震える肩





耳が激しく風を切り、千切れ飛んでいきそうだ。轟々という音ばかりで、何も聞こえない。
あまりの風圧で呼吸が出来ないのと同時に、上手く目を開けていられない。
コメカミを後れ毛がビシビシと何度も打ち付けて、とても痛い。
猛烈な無重力に、内にある臓腑全てがひっくり返って悲鳴を上げているみたいな、奇妙な違和感。
狂おしいまでの、初めての感覚。
乗った事なんか一度もないけれど、きっと世界一の恐さだと謳われるジェットコースターなんかよりも、スリリングだろう。

すごい、すごい――――まるで、空を飛んでいるみたいだ。

体全部で空気をはらむ。
抵抗する大気を、両手を広げて精一杯抱きしめた事で、浮遊感が生まれる。
勿論それは錯覚で、ちゃんと自分は地面に引っ張られている。
ただその感触が、想像していたよりも格段に小さかったのだ。この世界で感じる重力は、地球にいた頃のそれよりも弱い。
叩き付ける雨さえなければ、もっと高く遠く、飛べただろう。
「飛び降りた」というよりも、「飛び立った」という表現が正しい程に、その跳躍は距離を伸ばす。
思わぬ自分の身体能力の向上っぷりに内心ひどく驚いたが、それに怯んでる場合ではない、と、どうにか目を開けた。
常の状態ならば、あの窓から飛んでも裏庭に落ちてしまうのがせいぜいだろうが、そうはならなかった。
屋敷を囲む塀の頂きを足場にしての、二度目の跳躍。
履き古しの薄汚れたスニーカーが石壁を蹴り叩く軽い音と共に、体が再び無重力に晒される。
隔てていたそれを乗り越えた途端に視界は開け、そこには当たり前だが、外の世界が広がっていた。籠の外。
あんなにも自分を絡め取っていた屋敷の中の世界から、こんなにもあっさりと出てくる事が出来てしまった。
ちらりと振り返るが一瞬間のそれでは、もう屋敷の尖塔しか視界に捉える事が出来なかった。
勿論、ルークの部屋も。
もう、戻れない。いいや、飛び出す前から、既に自分の居てもいい場所はなかった。あとは、行ける所まで進むしかないのだ。
最後は行き止まりだと、解ってはいるけれど。

薄暗く、暗鬱な雨に打たれる町並みは、建物の作りやその配列に関しても何から何まで見知ってきた日本のそれとは違う。
(…うわぁ、凄い……)
一番目に付いて、思わず感嘆の息を禁じえなかったのは、何もかもの頂点にそびえ立つ大きな城だ。
天を突くかのようなそれは光輝いているようにさえ見え、街の全てがひれ伏す以外の行動を許されないように思う。
おそらく此処には、王様という奴が住んでいるのだろう。響きが御伽噺めいていて実感が湧かない。
後にルークがその座に納まるのだと聞いた日には、何だか余計にその存在が霞んだ。
公爵邸と城の並ぶ区域からやや下に移動する。
エレベーターのような物が移動手段として設置されていたようだが、自分には必要なかった。
比較的裕福な家が多いエリアなのだろうか。童話のような中世のヨーロッパを思わせる大きな家々は、どれも荘厳な
様相を構えている。大きさはファブレ公爵家の比ではないが、どれも美術品のように美しい。
雨霧に霞んで切なげな趣をかもし出すそれらの屋根の上を、飛ぶ。
駆けては、飛ぶ。ろくに下も見ずに、半ば無我夢中だった。多分普段の自分なら、そんな恐いことは出来ない。
段々と下に行くほど、街は広く大きく、残念だがその美しさは失われていっているようだ。
どうやら、階層社会をそのまま表したような造りになっているらしい。
(べつの世界、なんだ……)
日本人なら誰もが持つ変哲の無い黒茶色の瞳に、その不思議な光景が一杯に写る。
山型になった都市の裾野に広がる薄汚れた下層の町は、まるで地の底まで続いているみたいに見える。
あそこの何処に、あるのだろう。一瞬不安に思ったが、恐い事はない、と心を奮い立たせた。
覚悟は、充分したじゃないか。

「な、何だ……あれは…!?」

風の音以外に、耳に飛び込んできた声に、傍らの遥か下を顧みる。
人通りの無い街の警護にあたっていたのだろう兵士が、2、3人こちらを見上げているのが見えた。
白光騎士団とは違う、もっと無骨な鎧を着た兵士。見回り中の警官みたいなものか。
ああ、やっぱり見つかったか、と眉を顰めた。
予想も見当もついていたけれど、奇跡が起こるなら誰にも見つからずにいられたらよかったのに。

「人…?い、いや、魔物か!?」

明らかに人間では有り得ない光景を目の当たりにして、至極当然な推測じみた結論が叫ばれる。
魔物だ、魔物が出たぞ、と叫ぶ声が混乱を大きくしていくのを聞きながら、もっと、もっと下の世界を目指した。
見たければ見ればいい。
恐がるのなら恐がればいい。
捕まえたいなら追いかけてくればいい。
ただ、私はそれには構っていられないけれど。
今は全部全部、他人事なんだ。どうせ此処で生きる事を認められていないのだもの。どうなったって構いやしない。
また世界が私を放り出したって、大切なものさえ返してくれるなら、文句は言わないんだから。
だから、お願い、返して。















「……たかが人一人でしょう!それに、相手は武器も持っていないんですよ!?どうして、寄って集ってこんな…」

公爵邸の一角。
頑としてこの先の警戒区域には進ませまい、と廊下を塞ぐ兵士達に、ガイは詰め寄った。
それに対して、中でもリーダー格らしい屈強な男が「フン」と煩わしげに鼻を鳴らす。
「寝言を言っているのか。屋敷を破壊し、何人もの兵士に傷を負わせて暴れまわる化け物が、人間だと?笑わせる!」
「…ッ、それは、あんたらが――――」
「ガイ」
思わず声を上げそうになった所に、後ろから名を呼ぶ声が飛び、パシリと腕を掴まれて戒められる。
振り返ると、自分について来ていた同室の庭師の、落ち着け、と言いたげな顔がある。
それに対して、分かってはいるけれど、と、納まらない気持ちを顔に滲ませ、ペールに渋面を見せた。
自分達の身分では、どうする事もできないのだと言いたい彼の気持ちも、自分の中でもそうだと認める気持ちもあって
やむなく言葉を引っ込める。それと同時に、皺を湛えた手も、自分の腕から離れた。
解っている。ペールだって穏やかでいられないのは。
突然の邸内の混乱に、そしてその原因に、気を昂ぶらせた自分を心配して来てくれたのもあるだろうが、何より、
が脱走したとの報せを受けて、彼としても居ても立ってもいられなかったのだろう。
(……どうして、よりにもよって……)
この暴挙は、絶望的にの立場を悪くするだろう。
ただでさえ、今に公爵直々に抹殺の命が下るかもしれないという時に。
理不尽だとは思うが、暫らく牢屋の中で大人しくしてくれてさえいれば、もしかしたら殺されないで済んでいたかもしれない。
投獄の理由もそうだが、何故がこんなにも乱暴な、あるいは性急な行動に出たのか、理解出来なかった。

「おい、負傷者だ!三階の廊下でやられちまったらしい…避難先の部屋に、屋敷の譜術士もいたろ。手当てしてやってくれ」
廊下を阻む兵士達を壁に例えて向こう側から、声が掛けられた。
垣間見ると、三人の兵士が、それぞれグッタリとした同僚に肩を貸した状態で立っている。
本当に、がやったのか―――――覆せない事実と被害状況を目の当たりにして、やりきれない思いが湧いた。
そら見たことか、と、その有様に顔を顰めつつ此方を蔑むように見下す兵士の男に、最早何も言えずに目を伏せる。
どうしようも、ない。
どんなに人間性を主張したところで、化け物だと騒がれるを、「そんなことはない」と
庇い立ててやれる言葉がもう、浮かばない。
それどころか、ふと、脳裏をよぎる。
は人の形を取ってはいるけれど、やはり異界から来た魔物だったのではないのだろうか、と。
考えてみれば未だに「召喚術」なんて正体不明の術式だし、どの系統の書物を調べてみても見当たらない。
それ以上に、の事自体、自分達はろくに知りもしなかったのだ。
まさか、彼女が「それらしく」振舞っていただけなのだと、したら。
ルークと言い争ったり、自分達と他愛ない会話をしたり。悩んだり、時々だけれど、少し笑ったり。
そういった人間的な部分は表面だけの紛い物で、本質は実は化け物に他ならない、そうだとしたら。
馬鹿馬鹿しい考えだ、と否定する一方、もしかしたらとも、思えてしまう。

「た、大変だ!化け物が、屋敷の外へ逃げたぞ!!」

更にその場に、忙しなく鉄のブーツの足音が駆け込んでくる。
現場からの伝令を託った兵士の言葉に、自分も含め全員が目を剥いて顔を上げた。
「な……ど、どういう事だ!ルーク様の部屋まで追い詰めた筈だろう!?」
こちらを蔑視する視線を外して、今しがた負傷して担がれている仲間を横目にしながら、兵士が声を荒げる。
ルークの、誓約による抑止力に頼るつもりだったのか。内心で、大いに舌を打った。
最善の方法であるが、最悪の方法でもある。
を抑えるにはそれしかないのだろうが、ルークに殺しの手伝いをしろというのか。
「あ、ああ……それが、あの化け物……ルーク様の部屋の窓から飛び降りて…」
「…!」
兵士の口から伝えられる真相に、現状がどれだけ芳しくないのかを悟る。
三階から、飛び降りた、だって?その行動の真意が、はかり知れない。
死のリスクを背負わねばならないその選択は、最早助かりたいが為だけの行動ではないように思える。
後ろでペールが、同じように息を呑んでいる気配がする。
は何を目的に逃げ出したのだろう、死を恐れての行動でないのなら、一体。
いいや、今はそれよりも。
「……っ申し訳ありませんが、通して貰いますよ!」
報告内容に聴き入って油断している兵士の傍らを擦り抜け、立ち入りを禁止されている先へと進み出る。
案の定、大胆な行動に出たガイを見とめた兵士が、慌てて怒りの形相を浮かべた。
「き、貴様!使用人の分際で!」
取り押さえようと伸びてくる手を器用な動作で翻弄し、掻い潜りきった先で振り返ると、
に、と口の片方を上げて皮肉に微笑みかけてやる。
「すんませんねぇ。仰る通り、俺はたかだか使用人ですけども、旦那様からは子守役も仰せつかってますんで」
ちら、と兵士達の向こう側にいるペールと目を合わせる。
彼は「まかせた」と訴えてくるような眼差しを寄越しながら、頷いた。
それに小さく頷き返した後、踵を返して東棟の三階にあるルークの部屋を目指して床を蹴る。
「こっ…この!おい、捕まえ…」
挑発的なガイの態度に、頭に血を昇らせた兵士が指示を飛ばそうとするが、横から同僚に押し留められた。
「よせ!行かせろ………ルーク様のご様子が、おかしいんだ」
その声を既に遠く背中に聞きながら、ガイは眉を顰めた。
その通りだ。何よりも心配なのは、自分の主。
記憶を失ってこのかた、蝶よ花よと育てられ、ろくな世間を知らないままのルークだ。
苦しみも、悲しみも、辛さも、痛みも、彼は人並みに知らない。死ぬ事、殺される事――――そんなもの、ましてや、である。
昼に言葉を交わした時の彼の言動を考えるならば、それがよく解った。
だとしたら、こんな形でのとの接触は、ルークにとっては荷が重い。
そして、彼の部屋で事が起こったのならば、ルークはが窓から飛び降りるのを目の前で見なければならなかった。
(まったく……誰が、悪かったんだろうな……)
くそっ、とガイは心の中で毒づいた。
知らなかった彼、そうせざるを得なかった彼女、気付きながらも及ばなかった自分。
どうして。どうしてこうなったのだろう。道を繋いでしまったあの時には、こうなる事が決まっていたのか。
こんな大事にまで及んでしまう事は、既に筋書きにあったのか。
何も無いほうがよかったのか。お互い。平穏でいられるのなら。

ならばあの日の一日の始まりの預言にさえ、彼女の事が一言も詠まれていなかったのは、何故なのだろう。















鉛色の雲も雨も、風も、ひとつも弱まるところを知らなかった。ただ、近かった雷鳴が、若干遠のいた音になった。
到底外に出たいなんて思えない光景が、無造作に開放された窓の外に広がっていた。
どうなってしまったのか、わからない。
その先の事実を知るのが恐くて、全身が石のように固まって動かなかった。
皆がこぞって誉めそやす王家の血筋である証の色をした髪が、びしょ濡れになって顔や体にくっついている。
それだけではなく服もぐっしょりと重くなって、体全体にしな垂れかかってくるようだ。
あの時振り払われた手がまだ所在を見つけられなくて、虚しく彷徨っている。

そんな、公爵子息たりえない姿を晒すルークを見かねた白光騎士団員達が、遠慮がちに声を掛ける。
「ル、ルーク様……」
「ルーク様……?どうなされました」
それに応えるのがひどく億劫なのか、以前反応は無い。
全く耳を貸そうともしないルークを扱いあぐねて、気を利かせた騎士の一人が、彼の濡れた肩に手を置いた。
「と、とにかく、このままではお体に障ります。どうかこちらにお下がりくだ…」
その途端。
触るな、とでも言いたげに、その手が鋭く払われる。
ば、と水分を含んだ朱緋の髪が翻り、どこか呆然としていた先程とは打って変わった、強い感情を込めた顔が振り向く。
明らかな苛立ちを宿した翠の瞳が、部屋一帯の兵士達をねめつけた。

「……なんで、刺した」

かつてない怒り心頭な様子を感じさせる低い声に、仕える者として、誰もが少なからず怯んだ。
彼の、いつもの我儘とも癇癪とも違う不機嫌さに、戸惑いと畏怖を感じて一人として口を開けない。
雨音と、気まずさに身じろぐ微かな鉄の鎧が立てる音だけが、ルークの問いに答えている。
間を置けば、ますますルークの顔に、怒りの色が増した。

「何、勝手に殺そうとしてんだよ!?俺は何も言ってないだろ!?」
は、自分が召喚した。だからは自分のもので、自分の指示でこそ、自由に出来る筈だ。
なのに何で。何故、自分の知り及ばない所で、こんなに事が動いているんだ。
「し、しかし……恐れながら、ルーク様。旦那様は始末しろと…」
「親父が……?」
やっと口をきけた前列の騎士の言葉に、釣りあがった眉毛を訝しげに歪めた。
そうか、仕えている騎士達を動かせるのは主に父母であり、母だとは考えにくい。
しかし話は聞いていたとはいえ、父が殺しの指示を出すなんてまさか、と思っていた。
流石にそこまではしないだろうとたかを括っていたし、そうなる理由も、自分は知らない。
何でだ、と謂れのはっきりしない怒りが、父に対して湧いた。

「ルークッ!…っと…様!ご無事ですか!?」

突然、部屋の空気を割るように聞き馴染みのある声と姿が、壊された入り口から飛び込んで来る。
その人物は部屋一杯に居揃う騎士達を見て慌てて口調を改めた後、此方を見た。
「ガイ……」
途端に、支柱を失ったかのように心が動揺し、顔の筋肉に入れていた力が緩んだ。
頼れる者、信頼の置ける存在の登場に、張り詰めた緊張の糸が一気に切れてしまった。
戸惑いが露わになっているのか、自分の顔を見たガイは心配そうに顔を歪ませると
騎士達の合間を縫って、傍らへと来てくれる。
「ルーク様……一体、何があったんです?」
窓から侵入する嵐に、自分と同じように晒される位置に立ったガイが、静かな声で問うてくる。
「………、」
短い金髪と襟元が弄ばれているのを虚ろに見上げながら、言葉を詰らせた。
周囲への体裁を気にしてか、他人行儀な口調のガイに、返答し辛い。
何よりも、あまりに色んな感情が自分の中で逆巻いて、それが何処かで滞って言葉にならなかった。


「……ルーク…」
周りに聞こえないような声音で、一度呟く。
問いかけにも答えないルークを見て眉を顰めた後、ガイはそのまま部屋の様子に、一通り視線を走らせた。
がそこから飛び降りたのだろう窓が、生々しく口を開けたまま、風雨の侵入を許している。
バタバタと大きな音を轟かせながら、上等な分厚いカーテンが揺れる。
騎士達に無理矢理こじ開けられて、壊れて不格好に閉まらないままの扉。
物々しい光を鈍く反射する無数の鎧が息づく金属音と、未だに剥き出しの刃。
こんな所にいては、心が治まるものも治まる筈がないだろう、と表に出さず舌打ちした。
どこか焦点の合わないルークの瞳を覗き込みつつ、その肩を軽く叩いてやる。
「……取り敢えず、私どもの部屋に来ませんか。……ペールも、待って居ます」
きっと、それが今は一番ルークにとっていいだろうと思われる提案だった。
主もゆっくりと頷くが、やはり周囲にとっては「出過ぎた」ものに違いなかったのだろう。
俄かにざわめく騎士達の中、一人が声を荒げる。
「な、何を言う!ルーク様を、使用人なぞの部屋に…」
「………黙ってろ」
重たげな声音で響く命令。
ルーク直々に騎士の言い分は遮られた。
蔭を落とした瞳のまま、忌々しそうに顔を歪めると同時の一括に、抗議したしもべ達は黙るしかなかった。
周囲の兵士達も一様に不満を顔に残しつつ、しぶしぶ部屋を出るまでの道を、ルークの歩みのために開ける。
白んだ一瞥をそれにくれてやると、ガイは雨水の滴るルークの体をそちらへとゆっくり促した。
ふれた手袋越しに、水分が滲んでくる。したたかな濡れ様だ。
その体が、やはり冷えたのだろうか。

少しだけ、その肩は震えていた。


いつもそうなんですが、ルークの感情を言葉であらわすのが難しい

←back  next→