くしゅん、とガイがくしゃみをした後、鼻の下をこする。 「…っあーぁくそ……ひどい天気だな全く……。ほんの少しの間に、俺までビショ濡れだ」 「…………」 雷雲は遥かに遠のいたのだろうか。雨の音のみ、まだ少しうるさく廊下に響く。 普段は使用人が忙しなく行き交うそこに人影はなく、先程の乱闘の痕跡が、弱い材質の大理石の柱等に薄っすら残っている。 言う程ではないが、湿り気を含んだ衣服に体温を奪われて、思わずガイはくしゃみをした。 部屋を出てから何も話さないルークに気を遣っておどけてみるものの、どれも効果をなさない。 暫らく待っても無い応答に、がしがし、と、完全には濡れきっていない金髪を乱暴に扱って水気を払いながら 小さく鼻から息をついた。 (ま……今回ばかりはな) ルークの細かい心中は察せないが、とてつもなくショックを受けているだろう事は、解る。 しかし、それは同情に値する事なのだろうか。今の彼を、可哀想だと思う事は、きっと違う。 これは知らなくてもいい事―――――しかし、一個人としては、この上なく彼に知って欲しい感情だと、そう思えた。 ドアが開けられると、その先に部屋の隅でしゃがみこんでいるペールが見えた。 ベッドの傍らに設置してある棚の植木鉢を、弄っているようだった。花びらの汚れを取っていたらしい。 暫らくまともに顔を合わせていなかったのを思い出して、何となく苦い思いが心に広がる。 しかし振り拭いた彼は、ずぶ濡れな主の姿に少し驚いた顔をした後に、柔らかく微笑んだだけだった。 「……ルーク様、ご無事でしたか」 言いながら、引き出しの中から洗い立てのタオルを取り出し、こちらに差し出してくる。 何で、何も言わないのだろう。 自分のこの様子も不審だろうし、使用人が皆逃げているのなら騒ぎの事も、の事も、知っている筈なのに。 「ほら……何やってんだよ、早く体拭けって。あ、ペール。タオル、俺の分も」 突き出された真っ白なタオルを前に動かない自分に焦れて、ガイが横から引ったくったそれを乱暴にかぶせてくる。 普段自分に宛がわれているような上質なものとは違い、きめが粗く少し肌触りは悪いが、いい匂いがした。 「お怪我など、ございませんか?」 勧められるままにベッドに腰を下ろした自分に、心配そうな、しわ枯れた声が掛けられる。 今の気分には不必要なくらいの優しさに、咄嗟に「違う」という思いが湧いて膝の上の拳に力が入った。 自分は、どこも痛くなんてないんだ。 無事だとか、怪我がないなんて、見りゃわかるだろう。何もされてないのが、直ぐに解るだろう。 傷だらけだったのは、血だらけだったのは、あんなに一目瞭然だったのに、皆、なんで。 「……お顔が少し、腫れていますかな?ガイ、冷やす物と……それと、何か温かい飲み物を」 何となく熱いと感じていた頬に触れ、ペールはそう言ってガイを振り向く。 水気を取っていたタオルを丸めると、ガイは一度頷いてから、こちらを心配そうに窺った。 「ルーク……平気か?」 「…」 問われてまた、何か嫌な違和感を感じて、咄嗟に首を横に振る。 「……だよな。まぁ、恐い事ももう無いからさ。落ち着けよ」 平気なんかじゃない、と。そう受け取られるのも仕方のない返し方だった。 やはりずれた風に解釈を済ませると、ガイは頼まれた物を取りにいくべく部屋を出て行く。 (そうじゃ……ねーよ…) どうして。 なんでみんな、の事を言わないのだろう。 怪我をすると、痛いんだという事くらい知ってる。 血が体の中を巡っているから、動けるんだって事も知ってる。 でも、あんなに沢山外に流してしまっても平気なんだろうか。 部屋に乗り込んできた白光騎士達は皆、本物の、人を斬れる剣を持っていた。 きっとそれを何度となく体に受けたのだろう。そうなら、きっと多分、痛いんだろう。 有り得るはずがないと思い込んでいた世界がこんなにも近かった。 目の前で生きた人間があんな風になっているのに、誰も助けようとしなかった。 誰も彼もが自分の味方をした。 どうしてだ。解らない。そんな事をしろと言った覚えも無い。何かされたわけでもないのに。 「………なんで…」 「ルーク様?」 きり、と奥歯を噛み締めた。 何もかも、何故自分の思う通りに動かないんだろう。屋敷の人間も、も。みんな。 「……怪我してたんだぞ?…俺……俺は何も言ってねぇじゃん!何で勝手に…」 誰に対してとも言えない言葉を喚いてみた。敢えて対象になっているとしたら白光騎士団員達か。 何をどういう風に言葉にすればいいのか解らない。何が許せずに苛ついているのかも理解出来ない。 混乱に興奮する頭を抱えて、ベッドに腰掛けたまま蹲った。 自分の事じゃないのに。 痛いのは、居なくなるのは、自分じゃない、はずなのに。 「……ルーク様…」 かける言葉が見つからないのか、小さく、先程よりも更に心配そうな声でペールが呟く。 それを聞くと、ますます居心地の悪い気分が強くなって、胸が痛んだ。これが何という感情なのか、解らない。 「…………何も、言わなかった、から……だろ」 こん、と下を向いているせいで向き出しの後頭部に温かいもの―――――カップの底が押し当てられた。 これ、と、身分に相応しくない悪ふざけを叱るペールの声が聞こえる。 いつの間に、戻って来ていたのだろう。 慌てて上体を起こすと、行動とはうらはらに真面目な顔をしたガイが目の前に立っていた。 手には言われた通り、冷やしたタオルと、先程頭を小突いてきたと見られる湯気を立たせたカップがある。 「ガイ…」 「俺、」 目を丸くするこちらの様子に構わず、引き締めた顔で、落ち着いたトーンの言葉が紡がれる。 「言ったよな……お前にさ。が殺されるかもしれない事」 胸の痛みが僅かに強くなる。 それが少なからず「罪悪感」の存在の証拠でもあったのに、まだ認め切れなくて顔を横に逸らせた。 自分が関係ない事を、悪くない理由を、必死で探したかった。 「本当に殺されるなんて思わなかったんだ……親父だって…」 可能性は、低くない。と、そう言っていたガイの言葉を覚えている自分を、忌々しく思う。 「……そんな事するはずが…」 段々と小さくなる言い分は、終いには続けられなくなって押し黙った。 知っていたんだ、自分は、どこかでが殺されるかもしれない事を解っていて。 でも、自分が生きてきた今までとは違った流れに、戸惑うばかりで何かする事を選べなかった。 恐いことも気に入らない事も嫌だと言えば回避できたし、自分自身に選択を迫られるような局面も無く。 父親に掛け合わなければならない程の大事にも直面した事もない。 本当にいつも、自分には何もかも関係が無くて。何かが出来る事を期待をされた事も無くて。 だから今回だって、自分以外の誰かが何処かで上手い具合に解決してくれると思っていた。 ――――沢山の足音、脅えきった顔に、微かな鉄の臭いと、思わず掴んでしまった手。 「…」 フラッシュバックするような記憶がちらついて、持病のそれとは別種の頭痛さえ感じた。 思わず眉間に皺を寄せて軽く頭を振る。 「……騎士団は、旦那様の命令に従って動いたんだ。……彼らが悪いんじゃない」 まあ少し私怨はあったかもしれないけどな、と呟くように付け加えるガイの言葉を、黙って耳に流し込んだ。 やり場のない苛立ちをぶつける相手まで擁護されて、もう、自覚するしかない。 結局、大きいにしろ小さいにしろ、がああしなければならなかった原因の一端を、自分は担いでいたのだ。 自らを正当化しきれない事が悔しくて、少なからずとも悪い事をしたというのを信じられなくて、 握る拳は指先と言わず手の平までもが冷たくなってしまったかのように思う。 「ほら」 半ば呆然と視線を彷徨わせる前に、ずい、と熱い液体の入ったカップが差し出された。 湯気を立たせる綺麗なベージュ色をした、香りからしてミルクティーだろう。 恐る恐る見上げると、先程よりも幾分柔らかな表情のガイが、口の端を上げて受け取るのを待っている。 「……………」 促されるまま手に取ると、低下していた体温に、それはとても熱く感じた。 じわりじわりと這い登ってくる暖かさが、不思議に気持ちを落ち着けてくれる。 「とにかく、だ。それでも飲んで、落ち着けって。もう過ぎた事は、後悔したってやり直せるわけじゃない。……元気出せ」 父親とは正反対で、悪い事をした時ほど、ガイも、ペールも自分を怒らない。かえってそれはばつが悪いものだ。 チクチクと痛む心を隠すように眉を顰めてやると、言われた通りカップを傾ける。 元気なんか、出せるものか。大体、人が死ぬかもしれないってのに、もう過ぎた事だなんて… 「…う、甘ッ…」 こくりと一口飲んでみた途端、口内に広がった予想以上の甘味に思わず顔を顰めた。 紅茶の風味もミルクの味も、何もかもを吹っ飛ばすような甘ったるさ。 目を剥いてガイを窺ってみれば、白々しく「うん?」と首を傾げてくる。 「あぁ、はは……慌ててたもんでな、悪い悪い。お前って昔っから、コーヒーでも紅茶でも、 とにかく甘くしないと飲めないじゃないか。そればっか頭に置いてたからなぁ」 「だからって入れ過ぎだろ、これ……」 スプーンで掻き混ぜてみれば、全部溶け切れずにシロップ状になってカップの底に沈殿した砂糖がデロンと引っ掛かってくる。 呆れてうんざりしながら呻くと、もう一度「悪かったって」と詫びを入れながらも悪戯っぽく笑うガイに、思わず口の端が上がった。 「お前なぁ…」 小器用なガイが、こんなに明らさまなミスをするはずがない、絶対にわざとだ。顔もそう言ってる。 「まったく、何をしとるか、ガイ。ルーク様、ペールが淹れなおして参りましょうか。育てていた花から蜜が採れましてな。 たくさん入れても、すっきりとしたお味でございますよ」 ガイを軽く叱ったあと、ペールが此方を向いて優しく言葉を掛けてきてくれる。 穏やかな笑顔に対して、いいや、と、やんわり首を振る。それの方が断然美味そうだと思ったのは確かだが。 「……ま、ガイが折角淹れて来てくれたモンだしな。……仕方ねェから、飲んでやるよ」 まだ控えめでぎこちないが、同じように片方の口の端を上げて負けずに笑んで言ってのけてやった。 何だよそれ、偉そうだなあ、と肩を竦めてみせるガイに、横からペールが当たり前じゃろうと突っ込んでいる。 この遣り取りが普段通り過ぎて、また少し笑ってしまった。ガイも、ペールも、微笑み返してくれる。 ああ、何だ、前とおんなじじゃないか。 一体自分は、ここずっと何に対して苛立っていたのだろう。何を恐れて、何を不満に思っていたのだろう。 自分の居場所は、ずっと、ちゃんと健在していたのに。 なんにも変わらない、これまでと一緒で穏やかで他愛も無い―――― ――――ただ、何だか一人足りないんじゃないかと、いつの間にか、そう感じるようになってしまっただけで。 どうにか飲み干したカップの代わりに冷えたタオルを受け取り、頬に押し当てる。 (……あの馬鹿力……学習能力ねーのかよ) 散々、自らの持つ怪力を自覚する機会はあったろうに、その上で主人を叩くか。 …叩かずにはいられない事を、自分は相手に対してしていたのかもしれないけれど、と、吊り上げた眉の片方を歪める。 じんじんとした感覚は、叩かれた瞬間と、その直後はもっと強くて痛かった。なりに加減はしていたのだろうが。 でも。 両手で挟まれて、顔を逸らせなくて、色々わかった事が、知れた事がある。 今までちゃんと見なかった部分。 老けて見えていたのに、よくよく見れば同じような年頃であったこと。多分これは身なりの問題だ。 地味だ不細工だと印象に任せて悪態をついてやっていたが、やっぱり実際あんまり可愛くなかった事。 でも、多分。本当に多分だけれど、そこから受ける印象は、そんなに嫌いなものじゃないって、事。 そして、どんなに苦しくて辛いと思っているのかが、少なからず伝わってきた。 固定されて逃げられないが故にダイレクトに。まったくもって凄まじく嫌な攻撃だ。 それ以上に、悲しくて堪らないという顔で言い捨てられた「大嫌い」という言葉。 (………何だよ、アイツ) あんな辛そうな顔で言われたって、こっちだってどう思っていいのやら困るというものだ。 いっその事、本気で嫌い切っているのならその方が楽で、解りやすくていいのに。 笑顔はへんてこのくせに。ちゃんと泣けばいいのに。 だから、余計に不細工に見えるんだと教えてやりたいもんだ。 そして。 「……なぁ、」 タオルに顔を埋めながら、傍らについていてくれるガイとペールのどちらにともなしに声を掛けた。 それには、二人揃って反応して振り向いてくれる。 「自分が死ぬかもって時って、恐ぇんかな」 恐いというのは、漠然と解っているつもりだった。でも、もう少し考えていたよりも大変な事なのかもしれない。 痛そうだし、とても嫌な感じな事はよく解った。 「そりゃま、そうだろ……」 酷く苦い顔で笑ったガイの横で、ペールがこちらを真直ぐ見て口を開いた。 「だって、嬉しい事も、楽しい事も、もう感じる事が出来なくなるんですよ」 裏をかえせば、辛い思いをしなくてすむけれど、でも。自分よりも、ガイよりも、沢山のものを見た目の色は深い。 「やりたい事も、おいしい物を食べる事も、綺麗な物を見ることも…笑う事も、二度と出来ませんよ。死んだらね」 思い出に意識を馳せるように、老人は語った。 二度と。 それ以上に、恐ろしい事などありますか、と、考える事を促されるままに、頭で言葉を咀嚼する。 何だか途方も無くて、頭痛がしそうだ。良く解らない。 「それから」 さらに、彼は言った。 「もう、会えなくなるんですよ」 単なる「居なくなる」んじゃなくて。 これが一番恐いですね、と、眼鏡の奥で皺に覆われた目が苦い笑みを浮かべた。 ―――――耳を澄ませば聞こえる微かな音に、いつも一緒だよね、と、思い込みの問いかけを何度もした。 閉ざされた遥か高い天井は外からの光を遮断し、深い地の底に自分を閉じ込めたように思わせる。 あらゆる所から掻き集められた不要なもの達が放つ異臭は、ここが地獄だと錯覚させるには充分な程だった。 でも、ここだ。ここに来なければならなかった。地獄だったとしてもそれでいい。 暗がりにやがて、いくつもの光が生まれ落ちる。 両手をひろげて、上からふわりと舞い散る赤い小さな光を受ける。 巨大な高炉の中、ゴミ山の上に立つ自分を含めて、全ての其処に音無く降り積もる。 「記憶の中でいつでも会える、なんて、詭弁ですよ」 そうしなければ悲しみに耐えられないから、思い出に縋りついて自分を守ろうとするんだと. また部屋の鉢植えの花を撫でながら、語る。 手の平についても、冷たくもなければ、感触すらない。不思議なものだ。 「………お父さん、お母さん」 町に雪は滅多に積もらないけれど、降ることなら、毎年時々あった。 きれいだ、きれいだとはしゃぐ後ろには、微笑む二人が立っていた。 「死んだらもう、どこにもいない」 あとはどれだけ、自分が覚えていられるか。 薄れる記憶に脅えて、どんな声をしていたか、どんな風に過ごしたか、可能な限り忘れないように、 残された人間は縋り付くしかない。 「けれど、生きるのならば、乗り越えなければいけません」 言葉を聞いた少年は、けれどまだ理解を瞳に宿せず、困惑した表情をしていた。 「ほら、雪が、ふるよ」 見知らぬ世界の深淵に、赤い雪が降る。 |
ペールに諭されてますが、きっと半分以下も理解してないだろうルーク
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