皆一様に、長らくの船旅に少なからず疲弊していたのだろうか。 無事に、光の王都と称されるバチカルの港に着いた後、下った降船許可の通達に安堵の息をつく者は少なくなかった。 自分の少数の部下までだらしなく気を抜いている様子を見て、赤い髪の少年は更なる苛立ちを募らせ、鼻を鳴らす。 唯でさえ、気分が悪いというのに。 桟橋へと繋がる客船の廊下を、渋面を隠さず(周りには地顔と思われているようだが)歩く。 「いい加減にしてよね。本当、鬱陶しいんだけど」 と、後ろから歩いてきた緑色の髪をした小柄な人物が、追い越し際に吐き捨てるような言葉を掛けてきた。 「テメェには関係ねぇだろう」 更に眉間の皺を深くして言い返してやるが、仮面に隠された相手の表情は変わったようには見えない。 「大アリ。今回は運悪くアンタと同じ任務なんだからね。一人だけ感傷に浸ってられちゃ、迷惑なんだよ。 ……心配しなくても、この街の連中は、誰もアンタの事なんて覚えちゃいないよ」 冷たい棘を含んだ嘲笑うかのような声音は、此方を気遣っての言葉ではない事を明らかにしている。 古傷をえぐるような物言いに神経が逆撫でされるが、一方でどうしようもない事だと解りきっていたので 応酬を止めて無視を決め込み、歩を進める。 久しぶりだ。この地の土を踏むのは。 別段、今更感慨深いものはない。自分にはもう、そう感じる事が許されない。 ここに、こうして立っているのは。 急遽下った任務のために首都バチカルを訪れた、ローレライ教団の信託の盾(オラクル)騎士団が一人、 六神将のアッシュである。 「アッシュ」 同じく六神将の一人、先程痛烈な口をきいてきたシンクが、横から声を掛けて来る。 「閣下の話じゃ、上層の奴らが所有してる可能性が高い」 シンクは任務の概要を、いつの間にか聞いていたのだろう。気の乗らないのが祟ってか、自分には 大まかな目的の事しか伝わっていない。いや、もしくは警戒して伝えられていないのか。 「流石に王城近辺ともなると、厄介な事になるかもしれないからね。アンタはそれより下で大人しくしててくれる? ……くれぐれも、勝手な行動は慎んでよね」 それだけ言うと、街の雑踏の方へとさっさと消えていく。素早い。 彼は諜報には適した、ずばぬけた身体能力を持っている。王城にだって、許可を得ずとも入り込めるだろう。 さて。 あんな言い草の命令に従うなんて不本意だが、逆らって益などない、と、下級貴族達の居住区を目指す事にした。 それにつけても、何故わざわざ此処に、自分達は呼びつけられたのだろう。 その首謀者は、あの“出来損ない”のお守りで手が離せない、といったところか。 ふん、と、またも鼻を鳴らす。 しかしながら、増して納得がいかないのは今回の目的だ。 任務の内容を聞いた時は、漠然とし過ぎていて、あまりにも途方もなく非現実的で、呆れるしかなかった。 何でそんなものに労力を、と思ったのと同時に、あの男の考える「計画」にどう関連してくるのかも解らない。 (この世界ではない世界……? ……はっ、馬鹿馬鹿しい) それでも、今の自分の持つ肩書きでは、それに異を唱える事はできない。 ザ、と強い風が吹く。 鮮やかな、赤く長い髪が、靡く。 見上げると、雲の切れ間にしか青空が見えない。確か、今日は預言では、 「…――――雨、か」 エメラルドグリーンの目を細くしながら、小さく呟いた。 窓にうつる空にはもう、殆ど青は見えない。 どうしようもない感情に、唯々自分はどうしていいのか解らずに、そこでしばらく俯いていた。 持っていた花の茎に触れてみても、くってりとした感触しか返ってこない。 どうしよう。もう、植える訳にもいかないし。 土に埋めてこようか。植物の墓なんて、聞いたこともなくて妙だけれど、屑入れの中の最期なんかよりずっといい。 その時。 …――――カタン と、今度はノックも無しに扉が開いた。 「……!」 人が来た、と、は僅かに身を硬くして振り返る。 また自分を見た人間が、恐がってしまうかもしれない。 「…あ、」 「………………」 しかし、その先に捉えたのは、毎日見掛ける顔だった。 今日も灰色掛かった青の瞳には、言い知れぬ感情が灯っている。 彼女がいつもと違うのは、その手に何も持たず、また片手を体の後ろの方に隠しているという所だった。 「あ……カルミア…さん…」 ピクリと、名を呼んだ拍子に彼女の目尻が歪む。 「名前を呼んでほしくないわ。あなたなんかに。………どうして、死んでくれなかったの?」 彼女は、今日はいつになく饒舌で。 またハッキリと冷たい感情を露わにしてきたカルミアに、驚いて目を見開いた。 あまりの直接的な、悪意の篭る物言いに、言葉も返せない。 「な……!?」 死んでくれなかったの、って。聞き間違いじゃない。 激しい憎しみが。 掴めなかった、見えない負の感情が、ここへ来てはっきりとその輪郭を縁取る。 心の何処かでは、気のせいかもしれないと、言い聞かせてきた。 彼女が自分に向けてくるような顔は、他の人に対するものと同じものなのだと思い込もうとして。 そうやって、逃げ道を、作った。 けれども、もう疑いようはどこにもない。確実にカルミアは、自分に対して害なす心と剥き出しの敵意を持っている。 「死んでくれ」なんて、そんな言葉が並大抵の感情で出てくる訳は無い。 私という存在が、彼女の一体何を損じているというのだろう。何故、カルミアは。 「ど……して……そ、そんな事を言うの?」 あの時、初めて会った時から、そうだった。覚えの無い憎しみの色に、その瞳は彩られていた。 ただ、ただ解らなくて、縋るように聞いてみても、冷たい絵画のような表情が動かない。 (……せめて) 悲しいような、悔しいような気持ちで、顔を歪ませる。 (せめて嫌われるのにも、理由が欲しかったんだけどな) コト、 と、ヒールの高い靴が絨毯の敷かれた床を踏みしめる音。 (……え) と、顔を上げる。 コト、 と、またカルミアは、こちらに近付いた。 射るような視線が、こちらをずっと捉えて離さない。唇が硬く引き結ばれている。 「……?」 心臓がいつの間にか、胸の騒ぎに音を大きくして来ていた。 肌がどうしてか、粟立った。 何?なに? そういえばカルミアはここへ、何をしに来たんだろう。 氷の彫刻みたいな存在が、こちらへ一歩、また一歩と近付いて来る。 嫌な汗が、じわりと滲んだ。 「あの……なに、を…」 動揺が、言い知れぬ焦りが、正体の解らない恐怖が声帯の動きを鈍くしている。 掠れる分、音量を上げた声は、悲鳴のように震えた。 それでもカルミアは答えなかった。 人が恐いという感情よりも、何か別の恐怖が背筋を走りぬけ、やっとの事で震える足を、ずる、と後ろへやる。 弱々しい後退りに気付いたのか、彼女の足取りが速くなった。 「何にも、あなたは知る必要が無いと思うわ。……だって」 もつれる足で、必死に後退する。いや、自分は逃げているんだ。それを、優雅で冷酷な足取りが追う。 嘲るように、淡々と言葉を発するカルミアの青い瞳から目を離せない。 目を見れば、本当にこれでもかと言う程に相手の考えている事が、感情が解った。 それは、きっと――――殺意。 (……い、やっ…!) もっと速く、もっと大きく後ろに逃げようとした瞬間、腰にトン、と軽い衝撃が走った。 後方を確認しないで後退りをしていたから――――思わぬ袋小路に驚いて、咄嗟にちらりと 障害物となったテーブルに目を向ける。 「あたしがここで、殺してやるんだから…!」 その一瞬の隙を見逃さず、もう目の前に迫っていたカルミアが勢い良く襲い掛かって来た。 後ろに隠していた手―――短剣とも言える刃渡りのナイフが握られている―――を思い切り振りかざして向かってくる。 「――――ひッ!」 声無き悲鳴を上げて、無我夢中で身体を反転させた。 目をぎゅっと瞑って、避けられるのを願った。 後ろ手に、ダンッ!という音がしたので、一先ず凶刃からは免れる事が出来たようだ。 けれども、恐怖のあまり、足がもつれて無様に転がり、思うように遠くへは逃げられなかった。 ぎこちなく振り仰ぐと、ナイフは、木製のテーブルに深々と突き刺さっている。 「……あ、…ぁあ…っ」 それを渾身の力で引き抜こうと、グッ、グッ、と身体を揺らすカルミアの形相は鬼のようだった。 衝撃に、上に乗っていた花瓶が、容赦なく揺さぶられる土台の上を転がり落ちて、ガシャンと音を立てて砕け散った。 中に入っていた水が、じわりと床に染み渡っていく。 殺される。 私は今、本気で、殺されようとしている。 あの深々と突き刺さったナイフが、次は私の身体に喰い込むのかも、しれない。 床に広がるのは、次は自分の血溜まりなのかも、しれない。 あまりの恐怖に、がくがくと体全部が震えた。 腰が完全に抜けきって立ち上がれず、惨めに足掻いてどうにか距離を生もうとするが、どれほどの効果があるというのか。 言葉を発しようにも、かちかちと、噛合わない歯が音を立てるばかりで叶わない。 気が動転しているせいか、悲鳴を上げて助けを呼ぶという余裕も無かった。 それに、きっと、自分の事なんて誰も助けてくれはしない。 ガッ! と、音がして、漸くナイフが抜けた。 その勢いのままカルミアは此方を振り向き、もう一度ナイフを振り上げる。 剥き出しの狂気が、瞳孔の開いた目の中でギラギラしていた。何処か必死に見えた。 足はもう竦んで動かない。手も上半身を支えるので精一杯。 ―――――駄目だ 断末魔の悲鳴も上げられない。 見開きすぎて乾いた目だけが、銀の鋭利な光の軌道がこちらに振り下ろされるのを見ていた。 「…きゃあ!?」 しかし。 ずるり、と、突然彼女の体が傾く。 何かで足を滑らせたのか、カルミアは襲って来た勢いの反動のままに仰向けに倒れようとしていた。 (…!) 見ると彼女の靴の下に、取り落としたあの花の最期の姿があった。 カルミアの足を掬ったそれは、完全に圧力に屈して潰れ、ぐちゃぐちゃになってしまった。 「…あッ…!?」 恐らく相手の口からも、自分の口からも同時に出た声だった。 どちらの目も、それをしっかりと目で捉えてしまい、顔から血の気が失せる。 カルミアが倒れ込もうとしている先には、砕け散った花瓶が、いくつもの鋭利な棘の先を天井へと向けている。 それは、喰い込み甲斐のある柔肌の到来を、心待ちにしているかのように見えた。 あの鋭い破片は、きっと彼女の背中に突き刺さるだろう。 もしかしたら、剥き出しのその白い首を深く傷付けるのかもしれない。 死ぬ、かもしれない。 彼女は、死ぬのかもしれない。 血が、たくさん出て、とてつもなく痛いのかも、しれない。 その瞬間を見るのが恐い。自分がそれを見て耐えられるなんて思えない。 どんなに、どんなにおそろしい事なんだろう。 「…――――――――っ!!!」 絹を裂くような悲鳴が、響き渡った。 「何事か!?」 非常事態にやむなし、と、主人の子息の部屋の扉を礼節なく開けて、兵士達が雪崩込む。 物が壊れる大きな音や、凄まじい女の悲鳴が聞こえてきた其処へと踏み入って、彼らが見たのは。 血で汚れた床と、腕に意識を失ったメイドを抱えて俯く“化け物”の姿だった。 「こ……この化け物め!一体何をした!?」 問い詰められた意味が解らずにゆるゆると周りを見渡すと、割れた花瓶や鉢、壊れた家具に、土と血で汚れた床。 およそメイドが持っているとは考えにくい、殺傷用のナイフも転がっている。 部屋は荒れたい放題という状態だ。ああ、そうか。全部私がやった事になってるんだ。 そんな事はもうどうでもよくて、もう一度腕の中のメイドの女性に目を落とす。 青白い顔色をして膝の上で気を失うカルミアは、傍から見れば大丈夫そうに見えないが、傷はどこにもなかった。 ほ、と力なく息をついた。 生きてる。 生きてるんだ。自分の目の前で、人が死ななかった。 自分本位な考え方かもしれない。 けれど、この人は私を憎んでいるけれど、それは悲しいけれど、でも、よかった。よかった。 庇った時についた、無数の傷口から、血が流れている。 吃驚した。こんなに沢山流れるなんて、こんなに痛いものだなんて。 普段こうまで怪我を負う事もないし、実際こんなに酷いのは、初めてで。 でも、ああ。 化け物、化け物と言われるし、身体はどこか変だし。 だから、もしかしたらもう、自分は本当にヒトじゃないのかもしれないと、思っていた。 でも、ちゃんと赤色をした血が流れてた。 ヒトとして、生きている、その証の色が、ちゃんと体の中を巡っていた。 視線をさ迷わせると、傍らには。 どんな形の蕾と葉をしていたのかも解らなくなってしまった「あの花」へ、無言の謝辞を述べる。 生かしてくれて、ありがとう。でも、 「こいつめ……今度という今度は許さんぞ!一番頑丈な牢へ放り込んでやる!」 「このような狼藉をはたらくとは、捨て置けぬ!殺してしまえ!」 ―――――もう、いいかもしれない。 グイと捻り上げられた腕に、逆らう気力も無かった。 |
人の血が赤いのも、痛いのも、生きていてこそ。
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