扉ごと取り替えたんだろうな、と、いささか反発の強い感触を、ルークはノブを掴む手に感じて思った。 仕方が無い事だとは思う。何しろ、あの時の爆発で、その8割方が吹き飛んでいたし。直すよりは取り替える方が。 ぎこちなく開いた先には、見慣れた自分の部屋がある。 ただし、それは10日程前までの感覚だ。 そこにあるものよりも、今日までいた仮部屋の若干小さな窓やベッドの方に慣れてしまったのか、不思議に違和感を感じた。 ドアだけでなく、記憶の限りでは部屋全体が召喚術の衝撃で酷い有様だったのに、見た感じその名残も無い。 「へえ、驚いた。綺麗に直るもんだな。すっかり元の通りじゃないか」 一瞬、長い夢でも見ていたんじゃないかと妙な感覚に囚われ出した自分を、ガイの言葉が引き戻した。 相変わらずというか性懲りもなくというか、扉ほどの大きさの窓から侵入してくる彼を見て目を丸くする。 「おー、この感じこの感じ。やっぱ一階の方が便利だよな」と、したり顔でにやついているのに対して肩を竦めてやった。 ガイとは、先ほど一度別れている。ペールとガイの部屋に、自分を迎えに来たラムダスは快くない顔をしていた。 元の自分の部屋が直っている事、またそちらへ戻るようにと伝えに来た彼が、案内の役目を終えて 退散するのを待っていたのだろう。 もう外は暗いのにご苦労な事だと思う反面、心配で気にかけてくれる様子にくすぐったい気持ちになる。 「ああ。やっと落ち着ける、って感じだな。…にしても、別にそっくりそのまんま元通りにする事もねーのによ」 ベッドの位置、カーテンやテーブルクロスの色柄、本棚まで新しいのにデザインは一緒。 何だか本当に、何もかもが、無かった事のように思える。…だったら、色々と楽なのだが。 息を吐きつつ大儀そうに言ってやると、ガイは皮肉めいた笑みを浮かべた。 「お前に気を遣ってるんだろ。下手に模様替えをすると、ルーク坊ちゃんが眠れなくなっちまうかもしれない、ってな」 「ば…っ、馬鹿言え!別に何処でだって寝られるっつーの!」 どれだけガキみたいな事で馬鹿にされなきゃいけないんだ、と、咄嗟に頭に血が昇って噛み付いてやった。 こっちは真剣だというのに、あはは、とガイは笑って身をかわすだけだ。 「だよなぁ。お前本当、貴族とは思えないくらい逞しいもんな。 …でもいい加減にしてやらないと、ラムダス様、胃を悪くするぞ」 そういえば暫らく前にも、中庭のベンチで熟睡していた自分を見つけて、身体を壊すし品位がどうのこうのと 顔を青くしていたような。鬱陶しいので適当に耳に流して相槌を打った記憶があるが。 「知るかよ。まー、変な風に変えられても堪んねーし。同じでいいかもな」 鼻を鳴らした先で、そうだな、とガイは頷くが、ふとある方向についと視線を逸らせる。 そこにあった物が無いのを認めると、その笑みが、苦笑に変わった。 「けどやっぱ、“あれ”らは全部持ってかれちまったな」 彼の見る方向と記憶を整合して、「あれ」とは何なのかと首を捻る。今は何もない一角だが、かつてはそこに何かがあった。 「…ああ。あのよく解んねえモンの山な…」 いつ、どんな事を言われて与えられたのかも記憶にない、珍品や高級品を放り込んでいた箱。 意味を持つもの。意味を持たないもの。でもどれも自分には関係のないもので、興味も引かれなかった。 その中に埋もれていた一つに過ぎないものが、こんな事を引き起こすだなんて。 「殆どはあの時壊れたんだろうけど、やっぱり危険だって、旦那様が指示を出したんだろうな」 「………」 一度は自分にと与えておきながら、事故を起こしてから取り繕うように撤去、なんて、何だか腑に落ちない。 別にあれらに対して執着心も何もないが。 なのに、責任を押し付ける事をアピールするかのように、召喚の書だけはご丁寧に机の上に置いてある。 「別に…いらねーから。あんなもん、どうでもいい」 思ったままの事を口にしてやると、ガイの表情が曇った。何の事を気にしているのか心当たりがすぐについて、舌打ちする。 「でもな、ルーク…」 「わぁってるよ!」 言われる前に、遮ってやった。解っている、だからこそ、それをなぞられるのが嫌だ。 何しろずっと認めたくなかった事だし、今だって、改めて言葉でもって自覚させられる事が心地悪くて堪らない。 事が起こってからは、見るだけで忌々しく思った。それによってもたらされた事といえば、ろくな事がなくて。 でも、今それを視界に入れても、前ほど嫌な気分でもない気がする。 「………それだけは…その、…別だ」 机の上のボロボロの本を指さして、小さい声で言いにくく呟くと、ガイは穏やかに苦笑を深めた。 「うわ、ちょ、待ったそれ食べ物じゃないでしょう!」 しばらく何だろうと眺めていたが、モゴモゴその口が動きだすと、クシャクシャと音がしたのでそれが紙だと解る。 慌てて阻止しようとそれを引っ張ると、食べるつもりはなかったのか、あっさりと口から離して 猫はまた素知らぬ顔で食べかけの魚のムニエルを食みだした。 「まったくもう…」 なんなのよ、と、その態度に呆れたが、結局必死な食事風景を微笑ましく眺めてしまう。 よっぽど美味しいのだろうか、警戒すべき人間がこんなに近くにいるのに逃げもしない。 本来この子を守るべき母親も傍にいないので、珍しくじっくりと小動物を観察出来た。 生まれて間も無く、ああやって箱に入れられて捨て置かれたんだろうか。多少汚れてはいるけれど、まだこの世に出てきて 間もない印象の毛は、ふわふわとしている。 (…痩せてるな…) 元々仔猫なのだから小さいが、それでも膨らみの足りない体がひどく頼りないように見えた。 きっと、ろくに食べられなかったのだろう、此処に来て、初めてこんなご馳走にありつけたのに違いない。 灰色の地味この上ない毛色で、食べた事もないような美味しいものに夢中になっている様子を見ると、なんだか厚かましくも 自分の境遇に似ているように感じて、湧いた親近感に思わず手をのばしてしまう。 だが。 そっと伸ばしかけた手は、仔猫に届く前に錆び付いた機械のように ぐぎぎっ と止まった。 (……ぬ、ぐ…) ごくん、と喉を鳴らす。 妙な位置で止まった所在のない自分の手と、猫の頭のてっぺんとの間に、微妙な温度の風が吹きぬけた。 どこにと言わず、妙な汗が滲むのを感じる。 自分は、動物だとか、可愛いものだとか、小さいものだとか、子どもだとかは苦手だ――――― ―――――と、思い込むようにしている。 実は人並みに可愛いものを愛でたい気持ちもあるし、小さい動物や赤ちゃんなんかを抱いたり撫でたい、とも思ったりはする。 思ったりはするが、それが中々叶わない。絵面的に似合わないという自覚もあるが、何より生きてるものに関してはというと。 触ろうとすると暴れる怒る威嚇される、抱こうとすると泣き出し始める。いつもいつも何故か。 小学校の頃、ウサギ当番をしていた時に同じ班の男子から言われた事は忘れない。 「動物とか純粋な生きものって、人の中身がわかるんだってなー。はだめなんだな」 いったい、どう「だめ」なのか、何が「だめ」なのか、納得のいく説明を自分から逃げ惑うウサギを交えて教えて貰いたい。 こん畜生、可愛い女の子の膝の上では大人しくパンの耳食いやがって。 悔しい思いもあるが何より寂しいし、「純粋な生きものから嫌われている」ところを見られるのが恥ずかしい。 と、いう訳で、私はそういうの苦手、と決めて近付くのを我慢してしまった方が格好がついた。 人間関係と同じだ。最初から嫌いと思ってしまえば、随分楽になるものだ。 (…でも) それは間違っていた、と自分は解ったのではないか。取り合えず最初から拒絶せずに、ほんの少しでも歩み寄ってみる事。 後は向こうが此方を嫌おうと何と思おうと自由だ。 恐る恐る手を下ろすと、ふわ、と毛先の淡い感触が皮膚を掠めた。この子もいつもと同じ反応なんじゃないかと心臓が 早鐘を打つが、思い切って目を瞑ると ぽん と頭に触ってみる。 「…………」 大抵ここで、猫等は必死で身を捩った後、引っ掻き攻撃をかましてくるのだが。 「………あれ」 予想していた反応がないので目を開いて確認してみると。 頭に乗せられた手に合わせて、耳がペタンと寝ている。 何をされたのか解っていない様子で、暫らく被さる手をしきりに鼻で突いていたが、遊んで貰っているものと判断したのか 仔猫はぐりぐりと手の平に頭を擦り付けてきた。 「な…!」 あまりの衝撃に、思わず全身が強張る。 (何この可愛い生き物は…!!) 思わず口をついて出そうになった大絶叫を、心の中に留めるのに必死だった。 鼻血が出てないかが本気で心配だったが、見られて困る相手もいない。 初めてだ、初めて触らせてもらえた、と興奮しながら頭にあった手を移動させて背も撫でてやる。 あまりの、えもいわれぬ感触に、ほう、という溜息しか出てこない。 嫌がってない様子が、むしろ撫でられて気持ち良さそうにしてくれているのが嬉しくて堪らない。 (…すごい…こんなに柔らかい) それに、とても温かい。 けれども、あんまりにも小さくて今にも壊れそうで、触るのさえも恐くなった程だ。 生きものとはこんなにも脆くて、儚いものなのだろうか。でも、生きているんだな、と、心の底から感動した。 食欲も旺盛だし、力一杯手にじゃれ付いてくる様子からは、とても弱々しい印象は受けない。 「あ、痛てて、ちょ…爪出てる爪!」 本格的に遊び始めたのか、すり寄ってくる様にも手にじゃれ付く仕草にも容赦が無くなってきた。 嬉しい悲鳴を上げつつ、抱き上げてみようともう一方の手を使おうとして、そこが塞がっているのに気付く。 (そういえば、これ…何だったんだろう) 先ほど仔猫がくわえていた、丸められた紙くず。別に何か変哲がある、という事も感じられなかったが、広げて見てみた。 けれども、やはり予想の通りに、紙に書かれていたのはあの読めやしない丸クネ文字…フォニック文字だ。 何だやっぱり、と落胆する一方で、少し心に引っかかりを感じた。 (………ん?何か…これ) どこかで、見たような。 ノートか何かを、乱暴に破り捨てたようだったから、手紙では無さそうだ。 丸クネ文字なんてどれも見た目は同じ…とはいえ、どうにも書いてあるその文体に見覚えがある気がする。 この特徴的な形。初めて見た時は、判断がつかなかったので綺麗な字なのかな、と思っていた記憶がある。 ペールに貰った参考書を読んでるうち、もしかしたらそうじゃないかもしれないと気付いたが。 (これまさか…ご主人様の日記なんじゃ……) あの日見た赤い本は、どうやらルークが付けている日記らしい事が、後日解った。 そこに書かれていたものと、今手にある紙くずのそれは似ているような気がする。 所々、インクで書かれた文字に擦れたような部分があるのは、右へと流れる文章が、左利きの人間に書かれたからか。 ルークの日記。突然暗雲から後光が射したような気分になった。 本当にそうなら、この近くにファブレ家のルークの部屋のゴミが捨てられている、という事だ。 効率を考えるとエリアごとに纏めてゴミは回収されるだろうし、ここいら一帯は上流階級を匂わせるものが捨てられている。 限りなく、可能性は高い。 「ちょっと、ごめんね!」 擦り寄ってくる猫に詫びを入れて、手当たり次第に辺りをひっくり返し始める。 猫がくわえていた、という事は、あまり埋もれず、表層に近い所にあるんじゃないだろうか。 広く、浅く、それらしき場所を求めて漁って行くと、中庭で見かけた覚えのある植物や、ひどく心当たりのある 割れて粉々になった高級そうな壷の破片などが出てくる箇所に行き着いた。 多分、ペールが剪定したものや、以前掃除の際に割ってしまった時価80万ガルドの壷だろう。 ここに、間違いない。 まだ期待するなと高鳴る胸を諌めながら、大量の書類やら、汚れたり破れたりして使えなくなったメイド服や執事服、 割れたランプの欠片や壁の一部、本棚など、何が原因で壊れたのか思い当たる節のあるそれらを掻き分けていく。 ここまで来た。ここまで来れた。 まさか本当に、見つかるんじゃないだろうか。もしかしたら、取り戻せるんじゃないだろうか。 はやる気持ちも、それを見かけた時には流石にいくらか消沈したが。 「…あ、」 潰れた茎、千切れた花弁。結局、最後はゴミの扱いのまま、か。 あの時は、助けてくれて有難う、と感謝をしつつ、ごめんなさいと心の中で謝った。 次も花として生まれたら、自分のような人間に育てられる事がないといいね、と、苦く笑いながら丁寧に脇に退ける。 その先に、くすんだ色のチェーンが見えた。 「!」 仕事場には付けていってくれなかったけれど、一緒に出掛ける時、父はベルトにそのチェーンを 通して失くさないようにしていた。よれよれの、当時は今自分が着ている服が彼のお気に入りで、でもくたびれてしまった この上着に、気取ったそれは全然似合っていなくて。 震える手でそれを引っ張り上げると、先に付いていた懐中時計の盤面から、破片がパラパラと落ちていた。 (見つけた) 案外、再会はあっさりしていた。 あれだけ大騒ぎして飛び出して来たのに。 あれだけ決意を込めて、道を選んだのに。 あれだけ多くの人を傷つけて来たのに。 なんだ、こんなにも、簡単に自分の手元に戻ってきたじゃないか。 手に取ると、メキ、という音がして手の平に鉛色の粉や、ガラスの破片がついた。 どうしてだろう、心は落ち着いているのに、酷く手だけが震えてる。 取り戻したのに。辿り着いたのに。 見つけた…見つけたよ―――――――でも、 手でぎゅっと握り込んで、祈るように額に当てるけれども、手の中で更なる崩壊に形を変える音しか、聞こえない。 (でも……うん、そうだよ、ね) ショックなのに、どうして納得してるんだろう。辛いだとか、悲しいだとか、こんなに強く感じるのに、大した反応が出来ない。 心のどこかで、解っていたんだろうか。いつまでも縋ってはいられない事も、いつかは失くしてしまう事も。 そして、それが今回であったこと、もう元には戻らないという事を、知らず理解していたのかもしれない。 (そうだよね…そうだよね…) 心が落ち着かなくて、意味のない言葉を頭の中で何度も繰り返した。 漠然と、どうすればいいのか解らなかった。 この、感覚。放り出されたような。 どんなに待っても、目の前の時間はとまったまま。世界だけが私を置いて動いていく。 途方も無く広がる「これから」という空間に放り出されて、ひとりぼっちを認めるのが恐くて堪らない。 いつか、立ち止まった自分に誰かが手を差し伸べてくれるかもしれない。 失った場所から動かなければ、またここに同じ温かさが戻ってくるかもしれない。 あの時、そう思った。 「ニャー、ニャア」 と、座り込んで顔もろとも抱き込んでいる自分の足に、柔らかいものが擦り寄ってくる。 手の中には、文字盤は潰れ、針の一本すら何処かへいってしまった時計を握り、ずっと方耳に押し当てている。 もう、時を打つ音は聞こえない。 自分の血が、静かに脈打ち続ける音だけが聞こえている。 自分の、鼓動の音。自分自身が、時を打つ音。 (私…私は―――――…) 「ニャア」 と、また呑気な声が擦り寄って来たのに、思わず顔を上げて苦笑した。 自分なんか、同じ人間相手にさえ、まともに話す事が出来ないのに。 一緒に遊んでも、全然面白い事をしてあげられないのに。 抱き上げて、笑ってみる。いつもは緊張で顔の筋肉が強張るけれど、人間相手じゃなければ気を遣う事もない筈だ。 というか、ちゃんと自分は笑えるのだろうか。猫だと、感想を聞く事も出来ない。 静かだった其処に、突如として轟音が響き渡った。 「…っ!?」 あまりの変化に慄いて一歩退きつつ、辺りを見回す。 ドーム状になった空間の壁一面に、複雑な光の紋様が描き出され、青く浮かび上がっていく。 それは開いた一部の天井を残して全てを取り囲み、巨大な魔方陣のようなものを完成させた。 「な、な…何!?」 急激に破られた静寂と訪れた変化について行けずに、ただただ戸惑う事しか出来なかったが、轟音に重なるように 耳に届いた作動音に天井に目を向けると、唯一の出口が閉まりゆく光景が飛び込んできた。 「あ…ッ!?」 しまった、と、歯噛みする。ぐずぐずしている間に搬入が終わり、「処理」が始まろうとしていたのだ。 「ま、待って……まだここに―――――!」 呼びかけながら、上へ昇る術を探すが、梯子も見当たらない。 そうこうしているうちに天井は閉じられ、そこも魔方陣みたいなものの一部となった。 ここで一度、鳴り響いていた轟音は止んで静寂が戻ってくるが。 「ど、どうしよう……外に知らせる方法とか、他に出口とかは…」 来た道は諦め、他に取るべき道を必死で探すが、今度はガシャンと音がして、一斉にライトが落とされた。 完全なる暗闇の中、不思議と反射しない青い模様が見える他は、一歩先も解らない。 「うそ……そんな…」 ここに、いるのに。 生きてる人間が、猫が、まだ。 いいや、自分はいい。元々死んで楽になりたいとさえ思った身だ。もう大切なものは壊れて無くなってしまったも同然だし 何人も不幸にしたのだから、これは報いだと認める事は、恐いけれど出来る。 でも、腕の中のこの子は。 何にも知らないで、能天気に鳴いてる様子は、明らかに状況を理解していないのだろう。 抱きかかえる指を舐めてくる仕草に遣り切れない気持ちが募って、少しだけ腕の力を強めた。 この仔猫は、どうなるんだろう。唇が、震えた。 鉄も、石も、木も何もかも、一緒くたになって放り込まれているのだ。 それらがこれから全て無くなるというのだから、いったいどんな凄い事がこの中で起こるんだろう。 凄まじい熱量の炎で焼き尽くされるとか、はたまた強力な溶解液でも大量に降ってくるのか。 構えていても、足が竦んで崩れ落ちそうだった。 やがて ふわりと、小さな赤い光が舞い降りてくる。 「……え…」 落ちて光が触れた場所は、暫らく内部に赤い光を篭らせて、やがていくつもの色の光を破裂させて消えた。 恐らく、触れていた物質の一部と共に。 一粒だったそれが二、三と数を増やし、音もなく降り注いでくる。 暗闇の中で何がどうなっているのか確認は出来ないが、よもやこの光が、ゴミを少しずつ分解していくというのだろうか。 ふわりと落ちては赤さを孕み、火花が弾けるように赤と共に様々な色の光が散っていく。 少しずつのそれが、何度も何度も、そこかしこで、沢山たくさん。 消滅の遣り取りが繰り返される。 静かに、一切の感情無く。 上を見上げると。 「……き…れい…」 おびただしい程の赤い光が生まれ、落ちてきているのが見えた。 思わず咄嗟に生まれた正直な感想が、口をついて溜息のように出てしまう。 あれらは自分達を消そうとする、死の光なのに。 「……………」 「…ニャー…」 幾分か弱ったような声に、はっとする。 あまりに圧倒されて、しばし呆けていた事に気付いた。いけない、このまま此処にいては駄目なのに。 そう焦りつつも、ライトが点いていた時に見回してみても出口らしいものは無かったし、こう暗くては探すのも無理だ。 かと言って、光を避けられるような場所なんて何処にも無い。 外套で受けてみようと試みたが、それすらも直ぐに光の餌食となって消えてしまう。 「どうしよ……本当にどうすれば…」 今は自分が覆いかぶさるようにしてぎゅっと抱え込んでいるが、それすらもあまり効果は期待できない。 いつしかふわりと隙間を縫って舞い込んだ光から、仔猫を庇いきれなかった。 すう、と光が背の部分に触れたかと思うと、中に吸い込まれるように消えた。 その途端、大人しくしていた猫が、ビクンと痙攣したかと思うと、腕の中で暴れだす。 「あ痛…っ、あ…あっ!」 先ほどの甘えた声とは違う、明らかに苦しそうな鳴き声を上げながら滅茶苦茶に暴れる猫の爪が、腕を引っ掻いた。 毛皮を通した背中の中で、まるで生きているように赤い光が蠢いていた。 小さな痩躯を、容赦なしに蝕んでいるのが、解る。 光自体に触れても自分自身は何も感じなかったが、猫の身体に入り込んだそれが、実はとんでもない熱量を持っていたもの だと、抱える腕から伝わる体温で解った。 「やだ、駄目…駄目だよ…駄目、駄目…!」 苦しんでいるのに、どうすればいいか解らなくて、何処が痛いのか解るのにどうする事も出来なくて、ただ暴れる猫を 更にぎゅっと抱きしめてやる事しか出来なかった。 鼓動が聞こえる。 とても早くて早くて、胸が苦しい。 それが自分のものなのか、猫のものなのか、解らない。 「駄目…だ…め…」 意味も無く呟き続ける言葉は、腕の中で弾けた火花を見た瞬間に、途切れた。 「い、」 散っていく美しい光が、赤と一緒に霧散していく。 目の奥から、出ることのなかった水分が、一気に見開いた目から押し出された。 あまりの事に、頭の中から、心の底から、色んなものがあふれ出た。 「い、いや、いやッ…や…ぁ……やだああああぁぁ…っ!!」 腕の中のもがく力が、格段に弱くなった。 壁のあるだろう場所まで走り寄り、外を隔てているそれを、思い切り殴りつけた。 手の骨が砕けようが、何だろうが、知った事ではないくらいに強く。鈍く大きな音が響いたけれども、それでも外は見えない。 まだ生きている、温かい、助かるかもしれない。 今の光でどれだけの傷をこの子が負ったのかは解らないけれど、まだ助かるかもしれない。 その一心、だった。 ちゃんと生きようとしてるのに。 「やだぁ!!いや…だぁ……!」 捨てられて、ひとりぼっちになっても、鉄くずの下敷きになっても、声を上げて、自分の居場所を訴えていたのに。 どうしてなんだろう。人を傷つける力はあんなに有るくせに、こんな時ばかり力が足りない。 何度も何度も殴りつけようとも、その壁は厚く硬すぎて、敵わなかった。 にゃあ、と、か細い一声が聞こえる。ああ、ほら!まだ生きている! 「だれ、か……誰かあぁ…!!」 声を限りに叫んだ。 喉が張り裂けそうなくらいに、初めて人を求める言葉を大きく訴えた。 自分の力だけでは、無理だった。ひとりで出来る事ばかりではないって、解った。もう解ったから。 「まだ……まだここに…!!」 出会ったばかりなのに。お互いの事、あまり知らないのに。 きっとまだ、これからもっと仲良くなれる筈なんだ。 一緒にいる事ができれば、最初は解りあえなくったって、きっと時間をかけて。 「誰か…お願い……」 まだ少ししか、この世界の事を知らない。 もっと色々美味しいもの食べて、色んなものを見て、たくさんの事を、これから知っていく事が出来るはずなんだ。 これからなんだから。折角、ここに存在ん(いる)だから。 悔しいだろうな、と思う。こんな所で死にたくないって気持ち、よく解る。 だって、私だって今ならおんなじ気持ちなんだもの。散々、逃げてきておいて何だけど本当は。 漠然としてるけれど。凄く今更だけど。未だに理由が解らないけれど。 わたしも、「生きていたい」って、今なら思えるから。 だから、 「…助けて、よ」 自分以外の誰かに、助けを求める事を―――――今更だけど許して欲しい。 「……助けてよおぉ!!」 ずっと人を拒み続けてきた自分には、結局何も出来なかった。 信じる気持ちで呼びかけても、奇跡が起きて壊れた時計が動き出すわけも無い。 大好きな彼らは、ここには居ないのだ。見守ってくれていても、此処には、居ないのだ。 思い出に助けを求めるばかりで、周りにいる誰をも見ようとしなかった自分が、ここに居る。 深く暗い淵で助けを求めてみても、救われない事に、途方も無い程に愚かだった自分を、思い知る。 赤い雪が降る。 いくつもいくつも、後から後から降り積もる。 潜んでは弾けて、舞っては落ちて。 ずっと昔の思い出を引っ張り出してうじうじ感傷に浸るのは、もうここで終わりにしよう。 そんな思いを込めて、彼らを呼ぶ。 「……お父さん……お母さん」 両腕にあった小さな温もりは、もう、無い。 甘えたような最期の鳴き声も、感触も、どこにも残さずに消え去った。 「ほら、雪が、ふるよ」 どこにも、いない。 けれど、自分の中には確かに在る。 彼らが居た思い出が、彼らが生きていたという記憶が、それがある限りは存在する。 大丈夫だ。もう勘違いはしない。理解をしたから。 頬を、とめどなく涙が滑り落ちる。 堰を切ったように、目の奥から溢れて止まらなかった。 「さよ、なら」 ちゃんと、言わなければならない事だよね。もしかしたら、私もすぐに「そちら」に行くかもしれないけれど。 言いながら目を閉じると、この世界に来て出会った人の顔が脳裏に浮かんだ。 嫌な顔をされても、ちゃんと挨拶をしてくればよかったな、と、かすかに苦く笑う。 不思議だね。たった10日程の事が、こんなにも自分の中で大きい事だなんて。 暗く静かな眠りの誘いに、誰かが微かに歌うのを聞いた。 |
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