ひとつだけ





床に砕けた見覚えのある陶器の欠片と散らばった土を見ても、すぐには理解できなかった。
漠然と嫌な予感しかしなかったけれど
(……これって)
それが何なのか、どうなってしまったのか、頭では理解していた。
この部屋が土で汚れるような事など、持ち込んでいたあの鉢植え以外に原因となる物は考えられない。
こんな風になってしまうのは、仕方がない事だったのかもしれない。
置き場所に困って、結局最も邪魔になるような形で床に置いていたし、誰かじゃなくても自分で引っ掛かって
倒してしまっていたかもしれない。勝手にここに置いておいたものがどうなろうと、文句など言える筈も無い。
形あるものだし、そう、納得できる。
けれど。

(……―――――!)

花はどこに行ってしまったのだろうと、視線を巡らせた先で目に入った光景に、軽く瞠目した。
考えてみれば何の事はないその姿なのに、何だかひどく心臓のあたりが痛む気がした。
どうしてだろう、どうしてなのだろう。
自分がこんなに動揺しているのも理解できないが、何があってこんな風にされたのかも理解出来なかった。
「………そんな」
屑入れの中に放り込まれた、白い花弁のはみだす蕾をつけたままの、「ゴミ」。
無造作に土の絡まる根を乱した植物が、無機質に放り込まれているのが見えた。
言い知れぬ気持ちになった。
ひどく悲しくて、冷たくて、そして腹立たしい、そんな気持ちになった。
強い感情の奔流が、じわりじわりと心の奥底から滲み出てきて、
去ろうとする赤い髪の後ろ姿を、思わず引き止めていた。


「……これ」


これが何なのか、知っていたはず。
咲いてもいない花を、使用人がこの屋敷の部屋に飾るはずもないのだから。
無視してたって、多分、余程じゃない限り解ってると思う。
私のものだということ。気に掛けて世話をしていたということ。
なのに、なんでこうなってるんだろう。


「あの……ご主人様」
感情が昂ぶって震える声を絞り出しながら、強く呼びかけると、ドアへと伸ばした手をとめて、憮然とした顔が
こちらを振り返った。
何で、この人は。
もう太陽に向かうことも、風に揺れる事も出来ないだろうそれを、手に取る。
こんなだったら、私にもっと直接鬱憤をぶつけてくれた方がマシだったのに。
「……何だよ」
苛立ちを募らせた声でルークが促してきたが、それに怖じる気持ちは無かった。
「……どうしてこんな事、するの?」
怖じては駄目だ。怖じる事は何もない。今は言葉を投げかけてもいい時のはずだ。
問うと、ルークは手にあるそれを、気まずそうに目でチラリと見遣った後に、明後日の方角へと視線を逸らす。
「……俺じゃねーよ。メイドが落っことしたんだ。…もう枯れるって言うんだし、別にいいだろ。捨てちまっても」
「え……落とした?……枯れるって…」
ルークの言葉に、目を見開く。
予想とは違う答えに、少しだけ気が抜けた。
あんまりにも私の事が気に入らなくて、それで鉢植えにあたったんじゃなかったんだ。
「ああ……そう言ってた」
彼の言うメイドというのは、おそらくこの花の事を知っていたのだろう。
それで、知っていた上で判断されたのだから、きっと枯れるという情報は間違いじゃないはずだ。
「そっか……枯れるん、だ」
やはり、育て方を間違っていたんだ。自分が誤っていたせいで、咲けなかった。
申し訳ない事をしてしまった、と、手の上のそれを眺めて目を伏せる。
それは悲しい、が、今それよりも、もっと悲しいと思うのは。

「……これ、ゴミ箱に入ってた」

「は?……ああ、まあ、捨てたしな。それ以外、どうしろってんだよ」
心底理解出来ない、と言いたげな顔でルークは首を傾げる。
そうなんだ、彼は解らないのだ。
まだ知らないから、理解出来ないんだ。けれども人は、そんな彼を逆に理解出来ないだろう。
少なからず彼に対して憤った、今の私自身のように。はなから突き放している、父親や貴族達のように。
だから、ルークには知ってほしい。そうして、理解出来る人であってほしい。
そうじゃなきゃ、この人自身が可哀想じゃないか、と思った。だって。



―――――「食えば」

とか。

―――――「別に、いいけどよ」

とか。



自分本位で勝手な彼の本質が、本当の本当にはどこにあるのかは、何処かで解っているつもりでいた。
こうして上手くいかない仲だけど、それは自分の人間性の問題で、ガイ達と接している彼は悪い人じゃない。

「……何も、思わなかった?私、大切にしてきたつもりだったんだけど」

最後は、こんな風になってしまったけれど。
いつも傍に置いて、白い花がどんな形をしているのか、私なんかが何かを生み出せるのか、楽しみで。
そういう感情は、露ほどもルークに理解して貰えないものだろうか。

「な、何だよ……知るかよ!俺には関係ないだろ!?別に、他にも咲いてるって言うんだし、いいじゃねーか!」

違う。
違うよ、そうじゃない。
彼の言う事は、事実だ。"そう"でしかない。
他にどんなに綺麗に咲いた花でも、意味がない事。
咲かなくても、枯れても、それでなくてはいけない理由。
私が貰ったのは、毎日水をあげていたのは、ひっそりと愚痴も泣き言も聞いてくれたのは、
―――――私を、必要としてくれたのは、


「…でもね――――この花、ひとつしか、無いんだよ」


ただの一輪だけしか存在しないこと。
どんなに世界を探しても、もう同じものは、見つからない。
どんな形でもいいから、捨てないで、私に返してほしかった。

「わけ…解んねー事言ってんな!文句あんなら、同じようなの採ってくりゃいいだろ!?」
「……い!」
主の苛立ちが、誓約の痛みの形をとって身体を走り抜ける。
久しく強く戒める程の力を持ったそれに、思わず全身が強張って花を手から取り落としてしまった。

そのまま此方に目をくれる事なく、乱暴に扉を開けると、勢いをつけてルークは出ていってしまった。




「………なんで、」


今更、手が、足が震えた。
こんなに言葉が足りなくちゃ、言いたい事のひとつも伝わらない。
自分に与えられた罰の痛みが、身体を戒め続けていて、膝を折りそうになる。

「……何にも、伝える事が出来ないんだろ…」

わからない。またあとからあとから、疑問が浮かんでくる。
自分は何のために行動しているのだったろう。
どうして、必死になってこんな世界に居場所を作ろうとしていたのだろう。
どうして、ルークに対してこんなにも気に掛けてしまうのだろう。
何を思って、閉じ込めていた自分を曝け出そうとしてしまったんだろう、結局傷ついただけのくせに。

もしかして私は、これ以上にまだ何かを得ようとしていたの?












暫らくして、落ち着いたノックの音が、扉を叩いた。
「先程は申し訳ございませんでした、ルーク様。今お掃除を…」
おそらく、鉢植えを落としてしまったというメイドだ。
返事を待たずして扉を開けた彼女の手には、掃除用具がある、が、

「ひ……っ!」

此方の姿を確認した瞬間、彼女の瞳には戦慄がほとばしり、慌てて扉を閉めると命からがらと走り去ってしまった。
部屋に、私が一人だけだったからだろう。
抑制存在であるルークがいない今は、首輪のついていない猛獣でしかない、自分は。
床に落ちた名も知らない花に、謝罪と哀悼の声を落とした。

「……ごめん」

私じゃなければ咲くことが出来た。優しい庭師に、たくさんの水と、慈しみを貰って。
仲間と一緒にこの世界の、不思議な青の空を臨んで、白く美しく風をあおいで。

「ペールさん………ごめんなさい」

大きい事を言っておいて、学ぶことを教えて貰ったくせに、一文字すら読み書き出来ないし。
ペールさんにも見捨てられちゃうのかな、と、やけっぱちに嫌な考えが浮かぶ。
何もかも、全てが見事なほどうまくいかなくて、逆にもう何にも感じられなくなってきた。














(嘘でしょう……?)

と、信じられない思いで、カルミアは廊下を歩いた。
自分のやった事が成就していたなら、今頃この屋敷の中は大騒ぎになっていたはずだった。
犯行の手口としてはとても芸のない方法をとった自分は、今日にも嫌疑がかけられる前に出て行くつもりでいた。
そうなっても、別に構わないと思っていたのだ。ここに未練など、もうない。
なのに、こうして変わらず朝が来て、いつものようにメイド服に袖を通して悠々と歩いていられるのは何故だろう。
ごそ、とポケットをまさぐると、"確かな証拠"が出てくるのに。
手の中におさまっている小瓶の中身は空っぽだ。
三滴ほど入れれば、致死量に充分に達すると、聞いていたのに。
昨日の朝食の準備中、声を掛けられた事に動揺した拍子に、全てをスープの中にぶちまけてしまった。
あのスープを一口でも飲んでいたのなら、あの化け物は絶対に死んでいたはず。
…―――――飲まなかった?
いいや、そんな事はない。一週間のあいだ、アレの食事の世話をしてきたが豆の一粒でも残してきた事は一度もなかった。

ドンッ、と、考え事をしながら歩いていた所に、目的の部屋の方から走ってきた、ルークの部屋を担当しているメイドが
ぶつかってきた。随分と必死な様子である。
「ご、ごめんなさい……カ、カルミア! お部屋には今、行かない方がいいわ!あの魔物が……!」
ひどく取り乱している彼女を見て、何を今更、と目を眇める。
ずっとアレしかいない部屋に食事を運びに出入りしていたのだ。どうという事もない。
それに、最初の頃こそ得体の知れない力で何をされるかと思って構えていたが、あの化け物は何もして来なかった。
そう、とだけ気の無い返事をすると、部屋係のメイドは何に使うつもりだったのか、掃除用具を抱えたまま走り去っていった。
それを冷ややかに眺めながら、呆れを含んだ溜息をつく。
それにしても、やはり、生きているのか。

「毒が……効かないっていうの…? 何なのよ、あの化け物は……」

気味が悪い、とあわだつ肌を抑えながらも、恐れてなんていられない。
それにも増して、アレが憎い。


今度こそは、と、胸元に忍ばせたナイフの柄を、強く強く握り締める。


一番伝えたい事を言葉にするのはむつかしい

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