ボロゴーヴは穴の中





普段は後ろへと流している髪が雨に濡れて前へと落ちてくる。
視界を時折遮ろうとする赤いそれを鬱陶しく跳ね除けながら、アッシュは肩に担ぐその物体を抱えなおした。
全く、一体何をやっているんだろう自分は、という自問は未だに心中に響き渡るが、もう半ば諦めている。
ぱしゃん、と一歩ずつブーツで水を跳ねながら、自分が当初目指していた方向とは逆方向へ向かっていた。
上の階層を目指していた筈なのに、今じゃ下へと、旧市街へと向かっているのである。しかも徒歩で。
自分はずぶ濡れで、黒いコートに包まれた大きな物体を肩に抱えた状態なんて目立ちすぎて下手な交通機関を使えない。
この七面倒さに盛大な苛立ちを眉間に隠さず露わにしながら、幼い頃の記憶を頼りに通じる道を人目を避けて進んだ。
しかしながら肩の「これ」があると、大きさと形的にどうやっても人体を運んでいる不審者にしか見えない。
ごくたまにすれ違う人間の寄越してくる、触れないながらも強い関心を抱いているのが解る視線が不愉快で舌を打った。
それでも、目深にコートを被った顔の見えない男が傷だらけの人間(しかも追手付き)を運んでいるという構図よりはマシだろう。
教団の人間に見つからない事を祈るばかりだ。
この状況だってそう。
宿に連れて帰って事情をきいてやる、なんてところまで義理はないし、そうなったらシンクの辛辣な毒舌が目に浮かぶ。
かといって、捨て置こうかと、そうも思えたが、最後にこの女を気絶させてしまったのは自分だ。
そのまま見つかって殺されてしまうのもそうだが、焦っていた様子を思うと間に合わなかったという事態になるのも
自分の所為みたいになってしまうように感じた。
後味が悪い。非常に。
そういうわけで、そのルエベウスとやらに置いて去るのが、一番筋のいくような方法だと思えた。





「…ここか」

旧市街の近く、と言えばその範囲は決して狭くない。
ルエベウスという施設がその中で特定出来るものだろうかと疑わしかったが、心配なかった。
そこは、多くは廃墟になった建物が無造作に立ち並ぶ中でも郡を抜いて大きく、整った造りをしている。
自分の忌まわしい記憶にもある研究施設―――――音機関都市ベルケンドにあるものとよく似ている。
不快な思いを無視して飲み込みつつ、その建物の正体をつきとめる事に専念する。
何よりも正面ゲートに埋め込まれたプレートの文字が、女が口にしていた場所である事を明示していた。
『第五音素専門研究機関ルエベウス』
研究を行うだろう建物の後方には、巨大なドーム型の炉のようなものが四つ程見える。
どうやら、ゴミ処理業務を建前に行っているのだろうな、と遠目からして判断出来た。
左から三番目のドームの天井が開放され、ケーブルに吊るされた貨物車が不要物を次々に落としていくのが見える。
それを、表の看板にも掲げているように、研究によって生み出された最新の第五音素利用の技術で処理をする、と。
紛れもない、ゴミ処理場。邪推する所があるのなら、その研究機関に国の上層部の息が掛かっているだろう事だ。
改めて思うが、こんな場所でこの女は一体何を成さなければならない所以があるのだろう。
甚だ疑問で眉を顰めてみるも、所詮は他人事だと片付けないときりがない。
そう思い至り、ひとまず正面ゲートから離れる事にする。置き去るにしたって、こんなに目に付きやすい場所では
意味がなくなってしまうだろう、と裏手に回る事にした。










ズキズキとした痛みは長く続くと、それにさえもいつの間にか慣れてしまう。

「……うっ」
けれども、ある種の安寧を保つ傷ついたその足を突然外部から圧迫されれば、これほど強烈な気付けはない。
ぎゅっ、と、容赦の無い締め付けに思わず呻き声を上げて背筋を反らせる。
白いのか黒いのか、何も映さない意識の世界の中で、一体何が起こったのかと狼狽する所に声が振ってきた。

「……気がついたか」

夢うつつを彷徨う自分の耳を、聞き覚えのある声が打つ。
ここは何処か、一体何をしていたのか、咄嗟に現状を理解出来なくて焦ったが、思考を働かせるのも億劫に感じた。
霞のように曖昧な意識、麻痺しかけた痛みと、どうしようもないまでの疲労感。
重く感じる身体もそうだが、瞼さえも上手く開く事ができないのに理由をなすりつけてこのまま眠りたい。
壁に預けた背をずらし、横になりたい衝動に襲われるが、それが許されない事は解っていたから
必死に狭い視界にものを捉えようとした。
やや小降りになったものの、続く雨は、いつの間にか被せられた黒い布――――
恐らく先程出会った人物が着ていた外套に遮られている。
じんじんと痛みの名残を放つ足の方に目を向けると、ズボンをたくし上げた素足に白い布を巻きつけている手が見える。
無骨そうな、けれども丁寧な仕草でもう一巡りさせると、仕上げとばかりにしっかりと縛り付ける。
先程の圧迫はこれか。またもぎゅう、と形容するような激痛に襲われて歯を食いしばった。
どんなに頑張ってみても、痛みだけは、平和慣れした身体にこたえる。情け無い呻き声が口から漏れた。
「…あ、ぃっ……」
目の前のその人物は特に反応する事はなく、ズボンの裾を元に戻すと傍らの荷物を手繰り寄せる。
そうして中から小さな物体を二つ程取り出すと、動けずにいる此方の膝の上に転がして、さっさと立ち上がった。

「お前が暴れるから、矢を抜くのが少し乱暴になった」

淡々と、発せられる、声。
思い当たるそれよりも少しだけ低いけれど、自分の記憶の中にある。
そう思い起こすと胸が痛んだ。
その響きで自分に掛けられた言葉といえば、そんなに多くはなくて、しかもろくなものじゃない。
「………、…」
口を開こうにも声帯を震わせようにも気力が足りないのに加え、何より掛けたい言葉が見つからない。
せめて、けれど、と、目がほとんど開かないままも、目の前にいる人間が誰なのかを――――
いいや、「彼」なのかどうかを確かめたかった。そんな筈はないと解っていながら。

ゆっくりと、足先から視線をなぞらせていく。
地に溜まった水に浸された黒いブーツ。
同じく黒を基調とした法衣のような衣装には、赤く彩られた模様が見える。
背はそんなに低くもないが高くもない――――少年のような背格好なのに、腰には長い剣を差している。
全てが雨に濡れてしまっているのは、自分に外套を譲ってしまっているからだ。ちくりと罪悪感が疼いた。
そして、長い髪は赤く、炎のようで――――――



(…………え…?)



やや伏せられたその瞳の色は、宝石の発する色光と同じくエメラルドグリーン。



(…………ご主じ……様…?)



その顔は。
絶対に此処には居ないはずの人物。声が似ていたから、まさかと思ってはいたけれど。
いいや、そんな筈はない。彼は屋敷から出られないのだから。それ以前に、自分の前に、もう立つはずが無い。
どうして…どうして。
開かない目を何とかしてこじ開け、もっとよく見ようとした矢先、ふい、と少年はこちらに背を向けた。
腰に届くまでの長い髪が水分を多分に含んで揺れ、その背が遠ざかり始める。
パシャンと水を跳ねる足音が自分を置いていくのが、どこか寂しかった。
後ろ姿まで同じだ。やはり、彼は―――――

「…悪かったな」
「…………っ」

違う。
思わず呼ぼうとしてしまった名前を、引っ込めた。
幻覚なのか、真実なのか、去り往くその姿を最後までは見送れずに、疲労感に耐えかねた瞼が下りる。
やっぱり違った。それだけで解る。
だって、あの子は絶対に、謝ったりしないもの。










「―――――って、駄目駄目…」
そのまま沈みかけた眠りの淵から、何とか「時間が無い」という強迫観念で脱出する。
一度休んでしまえば、安楽に甘えたいと身体全部が訴えてくるが、どうにかその誘惑を撥ね退けた。
ぺしっ と顔の側面をはたいて、無理やり意識を覚醒させ、辺りを見回す。
灰色―――――そう表現するのがピッタリな、荒廃した町並みが目に映った。寂しげなそこには人の気配が微塵もない。
その風景の中に、あの黒い服の人物の姿は何処にも無かった。
瞬きの間だと思っていたのに、少しの間気絶していたのだろうか。雨も、小降りになっている。
東の空の雲が晴れていたが、もう太陽は間逆の位置にあり、辺りは雨雲を透した余韻で照らされている程度である。
振り仰げば、背を預けていたそこは高く無機質な塀。ほんの少し、ドーム型の巨大な何かの天辺が見えた。
外を隔てるその外壁の向こう側からは、絶えず機械音が聞こえてくる。
(ここって…もしかして…)
俄かに湧いた期待感は、おそらく裏切られる事はないだろう。
目指していたゴミ処理場…ナントカ研究機関『ルエベウス』とやらに辿り着く事ができたに違いなかった。
自力でと言う訳にはいかなかったのが良心の痛み所だが、それにしたって最後の最後に何と運のいい事か。
こんなに怪しいなりをしている自分を助け、更には目的地まで送り届けてくれるという、奇特な人に出会えるなんて。
「……ちょっと、恐い人だったような気もするけど…」
無我夢中だったし、あまりはっきりとは覚えていないけれど。
始終ぴりぴりと怒っているような口調だったし、結構心に“くる”事をずかずか言うし(それはここの世界の人みんなそうなの?
と最近思えてきた)、色々乱暴だったし。
印象程度にしか残ってはいないが、記憶の中の彼の人物の言動及び行動を思い出してポツリと呟いてみる。
それでも、何だかんだ言いつつ優しかった、みたいな感覚が残っている。
現に自分に被さっている雨避けの外套や、手当てされた足を見るに、外はともかく根は優しい人なんだ。多分。
「……でも、また何で…」
それが何を間違って、ルークに見えてしまうという症状が出たのだろう。
色々と助けてくれたガイやペールに見間違えてしまうというのなら、有り得るのに。
―――――意識しすぎている
何気なく、カルミアに言われた事の数々が頭に湧いて出てきた。
「…いやいやいや…」
ないないそれはないから、とじっくり頭を横に振る。
ああでもそうだ、色事とは真逆の意味で意識している所なら思い当たる事もある。今現在、恐い人ランクではルークが一位だ。
(………って、そ、そんな事考えてる場合じゃないわよね…)
もう直ぐ、夜の闇が迫る。ゴミの回収を終えた炉が閉まってしまえば、もう取り戻し様がないのだ。
「急がなきゃ…、…わっ?」
立ち上がろうとした所で膝の上で何かが転がるのに気付き、慌てて地に落ちそうになったそれらを掴む。
手の中に納まった、二個の物体の予想外の感触に首を傾げた。
「…何これ?」
そのうちの一つを手に取って指で圧力を加えると、それはプニッと形を歪ませる。
赤い透明な球体で、この弾力。鼻に近付けて嗅いでみると、リンゴの甘い香りがした。
「………グミ?」
あの、お子様定番の駄菓子の。過去に数度くらいしか食べた事はなかったが(幼稚園のおやつの時間に)。
何故にここに、こんなものがあるのかと、いまいち冴えない頭を捻ってみた。
そういえば、あの恩人さん…結局名前も聞けなかったが、あの人が去り際に置いていったような。
…何であの状況で瀕死の自分にグミを。
年増扱いされた事は数あれど、子供扱いされたのは初めてなだぁ、と、しみじみ何だか新鮮且つ微妙な気持ちになった。
まぁ、まだお菓子のグミだと完全に決まったわけではないし、そこは異世界。
その存在には他の意義があるのかもしれない、と、使い道は解らないが有難く上着のポケットに突っ込ませて貰った。

「よし」

今度こそ、しっかりと地を踏みしめて高い――――公爵家のそれよりも高いだろう外壁と対峙する。
でも、大丈夫。このくらいの高さなら、確かさっきは届いた筈だ。
逃走劇の最中、だんだんと自分の身体能力の限界値を知る事が出来てきた。
怪力、俊足、超跳躍力、なんて言ってもそれにだって限界はあるし、届かない場所もあった。
大体が、元の自分の能力の数倍といった所だろうか。戸惑えるそれにも最初の頃よりは段々慣れてきたような気がする。
じり、と、充分に地を蹴れるように足を広げ、膝のバネに力を込めた。
筋肉を動かした事で、切断された箇所の筋肉がズキンと疼いたが、耐えられない程ではない。
「…っしょ!」
小気味のいい音といささか間の抜けた掛け声と共に身体を空中へと弾けさせ、無我夢中で外壁の天辺に縋り付く。
有刺鉄線等が張られてなくて良かった。安堵の息を吐きながら必死でよじ登り、眼前に広がる光景に暫し驚嘆する。
「……、はー…」
今までこの世界で見かけてきた、中世のファンタジー世界とは違った雰囲気。
どちらかと言えばおかしな表現だが、馴染みなくも懐かしいと言うべきか。
よく近未来をイメージした文化施設に見られるような、最先端の技術をひけらかすようなデザインがある。
しかし此処にあるのものは見かけ騙しではなく、完成された相応の技術力を以てして稼動しているようだ。
この世界の独特のテイストを孕みつつ、多くの機械や設備に溢れている。
不思議とファンタジーとテクノロジーがマッチした場所だった。
自分が考えていたよりも、この世界の技術水準はずっと高いらしい。「電気」はなく「音素」という様々な属性に類別される
エネルギーを用いて動く世界。進歩する根底から自分達の世界とは違っているのだ。
(凄い…けど、感心してられない)
えい、と潜んでいた壁の上から飛び降りた。(が、今回は恐くて目を瞑ってしまったのでいつもみたいに転んだ)
高校の体育教師のアドバイスはやはり間違っていなかったのかと尻をさすりつつ、物陰に慌てて避難する。
注意深く内部の様子を窺ってみるも、動いている機械(ガイ曰く音機関だとか譜業とかいうらしい)に人の姿は無く、
全てのそれは自動で役目を全うしているらしい。
それでも出来うる限り身を隠しながら、巨大な炉の方へと向かった。
この施設の主役を主張するようなそれは、体育館と同じ位の大きさがあり、同じものが4つ並んで建っている。
その中でひとつだけ、天井部分が開いているものがあり、ケーブルに吊るされた車両から物がガラガラと放り込まれていく。
(多分、あそこだ)
おそらくあれが、今日起動を始める第三高炉なのだろう。
あの天井が一度閉じれば、中の物を全て処理し尽くすまでおよそ3日は開かないのだとカルミアには聞いた。
日が没してから、もう随分と経つ。収拾を終えてあれが閉じるまで、そう時間はないだろう。
今から入って、大量のゴミの中から懐中時計を捜し出して、無事に戻って来れるのか。
残念ながら、可能な事ではないのは、確かだ。
「………………」
無理に決まってる、そんなの。こんなに大きいのに。
棒のように固まってしまった足で、困り果ててその場に立ち尽くしながら、そびえ立つ「棺おけ」を見上げる。
どうすればいい、なんて。ここまで来てまだ迷うなんて。
でも。
暫らく考え込んだ末に、目に付いた作業用に備え付けられてある梯子の一段目を掴む。
それは大きく口を開けるドームの頂点付近まで続いている。
唇を噛んで、もう一段上を反対の手で掴み、足も掛けた。
だって、だってと絶えず言い訳が心の中で響き渡る。
だってもう、引き返せる先なんてないんだ。帰れる場所もどこにもない。戻っても殺される。進んでも死ぬ。
唇に痛いほど、歯を立てた。
どうしようもないんじゃないか、と決心のつかないまま、上るしかないかった。
自分のやるべき事が、進む先が、そこしにか無いんだと思うから。



「ひ…ひええぇぇ……たか、いっ……!」



先程はそれよりも随分危ない場所を跳んだり走ったりしていたというのに、いざ熱が冷めて冷静な頭でこの状況に置かれる
と、あまりの恐怖で身が竦んだ。何というか、血が昇っていたから出来た事と言おうか。キレた勢いって素晴しい。
叶うのならばあの時の自分に戻りたい、と霞む地面を視界の端に捉えてガタガタ震える。
命綱も何も着けない丸腰の状態で、力が抜けそうになる梯子を掴む手だけが頼り。
こんなにギリギリの状態って、日常生活ではそう無い、多分体験する事もないだろうと踏んでいたのに。
「うう…」
感覚の無くなりそうな手を、必死で動かしてもう一段上を掴む。
雨に濡れて滑りやすくなっている段に気をつけて足を踏ん張った。恐い恐いと思いながらも、目は絶対に先を見据える。
何で、自分はここまでしているんだろうと、ふとどこかで自問する声が頭に響いた。
自分のためだ、あれは何を差し置いても大切ものなんだと言えば片付くものだけれど。

(何で…)

今度は意識で、自問した。
(……何で、ここまで出来る自分を…知らないでいたんだろう)
噛み締めすぎた唇に舌が触れると、鉄の味がした。
高い場所は風が強く、バサバサと外套が煽られ、俯く自分の頬に髪が打ちつけられる。
執着心ともとれる力でガッチリと梯子を掴む自分の汚れた両手を見ながら、言い知れない後悔に胸が痛んだ。
最後だからって無茶をしてきてしまったけれど、こんな風に、行動を起こす勇気を自分だって持っていたんだ。
周りからどんな風に言われたって、されたって、殺されかけたって、こうして抵抗できるのに。
どうしてあの世界では――――元の世界にいた自分は、何も出来ずにいたんだろう。
楽しそうに談笑しているクラスメイトに、アルバイト仲間に、一言からでも話しかける事が出来なかったんだろう。
交友なんて必要ないって言うのは、嘘だ。あんな風に五月蝿い人達と自分は違うんだなんて、嘘だ。
どうしようもないくらいの嫉妬と寂しさ。勇気の持てなかった自分。
もしももう一度元の世界に戻れるような事があったら、少しは自分を、変えたいなと思う。
そしてそれは、少なからず可能な事だと、皮肉にも今なら解ったのに。





ドームの頂点に着いて、その口を開けた穴の中を覗き込む。
広いそこは、地面も掘り下げられていて外から見るよりも大きな空間だった。
内側のライトが、底に溜まった大量のゴミを明るく照らしだしている。ああ、あんなに沢山、と目が回りそうになった。
予測はついていたものの、あの中からたった一つを捜し出すなんて、砂漠の中で一粒の砂金を求めるようなものだ。
と、あまりの途方の無さに辟易していた自分の頭の上で無機質な機械音がしたな、と思うと。
「…ん?」
確認しようと首を持ち上げようとするも、それは適わなかった。
どさどさと、無情にも色んな物が容赦なく後頭部に降り注いで来る。
「だっ…!…っわ!ぎゃあああぁぁ――――!?」
突然の事に驚いて手を滑らせてしまい、覚悟も何も出来ないまま真っ逆さまにゴミと一緒に炉の中へと落ちる。
言わずもがな、運搬用の貨物列車から投げ入れられた廃棄物に巻き込まれたらしい。
どすん!と、め一杯積み上げられた芳しい臭いを放つ山の上にダイブしてしまった。
「うっ…うえぇ…」
落ちた所が固い地面ではないために身体にダメージは無かったが、精神にダメージを与える実に嫌なクッションである。
もがきつつ天井を見上げて、自分の置かれた状況を理解した。
高い天井にぽっかりと空いた穴から、重い雲の垂れ下がる暮れゆく空が見える。
落ちてしまったのだ、「棺おけ」の中へ。
もう「死」は確定か、と諦めの感情がわく一方、だったらせめてその前に見つけなければと、慌てて立ち上がった。
足場の不安定さに苦戦しつつ、付着した汚れを掃う。上等そうな外套が台無しだ。借り物だし、外に置いてくればよかった。
「えーと…」
気を取り直して辺りを見渡すも、物の海の中をどこから捜していいやら検討もつかない。
とにかく、資材だとか鉄屑だとか、そんなものではなく。もっと上等そうな物が纏めて捨てられている場所はないだろうか。
何しろファブレ公爵家のゴミだ。捨てられる物もそこいらの物とは格が違うのだと思う、きっと。
「……あー…」
に、したって多すぎる。
他の貴族の家から出された物も混じっているだろうから、尚更厄介だ。
今漁っている山…確かに品格の漂うものが出てくるが、これが本当にファブレ家の物なのかどうか。
「…ちょ…な、何よこれ!」
適当に掘り返していると、まるで新品のドレスが束になって捨てられているのを見つけた。
色とりどりの宝石と極上の品質の生地とレースで飾り付けられた、趣味を疑いたくなる程高そうな様は
思わず「アホか!!」と突っ込みたくなる。それが大量に。
傍らには、まるで使われなくなった玩具のような扱いで、これまた煌びやかな装飾品類が無造作に袋に突っ込まれている。
何だか眩暈さえした。
「し、し、信じられない…!どういう神経しててこんな事が出来んの…!?」
わなわなと震えながら、これも、ああこれも捨てるなんて勿体無いっ、とざくざく発掘しては悲鳴を上げる。
こんな事をしている場合ではないと解りつつも、染み付いた貧乏癖が目の前の光景を捨て置けない。
(あああ…ここにあるものみんな売れれば、今までの惨めな生活とも完全におさらばできるのに!)
と、悔やむに悔やみきれない。無い所には無いもの。有る所には腐る程あるもの。それが金だと思い知った。
「うわ、これって生ゴミなの…?まだ全然食べられそうなのに…」
ここの家は今日立食パーティーでも開催したのだろうか。凝った作りだったのだろうオードブルや、メインの肉、魚料理
ケーキなどのデザート類が手を付けられないままの形で捨てられている。
あっちは見るにパン屋、こっちはお菓子屋、惣菜屋なんかもあるのだろうか。とても豊かな国なんだな、と感心した。
食べ物と言わず、その日に売れなかった物やまだ使えそうな物が、ここで大量にゴミと一緒にされている。
「だったら、私達に分けてよね…」
ここに来るまでに見かけた貧民街にも、飢えている人は沢山いるだろうに。何だか虚しい。豊かさの裏はどこもそうだ。

…ぐう。
と、突然お腹が鳴った。生理現象と言えど、間抜けな音に何だかガクリと脱力感に見舞われる。
(…そういえば…お腹空いたなぁ……)
記憶を振り返れば、朝から何も食べていないし飲んでない。
思わずゴミ袋に目がいってヨダレを垂らしそうになるが、ぐっと堪えて首を横に振り払う。
「な、何て事を……何考えてんの自分!ゴミなんだってば、ゴミ!」
勿体無いとは思いつつも、一度は捨てられた物を漁って食べる、なんて。
万が一、いずれそうなる事も考えられない事では無かったが、それが今だとはまだ思いたくない。
まだもうちょっとプライドを捨ててなるもんか、と、自分を叱咤した。
とにかく、何だ。余計な事はもう、一切無視して集中するんだ自分、と誰もいないのに咳払いをして体裁を整えた。
さあ、と意気込んだ矢先。

…――――…

「…え、」
微かな、ひどく小さなその音を耳が拾う。
反応はするものの、幻聴だろうと作業の手を止めずにいたが。

…――――
「……、」
途切れた音の合間に混じりこんで来る「何か」。
加えて、カリカリ…という、鋭いものが、例えば爪が壁を引っ掻くような音。
「な…何…?」
どうやら気のせいでは、ない。
自分以外に生命体などいないと思っていたそこに、何かがいる。鼠だろうか、だったら有り得ない話ではない。
気になったので、取り合えず先程から聞こえる鳴き声らしきもので正体を特定しようと耳を澄ませた。


……――――ニャァ…


「……って、猫…!?」
また何で、こんな所に、と耳を疑いつつ慎重にその声を拾おうとした。
微かな機械音の他は静まり返った炉の中、どこからともなく何度もニャア、ニャアと鳴く声と、カリカリという音が聞こえる。
(猫…よね、やっぱり……な、何でそんなものまで回収しちゃうのよ…)
それでも、今は構っていられないんだからと自分に言い聞かせるも。
意識の端にその存在が明らかになると、どうしても気になるというもので。
「……ああ、もう…」
何とも捨て置き辛くて重い腰を上げると、鳴き声の元を探りつつ移動する。
動物の感情なんて解らないが、どこか必死な鳴き声が、しきりに引っ掻く爪の音が、胸に刺さった。
カリカリ、ニャアニャアという音は、ずっと続いている。生きようともがいているのだと、そんな風に思えた。



「……あれ…?」
直ぐ近くまで来たと思うのに、目の前にはそれと思しきものが何もない。
くず鉄や木片が積みあがり、その中心に巨大な音機関の成れの果てが、でん、と鎮座している。
鳴き声は近い…というか、その大きな音機関付近から漏れ出しているような。
中に入っている…という訳ではなさそうだし、周辺に目を向けてみても猫なんて影も形も見当たらない。
「まさか……まさか、よね」
下敷きになっているなんてことは。そうなったら生きていられないだろうし。
別に誰に繕うつもりもないが、一応そう口で呟きながら、目の前の一抱え以上の大きさはある鉄塊に手を掛ける。
恐る恐る持ち上げると、ガラガラと周囲の物が崩れ落ちて埃が舞う中、ニャア という鳴き声が現実味を帯びて大きくなった。
こんなに大きな音機関が上に圧し掛かっていたのにも関らず、回りの鉄屑に守られて奇跡的に潰れなかった箱がある。
その上の部分が、もそっ、と動いた。
「うわ、やっぱり!」
慌てて廃棄音機関をポイッと投げ捨てると、遠く背後で響き渡る大惨事の轟音を無視して箱の元へ走り寄る。
箱は無事だけれど、問題は中身だ。完全に無事とまではいかないんじゃ…と、恐る恐る蓋を開ける。
と、まだ生まれて少ししか経っていないのだろう、小さな猫が飛び出すように顔を上げた。
「ニャアッ」
「おぅわぁッ!」
吃驚して、思わず身を引いてしまう。
そんな此方の様子にはお構い無しに、開放感に酔うように、プルプルッと小さな身体を震わせた。
「あ、あ……あああもー…吃驚させないでよ…」
掛ける言葉も無視して、仔猫はトトッと箱を飛び出すと、どこぞかへと歩いていく。
助けてやったというのに、何とも素っ気無いものだ。まあ、猫に礼を求めるつもりもないが。
「…ねえ、早く逃げた方がいいんだからねー」
解らないだろうなとは思いつつ、一応はそう声を掛けて作業に戻る事にする。
まあ、猫なんて何処へでも逃げていくし、不器用な人間とは違ってうまくやるだろう。
自分にとっての出口は、あの高い高い場所にある穴のみだし、そんな所まで連れて行ってやる事は出来ない。
自分だって今となってはどう脱出すればいいものか。


「……はぁ」
溜息をつきつつ、気の乗らない風に漁る手を動かし続けた。
お腹が減りすぎて集中力が散漫になりがちだ。かつ、この途方も無い山がやる気を削いでいく。
ついつい余所見をすると、先程助けた仔猫が少し離れた所で何かをしている。
まだいたのか。
気にしていては駄目だ、駄目だ、集中、集中…と、言い聞かせながらも、
「…何してるの?」
結局近付いている自分がいる。
「…あ!ゴミなんて食べちゃ――――…、…あー、関係ないか…」
相手は猫だ。ゴミも何も、目の前に食べ物がある、という状況以外の何でもない。
人間みたいに、つまらない事にこだわったり、意地を張ったりなんてしない。
(お腹、すいてるんだもの……当たり前だよ、ね)
食べたいから、食べるんだ。それは至極当たり前の事だ。
先程、卑しくも散々物色していた、貴族の家から捨てられたパーティーの残り物を、仔猫は一生懸命貪っていた。
美味しそうに、がつがつと食べては顔についたソースを舐め、またがつがつと肉や魚にかぶりつく。
よっぽどお腹が空いていたらしい。
暫し、その場にしゃがんで微笑ましい気分で眺め見る。

………………………。

………………………ぐう。

(ああぁぁ………美味しそうだな…)
何だかもう、プライドって何?それって美味しいの?という気分になってきた。青いオーラがどんよりと背後に垂れ下がる。
「…………」
ぐうぐうと鳴り止まないお腹に観念して、がっくりと肩を落としつつ、ついにローストビーフの一切れを摘まむ。
しぶしぶながらも、ぱくりと一口食べると、一流シェフが腕をふるった味。
「お…っ、おいしい…!」
あまりの感動に、続いてもう一口。
まったく、食べるものだけは何日公爵家にいたとしても、生まれた時からの貧乏生活で慣れる事は無かった。
例えいちいち五月蝿いと言われても、この有難みと感動は尽きるところが無い。
じっくりと仕込みの施された肉が舌に絡まる感触、工夫の凝らされたオードブルの未知の食感。
ゴミだと喚いていた自分が、今は愚の骨頂に思える。
傍らの仔猫も、負けじとますますがっついた。
今日の朝に焼かれたのだろう、まだ硬いのは表面だけのパンに、適当に見繕った具を挟み込んでサンドイッチにしてみた。
もう立派な晩御飯だ。おいしい美味しい、と齧りついては感動しつつ、ふと、思い出す。
(……そういえば…)
初めてこの世界に来た日の夜も、こんな感じだった。
朝からずっと飲まず食わずで走りまくって、訳が解らないまま刃物向けられて罵倒されて、牢屋に放り込まれて。
でも、その最悪な一日の終わりに、ルークが食事を用意してくれたのだった。
サンドイッチと、暖かい紅茶とスープが、おいしくて堪らなかった。今まで生きてきた中で、一番美味しかったんだ。
「………ぅ……」
じわっ、と、目の奥から何かが込み上げそうになったが、耐えた。
泣けない事を嘆いていたけれど、ルークを打ったあの時から、何かと涙腺が活発になっている。
でも、今は泣いていい時じゃない。そんな立場じゃ、ない。
突然食事の手を止めたこちらの様子を、不思議そうに猫が窺うように見上げてくる。
他人から、あんな風にされたのは初めてだ。
みんな、私の事なんて気にも留めてくれなくて、ずっと、気がついても、もらえなくて。
折角自分の事を見てくれる人だったのに、なのに私は―――――…「大嫌い」なんて言ってぶってしまったりして。
でも、許せないんだ。それ以上に、彼には許せない事をされた。
現にここにいるのだって、根本からして彼のせいだし、と、葛藤する心が生まれる。
ぐるぐると脳内でルーク論争を始めて頭を抱えた所に、

「ニャア」

という声が掛かる。いや、実際呼ばれたわけでもないのだろうが、鳴き声に反応してそちらを見ると。
「あれ、お前……口に何を…」
食べ物以外の物―――――何か白い物体を銜えた猫が、此方を見上げていた。


ゴミ漁り…夢主人公がゴミ漁り……本気スミマセン

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