落っこちた世界





カーテンが閉まっているのだろうか。
やけに暗い、とは思った。
朝でなくとも、の住む4畳の部屋には、何の嫌がらせか間近に街灯があって、
夜でもカーテン越しに容赦ない光が入ってくるのだ。
慣れないうちは明るすぎて眠れなかったが、今はもう気にならない。
それが今は消えているのか、部屋の中は薄暗闇に包まれている。
日の光もない。
どうしたのだろう、とはむくりと起き上がった。





(………嫌な……夢、見たなぁ……)
まるで感触が残っているようだ、と、すっきりしない頭を抱えながら、手を意識する。
寝坊して、アルバイト先に行ったら、部屋を間違えて、そしたら殺されそうになって、そして、人を…
「……っ…」
振り払うように、きつく目をつぶって首を振る。思い出しては駄目だ。あれは無かった事なんだから。
そうしていると、寝ぼけた思考がだんだんとクリアになってきた。
「……あぁ、バイト、行かなきゃ」
夢と同じ展開になってしまいそうだ。
まだ目は上手く開かず、薄い黒に包まれる世界をはっきりと見通す事はできない。
「………え……」
いつものように、蒲団を畳もうと立ち上がったが、改めて見てみると、自分が横たわっていたそこには
冷たく、薄汚れた石床の他は何もない。
石床に転がっていても、自分の蒲団に寝ていても、大して差異を覚えなかったのは何処と無く悲しいが、
問題はそこじゃない。
冷たい汗が、じわりと背中に浮かんだ感覚は、記憶に新しい。
(あれは………夢、じゃ……ない?)
やっとの事で、冷静な思考をもってして状況を改めて確認してみると。
自分の部屋と同じくらいの4畳程の広さのそこは、を取り囲む6面のうち5面全てが
粗い石の壁で出来ており、残る一面には頑丈な鉄の格子が嵌っていた。
まぎれもない、そこは。
現代社会において滅多にお目にかかる事のない、「牢屋」と呼ばれるにこれ以上なく相応しい場所であった。
「……うそ……?」
また、頭が混乱してくる。
そんな中ではっきりと解るのは、自分はあらぬ疑いをかけられて捕まっているという事だ。
とにかく、あの少年を殺そうとしただとか、部屋を破壊してしまっただとか、そういった事をするつもりなんて
これっぽっちも無かった。兵士を突き飛ばしてしまったのだって、正当防衛であると言える。
ただ自分はアルバイトに行きたかっただけだ。
謝って許してもらえるとは思っていないが、とにかくこちらが悪意を持っていない事だけは解ってもらいたい。
といっても、人の気配はないし、閉じ込められたまんまだし、どうしたもんかと頭を抱えた。
そこでふと、ある事に気が付く。
「……そういえば」
自分の手をグーパーグーパーと開けては閉じてみる。なんとも無い。
続いて、体全部に視線を向けてみるが、同じく特に変わった様子もない。
あれだけの痛みに苛まれていた体は、まるで何事もなかったかのように元通りになっている。
ぐりぐりと肩を回してもみたが、名残すらなかった。
ただ、記憶の中にだけはその凄まじさが焼きついていて、知らず鳥肌が立つ。
もう二度と、体験したくない…腹の底からそう思えるほどの痛みだった。
(何だったんだろ…まあ、何ともないし、いいけど…)
いい思い出でもないのだし、それ以上考えるのも嫌だったので、溜息とともにこの思考を中断した。


「…………」
結局、全ては怒涛とも言える激しさで、この状況に陥れてくれたのである。
ここで混乱に頭を抱えていても仕方が無い。起きてしまった事は無かった事にはならない。
こうして囚われている以上、どんなに取り乱した所で状況は変わらないのだから。
とにかく、落ち着こう。
何とでもなる。
自分は生きているのだから。
―――――どんなに恐い思いをしたって、生きるか、死ぬか、結局そのどちらかしかないのだから。





一向に、何の変化も訪れない時間が流れていく。
ふう、と深く息を吸い、吐いた。
地下の篭った空気は、ぬるいようで冷たくて、すえた臭いがして、気持ち悪い。
ひたすら辺りは静かで、時折照明…のような物だろう石が、その放つ光を弱めたり、強めたりしている。
今、何時なのか、外はどうなっているのか、ここは一体、何処なのか。
まるで、全く知らない、それこそ地球上の何処にも存在しない場所に放り出されたような気がする。
否、ひょっとしてそうではないのか、と、先程の部屋や人々の容姿を見ていて思った。
何が起こった?どうしていきなり?
考えれば考えるほど、気が狂いそうになってきた。
あれほど自分に大丈夫だとか、落ち着けとか言い聞かせておいて、結局取り乱してしまう自分の弱さに自嘲する。
両親が死んで、一人きりになって、もう随分経つのに。
強くなろうと思ったのに。もっと強く、もっと狡賢くなって、絶対に負けないようにしようって決めたのに。

……あれ?どうしてそんなに、強くなろうと思ったんだっけ。何に、負けたくなかったんだっけ。

ああ、そうだ、"あいつら"だ。
さっき、"あいつら"がだぶって見えて、かっとなって。
お父さんとお母さんは自殺だったけど、実質は殺されたみたいなものだった。
酷く陰湿で性悪の借金取り達のせいで。
私は強くなって、いつか馬鹿にして嘲笑してきた奴らに復讐してやろうと誓ったんじゃないか。
なのに、どうだ。
今も昔と同じ。私は、弱いまんまだ。


じぃ、と膝に顔を埋めてうずくまる。
何かを考えようとすれば、人間を突き飛ばしてしまった時の感触、その人が口から血を流して、
ぐったりと俯いている光景に、頭の中をかき乱されそうになる。
だから、極力何も考えないようにした。
眠れるような精神状態でもなかった。
いったい、いつまでこうしていればいいのだろう。気が付いてから、どれ位の時間が経った?
貧乏暇無しの言葉の通り、こう何もしない、出来ない時間が続くと酷く落ち着かなくなってくる。
常に何かをしていなければならなかったので、急に訪れた空白の時間を、どう扱っていいのか解らない。
何より、現在時刻を知る術がないというのだけは、非常に辛いと思った。
「……誰か、いませんか?」
戸惑いつつ声を張り上げてみるが、井戸の底に投じられた小石のように、その呼び掛けは薄闇に消えていく。
「…………」
溜息を、ついた。
(…ん?)
その時、耳が微かな音を、何処からか拾う。
こう静かでなければ解らなかっただろう。
……チッ、チッ、チッ、……という、規則的な音。自分の上着のポケットからだった。
「……あ」
ひどく聞き覚えのあるそれが何なのかを理解するのと同時に、ポケットに手を突っ込んだ。
硬質な感触を指先に確認して、それを取り出すと、古びた懐中時計が出てくる。
母と一緒に選んで贈った、父への精一杯の誕生日プレゼントだった。
ショーウィンドーに並ぶ中でも、桁外れに安かったそれ。
けれど、父の浮かべた照れたような、暖かい笑顔は覚えている。
これだけは、性悪な借金取りから守り通してみせた。他は全て失くしてしまったけれど。
小さなそれにすがるように、抱きしめる。
どうしようもないほど不安の中での、唯一の光明に他ならなかった。
今は亡き両親の代わりと言っても過言ではなかったのだから。
父の、母の胸に顔を埋めた時に聞こえる、鼓動のように。秒針が刻む音を、一つ、二つ、三つ。
不安なのは変わらないけれど、少しずつ落ち着いていける。





そうして、長針が20分ほど進んだ頃。
遠くから、カタン、という扉が開くような音が、微かに聞こえた。
「……!」
びくり、と体が震える。
聞き間違いでない事を示すように、カツン、カツン、と階段を踏みしめる音がこちらへ近付いて来る。
は、この上なく自分が緊張しているのを覚え、息を殺していた。


「よぉ、気が付いてたのか」
こちらの姿を確認し、鉄格子の向こうから、金髪の青年は軽く声を掛けてきた。










は、うってかわった青年の軽い態度に内心拍子抜けし、当惑していた。
しかしそれを表面に出す事なく、青年を睨み付ける。
今でこそこんな友好的とも言える笑顔を浮かべてはいるが、油断ならない。
借金取りには、そういう手合いが多かったので、免疫ができているのだ。
先程、確かにこの青年はこちらへ刃物を向け、殺気を孕んだ目で射るように見ていたではないか。
そう、格子の向こうの人物は、ルークという少年と、との間に、
阻むようにして立っていた青年であった。

「落ち着いたか?さっきは悪かったな。こっちが呼んで――――…っと、人の形をしてるが、言葉は解るのか?」

はぁ?と、は思いっ切り顔を顰めてみせる。
"呼んだ"?"人の形をしている"?"言葉は解るのか"?…いったい、何のことを言っているのか。
特に二番目のセリフはどういうことだ。
確かに、心無い男子から「お化け」呼ばわりされた事はあったが、悪意があるのだとしたら性質が悪すぎる。
「……どういう事、ですか」
声のトーンを限りなく低く落として恨みがましく尋ね返すが、青年は目を丸くしただけだった。
他意はなかったのだろうか。
「言葉は大丈夫みたいだな……。あんた、状況が解ってないのかい?」
その言い草に、は思わず、むっとした。
訳も解らぬうちに、こんな所にぶち込まれたのだ。解るわけがないだろう。
「当たり前でしょう!?」
いらいらとしたの返答を気にせずに、青年は調子を崩す事無く続ける。
「そうか……本には『契約して』って書いてあったのにな……。
 ……ま、単刀直入に言うとだな、あんたがここに来たのは、単なる事故だ」
青年の言葉が、余りにもさらりとしていて事の重要性を感じさせなかったので、全く反応が遅れてしまった。
何だ?いま、この人何て言った?一瞬間の間、何度も言葉を反芻し、咀嚼した上で。
「…………………はぁ!?」
大胆不敵なその発言に、憤りや驚き、呆れ、その他ない交ぜになった感情を、
心に留めておけずに口から短く吐き出した。
冗談じゃない。
睨まれて、怒鳴られて、刃物向けられて、牢屋に放り込まれて…ここまで不快な思いをさせられた挙句、
その原因が、事故でした、だなんて言ってのけるのか。
全くもって冗談じゃない!
言い知れぬ怒りにふるふると震えだしたに、青年は故意に気付かないようにしているのか。
「『召喚術』というものらしいんだが……知っているか?」
「いいーえ!!」
怒りにまかせて、言葉の意味もよく考えずには吐き捨てた。
どうしてくれる。
この上は、いったいどう申し開きをしてくれるというのだろうか。そればかりが頭を占めていた。



「……っていう、"異なる存在"ってやつを呼び出す術らしい。ルークが……あの赤い髪の奴な。
 暇つぶしにやってみたところ、あんたが現れた……ってわけだ」
「…………はぁ…」
何の話をしてくれるのかと思えば。
にわかに信じられる話ではない。
けれど真実かどうかは別として、ずっと知りたかった今の状況である。
青年の言葉を理解しようと、は怒りを中断して、しばし考え込んだ。

召喚術、という、術、で、私、が、呼ばれた、暇つぶし、に。

一つ一つの言葉は、一部を除いてその意味は解る。
だがその組み合わせが、現実的に考えて非現実的である事も解る。
どう、理解しろと言うのだろう。
…………………………。
……………………………………………………。
駄目だ。

もう、いい。解るのは不可能だ。
とにかくもう、関わりたくないし、関わらなければそれで済む。
事故だと向こうが言うなら、根本的に自分が悪かったのでもないし、もう関係ないはずだ。
「……あの、じゃ、私、帰ってもいいですか?」
長い思考の末の沈黙の後、半ば脱力気味に切り出したに、青年は戸惑ったように頷いた。
「え……あ、ああ。そっちがそう言うなら別に構わないが………どうやって?」
恐る恐るといった風な青年の質問に、それはそうだとも思う。
今、自分がどこにいるかも分からない。お金も500円弱(厳密には439円)しかない。
アルバイト先の事務所程の距離であるならば、何とか自分の足で帰れるが。
「ええと、ここって……どこですか?」
「オールドラントのキムラスカ・ランバルディア王国首都バチカル、だけど」
これまたさらりと躓くことなく答える青年に、嘘をついている様子は全く見られない。
は頭を抱えた。オールドラントなんて地名…明らかに日本ではない。
さらに、王国と来たもんだ。未だそんな童話のような支配体制で保っている国は、多くなかった筈。
それとも何か、ディ○ニーラ○ド系のテーマパークの中なのか。
いきなり人を牢屋に入れるなんていい趣味したアトラクションだが、多分展開的にも雰囲気的にもそれはない。
何が起きてこうなってしまったのかは知れないが、目の前の青年の、金髪に青い目と、
端正な、日本人離れした西洋的な顔、建物の雰囲気、服装などの文化的なものなどを総括して考えると
ここが決して、歩いて、更に言うなら439円で帰れるような場所でないのは明らかだった。
きっと、国が違う。おそらくヨーロッパの何処かだろう。
「じ、事故なんだから、帰りの交通費くらい……出してくれますよね?」
いささか厚かましいとは思いつつも仕方ない、と、そう申し出たに、青年は溜息をついた。
「この屋敷では金の工面なんか、全く問題にはならないさ……。
 ……それよりも、"どこへ"、"どうやって"帰るんだ?」
が、話を全く理解していないことを会話のズレから察して、参ったといったように頭をかく。
「え、だから、日本に。まぁ、飛行機なんて贅沢言いませんけど、せめて海を越えられるもので……
 ……って、そういえば、日本語お上手ですね?」
ついに青年は、深い、深い溜息をつくと、ゆっくりと口を開く。

「あのなぁ。この際はっきり言おう。ここ、オールドラントって惑星に、"ニホン"なんて場所は
 何処にも無い。ここはあんたがいた世界とは別の世界だ。言葉が通じるのも、召喚術ってやつのお蔭らしい」

「……え……」

逃れようのない、とんでもない現実を突きつけるような言葉に、
は張り付けられたかのような感覚を覚えた。
全てが。
ふざけているとさえ、思えた。
スケールが予想を遥かに上回って、理解も何もない。やはりアトラクション?
「冗……談、でしょう……?」
青年は首を、縦にも、横にも振らずに、ただ真っ直ぐとを見据えている。
紛れの無い現実が、ここに、確かにあるらしい。
泣きたくもなったが、見ず知らずの人の前で涙を見せててなるかと耐えた。
「それじゃ、どうやって帰れば……惑星……って、ち、地球ですらないの!?」
だんだんと、の語気が荒くなっていく。
せき止められていたものが溢れ出してくるようなそれを、青年が無言で見ている。
「冗談で、しょう!?っていうか、冗談じゃないわよ!!
 そ、それだったら、どうやって帰ればいいって言うんですか!?異世界なんて!!」
思わず格子に掴みかかって抗議する。
やっと知る事の出来た、飲み込まなければならない状況は、相も変わらず悲惨だった。
あまりのの勢いにたじろいで、青年は脅えたように後退する。
「い、いや、どっちだよ。まぁ、今の所分からないんだけど、来る方法があるんだから帰る方法だって
 ……………あ。」
「……あ。」
律儀に青年がツっこむ先で、

ぐぎゃん

という音を立てて格子がへし折れた。
「……………」
「……………」
無残な形になって、の手に握られている鉄の格子を、しばし二人で言葉無く見つめる。
いくばくかの沈黙の後、意を決したように青年が顔を上げて尤もな疑問を問いただしてきた。
「……あんた、いったい何なんだ?人間みたいに見えるが…」
「何てこと言うんですか。人間ですよ」
すかさずが返すと、再び青年は歪んだ鉄格子にツイと視線を落とし、そして顔を上げると
至極真面目な顔をして言ってみせた。
「いや、有り得ないだろう。」
「…………………………」
無性に青年を殴り飛ばしたくなったが、その端正な顔に触れる勇気がないので諦めた。
息をついて、ひん曲がった棒を握る手を見る。いったい、どうなっているのか。
「あの、私……こんな怪力なはずはなかったんです。普通の人間で……
 それともこの格子、粘土ででも出来てるんですか?」
「いや、鉄だよ……。やっぱり、召喚「獣」ってくらいなんだし、人間じゃないんだろう?
 それとも、こことそっちの世界では"人間"のニュアンスが違うのかな」
「…………(…くっ…この男は、あくまでも…!)」
此方が何度も人間だと主張しているにも関わらず、なおも人外扱いしてくる(しかも悪気は無さげ)青年に
腹の虫が盛大に騒ぎ出したが、確かに鉄だという棒を捻じ曲げておいて人間だと言い張るのも説得力がない。
握っていた手を外してまじまじと観察してみるが、別段変わったところはない。
相変わらず手入れの行き届いていない見た目に不健康な手である。
むしろ、周囲のものが軽くなったり脆くなったりしている気がする。それに、何だか異様に体が軽い。
しかし、周りから見てみれば、その様子は怪力と言う他ない。
「本当に、人間なんです。……でも、何かここに来てから変で」
この怪力をもってすれば、あの部屋を破壊した犯人も、兵の不自然な程の吹っ飛び具合も説明がつく。
そうなると、意に反して何でもかんでもうっかり破壊してしまいかねない、という事だ。
何が原因か。そういえばさっき、この青年が言っていた言葉を思い出す。
「召喚術って、話す言葉の他にも…身体能力とかにも影響があるんでしょうか」
そこまで得体の知れない術である。こうなったら何でもかんでもなすり付けられはしないだろうか。
「さぁ、な。付加能力については書かれていなかったが……
 ……しかしまあ、人間だってんなら、悪かったな。失礼な事言っちまってすまない」
しかしながら、平謝りする青年は、どう考えてもさっきまでは珍種の野獣を相手にするみたいな扱いだった。
まだ心にしこりは残っているが、溜息と共にそれを流しだす。
「それはそうと、安心したよ。今んとこ、あんたに悪意はないようだし」
「当然です。来たくて来たわけじゃないし。ましてあのルークって人には、恨みどころか用もないです」
憤然と、は言ってみせた。
腹が立つのは、むしろ事後のこの対応である。
相手側の不手際が原因にも関わらず、どうしてこんな不遇な扱いを受けなければならないのか。
こんな調子では、わく必要のない悪意だってわいてきそうである。
しかし、言ってのけた先の青年は、本当に悪びれているのか知れないが、の様子に
悪い、と言いながらも苦笑している。
おそらくこの男、ある程度叩けば埃が出なくなるタイプの人間だな、と、酷薄な日々の中、
不本意にも養われてしまった人間観察眼がにそう告げた。
色々と釈然としないが、とにかく、と口を紡ぐ青年の出方を見ることにする。
「ここを出てもらうよ。一応、この家の主には会ってもらわないと」
ちゃり、と鍵束をポケットから取り出し微笑む青年を曲がった鉄格子の向こうに見て、
必要なかったかもしれないなぁ、と考えた。訳が分からないが、是だけの怪力である。
牢をぶち壊して、逃げられたかもしれない。このムシャクシャした気持ちを、異世界だというし、
大暴れしてやって解消するのもいいかもしれないが、其処まで良識のない年でもない。
……何は無くとも先立つモノさえあれば。
「あの……交通費は仕方ないとして、その……お礼っていうか……貰えないと困るんですけど……」
今日一日のバイト代と、無断欠勤による信頼の喪失分と、その上減給されるであろう分、しっかりきっちり。
それさえ頂けるなら、不慮の事故やここまでの処遇に関して文句は言うまい。
本当はこんな事を言うのに良心が痛む所だが、したたかだと、意地汚いと言われようが、食うためには仕方ない。
仕方ないついでに、この際化粧品と新しい靴下を買う分も貰っておこうかと、朝の一連の事象を思い出して考えた。
(流石にそれは厚かましいかな……化粧した所で、大して変わらないだろうしなあ……)
かつ、今時の化粧品を見ても、どれをどこにどう使うのかすら解らない。
もんもんと謝礼額を計算し続けるの心中を知らないだろう青年は、曖昧に笑いながら牢屋の扉を開けた。
「さあなぁ……そのへんはファブレ公爵の采配に委ねるよ。……さ、出て」
は曲がってしまって本来の役割を果たせなくなってしまっている鉄の棒を、再び機能する事が出来る
形に ぐぎゅん と戻しながら目を瞠った。
「えっ、こ……公爵!?」
つくづく、日本では訊き慣れない単語である。
馴染みがないため、男爵とか、伯爵とか、言葉は知っていてもどの位が一番偉いのか検討がつかない。
しかし、あのルークという人物がその息子だとしてあの扱いだ。かなりの偉い人に違いない。
一時はテロリストかと疑ってさえいた相手が華麗なる一族だったなんて。
全く、いきなりとんでもない所に来てしまったようである。
「ああ、そうだ。悪いんだけど、手を縛らせてもらうよ。さっきの騒ぎの手前、体裁ってもんがあるんでね」
言うやいなや、自然に、けれど鮮やかな動きでの後ろに回りこむと、
慣れた手つきで後ろ手に縛り上げた。
縄は、捕縛用の頑丈なものなのだろうが、今のにとっては素麺で縛られているように感じる。
少しでも力を入れれば千切れてしまいそうなので、抵抗の意思が無い事を示すためにも、
縛られている形になるように腕を固定する。しかしながら、もともと体が柔らかいというわけでもないし、
慣れない体制に痛みを感じて顔を顰めた。
青年は、先程とも変わらず、貼り付けたような笑顔を浮かべている。
「気を悪くしないでくれよ。けど、その馬鹿力は立派な凶器なんでね。それに―――――」
けれども言葉を続ける前に、今までのどこか気の抜けた顔は全て嘘だったと思わせるように、
彼は顔から一切の温度や表情を消し去って、を見据えた。
「まだあんたを信用してるわけじゃない。使っておいてなんだが、俺らにとっても『召喚術』なんてのは
 胡散臭いもんだからな。変な動きをしたら、斬捨てなきゃならなくなる。……そうならないようにしてくれ」
一般人にはどう凄んだところで真似できそうもないような、冷たく鋭い視線を受けての背筋が震えた。
「そ、んな……」
この人たちは、剣を持っている。
命の遣り取りが簡単に可能なものを腰に下げているような日常に居るからこそ、彼らはこんな顔が出来るのだ。
自分達一般人には、けれど縁のないものだ。
彼らだって、いくらそんな環境に居るとはいえ、免疫のないものにそんな顔を向けたりはしないだろう。
けれどその視線を、自分が受けているのは。

解っている。

今自分が、他を害する事のできる力を持ってしまっているためだ。


勢いをつけて、振り払った手に当たる感触。



耳にこびり付いた、不自然な音と、悲鳴。




動かない体と、口から顎の先端へと伝う、一本の赤い血の道。





自分がやった事だなんて、到底信じられなかった。
誤解から、先に脅かされそうになったのはこちらだとはいえ、結果は酷いものだ。
紛れも無く、青年の言うとおりの凶器―――――それに、他ならない。
そんなつもりなんて無かった、なんて、お粗末な言い訳にさえなりはしない。
「…、」
耐え切れないプレッシャーに、口を開こうとしたが、思った以上に喉が貼り付いて声が出なかった。
青年が、冷えた顔に訝しみの色を滲ませてこちらを窺う様子を見せる。思い出すのは。
「……あの、さっきの、兵士さんは……私が突き飛ばしてしまった…」
搾り出した声が、勝手に震えてしまう。
否、声だけではない。抑えようとしてもままならない震えが、感触を覚えている手から順に広がっていく。
人を害する事が、こんなに恐ろしいことだったなんて、想像だにしなかった。

青年は、そんなの様子を見て、ふと僅かに目を伏せる。
(………なるほど、な)
この様子だと、野にいる獣さえ殺せまい。「死」からあまりにもかけ離れた、臆病な弱さが見て取れる。
そんな人間が、一国の重鎮の子息の命を付け狙うなんて芸当が出来るだろうか。
油断無く向けていた警戒の目を閉じると同時に、溜息をついた。
目の前の人間は、見た目だけなら紛れもなく一般人だ。自らの身の内に具わる武器に、ひどく脅えるただの。
ただし、それが此方を欺く演技でないのなら、だが。
「一人は、手首の捻挫。もう一人は……」
言葉を切り、閉じた目を開けてを見ると、憔悴しきった目が見上げてくる。
本人に自覚は無いのだろうが、何とも加虐心がそそられる目だ。いささか溜めを置いて、緊迫感を高めた後。
「…後頭部にでっかいたんこぶと、口の中を盛大に切ったみたいで、今治療中」
言い終わると同時に苦味を含んだ笑みをむけてやると、言葉を直ぐには呑み込めないのか、顔はそのまま
絶句して固まるがいる。あまりにも予想通りの反応に、笑いが込み上げそうになるのを何とか耐えた。
「………………」
「ちょっとばかし背中を強く打ってたりもするけど……まぁ、生きてるよ」
慰めや、嘘ではない。
負傷したクライブという屋敷付きの兵士は、芳しいというわけではないが取り敢えず命に別状はないと聞いた。
「…………………」
「……ん?」
いっこうに反応を返さないを不審に思って覗き込んでくる青年の顔さえも、目に入らない。
ただ、自分の内部に取り込まれた言葉と、湧き上がる何かの感情の渦を落ち着かせる事に必死になっていた。

「………え」

夢にまで見て、苦悩して、

「……あの…」

物凄く恐ろしくて、震えて、心配して、なのに

「……は」


…たんこぶ?


「……はぁあ!?」
やっと理解した後に、またしても感情を爆発させたが憤慨して怒り出すだろうか、と青年は身構えている。
何なのだ、ここへ来てから、振り回されてばかりだ。
いや、今日は人生最大の厄日と言っても過言ではない。
時計の電池が切れていて、寝坊して、往来でひっくり返って、「おばさん」呼ばわりされて、
遅刻するはめになって、極めつけ異世界なんぞに了承もなく呼び出されて、後は語るも涙なこの展開に至る。
現実は小説よりも何とやらとは、かくもこの事である。
けれど。
「だ、だって私、そんなつもりじゃなくて……あんな思いっきり突き飛ばし、……あの、無事って…」
怒りよりも、何よりも、まずホッとした。とてつもなく、良かった、と思った。
死んでないんだ、私のせいで、人が。私が、殺したんじゃ、ない。
兵士の人に言わせれば、もの凄く自分勝手な感想かもしれない。けれど、とにかく気が抜けた。
「……無事、なんですか………よ、よかった…」
大きな溜息をついた。
不可抗力とはいえ、鉄をも曲げる力で突き飛ばしたのである。生きていたのは運がよかったとしか言いようがない。
の様子を見ていた青年は、苦笑ではない笑みをふと浮かべた。
そうして、を縛っている縄を、負担がない程度にまで緩めてやる。
「ま、こんなもの必要ないかもしれないがな。さっきも言ったが、建前ってことで勘弁してくれ。
 ……ああ、そうだ、自己紹介が遅れたな。俺はガイ。ガイ・セシルだ。……君は?」
聞かれては、一寸考える。
(姓も一応、名乗るべき……よね。でもアレだろうな……名前が先に来るってヤツ……)
何だか恥ずかしい気がする。日本名にその呼び方は、かなり格好がつかないからだ。
「え……と、……、……です」
「へぇ……""、な。やっぱり変わった名前なんだな」
予想通りの反応が返って来たのには、力なく笑うしかなかった。


次はルークと対峙する…予定

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