雨足は、強まるばかりだった。嵐の一歩手前のような天候である。 風が唸り、土をえぐるような大粒の雨が屋根に当たる音が、公爵の執務室に響いていた。 いいや、それよりもうるさく耳に届くのは。 「うむ……」 机に肘をつき、組んだ手の上に顎をのせながら、重い呻き声を公爵が発する。 その煮え切らない態度を前にして、先程までよりも更に語気を強くした白光騎士が詰め寄った。 騎士の男は団長クラスとまではいかないが、それなりに公爵に掛け合う事の出来る階級を有する家柄である。 その後ろで、数人の下級兵士が姿勢を正しつつ動向を見守っていた。勿論意見としては騎士の味方、だ。 やはりそこまでは、と渋るファブレ公爵に、もう一息と踏んだ騎士は鼻息荒く声を張り上げる。 「心を迷わせる事など、何一つございません。あの者のもたらした害をお考えになれば、生かしておく理由など……」 しかしその意気の溢れる台詞も、最後まで続かなかった。 風の仕業ではないと思われる何事かの爆発音が、遠くから響いて来て言葉の尻に重なる。 続き、微かな振動。 部屋の中の一同は、その不可解に眉を顰めてお互いの顔を見合わせた。 感覚から、屋敷の中でそれが起こった事は解る。勿論、到底料理の失敗の範疇ではない事も。 「な……何事だ…!?」 公爵に詰め寄った姿勢のまま、誰にともなく騎士が問い掛けた。 何者かが謀反を起こしたか。はたまたマルクト帝国の手の者か。 後者に関しては限りなく考えにくいが、何にせよ、ひとつの益にもならない上に頭の悪い行動である。 命知らずな狼藉者である事はゆるぎようがないが、その正体が解らない分、皆不安に口をつぐんで様子を窺っていた。 最初の爆発音がしてから暫らく、雨音以外は静かだった邸内が、次第にざわめき始める。 遠い場所で端を発した混乱が、広いと言えども限られた屋敷という空間の中、紙に落ちたインクのように勢いよく伝染してくる。 「お…おい、お前達!誰でもいい、確認を…」 騎士が控えている兵士に指示を飛ばそうとしたが、廊下を走り抜けて行く使用人達の悲鳴や足音にそれは遮られてしまった。 それとは逆方向へ駆けつける鉄のブーツの立てる音、何事かの喚き声や、幾分も効果の無い命令をがなり立てる怒号。 尋常で無い扉の外の様子に、公爵は眉を顰め、騎士は指示を出そうと伸ばした手を所在のなさげに彷徨わせて怯んでいた。 やがて。 「た、大変です!」 ようやく、公爵への報告の指示を承ったらしい兵士が、声を裏返らせて転がるように主人の執務室に駆け込んできた。 「どうした!何があった!?」 待ちかねた、と威厳を取り戻した騎士が、酷く焦り狂って息を切らせている兵士を怒鳴りつける。 ファブレ公爵も無言のまま、顔に苦味を更に加えて報告の先を促した。 「あの化け物が逃げ出しました!牢屋を破壊して邸内を移動して……恐らく、外に出ようとしているものと…」 「な……何だと…!?」 事態の急変による混乱が予想を上回り、咄嗟に呻く事しか出来ない騎士の傍らで、部下の兵士達も目を剥き慄いた。 そんな、まさか、と呟き、狼狽する。 唯一、苦い顔をしたまま動かなかった公爵も、さすがに報告を受けて眉をひそめた。 「何故……いや、いい。とにかく、外には出すな」 あの日の一度きり、とまみえる事は無かったが、否定的な意見は寄せられても今日のように攻撃的な行動の 報告を受ける事はなかったのに。人格的にも、少なからず良識のある人物だと思っていたが。 何はともあれ、事はこうして実際に起こっている。そうなれば、に外に出られてはまずい。 ここは世界最大と謳われる都市の最上位にして、誉れ高きキムラスカ・ランバルディアという大国の中枢だ。 そんな場所に突如として正体不明の魔物が現れ、暴れ回ったとすれば、どれだけの混乱を呼ぶか。 もう、マルクトとの軋轢が収束するのを待ち、どこにあるともしれない『送還の書』を探させ、全てが解決するまで の存在を隠しておく、などという気の長い方法を選んでなどいられない。 こうなってしまっては、それだけでは済まされない。 何よりも、「不確定な要素」を、この預言の理で成り立つ世界に解き放ってしまうかもしれない。 どんな些細な事でも外れた事のない決まりを、少なからず捻じ曲げてしまう可能性のある生き物を。 「と、止めろ!何としてでも止めろッ!!」 これ以上なく苦い虫を噛み潰したような顔をする主人を横目に、騎士はそれしか頭に浮かばないとばかりに喚いてみせた。 焦りすぎて、ろくな指示も飛ばせない上司の命令に対して、悔しそうに報告の任を受けた兵士は顔を歪ませる。 「やっております!その場で当直にあたっていた兵士も、屋敷にいた者達も! それでもまだ、抑えられません!あ……あんなに強い力を持っていたなんて……」 斬りかかる兵を、傷を負いながら弾き飛ばし、或いはなぎ倒して進むの姿を思い出して、弱卒の兵は青い顔で訴えた。 は、最も強固で厳重な牢屋に入れられていた筈だ。 それを、丸腰だったという事は素手で壊し、脱出をはかったというのなら、相当な力を有している事が窺える。 歯噛みして握る拳に汗をかく騎士の男の後ろで、公爵は僅かに息つくと重く口を開いた。 「……ルークは。ルークは、どうした」 万が一こうなった時の為に、ルークが存るのではないのか。 そもそも、こうなる事が無いように、と、無理にでも一緒に過ごさせていたのに。 「お呼びするよう、指示は出されましたが……危険を考えて、今はルーク様のお部屋の方へ 追い込むように、皆で動いています」 「……そうか…」 公爵は組んでいた手を解いて深く椅子に落ち着いた。 今は混乱に足並みが揃わないだろうが、所詮獣一匹だ。白光騎士もそれほど無能ではない。じきに事態も収まるだろう。 解決には至っていないが、自分が焦った所でどうにかなる事ではない、と気を静める。 深く息をつき、気のせいか頭痛のする頭を片手で抑えた。 「……公爵」 目だけを動かし、威厳を失わない視線で相手を窺うと、先程までの混乱を消して厳しい顔をする騎士の男の顔がある。 訴えかけるような、けれど、最早二言は許さないとでも言いたげな表情である。 「強い魔物を前に、あくまで捕縛に徹せよなどという事は、どうか仰らないで下さい。 こちらが危険と判断した場合は……全力でもって、制圧にかかります。よろしいですか」 殺していいか。 形は違えど、確かにそう伺いを立ててくる家臣に、もはや異を唱える事は出来なかった。 何より、もうを敢えて生かしておこうと思う気持ちに、理由も余裕もなかった。 最初から。 あの日息子のやらかした事に始末をつけるには、隠すか、殺すか、結局二つしかなかったのだ。 人格を持った人の形であったから、殺すわけにはいかなかったというだけで。 「……………」 「……公爵」 あとはもう、気がかりなのは。 あれが、ルークが呼び出した存在である、という事だけだ。 殺させた時、息子は何と思うだろう、と、ふと考える。 しかし、すぐにその考えは否定した。 最初の時もそうだったが、ルークはの事を毛嫌いして、一緒にいるのを嫌がっていたではないか。 その後も、腕に怪我を負わされたり、食事も摂らずにむくれていたり、と、かなり否定的な行動が目立つ。 例え知り及ばない所でが殺されたとしても、ルークにとって何も問題はないだろう。一つも。 「…ああ……許す」 歯切れ悪く、ファブレ公爵は頷いた。 「ルエ、ベウス……」 荒い息を吐きながら、カルミアの口から聞いた目的地の名前を、頭と口で反芻する。 第五音素専門研究機関。旧市街の近く。第三高炉。 くらくらとする頭を奮い立たせて、前を見据えた。 はあ、はあ、と、乾いた息が切れる。元から無い体力が祟ったのだろうか。 体育系の人間だったなら、もっとうまくやれただろうに。 けれども、やはり身体が軽い。恐らく重力が、地球とは違うのかもしれない。 身体中の筋肉が踊り狂うような感覚を覚えつつ、廊下をひた走った。 自分自身の常でない大胆な行動に、脳がアドレナリンを大量に放出し、壊れそうなくらいに心臓がドキドキと動く。 かつて無かった感覚に急き立てられ、普段は取れないような行動にも出ることが出来た。 …人に、害をなすことだ。でも、邪魔をされてしまうと、今はそうせざるをえない。一刻の猶予も許されない。 「し、死ねぇ化け物!!」 「…っ!?」 突如として廊下の角から、待ち伏せていた数人の兵士が斬りかかって来る。 またか、と心の中で舌を打った。 力押しで突破出来たのは最初だけで、あとは心得の無い自分をもてあそぶかのように嫌なタイミングや進行方向に敵がいる。 うまく指示を出している人物がいるのだろう。それも、こちらの素人振りを短時間で把握してしまう程。 いや、統率のとれた一団の戦闘のプロならば、これくらいは当然なのだろう。こちらの目論見が平和すぎたのだ。 怪力と防御力があるといっても、明らかにそれだけでは乗り切れなくなってきている。 打撃に強くても斬撃には適用がないらしく、血を流す口が増えてきた。 「…うぅっ!」 避ける技術など持たないために、肩口に食い込む刃の痛みを呻き声で何とか耐え、無我夢中で兵士達に向かって 力を込めた両手を、思いきり突き出した。なんの技巧もないそれなのに、彼らは勢いよく吹っ飛んでいく。 「うわあああっ!」 「ぐわっ…!」 それでも、最終的に力加減は忘れない。相手が決して死なないよう、「うばって」しまわないように気を遣っていた。 いや、恐くて、力を出し切れなかったというのが正解かもしれない。結局心は弱いままか。 「ご……ごめんなさ…」 廊下の先に折り重なって倒れ込み、もがいている男達に向かって微かに呟く。 いつかの夜、ガイの言った事が少しだけ解った。目的のためならば、関係ない人間も傷つけなければならない。 心が苦しくて堪らない。 「い、痛……痛い…」 今までの日常では、注射くらいしか皮膚に深く異物の侵入を許した経験がない。 それが今や、身体のいたる所に出来た避け切れなかった凶刃による傷から、血が流れている。 容赦なく負った身体中の裂傷を、信じられない思いで、痛みの強い場所を優先させて手で押さえた。 ぬるりとする。血なんだ。自分の。転んだ時くらいにしか、目にかける事は無かった。 体も、痛くて痛くて、堪らない。 恐怖が、頂点に達していた。 皆、死に物狂いで、自分の命を奪おうとしてくる。しかし。 (でも、行かなきゃ……) 恐いことよりも、更にもっと、恐いことがある。死ぬことよりも、恐いことがある。 全員殺しに掛かってくるなら、いっそその恐怖の中でも開き直らなければ。 牢屋を破壊した時には、まだ迷いもあった。自分が何をしようとしているのかを考えるだけで震えたくもなったが、 ここまで来れば、勇気も踏み切れなかった気持ちも、今は強くある。 外に出て、何としても大切なものを取り戻すという確固たる意思を持って動いている。後は野となれ山となれ、だ。 (出なくちゃ……外に、とにかく…) 痛みを意識しないよう、足を引き摺るように前へ進む。 しかし、何度と無く兵士の群れに行く手を阻まれ、更には自分が今何処にいるのかも解らない。 こちらが出来る限り闘いから逃げている事さえも察して利用しているのか、何処と無く行く先を誘導されているようにも思う。 少しずつ、少しずつ、確実に追い詰められていくのを感じていた。 その証拠に、自分は今、階を上へと逃れている。当たり前だが、出口は一階だというのに。 (まずいな……このままじゃ…) 何だかんだで、もう三階だ。 一階の窓から飛び降りた経験はあるが、…ここからはどうだろう。 ちらりと雨に曇る窓から下を見るが、地面は遠く彼方に見える。当然だが、自殺以外に用途のない高さである。 ごくりと、唾を飲んだ。 けれども多分、捕まったらその場で殺される。家族と呼べる大切な物と離れ離れのまま。 最後の最期まで、そんな浮かばれない思いはごめんだ。 行きつく先は同じなら、最後まで譲れないもののために足掻いて、抵抗して、そして。 かなうのならば、大切なそれを手に、命を尽かせたい。 「いたぞ!」 「あそこだ!」 無情に響いた声にはっとすると、前からおびただしい数の白光騎士団員達が此方を目指しているのが見えた。 しかし、もう一方の声は後ろから。振り返ると、同等の数の騎士達――――前方と同じ光景がある。 なんて事だろう――――! 慌てて辺りを見回すが、ここは逃げ込めるような先のない、一本筋の廊下。 地上三階の外に面した窓と、大きな扉に挟まれている。何となく豪奢なそれに見覚えがあったような気がしたが、 もともと美しく整えられたこの屋敷は、どこも同じような景色で見分けなんかつかない。 (どうしよう、どうしようどうしよう――――…!) 完全に挟み撃ちだ。 どちらから襲い来る兵士も皆手に剣や槍を持ち、それを突き出して、この体を串刺しにしてやろうと勢いづいている。 数瞬後は、確実に生きてはいられまい。ここまでだというのか、奮い立った所で、所詮自分なんかには。 「…!!」 咄嗟に後退った先で、扉の取っ手に手が触れた。 殺せ、死ね、化け物、という怒号が、鼻先まで迫ってきている。 (いやッ……!!) 意を決すと、死に物狂いで取っ手を引っ掴み、誰のものとも知れない部屋の中に転がり込んだ。 息を吐く暇無く体当たりで扉を閉め、素早く鍵を閉めてそこに倒れるようにもたれ掛かる。 息が不規則でうまくいかない。乾ききった目に映る視界は、揺らいだり霞んだりして捉えきれない。 助かった――――なんて思う事は出来ない。死の瞬間が、ほんの少しばかり延びただけに過ぎないのだ。 これではもう、まさに「袋の鼠」だ。 「お…お前…!?」 響いた声に酷く驚いて、びくりと肩を震わせる。 聞き覚えのある声に震えながらも振り向くと、エメラルドの瞳を見開いた赤い髪の少年がベッドから身を起こしている。 「………っ」 思わぬ人物との遭遇に、心が掻き乱された。 だめだ。 殺される。 もう、殺されてしまう。 ルークだって剣を習っているし、何より、自分では彼に抗うことが出来ない。 彼が助けてくれるはずなんか、ないんだ。 そう思うと、全身の痛みや疲れ、恐怖などが一気に増してきて、足が震えた。 灯った心の炎が、消えそうになった。 荒い呼吸が更に不規則になり、眩暈さえする。 ―――――が。 (いやよ……まだ…――――まだ!) 歯を食いしばって、呆然と此方を見る翠の双眸を強く睨み返す。 あんたにだけは、最期をくれてやらない。あんただけは、許さない。 この人は捨ててしまった。何にも代え難い“私の両親”を、知らなかったとはいえ、あっさりと奪い去ってしまったのだ。 それだけじゃない。 上辺だけでも生にしがみ付いて、何事もなく平穏に暮らしていた自分の全てを、いきなり壊した。 何もかも失くさせておいて、虫のいい話じゃないか。だったらどうしろと言うんだ。 もう、許さない。絶対許さない。 「な、何だよ、それ……嘘、だろ? …お前……嘘だろ!?殺されるなんて…」 赤く汚れた体を見て、初めて事を理解した、といったように、ルークが震える声で喚いてくる。 七年間、何に脅かされる事も無く大事に大事に育てられた彼が見るには、ショックが大きいに違いない。 死の恐怖と誘惑に囚われ、絶望感にくれて憔悴した醜いその顔も、凄惨な身体中の裂傷も。 自分だって、自身の体がこんなに凄まじい事になっているなんて信じられないのだから。 「開けろ!開けろ!!……ルーク様、ご無事ですか!?」 ドンドンドン!と、頑丈な扉を壊すような勢いで打ち付けながら、外の騎士達が怒鳴っている。 例えどれだけ立派な扉でも、何十人もの力ずくにかかっては、あとどれ程も保たないだろう。 扉に背を向け、体を完全に振り向かせると、ぎこちない足取りでルークの方へと一歩近付いた。 途端に、その目に灯る脅えの色が強くなる。 「何、だよ……何なんだよ…!?」 虚勢をはるかの如く叫ぶルークの目の前に、立った。 知らなかったのだ。この人は、何も。 どれだけ大切にしていたかなんて、どれだけ思い出が詰っていたかなんて、 見てきてもいない、世界すら違うこの少年が知るはずも無い。 でも――――でも、それでいいのだろうか? それで、赦されるのだろうか? 例えこれが、自分に与えられた罰なのだとしても。 咲けずに捨てられたあの花も、両親の形見の懐中時計も。自分に罰を与えるためだけに存在していたんじゃない。 これは罪だ。罪というまでには至らなくとも、彼のやったことは間違った事だ。 知らなかったじゃ、済まされない。そうなら彼は、知らなければならない。 す、と、手を上げた。 「…ねえ……ゴシュジンサマ」 名前なんか、呼んでやらない。棒読みで充分だ。 ふと、その一瞬、昔の事が記憶によみがえった。叱られた時のこと。 「―――――な、」 パンッ、と、乾いた音がした。 ―――――ああ、わかった。そうだったのね、母さん。 両手に感じる、彼の頬の温度と、滑らかな皮膚の感触。 ―――――いつも叱る時に私を片手で張らなったのは、こわかったからなんだ。 血と汗に濡れた、汚らしい自分の手なんかよりも、ずっと、暖かい。 ―――――相手の心を傷つけるのが、こわい。それ以上に、自分の心が傷つくのが、こわい。 最後に、自分から誰かに触ったのは、いつだったろう。 さようならをしなければ、と、触れたお父さんの頬も、お母さんの頬も、冷たくて硬かった。 生きている人は、こんなに、暖かいのに。こんなに触れる感触は優しいのに、何でかな。 どうしてなのかな。ちっとも、うまくいかないのは。 「わたし……私、ね、」 ―――――だから、頬を、つつみこむように。そうだったんだ。 目の奥が、ツンとした。 今なら泣けるみたいな気がした。 けれどもそれを堪えて、真直ぐと、挟まれた顔を動かせないでいるルークの瞳を捉えた。 加減はしたけれど、痛みはあった筈。それすら、理解出来ないまでに驚いている顔を、ルークはしている。 「じ、み……ごり…」 この期に及んで、まだそう呼ぶんだなあ、と、心の隅で少しだけ笑った。 けれども他は悲しくて、悲しくて仕方なかった。恨みよりも、憎しみよりも、ただただ、悲しい。 何と言葉をかけてやろう。「許さないから」?「謝りなさい」? ううん、そんな事よりも、もっと心を揺さぶってやるような事を言ってやりたい。 喧嘩しても言い返した事がなかったから、上手い暴言の一つも出てきやしない。 「あんたなんか、大っ嫌いよ」 これが、私の精一杯だ。 言ってのけた先で、ルークが僅かに肩を揺らした。 ゆるゆると、名残惜しく手を離す。もしこの先、死んでも生きても、これが彼との最後なのかな、と思う。 だって、死んだらそこまでだし、生きてても処刑される身だし。 ガイとは何だか会うのが恐いからいいとして、ペールには挨拶の一つでもしておきたかった。 そんな事を考えながら、主人だった人の横を擦り抜けて、雨と風が叩き付ける窓の方へと向かう。 「…―――――」 ルークは、叩かれた瞬間のまま、翠色の宝石のような焦点の合わない目を一杯に広げて、固まっていた。 少しだけ赤く腫れた頬を、その手で押さえようともしなかった。 バァン! という大きな音と共に、鍵もろともを壊して一斉に兵士達が部屋の中になだれ込んで来る。 「ルーク様!!」 「ルーク様、お怪我は!?」 まず第一に、と、安否の確認を取ってくる兵士達を顧みて、ようやっとルークは我に返った。 「あ…」 幾分掠れた彼の声を背中に聞きながら、大きな窓を開け放つ。 途端に、遮るものを失った雨風が、勢いよく部屋の中に入り込んできた。 一気にそれに洗われて、全身があっというまに水浸しになる。 血も何も拭われて、破れた服の隙間に傷の赤い筋が露わになった。 窓枠に、足をかける。 遠く遥かに、霞む断崖が見えた。 鉛色の空が、果てしなかった。 地面も、やはり彼方である。 ここから飛べば、普通の人間なら死ぬんだろう。自分もどうか解らない。 それでも、行かねば。 「お、おい、よせ!やめろ!」 どんな行動を取ろうとしているのか察したらしい兵士達が、口々に叫んだ。 殺そうとしていたくせに。何を留める理由がある?と、口の端に嗤いを浮かべた。 一度目を閉じ、深呼吸をして、心の奥の炎を確かめた。 大丈夫。いける。 「ル、ルーク様!今こそ化け物を戒めてやるのです!」 「そうです、『誓約の痛み』を!…ルーク様!」 「ルーク様!?」 どんなに兵士達の呼びかけが後ろで響いても、聞く限りルークからの反応はない。 彼らの言うとおり、ここで最大級の誓約の痛みを発動させさえすれば、自分を沈める事など容易い筈だ。 少しだけルークの様子が気になったが、もうそれを振り切ろう、と窓枠を踏み切ろうとした。 その瞬間、 控えめな力で、腕が取られた。 驚いて振り向くと、信じられない事に、ベッドの上で呆然としていた筈のルークが、近くに、いた。 「――――、」 彼が何かを言おうと、その口が動くが、言葉にならない。 その顔に湛えられた感情は、読めなかった。 でも、もう、いい。 私に居なくなって欲しかったんだよね。望みが、叶うよ。 そして。 決意を改め、巻き込んでしまわないように、彼の腕を振り払った。 思い切り、足で窓枠を蹴る。 凄まじい浮遊感と共に、私は異世界の空へと躍り出た。 |
飛び出しました
←back next→