たとえば世界の裏側で名前も顔も知らない人間が死んだって聞いて それで悲しまないのは、酷い事なんだろうか。 だって、死んだ人間なんて見た事ないから、よくわからない。 自分の周りではそんな事、一度もなかったし。 恐い事は何もなかった。毎日好きなものを食べて、限られた空間だったけれど、好きな事をして。 命じれば大抵の願望はかなったし、逆らう者だっていなかった。 たまにぬるいこの環境に嫌気がさしたり、父や一部の人間達の冷やかな目に腹が立ったりもしたけど。 なのに、何でいきなり、こんなに、色々出てくるんだろう。 きっとみんな嘘だ。 だって、そうじゃなきゃ、何だってこんなに突然話が飛躍するんだ。 今だけ、ぎゅっと目を瞑ってやりすごせば、いつものような平穏な日常に戻るんだ、きっと。 この屋敷の中は、いつだって退屈なだけ、の、はずだから。 ベッドに寝転がり、耳をふさぐようにして、ルークは身じろいだ。 いっそう激しくなるばかりの雨の音は、余計に心の表面を波立たせるばかりだった。 (すごく……眠い……) 我ながら、呑気な事を心で言う、と、はぼんやり考える。 何というか、懐かしいと言おうか。 預けた背中に当たるのは、冷たい床と同質の、ごつごつとした石の壁の覚えのある感触。 この世界に来た当初の、あの忘れようも無い記憶が甦った。 また、牢屋に逆戻りか。 頑丈な鋼の格子で外の世界への道を断絶されている其処は、成る程「一番」と称されるだけあって、 とても厳重な造りをした牢屋だった。 普通の人間ならば、決して脱獄など不可能なものだろう。 そう、「普通の人間」ならば、と、自虐的な感情が働いて、それが不可能でない力を有している手に目を落とす。 しかし、逃げようなどという気力も湧いて来なかった。ここを逃げ出して、何処ぞかで生きよう、なんて考えは無かった。 唯でさえ劣るのに、自分の東洋的容姿は、この世界の人間とは毛色が違う事は明らかだ。 働く場所どころか、住む場所を見つけるのにも苦労をするだろう。 文字も読めない。地理も解らない。基礎知識も常識もない。知り合いも宛もない。 最悪、野に下っても食用と毒持ちの違いも判断出来ない。 それ以前に、そこまで苦労をして生きたいと望めるのか、今は自分自身が疑わしかった。 死ぬのも、もしかしたら選択肢の一つかもしれないと、そうは思うが、自らを傷つけるような勇気は無かった。 (どうしよう……) そればかりが頭に浮かんでは消え、強力な倦怠感に囚われて緩慢に瞬きを繰り返すばかり。 疲れた。 これまで一体、何をやってきたのだろう。 どうなりたくて、足掻いてきたのだろう。探しても、探しても、自分が何を探しているのかが解らない。 もういいや、と、何もかも放り投げたい気分だ。 この上は何も求めないから、楽になりたい。方法は問わないから、ただ楽になりたい。 あくせく働くのももう嫌。人の顔色を窺うのもうんざり。身体中が無気力に急速に染まっていく感じ。 ぐったりと休んでみたい。何もせず、何も考える必要なく。苦しいのには、疲れた。 カツン、と、硬質な床を踏みしめる音が近くに聞こえた。 ボンヤリしていて気配に全く気を配っていなかったが、目を格子の向こう側へ向けると、そこに人影がある。 薄暗がりに照らし出されるシルエットは、逆光のせいで誰なのか判別がつかなかったが、女性のようである。 「どうしたって、あなたは生きてるのね」 恨めしげに発せられたその声に、聞き覚えがあった。 誰なのかが解ると、おぼろげな輪郭が記憶の助けを受けてはっきりとしてくる。 「人一人の人生を、奪ったくせに」 据付けられた譜石の光に、金髪を高い位置で結い上げた青い瞳をしているメイドの姿が浮かび上がった。 青白く弱々しい様子で気を失っていたのが、ここに放り込まれる前に見た最後の彼女の記憶だが。 此方を冷ややかに見下ろす目には、いまだ消えない憎しみの色があった。 「カ……ルミア、さん…」 思わず、力の抜けた声で彼女の名を呼んでしまうが、それに相手が答える事はない。 いささか、眉間の皺が不快そうに歪められた。 ああ、そうだった。自分に名前を呼んで欲しくないと、そう言っていた。 それ以上、何か言葉を発する事も出来ず、また負の感情の浮かぶ顔を見ているのが恐くて視線を正面の石床に戻す。 そうして、彼女の口にした言葉の意味を考えてみた。 ――――人一人の、人生を奪った――――? 私が?いつ? 遡って考えてみるが、そのような大それたものを貰い受けた記憶も、またその分いい思いをした記憶もない。 カルミアの言う事が理解出来なくて、答えようにも答えられず黙るしかないが、彼女の方も暫し沈黙を守っていた。 やがて。 「……あなたに、生きる価値があるっていうの?」 押し殺したような声が、耳に届いた。 自分の存在の根底から全てを、心の底から探るような、疑るような、真理の問いだった。 驚いて、牢の直ぐ傍に立つ少女に視線を戻す。 大きな感情を押し込めた、静かな表情で答えを待つ姿がある。 一字一句に魂を込めるように聞かれ、その返答に窮した。 そんな事を聞かれても。 加えて、よりにもよって、その事を今聞かれても、 「………何故…?」 本当にそう思う。咄嗟にそう答える事しか出来なかった。 価値なんてないって、解ってはいるけれど、それを肯定した後どうすればいいんだろう。 戸惑うままに口から出た答えを聞いて、カルミアの顔は募った怒りでみるみる歪んでいく。 「……解らなないって…いうの…?」 地の底を這うような声が、俯いた彼女の口から漏れ出した。 何かが、膨れ上がる気配がする。 それは次の瞬間に、一気に解き放たれた。 「だったら!」 と、悲鳴のような声を、彼女があげた。 カルミアは、あの時の鬼のような形相の顔を上げると、ガシャンと大きな音を立てて突き破らん勢いで格子に掴みかかる。 「……だったら、教えてあげるわよ!…――――あんたが来なければ、幸せになれたのに…… あんたさえいなければ、クライブは人生を失う事もなかったのよ!あたしは……あたし達はっ…!!」 「―――――っ」 けして遮る鉄格子が破れるはずはないと解っているのに、凄まじいその勢いにビクリと身を引かせる。 あまりの、憎悪というには強すぎる感情の激流に、殺されかけたあの時のような震えが体中を襲った。 何が何だか解らない。 相変わらず彼女は自分の記憶にない事を言う―――と、驚くばかりのこちらを見て、カルミアはギリ、と格子を掴む力を強めた。 「なんにも知らないって顔、してるわね。でも、とぼけるなんて許さないわ。知らなかったといって許さないわ! ……あんたがこの屋敷に来た時、突き飛ばした兵士を覚えている?」 器用に口元だけを歪ませて問われた事には、「覚えてない」とは間違っても返せない。 一瞬「クライブ」という名前に眉を顰めたが、「突き飛ばした兵士」には直ぐに思い当たり、肝が冷えた。 あの時の。 自分でさえも混乱でわけが解らない中、飛び交う怒号や悲鳴のうちに聞こえた、彼の名は。 ―――――クライブは!?早く譜術士か、医者を… あの時の、生々しい感触と、苦痛に呻く声が記憶に甦り、指先からすうっと温度が無くなっていく。 でも、ガイは言った。あの人は生きている、後頭部に大きなたんこぶと、口の中の切り傷と、背中を打っているけど大丈夫って。 生きているって。 だから私は、奪うなんてしてない。そんな大きな事、やってない。 「あんたに突き飛ばされて、彼、強く背中を打ったの。……それで、足が動かなくなったのよ。 ……立つ事も出来ないわ」 「……え?」 動かなくなった。立つ事が出来ない。 (―――――うそ) うそだ。 どうしてそんなことに。 突きつけられた真実に、喉の奥から乾いた呻きとも息ともつかないものが漏れ出して、ヒュウと音を立てた。 その事実はあまりにも凄惨で、信じられないもので。 おそらく背中を打った時に、脊髄を傷つけてしまったのだろう、本だとかで、そうなった人の話を見た事がある。 でも、それは凄く大変で、とても苦しくて、到底自分なんかが関わりきれるものでないと。 縁遠く、関係ないものだと思ってた。 「どんなに、辛い事なのか……考えられる?騎士の家系に名を連ねながら、剣を取る事もできない。 その足で、自分の望む場所に歩いていく事が出来ないのが、どんなに……!」 考えられる?なんて、言われても。そんなの急に解らない。 でも、足が動かない。歩けない。立つ事すらできない、って、そんなの。 歯痒いんだろう、悲しいんだろう、悔しいんだろう、苦しいんだろう――――どんなに、絶望的だろう。 自分がそうなった時の事を考えて、果てしなく恐ろしくなった。 響く怒りの声は、泣き声に変わっている。いつの間にか、怒った顔のまま、目の前で彼女は涙を流していた。 冷たく硬い鉄の棒を握る手には加減の出来ていない力が加わり、爪が食い込んで血が滲んでいる。 その細い肩が、小刻みに震えていた。 重い―――――… 圧し掛かってきた事実を受け止めかねて、は言葉を失った。 人を、殺すこと。 それはとても、恐ろしい事だ。 “人のこれからの人生を奪う事”が、どんなに恐ろしい事なのか。 それが、どんなに重く、どんなに残酷で、どんなに悲しいものなのか。 計り知れない自分の罪深さを知った。恨まれても憎まれてもきりがない。その人達が自分をどんな風に思うのかなんて。 「……あたし、愛していたのよ……。……なのに彼は家に閉じ篭ったきり、もう会ってくれない……」 可憐な唇から、嗚咽が漏れた。 拭われない涙が、ポタポタ地面に落ちていく。悔しい、悲しい、憎い、彼女の感情が嫌という程、伝わってきた。 一人ばかりではない。複数の人の幸せを、歩むはずだった道を、自分はたったの一瞬で奪ってしまったのだ。 「ごめんな、さ…」 引きずり出されるような言葉は、何の意味もなかった。 「ごめんなさい」じゃ、済まされない。「許して下さい」なんて、永劫に口に出来ない。 100回謝っても、1000回謝っても、自分は決して許されないだろう。 「……ねぇ…ねえ!あんたに、生きる価値があるっていうの!?」 泣き叫びながら、そうもう一度そう問われた。 望みも無い。 目的もない。 何も出来ない。 人に害をなす自分が持つ価値なんて、どこにも 「………ない、…です」 きっと、これっぽっちも、無いんだ。 そう返す以外の答えが、一体どこにあっただろう。 「……ほら!解ったでしょう!?さあ、こっちへ来なさいよ……あたしが殺してやるわ!早く!」 ガシャ、と再び格子を激しく揺さぶりながら、カルミアが怒鳴った。 右手に、あの時のナイフを握っている。恐いものに思えるのは変わらないが、それが贖罪の証に見えた。 虚ろに、その刃の光を目に映しながら、力なく立ち上がった。 よろりと、戸惑いがちにも、石の床を一歩踏みしめる。 死ぬ事で、許されるのだろうか。それは逃れる事への誘惑に過ぎないのではないか。 誰かをたくさん不幸にしたのに、私一人きりの一瞬の苦痛で、この罪があがなわれるのだろうか。 もう一歩、片方の重い足を前に出す。 でも、自分では死ぬ勇気が出ないから、これでいい。きっと、このまま生き続けるよりは楽になれる。 引き摺るような足取りで、また一歩と歩みを進める。 やがて、格子越しでも充分刃が届く位置に至った。 充血した目で睨み続ける彼女を前にして、後悔の涙を流す方法も、かける言葉も見つからない。 しかしどちらも必要ない。それは許しを請う行為だ。 ただ自分には、突き刺されるのを待つ以外、すべき事はないのだと思う。 こわい。 落ち着かせようと、吸った息が震えた。 「な……なによ、それ」 しかし、発せられた彼女の声も震えていた。 この行動は予想外だったと、目を見開いて、カルミアは怯んだ様子を見せた。 「あんた、死ぬのよ?生きたいとか……思わないの…!?」 自分でも思う。何を馬鹿がつく程素直に、殺されに来ているのだろう。 傍から見ても正気の沙汰ではない。彼女の反応は尤もだ。 信じられない、と目を剥くカルミアに、自分でもわからない、と困って薄っすら笑みを向けた。 「……そうね。でも、もう、誰もいないから」 存在理由の全てを擦り付けられる程、憎い人も。自分を必要だとしてくれる存在も。 自分を受け入れてくれる人も、自分の為に涙を浮かべて叱ってくれる人も。 たった一つの、生きたいと思う理由さえ、情け無いけれど思い浮かばない。 結局自分は、生まれた意味のない人間だったんだ。 「な……」 カルミアの顔が一瞬悲痛に歪んで、言葉にならない呻き声が口から漏れ出す。 しかし気を取り直したようにその顔が厳しく引き締められ、ナイフを握る手に力が込められた。 「そ……そう、好都合よ!やっと、彼の分まで恨みが晴らせるわ……死んで頂戴!」 今度こそ。 自分もそう思ったが、カルミアもそう思ったろう。 拭いきれない恐怖が、せめて、とその痛ましい瞬間を見ないように瞼を閉じさせた。 ナイフが振り下ろされる気配がする。 痛いだろう。死ぬ程の痛みだ。凄く痛いだろう。 腰が抜けそうになるのを、足が逃げ出してしまいそうになるのを、ぐっと耐えた。 今度は逃げない。ここで、終わる。きっと楽になれると、一心に信じた。 ありがとう。やっと、これで、ひとりじゃなくなるんだ――――― 霞む思考に、感謝の言葉さえ呟いていた。 |
カルミアの憎しみの理由。
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