千切られたような雲が、月の光に輪郭を浮かび上がらせて流れていく。 嵐の後の独特の安堵感に溢れた静けさの中、潤いを湛えた世界には、何処からともない雫の滴る音と虫の音が たどたどしく響いていた。 窓の外の穏やかな夜更けの景色にも、今は物思いのせいで趣を感じられる暇もない。 意図せず吐いてしまった溜息に、もともとの眉間の皺の溝が更に深くなった。 「旦那様」 落ち着いた男性の声―――――ラムダスの声が、扉の外側からノックの音と共に部屋の中に届く。 悪い予感のようなものが募り、胸に僅かに重圧が圧し掛かってくるのを感じた。 彼が公爵たる自分の執務室に訪ねてきた理由を、何となく察してしまったからだ。否、もはや確信か。 気が引けたが、扉の外に立つ古参の執事に了承の返事を返す。 恭しい所作で入室してきた彼の手にはやはり、予想通りのものがある。 「アルバイン内務大臣殿より、書簡が届いてございます」 内容に関しては心当たりもあるだろうに、あくまで澄ました顔で、淡々と職務を全うせんとするラムダスを 憎らしくも恨めしく思ってしまうのは半ば八つ当たりだ。 下らない感情を振り切って、差し出されたそれを受け取る。 品のある上質な紙で出来た封筒に、ランバルディア王家の焼印が施されている。 王を通した正式な通達という事をアピールして、あくまでこれまでのような粗略な対応は不可である、という事か。 治る途中の傷をつつかれたような心持ちで、顔に苦味を浮かべた。 「さすが、耳の早い事だ」 人聞きの悪い言い方だが、元から疑念を抱かれていたし、こう事が早いのも仕方の無い事だとは思うが。 それでも一応、内容に目は通さねばなるまい。書かれている文字を追うが、まさに自分の予想をなぞったかのような 内容ばかりで、いっそ小さな嘲笑さえ漏れる。 主に記されている事といえば、本日の夕刻近く、城下に正体不明の生物が現れた事に関する報告であった。 外見的な特徴や、その行動、事の一部始終について。 続き。ある者はその生物が公爵邸から飛び出してきたのを目撃したと証言している事。それに対する真偽。 白々しくも、最近の疑わしき部分などを引っ張ってきて説明を求む、というような流れになっている。 さて、白状したところで、先方はどうするつもりなのかも、またどうなるのかも予想がつかない。 「お話は明日にでも、との事でございましたので、応接室を整えて参ります」 目を通し終えるのを計らったかのようなタイミングでラムダスが申し出てきたのに対し、目をくれる事無く頷いて返した。 では、と、来るときと同じく丁寧な身振る舞いで礼をして彼が去っていった後、先程と同じように窓の前に立つ。 仄明るい暗がりに目を遣りながら、相変わらず景色を楽しむ事無く思考に沈む。 (ていの悪い冗談のような話が、大きくなってしまったものだ―――――…) 元は息子が何の考えも無しに、退屈しのぎにやった事だ。ろくでもない悪戯程にしか捉えていなかったのに。 ただ少しだけ、本当に、ほんの僅かに預言が外れただけ。 ―――――否、外れる事こそが… コンコン、と、再び響いた控えめなノックの音に、意識が引き戻された。 反射的に返事をすると、開かれたドアの向こうに、意外な人物が立っていて僅かに目を見張る。 「お前か……。どうした、珍しい事だな」 そこにいたのは優しげな女性、妻のシュザンヌであり、言葉の通り、夫の仕事場である執務室へはあまり寄る事がない。 向けられる、どこか気遣いの醸し出される笑みが深まった。 「まだ、お休みにならないの?」 驚き呆気にとられているこちらを他所に、シュザンヌは柔らかい声で問うてくる。それに対し、ややあって応えた。 「……ああ。まだやらねばならぬ事がある」 動揺を揉消して返し、入室を促す。 「…そうですか。……大変な時だとは承知していますが……どうかルークの事を気に留めてあげて下さいな」 またか、と眉間に皺が寄るのと同時に、今回ばかりはコメカミが引き攣った。 当座の問題だけでも頭が痛いのに、この上まだ、その原因を作った息子の事まで気に掛けろというのか。 いつもの事だが、本当に妻はルークに甘い。どういうつもりかと問いたくなるほどに息子の事ばかり気に掛ける。 それがあの愚かしさを助長させるものだと気付かないものか、と心の中で憤慨した。 今日ばかりはその事を言及してやらねばなるまい、と口を開きかけたのだが、あくまで穏やかな顔でこちらを見据えた シュザンヌの方が言葉を紡ぐのが早く、そして強かった。 「……、といいましたか。こんな事になってしまったのは残念ですが、もしかすると、良かったのかもしれません」 「………」 思わぬ言い分に、しばし言葉を失う。 何故、この状況のどこが、どう良かったと。 「馬鹿な…」 その世迷言のあまりの脈絡の無さに、取り合う気を失くして顔を背ける。 しかしシュザンヌは怯む事無く、向けた背に言葉を掛けてくる。 「結果がどんな事を呼び寄せようと、あの子が自主的にやった事じゃありませんか」 勉強にしろ立場に対してにしろ意欲の欠片も見せないルークが、珍しく自分の意思で行動した事を指しているのだろう。 しかしながら、剣の修行にしてもそうだが、どうしてこう優先順位の限りなく低い所から息子は興味を引かれるのか。 「きっと、何か、………悪い結果以外にも、良い事が……あるはずです」 ろくな事がないとは思うのだが、母としての心がそうさせるのか、妙な所でシュザンヌは逞しさを見せる。 7年前の記憶喪失騒動時の手際の良さもそうだったが、この姿勢は我が子を思うが故の強さか。 「息子のやった事を理解してやりたいと思うのは当然ですわ」 儚くも依然柔らかな笑みは、こちらの心の内の苦労など知らないもので。 ああ、敵わない、と、またも遣る瀬無い思いを含んだ息をついて、窓に映る雲間の月を仰ぎ見た。 雑踏の中で辛うじて耳に届いた、誰かが歌う声に似たものを覚えた。 「…………」 思い出というものはどうしてこう、黄昏た色で甦ってくるのだろう。 夕映えの教室の中にある自分の机になされた、下らない言葉の落書き。 帰り道に漂う、他所の家の美味しそうな夕飯のにおいが恨めしい。 意味も無く摘んでみた雑草を手の中でもてあそぶ。 一生懸命、恋愛話をしている他校の女子高生の会話。 橙色に染まりきったコンクリートの階段。 先走ってぽつんと光る星と、微かな風と。 そんなどうでもいい事なのに、においや温度や空気さえも、夕日が脳裏に焼き付けている。 記憶から逃げるように深く瞬きをすると、次にはそこには何もなかった。 地平も、空も、一切無いただの空間に、自分が足をつけて立っている事だけは分かる。 余韻のように、夕暮れ時の気配を何処からか感じた。 今のがもしかして、「走馬灯」ってやつだったのだろうか。 「……?」 しばらく果てし無い白とも黒ともつかない世界を眺めていたが、何も無いと思っていた視界の先に、ふと、人影を捉える。 見覚えのある制服を着た少女が、こちらに背を向け膝を抱えて座っている。 ああ、きっとまだ走馬灯の途中なんだな、とぼんやりと思ったのは、それがかつての自分自身だったからだ。 一年も着る事の出来なかったあの高校の制服は、一人暮らしを始める時に処分してしまった事を思い出す。 まだ馴染みきれて居ないのが、合わない肩幅から窺えて不恰好に見えた。それが、小刻みに震えている。 泣いてる。 「ごめんなさい」 という言葉しか、かける言葉が見つからなかった。 もうこんな思いはするまいと、そんな風に願っていたのに。 前に進んでいたつもりが、同じところへ長いサイクルを経て戻ってきただけなんだと、思い知った。 だから、心の奥底の自分は、こうして泣き続けてる。 けれど、ここにあって私は、色んな事が解った。今までよりももっともっと、嫌な自分と向き合う事になった。 そして、未練を、いいや、生きていたいという衝動に出会った。 だから、やっと違う方向へと進み始める事が出来るかもしれない。 もしも、自分にもこれからがあるのなら、違う風になれるのかもしれない。 死んでしまって、自分じゃない誰かに生まれ変わってからでは、遅いかもしれないけれど。 「……こんどは、ほんとに、がんばるから」 大切なものは、絶対に手放さないように。 自分の手で、守れるように。 次があるのだとしたら、今度こそは。私は、私でいられるよう。 後ろ向きの少女が、少しだけ頷いて、こちらを振り返った。 |
向き合う事ができた自分自身
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