくれるようだ。結局「停められない」という結論は変わらないが。
少なからず落胆するガイに、ロータスが申し出る。
「ようするに、炉の中を見れれば満足なんだろう?ベースまでで勘弁してくれないか?内部データが出るから」
ベースだって、本来は関係者以外は絶対立ち入り禁止のはずだ。特にこういった研究機関は。
思わぬ厚待遇に――いや、それよりも別な意味でガイはパァッと顔を輝かせた。
「えっ!ホントに!?」
いわゆる、ガイにとっては宝の山の頂点である。嬉々としたその様子とは裏腹に、ロータスはうんざりと顔を顰めた。
先ほど機関室からこのマニアを引き摺り出すのに、どれだけ苦労を強いられたか。
もともと頭脳派にしては身体に自信はある方だったのに、この使用人ときたら並ならぬ手合いだったのだ。
「アンタ、ほどほどにしてくれよ……。俺はクビになるなんて御免被るからな」
目を眇めて釘を刺すも、半分マニアモードにギアチェンジしているガイは満面の笑みで頷くばかりである。
溜息しか出なかった。何はともあれ、特に大した理由も無く緊急停止をするよりはマシだ。
そんな事になったら、始末書地獄は勿論、滞った業務の分の債務を負わされた挙句、解雇される未来が容易に予想される。
「データって、何かまた特殊な音機関で取ってるんすか?さっきの音素式映像投影機!炉の中の映像も映るんだよな!」
「えぇはいはい……何でも映りますよー何でも見たらいいですよー心ゆくまでー……」
矢継ぎ早に質問を投げかけてくるガイに対して投げ遣りに答えながら、ふと、もう一度手にある「ルーク・フォン・ファブレ」からの
書簡に目を落とす。子供の手習いのように読み難い事この上ない、けれど、正直な文面。
残念ながら公式の文書としては扱うには不採用だ。けれど。
(……“間違って捨てたもの”……か…)
何でも手に入る貴族の人間は、物に対して滅多なことでは執着心を見せないものだと思っていた。
それも、次期国王の候補として最も有力な彼なら、拘らずに新しく望めば何でも叶っただろうに。
そう思いつつ、目を伏せ、「まあ、」と声の温度を低くして、言う。
「……何が目当てだったのかは知らんが、何一つ残っちゃいないだろう。……申し訳ないが、な…」
期待させない方がいい。冷徹かもしれないけれど、滞りなく譜業が動いてる以上、それは確実なのだから。
窺うが、感情の読み取り難い表情をガイは浮かべている。ややあって、残りの茶を一気に煽ると、彼は苦笑してみせた。
「そんじゃ、早いとこ案内してもらいましょうか」
此方の言葉には応えずに彼が言ったのに対して、仕方ない、と肩を大仰に竦めてロータスは席を立った。









「主に稼動している『高炉』と呼ばれる焼却炉が3つと、予備が1つ。それぞれローテーションで動いている」
最初はベースに入って来たガイに対して作業員達は驚きと奇異の目を向けていたが、ロータスの取り計らいで今は部屋の
中に馴染めている。中枢部分と言ってもそこはあまり広くなく、十人前後がそれぞれの持ち場で作業に従事していた。
「一つ目の高炉を作動させてから大体処理が終わるまでは3日。データチェック後、4日目にまた再始動って流れだ」
幾つものモニターが居並ぶ前で腕を組み、淡々と説明するロータスの声を、黙って聞く。
様々な情報が絶えず映し出されるのを見ても、マニアと言えど素人には、それらをどう解析していいやら解らなかった。
それを察してくれたのか、一旦説明の言葉を切ると、ロータスは此方を向く。
疲れたような、諦めたような顔をしている彼の顔は、最早地顔なような気がしてきた。
「一応、部外者へのデータの公開は厳禁だとは言っておく。ルーク様の遣いというのを信じて特別に見せるんだからな」
恩着せがましい言葉というよりは、誰に対するとも言えない免罪符のように聞こえた。
苦笑いで頷いて見せると、ロータスの手が す、ととあるモニターの1つを指す。
「それじゃあ、左から2番目、上から3番目の画面を見てくれ」
指示に倣うと、そこには簡易的な半月型の図が映し出されている。その底辺には、プツプツと赤い点が僅かに光っていた。
「内部の状態を示したものだ。ドーム内に音素信号を放ち、残存物の音素振動数を計測して表示している」
赤い光がその残存物だ、と彼は言うが、たった3日で山ほどの廃棄物が灰にもならずに消えてしまうのか。
噂には聞いていたが、文句なしに凄い技術だ、と、ガイは素直に感嘆せざるをえない。
「………で、だ」
面倒くさそうにしてた割に懇切丁寧だったロータスの説明が終わると、途端彼は重たげに呟く。
ガイには次に何を言われるのか予想がついていたので、困ったように笑う事しか出来ない。
「……ご覧の通りさ。アンタ等の目的の第三高炉……探してる物が残ってるように見えるかい?」
此方を正面から見ずにチラリと横目で見てくるあたり、関係者として一応責任と一抹の気まずさを感じているのだろう。
ガイはその無機質な映像を見遣り、やがて双眸を伏せて静かに首を横に振った。
「……いいや……残念ながら」
モニターを見て幾分もしないうちに顔を逸らしたガイに、「残ってない」と言った手前ではあるが、ロータスは食い下がった。
「おいおい、そんな簡単に。ルーク様が探しているのは何なんだ?……アクセサリーくらいの物ならまだ残って――」
「人間一人です」
「あー……そんなにデカいなら、そりゃ一目瞭ぜ……って、はぁあ!?人間!?」
目を凝らさなくても明らかだ。人一人分の体積のものなんて、どこにも見受けられない。
画面に赤くチラついている塵だって、30分もすれば完全に分解されるだろう。
(逃げ込めそうなところも……無さそうだしな……)
「ちょ、オイ、人間って何だ!言っとくが高炉には余程特殊な経緯でない限り、人なんか入れないぞ!人間一人"分"だろ!」
本当に何一つ、残らない。
横で狼狽して喚き立てるロータスの問い掛けにも応える気になれず、その結果でしかない画面を物悲しく眺める。
やがて常識的に考えて、ガイが言ったのは人間一人"分"の大きさの物だと自分を納得させたロータスが、居住まいを正す。
「まったく、驚かせないでくれ。………ところで、他の高炉のデータも出せるが?」
厳禁だと言ったはずだったのに、気前よく申し出るロータスに、ガイは「いいさ」と笑って返した。
きっと、落胆が大きくなるだけだろう。
あの日に捨てられたゴミが第三高炉へ投下されたなら、だってそこにしか用はないだろうし。
他の高炉は開いてはいなかったはずだ。つまり、頼みのそこに影も形も無いというのなら。
(やっぱり、遅かったか……)
何だかんだ言いながら、早く連れ戻して来いと五月蝿く喚いていた主の姿を思い出す。
「生きている」という可能性は、ルークの気のせいだったのか、それとも本当に、間に合わなかったのか。
(……まいったな)
俄かに湧き出る困惑の感情に、前髪をくしゃりと掻いた。
帰ってルークにどう言うか。気にしないとか言いつつ、気にしそうだ。
いや、ルークの事だし、暫らく経てば忘れてくれるかもしれない。自分達も、何事もなく以前の通りに――


そんな風に、思えるのか。
我ながら、苦笑いが深まった。笑って過ごせる可能性を思った自分の感覚に、少なからず嫌悪感が湧いた。
異なる世界に生まれて、きっと、交わる事なんて無かった。
お互いの存在なんて介する事無く、全く関係ない道を歩いていた筈が、手違いで彼女の道を強引に此方へ繋いでしまった。
それでもなりに、何とか此処で生きようとしていたはずだ。
認めようとしないルークと無理にでも一緒にいようとしていたのも、居場所を得ようとしていたからだろう。
「帰りたい」「復讐したい」と訴えたのは、きっと、分からなくなった行き先を見つけようとしていたからかもしれない。
そうしてそれを

『自分だけが苦労してますって顔してりゃ、誰かが助けてくれる、ってか?』

言葉で、突き放した。知らず、ムキになっていたかもしれない。
言いたかった事は別の所にあったのに、けれど無性に余裕を失っていた自分は言葉を選んでられなくて、結局は。
手袋を嵌めた手を握る。
甘かったのは、誰だろう。
まさか、他を傷つけて意思を通す気概も無い人間が、死を賭してまで思いつめていたなんて。
こんな結果になってしまうとは、まったくもって、後味最悪だ。
床に視線を彷徨わせる。
いつになく体裁を取り繕えない。気落ちしている此方の様を、ロータスが心地悪そうに見ていた。
何となくは察してくれたのだろう、彼は何も言わずに溜息を吐くと、こちらから視線を外して前を向く。
相変わらず、そこには非情とも言える結果しか映ってはいない。
「………ん?」
しかし。
ふと、薄い茶の瞳が揺れて、彼の唇から微かな呻きがもれる。
彼はその違和感に、やっと今、気付いたようだった。
そう昔じゃない開設以来、この施設のシステムが異常を来たす事など無かった。むしろ、有り得なかった。
研究も事業も、全ては順風満帆に進み、異常に対する目が曇っていたとも言える。
だから、気付くのが遅れたのは研究員としては失格か。


「……隔壁………の、一部に、エマージェンシーが出てる……?」


彼自身、信じられないという風に呟いて、事の次第を確認する。
そのポツリとした呟きを聞いて、いち早く状況を察した操作盤の前の作業員が慌てて返事をした。
「え!?……あ……ほ、本当だ。デ、データを切り替えます!」
彼も今気付いた、とばかりにコンソールとモニターを見比べ、手早くコマンドを打ち込んだ。
その遣り取りに次第に周囲がざわめき始めたのに気付いて、ガイも顔を上げる。
丁度中央の大きな画面が違うものに切り替わったが、それを眺めてみても何が起こっているのか解らなかった。
「稼動状態じゃ何も映らないな。暗視用の映像音機関に切り替えてくれ」
それとは裏腹に、モニターを見て一気に場にいた人間達の空気が変わる。
横にいて指示を出していたロータスの顔からも、さっと色が無くなった。
「何てこった!高炉の一部が破損してるじゃないか!」
「ロ、ロータスさん!ドーム内に、譜陣を作ってた音素が……」
悲鳴じみた声を上げたロータスに対し、斜め前に座っていた解析士の一人が焦りを募らせて報告した。
それでもガイにはいまいち状況が掴めなかったが、作業員達が鬼気迫る顔をしているあたり、ただ事ではない。
故に、だろう。今更だが、現在の現場責任者であるロータスが、余裕の無い声で高らかに叫んだ。
「て、停止!……第三高炉を緊急停止だ!高炉の火炎粒子を抜け!早く!」
「えっ!?は、は、はい〜ッ……」
命じられた作業員は、咄嗟の事に頭に入れていたマニュアルが吹っ飛んでしまったのか、大慌てでボタンを捜している。
軽く舌打ちしたロータスはコンソールに駆け寄って、ガラスで守られた緊急停止ボタンに拳を叩き付けた。
絶えず響き続けていた施設の稼動音がたちまち静まってゆく。
「あ、す、すみません!ええと……粒子を抜く……」
慌てたまま、作業員は隣の天井の開閉装置に手を伸ばした。
「ああ待て待て!非常時のオペレーションに従え!高炉が動いてたんだから、火炎粒子が街に飛び散っちまう」
殆ど行われる事のなかった通常の操作とは違う手順に皆が戸惑っている。
その中にあって的確に指示を出すロータスは流石と言えるのか、よく解らないが、圧倒されつつガイは状況を眺めていた。
関係者でもない自分が慌てたって何したって、及べるものでもないし。結局何がどうなってるのか解らない。
やがて。

「……ふう……よし、天井を開けても大丈夫だ。内部映像は出るか?」
「り、了解……ええと、ちょっと待ってください……」
どうやら、状況は何とか落ち着いたらしい。嵐を越えてぐったりとした周りの様子を見計らいつつ、
脱力して椅子にもたれ掛かっているロータスに声を掛ける。
「……何かあったんですか?」
声に反応してこちらを一瞥した後、彼は「ああ、」と手を振って何でもない事のように答えてくれた。
「炉の壁は特別製でな。とびきり頑丈なのは勿論だが、廃棄物と一緒に分解されないよう、譜術障壁を応用した
 火炎粒子とは反属性の譜陣でコーティングが成されてるんだ」
要するに、炉の内側の壁全面に、火とは逆の属性のバリアが張られているという事だ、と彼は補足する。
一般人には些か理解が難しいだろうが、ガイは自分のマニア知識を駆使して、ふんふんと頷く。
「で、その譜術を施した隔壁が破損しててな。譜陣が崩れかかってた。
 ……いやまったく、もう少しで反属性の音素同士が反応しあって、周辺の街もろとも色々と大変な事に」
言ってる事の深刻さが全く態度に釣り合ってないではないか。皆の様子を見る限り、命に関わる事だったに違いない。
事も無げに空恐ろしい事態を白状したロータスに、ガイは呆れとも怒りともつかない気持ちで詰め寄った。
「お、おいおい、何をそんな悠長に!この施設、大丈夫なんでしょうね!?」
「失敬な!そもそもこんな事自体、有り得ないんだ!物理的に絶対不可侵の炉の中で何が起きたのか……」
一市民として施設の信頼性に疑問を投じるガイに、研究員としての意地をかけてロータスがムキになって反論する。
そこに「映像を繋ぎます」という作業員の声が割り込んできた。
お互い言い足りない部分はあれど、取り敢えず一時停戦して映し出された大画面に目を馳せる。
先程まで略図や数字ばかりだった其処には、日の光を受ける炉の内部が投影されていた。
「どうなってるんだ……隔壁が見事にボコボコに――………」
脱力していた作業員達も、実際の現場の有様を見て息を呑んでいる。
「……あっ…!」
「今なにか……」
そんな中、信じられないような面持ちで被害状況を確認していたロータスが、それに気付く。
けれども、ガイの方が先に気付いて、思わず声を上げていた。
画面の端に僅かに映り込んだ、柔らかな影。
「もうちょっと下……手前を映してくれ!」

まさか、と、思った。
有り得ない事だと、理解はしていた。

ガイの強い口調に押され、上司でもない相手に「はいッ」と返事をして作業員の男がカメラを操作する。
慌てているせいでブレまくる画像に、やがてそれは映し出された。
「…――っ」
ガイは一瞬、言葉を失くした。
「に……に、人間!? そんな、馬鹿な!」
「でも、データには……音素信号には、反応はありませんよ!?」
横にいるロータスが目を剥き、それに劣らず周りが先程の状況に等しくざわめき立つ。
その場にいる誰もが息を呑む。内部データと映像を見比べて、どうしようもない矛盾に混乱し、まるで幽霊でも見るかのような
眼差しで、画面の中に映る人物に視線を釘付けにしていても、関係無かった。
混沌とする最中にあって、ただ一人、ガイはその事を受け止める。
「……あぁ……」
深い溜息のような安堵の声が、口から漏れ出た。
ここに居ることが出来たなら、横でルークが「ほら見ろ」と偉そうに胸を張っていたに違いない。

「………良かった」

都合のいい言葉かもしれないけれど、信じきれていなかった自分への言い訳かもしれないけれど。
でも、そう思ったのは、嘘ではない。

ノイズの混じる映像に映ったのは、酷く憔悴しきった人間だった。
服が破れ、体は傷だらけ。仰向けになった顔はやつれて、傷と熱のせいか、少しばかり浮腫んでいる。
「し、死んでる、のか……?」
酷い有様に、ロータスが恐る恐る呟く。そもそも高炉の中にあって生きてるなんて。
「いや……生きてるそうですよ」
そう、幼馴染は自信を持って言ってたから。
「うそだろ……」
「……うん、生きてる」
上下する胸を見て、ガイが穏やかな声で答えてみせた。
何よりも、呟いた自身へとその言葉が染み渡っていくようだった。
心の奥から、ほのかに湧き上がってくる暖かい感情。
(……頑張ったんだな………)
口の両端が、持ち上がる。
「なあ、まさか、アンタらの目的って……」
映像を見て微笑むこちらの様子を見て、ロータスが信じ難いように、控えめに訪ねてくる。
未だ事態の有り得なさに引け腰の彼の問いに、振り返ってニッコリと笑みを深めた。

「ええ、そうですよ。屋敷から逃げ出しちまった主人のペットを、迎えに来たんです」

―――――少しおどけて、使用人は苦笑いを浮かべた。










出会ってから数日しか、経っていない。
お互いの事を、あんまり知らない。
結局自分達が大事だったのは、居場所だったとか、守るべき主だったとか、何より自分だったりして。
でも、相手が例え“何”であれ、こんな風に思えるのならば。










前髪が風にもてあそばれるのを感じて、瞼を薄く開いてみた。
きっと、また暗闇が広がるのだろうと思っていた先に、青い空が、見える。
遠く深く澄み渡り、無垢な雲が、ゆっくりと流れていく。
何でもない光景が、何でもない事のように、瞳に映っていた。
「………………」
漠然と、混乱する事も忘れた。
自分がどうなったのかも、考えるのさえ億劫に感じた。
しかし。
ふいに二羽の鳥が戯れながら虚ろだった視界の中を横切った瞬間、はっ、とする。
(……まだ……生きてる)
世界は、運命は、私を嫌って、深い深い暗闇の底に閉じ込めて。今度こそ死ぬかと思った。でも。
すべて、わかった。
ここは、天国じゃない。生まれた世界でもない。
悲しみも、苦しみも、痛みも、ここには在るけれど。
自分が冴えない女なのも、一人ぼっちなのも、弱いのも、何ひとつ変わってはいないけれど。
ほらね、と、誰かが心の中で言った。母さんの声にも、自分の声にも似ていた。
見上げた青緑掛かった異界の綺麗な空が、滲んで、それでも、笑みが浮かぶ。
(ほら、ね。人間なんて生きるか、死ぬか……結局どちらかしかないんだから)
どんなに恐くても、苦しくても、最後に選ぶのは至極単純なこと。
悩んでも、ぶつかっても、逃げ出しても、意味を見失って迷ったって。
(生きてるから……大丈夫なんだ)
空を見て、きれいだ と思える心がまだ在るから、大丈夫。

体に当たる風が少しだけ、和らいだ。
影を感じてふと見上げると、すぐ傍に誰かが立っている。
短い金髪と、特徴的な開いた襟が、穏やかに靡いているのが見えた。


「“馬鹿”」


耳に心地よく、青年の低目の声が響くのを、ボンヤリと聞いていた。


「ごめんな」


先ほどとは反対の意味の言葉が降ってくる。
「……本当は、最初に謝りたくて、仕方なかったんだけどさ……
 “見つけたら、絶対に一番にそう言え”って、主人からキツく言いつけられてるもんでね」
こちらを見る青い瞳が、哀しそうに、けれど優しく微笑んでいる。青い空と光を受けた金の髪のコントラストが美しかった。
相変わらず、私にはまともに顔がみれないくらいの美形だ。
でも、最後の記憶では、あの目は翳っていて、冷たくて、鋭くて。
「……、」
声を発したかったのに、彼の名を呼ぼうとしたのに、喉が上手く動かない。
「あと、“大人しく拾われとけ、馬鹿、地味ゴリラ”だってさ。……素直じゃないよな、ルークも」
「馬鹿」って二回も言った。あとその呼び方は止めてって、言ったのに。
 ううん、それよりも。どうしてこの人が――いや“この人達”がここにいるんだろう。
私は逃げ出してきてしまって、もう嫌われているはずで、戻れないはずなのに。
「ペールが、一番マトモな事言ってたかもな。……俺と一緒。
 ……一応、アイツの名誉のために言っておくと、ルークも多分同じ事考えてるよ」
私なんかに、微笑んでくれなくてもいいのに。また弱い心が、すぐに信じ込もうとしてしまう。
また、一人でも生きていける気がしていたのに。
「屋敷の連中は相変わらずお前を化け物と思ってるし、周りからの待遇悪いし、窮屈だし、ルークは我儘のまんまけど」
「……――」
声を。
何でもいいから、彼らに応える声を出したかった。けれど結局、何も、言葉にならなかった。
午後の暖かな風が、幾筋もの涙で濡れた頬に沁みる。
ばつ悪く、けれど私には眩しすぎる綺麗な笑顔で、言いにくそうにガイは――彼らは言う。


「帰っておいで、」


「……ぁ…っ…う」
ずっと前から欲しかった言葉。力も出なくて、ただ涙だけがたくさん流れた。


――何かが壊れても。


夢のような言葉を聞いて、堪らず息を詰らせた。
込み上げてくる大きなものに逆らえないで、宝物だった物を握る手に、く、と力を入れた後、ゆっくりとその手を解いていく。
「」と呼んでくれる声は、もう、聞こえない。けれど代わりに、「」と呼んでくれる声がする。


――大切だったものが、突然に無くなっても、信じていた事が、崩れ落ちてしまっても。


またそこから、1つひとつが生まれていくだろうから。
昨日までを生きてきて、今日を生きて、明日を生きたいと思うなら、今はちっぽけなモノが、大切になる日がきっと来る。
今、生きているから。
それでも私は、此処に、生きているから。


流れ落ちる感情を拭いながら何も言えないまま、残された限りの力を振り絞って、は小さく頷いた。


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