世界に対する存在許可





自分を肯定してくれる人が、たった一人きりかもしれないけれど、この空の下のどこかには生きている。
どこかには、生まれて来た意味が、きっとある。
たとえ身近な人が、自分を愛してくれなくても。たとえ周りの人間全てが、自分を見てくれなくても。
この命が尽きるまで、もう、その人と出会う事ができなかったとしても。
きっとそう、と、自分に言い聞かせてる。




大好きで、大切な人。
生きる理由を与えてくれた人。
それを失くしてしまった後、どうすればよかっただろう。
「生まれた意味」を失くしてしまった後で、生きていてもよかったのだろうか。
いいや、まだ、きっとある。やる事が、やらなければならない事が。そうじゃなければ、私は私が解らなくなる。
悩んで、苦しんで、たどり着いたのは、憎しみと怒り。
漠然と、自分の幸せを壊していった人間に思い知らせてやると、そう思うだけで力が湧いてくるような気がした。
恨みをはらすまでは死ねないんだ、と思い込んだ。
ひとりっきりで周りを見ずにがむしゃらに突っ走り続けていると、気付いた時にはもう5年近く経っていた。
時々、「生きていてもいいよ」と、言ってくれる人が、一人もいない事を思い出すと、悲しくて寂しくて堪らない。
名前を、「()」と、私という意味を持った音が聞こえなくなった空間は、空虚で。
どんなに泣いても誰も助けてくれなくて。私一人だけ、嫌な事ばっかりみたいに思えて。
何で?みんな、ずるいよ、どうして笑って生きられるの?
呼んでよ、私の名前。私の事。誰でもいいの、一言でいいから―――


いなくなればいい、みんな、みんな消えちゃえばいい。
お父さんもお母さんもいないこんな世界なんて、必要ない。
でも、


世界から消えたのは、私ひとりだけだった。








「……………」
眠りから覚めたら、何か夢を見ていた筈なのに、もう忘れてしまっていた。
誰かが、眠りの淵で歌っていたような気がする。遠い遠い昔に聞いた子守唄かもしれない。

元いた世界に捨てられて、ここに存在して一週間あまり。今日も朝がきた。
放り込まれた先のここも、地球と変わらず太陽が昇る事で一日が始まる。
薄暗さに射したばかりの光が、朝がまだ早い事を示している。
以前の生活リズムが体内に残っているらしく、必要以上に早起きをしてしまうのだ。
いや、これで、むしろこの方がいいのかもしれない。
…彼と、顔を合わせなくて済むのだから、と、ベッドに眠るルークを見て思った。
息に合わせて上下する布団を、伏せ目がちに眺める。
(……さて…と)
音を立てないよう、注意をはらって立ち上がると、ガイから貰った洗面具と、あの分厚い本を持って扉へと向かった。
あの日、本格的に拗れてしまってからずっと、朝だけと言わずルークとは極力接する事のないように、過ごしている。
それは向こうも意図してそうしているようだが。
ルークだけではなく、ガイやペールとも不自然にならない程度に接触を減らしていた。
ルークをこれ以上刺激しないためにも。人が恐い事を思い出してしまった自分のためにも。
当たりも障りもしなければ、誰も不快な気持ちにならずに済むのだから。
そうして、人気のない場所を選んでは、一人で文字を読むことに専念している。食事はルークが食堂へ向かった
頃を見計らって部屋に戻り、ひっそりと済ませている。就寝も同じような感じで、時間をずらして部屋に戻る。
鼻つまみ者のようなそのコソコソした生活は、元いた世界のそれと変わらないものだと、苦笑した。

「あ…」

いよいよもって部屋を出ようと扉の前に立った所で、危うく忘れるところだった、と思いとどまる。
部屋の隅に置いている、あの鉢植えに水をやらなければ。
大分、貰った頃よりも蕾が立派になった事を思うと、水の量等に間違いは無いらしい。けれど。
(……咲かない、なぁ)
ある程度までの成長は見られたのに、ここ数日の間は、それがピタリと止まってしまっている。
そんなに早く咲くものでもないのかもしれない。けれど、様子を見る限り「何か」の切っ掛けを待っているような。
今にも開きそうな蕾は、その何かを「何で与えてくれないんだ」と、こちらを責めているような気がして。
それでも、何にも解らない自分は、水をあげて沢山太陽にあてる、という子供の発想のような方法しか知らない。
きっとまだもう少し掛かるんだ、と、言い聞かせて、朝日のあたる場所へと鉢植えを移動させてやった。
文字を読むことが出来さえすれば話はすぐに済むのだろうに。
どんなに日数が経っても、読めるきざしは残念ながら一向にない。

そろりと、今度こそ扉をあけて部屋から出る。朝の時間は、人の居ない場所を見つけるのが容易くて気が楽だ。
さっぱり解らないとはいえ、勉強もはかどる。意味や読みが解るレベルには程遠いが、全く進歩がなかったかと
言われればそうでもない。どうやらこの丸クネ文字、全部で23種あるようなのだ。
そこから先は、取り敢えず文字の配列や組み合わせに、法則性等がないか解析を試みているところである。
まあ、100あるなら、そのうちの0.01進んだ、という所だろうか。
それでも、諦める事はできない。いいや、諦めたら他にする事がないのだから。












「……って、あの由緒あるキムラスカ貴族の?そのご子息が次の副団長になるってんなら、
 問題ないだろうに。何でまたこんな妙な事になってるんだ?」

――――ここ数日の間に、言葉が指すイレギュラーは邸の中そこかしこで存在が目立ってきた。
新しい白光騎士団員になったという人間が、今もこの使用人の利用する食堂の一角でだらしなく潰れている。
どうやら昨晩そこで飲み明かしたようで、床には無数の酒瓶が転がっていた。
まるでスラムの酒場のような光景を、この公爵邸の食堂で見るとは思わなかった使用人達が、顔を顰めている。
思わず朝から食欲が削がれてしまい、ガイは気の抜けたような息を鼻から抜きつつ朝食を咀嚼した。
些か行儀の良くない姿勢ではあるが、気安い相手の前で、フォークを銜えて肘をつきつつ、そう聞き返す。
喋るのに合わせて上下する銀の柄を眇めた目で見遣りながら、二つ離れた席について朝食を摂るメイドは溜息をついた。
彼女とは顔なじみで、公ではないが白光騎士団に恋人がいる、という情報までは知っている程度の仲である。
今気になっている事を聞き出すにはもってこいの相手と言えよう。
行儀よくサラダをつついていたメイドは、口に入っていたものを飲み込んでから、ガイに向き直った。
「あのねぇ。元はといえば、あなたがルーク様を止めていれば……」
そう口を開きかけるが、どことなく矛盾を噛み締めたように言葉を引っ込めると、二度目の溜息をついて質問に答えてくれる。
「その新副団長様、素行が悪くて、家名を剥奪されてたそうよ。で、今回呼び戻されたのをいい事に遊び仲間を屋敷に
 呼んでやりたい放題。他の騎士からしたら、そりゃ誰をとは言わないけど恨みたくなるわよ」
「でも、そんな事が普通まかり通るのかい?いくら偉い貴族様ったって、ここは公爵家なんだぞ?」
この屋敷の惨状に苦い視線を向けながら口に銜えていたフォークを皿の上に置く。
「騎士団長も今ちょうど御用で不在。……旦那様もそれについて口が出せないのは、預言(スコア)があるからよ」
その名の表すとおり、物事の決められた道筋である、この世界において絶対になくてはならない、全ての導。
誰であろうと逆らえないその存在であれば、流石に。
「預言だって?」
予想外だ、と目を丸くして復唱するガイに、どうしてここまで話題の事を彼が知らなかったのかと、メイドは肩を竦める。
「騎士団も個人と同じように年に一度、儀礼的に預言を詠んで貰うのですって。……で、預言にはある家のご子息が
 副団長の座につくと詠まれていたのよ。その時点では追放された実子じゃなくて、養子の"彼"だったわ
 ―――――"アレ"が来るまではね」
顔を顰めて、「アレ」などと、いかにも口にしたくないとばかりに宣う彼女に、ガイは眉をひそめる。
「アレって…」
と、聞こうとしたその言葉が終わる前に、「何を言うか」と語った目が、きっ、とこちらを向いてフォークが突きつけられた。
相手が女性という事を抜いても、冷や汗を浮かべてびくりと身を引かせる。何だというんだ。
しかして、とぼけるのは許さないと、睨んでくるメイドに何も言えない。
「決まっているでしょ?あの化け物よ!本来ならクライブが預言の通りに副団長になるはずだったのよ!
 それを…―――――ガイが悪いわけじゃないけれど、言わずにはいられないわ!カルミアが可哀想で…」
興奮して、順序だてもせずにメイドの口から出る言葉は、明らかに相手の理解を考慮しないものだった。
しかし、ガイは偶然にも、その中にあったいくつかの名前を知っていた。
化け物…の事だろう。クライブというのは確か、を召喚した際に負傷した兵士の名前。
―――――そして、カルミア。近い過去にその名を聞いた覚えがある。確かそう、最近ルーク付のメイドになった人物だ。
それぞれの役者は全てばらばらで、この状況とも直接は繋がらない。けれど。
「なぁ、そのへんの事情、もうちょっと詳しく聞かせてくれないか?」
あと少しでもはっきりすれば、全てが一本の線に繋がりそうな気がする。
条件反射とも言える女嫌いの身体に鞭打ち、メイドの方へと心持ち身体を乗り出して追求した。
「え…ええ」
いつにないガイの様子と巻き返しに、戸惑いつつも彼女は頷くほか無かった。








好かれてはいない事は、確かだ。
慣れるはずもないそれに、はコメカミから汗が伝うのを感じた。
相変わらず、口は語らぬ割に、ほの暗い炎のような灰色がちな青い瞳は、多くの負の感情を物語る。
「あの………何なん、でしょうか…」
無駄とは知りつつ今日も一応声はかける。返ってこないのは承知済みの、それでも一週間あまり続けている儀式のようなもの。
ルークが出て行った後の部屋に戻って暫らくすると、いつものように専属のメイドの一人であるカルミアが現れる。
冷たい目で此方を射抜く眼と、その手にある自分用の朝食のトレイが今日も対照的だった。
自分ももう諦めた所が多いが、彼女も大概に我慢強いというか、執拗だというか。言いたい事があるならはっきりして欲しい。
生殺しのように、ただ斬り刻むような視線を送ってこられても、困る。
けれどもその激しい感情は日をおう毎に増し、一週間経った今、彼女が自分を襲ってきそうな不安に駆られる程である。
いっその事、行動を起こして欲しい、とも思わなくもない。
どうする事も出来ずに、こうして曖昧な笑顔を浮かべながら問いかける事しかできないよりは、その方が。
恨みがましい目が、やがてすっと逸らされると、もほっと肩の力を抜いて息をつく。
そしていつものように、朝食の準備をしてくれる彼女の背中をぼんやり見るのだ。
年は若干自分よりも若い、18、19くらい…というのは私見で、人から見れば自分の方が遥かに年上に感じるのだろうが。
身だしなみは前より断然マシ(ガイに貰ったちゃんとした洗用液で髪や体を洗っている)とはいえやっぱり気を遣う
余地は相変わらずない。遅れを取るどころか比べようもない。
美人とも言えるがどちらかというと、細身で可愛い彼女は、絶対に笑えば花も恥らう程だろうに、勿体無い。
恨まれておいて何だが、人を恨むよりは、きっと普通の女の子のように過ごす事の方が彼女にとって幸せだろうし、自分が
それを出来ない分、そうしようとしないカルミアの事が逆に恨めしい。
人を恨むのは、人を妬むのは、人を憎むのは。私みたいな奴の役目で、いいんだから。

「…………?」
ふと、気がつくと、いつも手際よく用意を整えていた彼女の手が止まっている。
向こうを向いたまま、俯き加減にあらわになる項が放心したように動かない。
手元は身体に隠れて見えないが、何かの作業の途中のようだ。スパイスでも加えてくれているのだろうか?
しかし、その肩が、顎が、微かに小刻みに震えているのが見えたので、声をかけてみた。
「あ、あの……どうかしたんですか?」
「―――――ッ!!」
勢いよく振り向いたカルミアの瞳は見開き、本人の意思とは関係なく滲んだのだろう汗が頬を伝っている。
硬く握り締められた右手は胸に隠すように押し当てられ、その上を更に左手が強く覆っている。
明らかに通常の状態でない彼女の予想外の反応に、声をかけた此方が吃驚した程だ。
「ぁ…ッ」
「……え?」
短く喘ぐように搾り出された声が、何かを訴えかけようとしているのかもしれないと耳を傾ける。
酷く脅えたようなその様子は、化け物と認識されている自分に、というよりは何か別のものに向けられているみたいで。
何だろう、急に。何を恐いと思っているのだろう。揺れる瞳は、此方を向いているものの、物理的にものを見ていない。
「あなたが…ッ」
ついに、ここへ来てカルミアが感情そのままに自分に対して言葉を口にした。
その事で少しは動揺が薄れたのか、脅えた表情に憎しみが交じってくる。
胸元で握り締められた手は、力が入りすぎているせいで白くなり、小刻みに震えている。


「……あなた――――あなたなんかがっ!そうやって生きているから悪いのよ!」


言い訳のように、こちらから目を逸らして力一杯彼女はそう叫ぶと、銀のトレーも残して部屋から駆け出していった。
閉めたつもりかもしれないが、強い勢いに反動で跳ね返った扉が大きな音を立てて閉まらずに揺れる。
キィ、キィ、と軋む金具の音と、一連の慌しさに巻き起こった風と、小さくなるカルミアの駆け去る足音だけがその場に残る。
ああ、そしてもうひとつ。自分の朝食。
冷たい言葉と感情によって、血の巡りのわるくなった指先で触れる、暖かいスープの器。
指先は温かいけれど、それが体の中心部分まで温めてくれる事はなかった。
「………」
言われ慣れたような言葉に、息を、ついた。
(ほんとに……ね)
ここにいる限りは、私が生きている意味なんてない。恨みも憎しみも全部あちらにおいてきた。
帰れるなら、それまでは生きなきゃならない、けれど。結局こうしている限り、私は。
今日も私は、何の役にも立たないまま、こうしてごはんを食べさせて貰ってるだけなんだ。
脅えて、避けて、一人で、隠れて、逃げて。
何のために、何がしたくて、ここで生きているのだろう。
柔らかな湯気の立つスープに、口をつける。口内に含んだ液体は、あんまりにも美味しくて悲しくなった。








下げられてきた皿を見て、邸の料理長はまたか、と溜息をつく。
「……また、今回のはえらく長い癇癪じゃないか」
ルーク専用にと、他とは明らかに差をつけて作られたにも関わらず、ほぼ出した時の状態と変わらないまま戻って来た朝食。
彼の好きなものが、ちょこちょこ手をつけられているだけで、あとはそのまま。
小姓に黙って差し出せば、一度使いまわされたものだとは思うべくもなく、夢のような食事だ、と感涙するかもしれないと
意地の悪い事を考えた。まあ流石に実行はしないが。
またか、というのは、今回だけではないからだ。
気分が悪い、気に入らない、と言ってはここ数日ルークはまともに食事を取ろうとせず、もともとの偏食に拍車がかかっていた。
公爵に説教を喰らった日や、何か気に障る事があった時、臍を曲げたルークは決まって食事をないがしろにするなどして
周囲に心配してもらう努力をおしまない。本人は無意識なのだろうが、大体の行動パターンは決まっていた。
高確率でしわ寄せが来るこことしては堪らない。せっかくのいい食材なのに。
「ったく、ガイの奴は何をやってんだ。ちゃんとルーク坊ちゃんのご機嫌をとっとけって話だよ、まったく」
大抵こういう時は、いつも子守役のガイが上手くルークを取り成して丸く収まるのに。
「違います!ガイは悪くないですったら。きっとあの化け物と同じ部屋を使わなくちゃならないからですよ。
 ……ああ、ルーク様……お可哀想」
料理長のこぼした愚痴に、ガイとルークのファンなのだろう、皿を下げてきたメイドが目を吊り上げて横から口を出してきた。
私情の入り過ぎた意見はともあれ、と、それに溜息をついて適当にだが相槌をうつ。
「はいはい、もう何でもいいさ。とにかくその化けモンが原因なら、早いとこ何とかして貰えないかねぇ。迷惑な話だよ」
自分は直接関係無いし、皆の騒ぐ化け物をどうとも思っていないが、正直な気持ちを呟く。
ほんと、そうですよね!と、横で力を込めてメイドが何度も頷いた。
結局、その後の昼食は、ヴァンとの剣術稽古があるとかで少しは多く食べたようだったが。







今日はルークは、剣の修行があるらしいから、部屋には戻って来ないはず。
相変わらずひんやりした床に座りながら、びっしりと並んだ文字と格闘していた。
どんなに見かえしても、理解しようとしても、全く進まないそれにイライラする。
ふとした瞬間、今の自分のしている事が、全部が、馬鹿馬鹿しいとさえ思えた。
(私いったい何やってるんだろ……)
人に頼らなくちゃ生きていられなくて、ただ、ここに、一人でこうして。
仕事をしなくちゃ。働かなくちゃ。役に立たなくちゃ。
元の世界では苦しくてもそれがあったのに、今は足元に何もない。
奪われないよう、守り続けてきた私という存在の意味、私という存在が赦される場所――この世界に来て無くなった。
それは、決して愛すべきものではなかったけれど。

薄暗い蛍光灯に照らされたコンコースを流れる人々は、誰も彼もがそれぞれを無視して。
その中でいっそう、自分の存在は希薄で要らないもののような気がした。
けれども、丸められた紙くずを拾って、吐きつけられた唾を拭って、こびり付いたガムをこそぎ落しながら。
そうやって、「自分がやらなければならない事」を得て、いつだってそれを何度もなぞるように確かめては安心できた。
必要とされているのだと、思い込む事ができたのだ。

生まれた意味を肯定してくれる存在を、既になくしてしまった後の世界で。
そうやって必死に、存在許可を貰おうとしていたんだって、思うよ。


暗い暗い、己の内面が見えてくる。

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