こぼれた感情





ベッドの上に仰向けに寝転がりながら、透明な石を掲げて、ルークは眉を顰めた。


「……………」
窓を雨が叩く音がする。更に強い風が、ガラスをカタカタと震わせた。
時計の針は、まだ午後の最中を指している。けれども、部屋を照らしている譜石で出来たシャンデリアの明かりを消せば
日暮れと紛うほどの暗さだろう。全くひどい天気だ。何も出来やしない。
ボンヤリと、綺麗に透明である事を除けば、一見何の変哲もないような石を光にかざして手でもてあそぶ。
これがある限り、「あの事」の全ては、夢や幻にはならない。自分の過ちは、無かったことにならない。
「」の存在も。眉間に、更に深く皺がよった。
おもむろに、手に石を握り込み、ぐ、と力を入れてみる。
何気ない行動。
ただ、「試しにやってみた」という程度だ。本気ではない。
しかし、恐ろしく残酷な事かもしれないとは、心の隅で考えていた。


――――この石が、割れてしまえば。


とたん、何だか恐くなって慌てて力を緩めた。
石は無事だ。でも感触的には、ガラスよりも少し硬い程度にしか感じなかった。
もしかしたら、自分が本気で力を加えれば割れてしまうかもしれない。そんな程度のもの。
(…………ん?)
どこか傷が入ってしまってやしないかと、それを改めて眺めていると。
透明なだけの石の中に、違和感を感じた。まじまじと眺めた事など無かったし、気付かなかったが。
じい、と、限りなく目にその石を近付けて観察してみる。
(何だ……この模様)
円と曲線の組み合わさった、比較的シンプルな紋様と、目視するのが難しい程の文字らしきもの。
どうやって石の中に埋め込んであるのか、はたまた浮かび上がっているのか。不思議なものだった。
「“イェ”……“ネ”…?…んー……読めねー…」
文字は見たことがあるのに、というか、一般的にこの世界で使われているフォニック文字だと思うのに、読めない。
無理矢理読んでも、意味が解らない。まあ、謎の術なんだから、色々謎なんだろ、と単純に自己完結する事にした。
これも召喚術に関係しているのだろうか、この中に還す事の出来るヒントなんかはないのだろうか、と薄い望みをかけて
引き続き眺めていると。

「………え…」

すう、と、一瞬揺らぐようにその模様が消えた。
目の錯覚か、ともう一度よく見直してみると、確かに模様は浮かび上がっている。
しかし、心なしか先程よりも線の色が薄い。
訝しく思って見続けていると、またも揺らぐように色の濃さが変動して、徐々に薄らいでいく。
(……何だ、これ)
紋様が、消えていく。消えたらどうなるんだろう。何を示しているんだろう。
別に何も変わらないかもしれない。何も意味はないのかもしれない。
これが普段から浮かび上がっていたモノなのかも分からないし。消えているのが常の状態なのかもしれないし。
でも。


――――消えるな。


どこに向かって、何に対してなのか解らないが、苛立ちを募らせた。
壊す意味合いでなく、石を握る手に力を込める。
何となく、消えるのは許せない、と思った。
消させてなるか、という、そう強くはないが、衝動があった。
どんな仕組みで主の感情の動きを感知しているのか知れないが、自分の望みの通りに石が反応し、赤くなる。
誓約の痛みが、発動した筈だ。遠隔操作が可能なのかは解らないが、今頃は痛がっているかもしれない。
まもなく、その意図的な怒りの状態を解除すると、ちゃんと召喚石は元の透明色に戻った。
恐る恐る再び石の中を確認してみると。

――――あった

はっきりと、元の紋様が浮かび上がっている。
何故だかそれに、安堵した。









「……!?」

ビリッ!
と、瞬間体中に走った稲妻の如き痛みの衝撃に驚いた。
ナイフが遂に胸に刺さったのかとも思ったが、違う。これは、ひどく覚えのある痛み。
(……なん、で…今!?)
どうして、今。そして何故よりにもよって今。あの赤い長い髪の少年の姿が、脳裏に浮かんだ。
踏ん張ろうとしていても、耐え切れなかった膝からガクンと力が抜けて、その場に腰を落とす。
「…い、たッ!」
ドサリと尻を石床に打ち付けて悲鳴を上げてしまうのと同時に、カシャン、という音がした。
打ち付けてもあまり痛くはないと言えど、思わずお尻を摩りながら目の前を確認すると。
自分の身に刺さる筈だったナイフが、乾いたまま牢屋の内側の自分の近くに転がっている。
身を落としてしまった事で、結局避けるような形になってしまったのだろう。
それを握っていた手を、所在無く格子の隙間から垂れ下げたカルミアは俯いている。
「あ…ご、ごめんなさい!」
何故だか誓約の痛みは一瞬で、もう動けるようになっていたので、慌てて落ちたナイフを拾い上げるとカルミアに差し出す。
逃げないと言っておきながら、結局状況的には逃げてしまった。こんなつもりはなかった。
だから彼女は更に、怒っているだろう、と、恐る恐る丁寧にナイフを差し出す。
しかし、暫らく経っても、彼女は目の前に差し出されたそれを受け取ろうとはしなかった。
「……あの…」
「………っ…」
どうしていいやら解らなくて首を傾げる先で、彼女の肩が、腕が、ふるふると震えていた。
何とも尋常でない雰囲気を纏う彼女が心配になり、意を決してその顔をおずおずと覗き込む。

「――――…」

彼女は、とても脅えた顔をしていた。
恐怖に囚われた顔中に、冷や汗を浮かばせながら、半開きの唇を小刻みに震わせている。
涙の浮かぶ焦点の合っていない目と自分の視線が合うと、やっとカルミアは、は、と意識を取り戻し、睨みつけてきた。
「!」
思わず慌てて身を引かせようとすると、激しく手が払われる。


カラカラと軽い硬質な音を立てて、弾き飛ばされたナイフが転がった。
目で探すと、それはすぐに彼女の手には届かないような所に落ちついている。
一体何故、という念を抱きながら、彼女に視線を戻した。自分を、この私を、殺してくれるのではなかったのか。
「……ん、でよ…」
俯き加減に此方を睨み上げてくる彼女の口から、呻き声のようなものが漏れる。
そうかと思うと、直後、カルミアは拳を作った両手で、鉄の格子を力一杯叩いてみせた。ガシャンッ!と、大きな音がした。

「何でよ!?何でなの―――…何で!死にたがってるアンタなんかに、何もかも奪われなくちゃなんないの!?」

大声で喚き散らしながら、続けざまに何度も何度も鉄格子を叩き続けた。
普段は静寂に包まれた地下の世界に、悲痛な嗚咽と音が反響した。
その目から、涙が散る。叩き続ける手が、衝撃に耐え切れずに赤くなっていた。
「ちょ……」
見ているだけで痛々しくて、思わずその細い手首を掴んで止めさせた。
「何で……殺そうとしてるあたしなんかを助けたのよ…!」
涙を湛えた目で睨みつけながら、その手が逆に、こちらの腕をぐい、と掴んだ。
「つっ…」
思わず痛みに顔を歪める。カルミアの指が食い込むそこには、まだ血の乾き切らない傷がある。
あの時、彼女の言う通りに、庇って出来たもの。生まれてからこっち、稀に見る大怪我だ。簡単に治るはずも無い。
本当に何だって、自分を殺そうなんて向かってくる相手を助けたりなんかしてるのか。
自分は思ったより聖人だったのか?考えたくもないし、冗談じゃない。そんなにお幸せな奴なんかじゃないはずなのに。

「……わからない」
「……!」

本当に、心底そう思って、そのまま口にすると。
掴まれた腕に絡められた指の力が、弱められた。それでも、手は離れなかった。
やがて。



「………あんた、そればっかりよね…」



暫らく経って、ポツリと呟いた。
完全に俯いたその顔は、見えない。
ずるり、と力が抜けたように彼女が膝をつく。手は、掴まれたまま。
こちらの腕の温度を、こびり付いた血の感触を、ずっと確かめるように。
それきり、カルミアは言葉を発さなかった。
も、無言で涙を零しながら俯く彼女を唯見ていた。



―――――貴女も、同じね。人を殺す事が、傷つける事が、恐くて出来ないんだ。



悲しみのような、安堵のような、よく解らない感情が湧いて、暗い天井を仰いで息をついた。
普通なんだ。この少女は、それこそ憎悪だとか、遺恨だとか関係のない世界で生きていて。
ただ、ささやかなる幸せを積んで、やがて来る大きな幸福と祝福を待ち望んでいた人で。
この人の負った心の傷は、どうやったら癒されるのだろう。

何も持たない、取るに足らない存在である筈の私は、誰かを傷つけてばかりいる。










「……叙任式は…まだずっと先だったはずなの」
彼女は、格子に背を預け、自分は近くの石床に膝を抱えて座っている。
「……それでも彼は言ってくれたわ。正式に副団長になれたら、一緒になろう……って」
恨みと、穏やかな感情。
交じり合う筈のない相反する空気が溶け込んだ薄明かりの中で、独り言のように、カルミアは言葉を紡ぐ。
「彼、養子なの。元は孤児のところを、誕生の預言をかわれて良家に迎えられたって。
 ……だから、正統な血を引いてないって負い目から、ずっと肩身の狭い思いをしていて…」
御伽噺を口ずさむような彼女の言葉を、は何も言わずに聞いていた。
それしか、自分に出来る事はなかった。
元の声よりもトーンが落ちていると言えど、それでも透き通った耳に心地のいい声は、地下の薄汚いそこで反響する。
「それにあたし、ただの使用人だもの。本来なら身分の釣り合わない恋だったけれど、正式に家名を
 継ぐ事が出来たら、誰も文句は言えないだろうから、って言ってた」
幸せな思い出を、もう抱くことのない幻想を、愛おしく撫で付けるかのように。
悲しそうに、カルミアはいう。
それを聞いているのが、にとって罵倒を浴びせかけられるよりも、刃で切り刻まれるよりも
辛い事なのだと彼女は解っていて口にしているのだろうか。
「……………」
ここで謝るのは間違った事だと、は思わず疼く口を、必死でつぐんだ。
許しを請うてはいけない。彼女の思い出を汚してはいけない。
自分はただ、恨みと悲しみと罪を背負って居なければならない。生きているうちは。

「ねえ」

不意に呼びかけられて、は、と顔を上げる。声の方に顔を向けると、憎しみのないカルミアの顔があった。
ただの、普通の顔。それだけで珍しいと、何とも予想通り、愛らしい少女だったのだと、見惚れた。

「あんたは、いないの?……そういう人」

問われた事の意味を図りかねて、一瞬面食らう。
「そういう人」?――――話の流れからして、恋をする相手という事だろうか。
益々、どうしてそんな事を急に聞かれるのか解らなくて、また返せるような言葉もなくて、黙り込む。
「……いるんなら、あたしがどんなに辛い思いをしてるか、解るでしょう」
ああ、そういう事か。意図は解ったが、相変わらず返答に窮する事は変わらない。
「……………その、ええ…と」
「……何よ。別に、将来を誓い合ったとまでは言って無いわ。想う相手の一人くらい、いるでしょ?」
言葉を濁らせたまま、だんまりを決め込んで一向に言葉を紡ぎだそうとしない此方の様子に、カルミアが口を尖らせる。
そんな事を言われても、本当に困るだけなのに。
どこか可愛らしい仕草をとる彼女に、苦笑を返した。
「……いえ、その。私なんてこんなだから“そういう対象”としても見て貰えた事一度も無いし。
 それに……いたら、もうちょっと生きたがってるんじゃないかな…」
肩を竦めてそう言うと、カルミアは呆れたように目を丸くする。
しかして特に否定をする事もなく「それもそうね」とアッサリ肯定されてしまった。
自分で言っておいてなんだが、どことなくそれなりにショックだ。
解ってはいたが、もうちょっとこう、容姿に対するフォローは欲しかったというか。

「でも」

気を取り直したような声に、少しだけイジケを含んだ顔を上げる。
カルミアはかすかに微笑んでいた。
ごくわずかなものだけれど、口の端に浮かんだ作り物以外の、社交辞令でない微笑み。綺麗だった。
「人生なんて解んないでしょ。これから先、そういう人が、出来るかもしれないじゃないの」
さっきまで自分を殺そうとしていた人物の口から出たとは思えない言葉だ。
お決まりの下手な慰め台詞。これから先きっと出来る、と言われて、何十年先だろう。
お婆さんになって、容姿の区別があまり関係なくなってからではあるまいな、と思う。
途方も無い希望的観測のような言葉に、曖昧な笑みを浮かべてしまった。
意外と天然なのだろうか、それに気付かないのか気にしないのか、構わずカルミアは続ける。
「案外、もう出会ってたりしてね。ガイ……だったかしら。あのやたら人気な奉公人。仲良いじゃない?
 ……ああ、それよりも、まさかルーク様とか?」
「な、ない!それはない。一生ない。生まれ変わってもない」
言葉の尻を遮る勢いで、力一杯否定してみせた。
有り得ない。絶対に有り得ない。
ガイが恋愛対象だとか、考えただけであらゆる方面において恐れ多い。横に並ぶだけで罪になりそうだ。
ルークはもう…それこそ何百回転生してみせた所で、彼との道が交わる事が想像できない。
本人がここに居ないから良かったものの、私と恋愛だ何だなんて、こんな事聞かれたら――――。
思わずぶるりと、戦慄が走った。
「あ、あら、そこまで否定する事ないじゃない?」
本気で可能だと思っているのか、カルミアは。
さすが既に一生を捧げる程の恋人持ちの視点。恐ろしいまでに恐いモノ知らずである。
「いや、もう、本当に……あのご主人様に至っては、見事なまでに嫌われてるし…」
出てけ、居なくなれ、寄るな触るな、うぜえ、関係ねえ。
めくるめく直接的なお言葉の数々を思い出すだけで、悲しみに笑いたくなる。
そりゃあ自分は好かれる要素は無いが、あそこまで完璧に嫌われてしまっているのは逆に何故だ。
「……そう、かしら。あたしにはただ単に、あんたを意識しすぎてるだけのように見え…」

「おい、何をしている!」

突然響いた、冷たく強い調子の声に、二人同時に振り仰ぐ。
譜石の照らす階段を、降りてきた兵士が目に入った。
「そこのメイド、誰の許可を得てここに………ん?カルミアか。…何だ、クライブ様のために復讐に来たのか?」
白光騎士団の鎧に身を包んだ男が、カルミアを見とめてせせら笑うような声を上げる。
いいや、せせら笑いをされたのは、自分だけに対してだ。この屋敷の中で、恨まれる対象は私一人。
兵士も、カルミアは味方の人間だと思っているような口調である。
「残念だったな、カルミア。その忌々しい化け物を、その手で殺してやりたかっただろうに。
 ……今、そいつを処刑する許可を、公爵に申し立ててる所だ。……まあ、もう暫らくの辛抱さ」
処刑――――そうか、自分は罪に問われているのか。
無理も無いだろう。召喚獣なんて、そんなものが人権も市民権も持てるはずが無い。
限りなく、人の中に紛れた魔物、というポジションに近いだろう。それが暴れて、人を襲う。処刑されて、然るべきだ。
そうは思いながらも、気落ちする顔を隠せないでいる自分の顔に、チラリとカルミアが視線を寄越した。
「……そんな大した罪状、こいつにあったの?」
その言葉を聞いて、何を言ってるんだ、と顔に浮かべた兵士が慌てて返す。
「お前が襲われたんだろ?…まあ、大事なくて良かったが。何よりそいつは、預言を狂わせた。これ以上の罪はないだろ」
それを聞いて、カルミアは黙り込んだ。
彼の言った意味が解らない。けれど自分は、また知らない所で何か悪いことをしてしまっていたのだろう。
生きるために言い訳をしようなんて気はもう、起きない。裁きは何でも、甘んじて受けるつもりだ。
「それじゃあな。お前はクライブ様の恋人だから、特別だ。暫らくは目を瞑っておいてやるよ。
 せいぜい化け物に、罵倒でも浴びせかけてやれよ」
そう言い残して、地上へ続く階段を昇っていく男の背を見送りながら、自分もカルミアも、無言でいた。
やがて、バタンと重い扉が閉まる音が聞こえた後、灰色掛かった青い瞳が、不安そうに此方を向く。
「……あんた、殺されるわよ。どうするの?」
本当に、この人は。と、苦笑いをして肩を竦めた。
数十分前まで、本気で殺そうとナイフを振りかざしていたのは、どこの誰だろう。
「………いいよ。もう、いい。さっきもそう言ったでしょう」
この上は、逆らう事は何もない。皆が死をもってあがなう事を望んでいるなら、そうすべきだ。
それは建前で、足掻いて苦しい思いをするくらいなら、いっそ静かに、楽になりたいのが本音かもしれない。
最期の時が、迫っているのなら。
と、そう思って、せめて今の時を確認しようとしたのだ、が。

(……あれ?)

いつも入れている上着のポケットに、それは無かった。
どこへやったか、と身体中、それが入り込みそうな場所を隈なく探してみるが。
(え…な、なんで?…何で…!?)
どこにも、無い。
段々と焦りが募り、不安が、徐々に大きな渦を巻いていく。
いつも肌身離さず持っていたのに。それがあるだけで、何もかも安心出来たのに。
大切な大切な、何よりも大切な、あの懐中時計が、

「な、い…!?」

嘘だ、と、足元が真っ暗になる思いだった。
死の間際の恐怖がないといえば、そんなの絶対嘘だ。
だからこそ、それが今の自分を最期の瞬間まで支えてくれるはずだった。
なのに。

「ちょっと…?どうかしたの?」

訝しげに声を掛けてくるカルミアに、ゆっくりと、縋るような視線を向ける。
彼女は何事かと怯んだが、どうやら話を聞こうとしてくれているらしく、疑問符を顔に浮かべつつ此方を窺っている。

「……あの、最期のお願いが…あるんだけど…」

震えを隠し切れない声で、はカルミアに訴えかけた。


実はカルミアさん、いい人でした

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