何だかよく解らないが嫌な気分だ、と、そういう感覚だと思った。 頭だか、胸だか。 確かにあるはずなのに、結局体の何処にあるのか解らない「心がある場所」が痛いような、締め付けられるような。 中庭の、白い石が組まれて出来た階段に座って、暮れなずむ空を見上げながらルークは瞼を閉じた。 頬を掠めた風が、時間帯のせいか少しだけひやりとする。 昼間は穏やかな木陰を生んでいた木々が僅かに揺れて、ざわ、と音を立てるのを聞くと、そこがとても静かなのだと感じた。 (…わかんねえ…) 目を閉じた暗闇の中に、ふと、言葉を投じる。 ――――解らない?――――何が解らないっていうんだ? 心で呟いたそんな言葉を何に対して、またどうして使ったのか、その事自体が理解に苦しい。 忌々しく思って眉間に皺を寄せると、再三やめろと忠告されている舌打ちをした。もう、癖だし、これくらいの反発は許されて当然だ。 ああ、もう毎日がウザったい。かったるい。気に入らない。何だって今日は、いつもにも増してこんなに。 本来なら、それら鬱憤全部を晴らすための日なのに。ヴァン師匠に、たっぷりと稽古をつけて貰ったのだから。 やっぱり剣の腕に関しては、正直まだ認められるまでには至らないけれど、沢山話が出来て。 普段どんなに欲しても得られる事のできない言葉を貰ったり、他の誰かには見せられない弱い部分も勇気づけられて大満足していた。 ――――でも、いまは。 師も帰り、稽古の時の熱気も体から完全に抜け切って、そして一人でこうしていると。 次に自分の取るべき当たり前の行動―――部屋に帰ろうかと、その事に考えが至ると、嬉しかった気分なんて何処かへ消えてしまう。 ふ、と目を開けて手の平に視線を落とした。何でだろう、師の言葉は絶対なのに。 彼が言うんだ。世界中の誰もが敵になったって味方で居てくれるって。この言葉ほど、欲しい言葉なんてない筈なのに。 何だか、満足がいかない。 「ルーク様」 こつ、と、背後に石段を鳴らす靴の音が聞こえて振り返る。 「……何だよ、ペール」 一人きりと思っていた中で、耳が拾った自分への呼びかけ。 声で既に判別は出来たが、その人を視界に入れて、ばつが悪そうにルークは顔を歪めた。 ああ、そうだ。"アイツ"がいるせいでこんなに気分が悪いのか、と、老庭師の穏やかな表情を見て思い出す。 本来なら自分のテリトリーのはずの優しい微笑みが、異世界からの思わぬイレギュラーの介入に崩されてしまったのだ。 だから、師という拠り所があっても、ここでの居場所が不安定になって、それで。…そうに違いない。 「ここは、冷えます。お部屋に戻られた方が宜しいかと…」 肩に掛かりそうな白髪が、宵待ちの風に煽られている。自分の赤い髪もそうなのだろう。 「うっせーな。お前には関係ないだろ」 優しげな声を掛けておいて、何だよ、結局どっちの味方なんだ、とイライラして言葉が荒っぽくなった。 こっちの機嫌が悪いのは解っているだろうに、変わらぬ風を装ってるのが見え透いていて癇に障る。 「しかし…」 そう言って食い下がろうとするペールが鬱陶しくて苛立ちが募る。 ああ、くそ。部屋には帰りたくない理由があるから、ここでこうしているんだろう。 「ほっとけよ。ウゼーなぁ」 大体誰のせいかという話だ。その一端は、ペールにだってあるのに。眉間に皺を寄せたままぷいと顔を背ける。 あんな奴に。 異世界だか何処だか知らないが、得体も知れない腹が立つばかりのあいつなんかに、優しい顔をするからいけないんだ。 三日前までの平穏が戻って来るというなら話は別だ。もうには構わないって、自分の味方なんだって、それが確かなら。 けれども自分の放った心無い言葉に、彼は悲しい顔をするでもなく、むしろ毅然とした顔に俄かに厳しさが湛えられた。 「そうは、いきません。お風邪を召されたら大変です。ペールは、ルーク様が心配なのですよ」 「…っ」 思わず、肩が揺れた。 真剣な声が、真実を語るのが―――心配されている―――その内容が確信を帯びているのが少なからず嬉しかった。 少しだけ強い口調に気圧されて、咄嗟に返す言葉が出ない。自分よりもずっと身分が下のこの人物に。 それどころか、庭師のペールは、身分的には執事達よりも下の位に位置する。 けれど、普段こそ人前で話す事はあまり出来ないが、定められた範囲でしか接しようとしてこない他の人間と違って ずっと好感の持てる人間だ。 殆ど覚えていない思い出の中でも、確かに"自分だった"時間を、共に過ごした記憶。 ガイとペールと、三人で過ごした思い出は、ヴァン師匠のそれとまではいかなくも、他よりも多く残っている。 変わらない日常が重ねられて、思い出になって。退屈だけれども、この先もそうやって揺るがずに続いていくと、疑うことはなかった。 でも。 「……それと、差し出がましい事とは存じますが…とは何かありましたかの?」 続けられた言葉を聞いた瞬間に、思い出も高揚感も、拭われてしまった。 ――――『お前……に、何かしたのか?』『がそんな事をするなんて、俺には思えねぇよ』 ガイも、そうだった。やっぱりペールもそうなんだ。 の事ばかりいう。の事ばかり気にする。二人とも、まだ数日なのに。 「……んだよ!地味ゴリラの方だけ心配してりゃいいだろ!俺の事はほっとけっつーの!」 思わず拳を握り締めて立ち上がると、感情のままに老人を怒鳴りつけてしまった。 こっちの事が心配だ、なんて言っておいて、今その名前を口に出すなんて許さない。 突然の勢いに、流石に年のせいか驚いて怯んだペールの顔を見ながら、苦い思いが広がる。 こんな言い方じゃ、まるで必死に優位に立とうとしているガキの八つ当たりみたいじゃないか。 こっちを見てくれ、と、ひがんでるみたいじゃないか。 いや、実際それで気分が悪かったのかもしれないけれど、でも、そんな格好悪い事があってたまるか。 「は…」 呆けているペールが、ゆるゆると呪縛から解かれて口から少し間の抜けた息のような声を発する。 何を言おうというのか知れないが、非常に決まりが悪くて舌打ちをした。 さっきも思ったが、絶対に逆らう事がないのは他の使用人と同じでも、ペールはずっと聡明だ。 ここで「私はあなたの家来ですから、言う事は何でも聞きますよ」などという無粋な事は言わない。 きっと、子供じみた物言いに対するフォローないし遠まわしな諭しがくるのだろう。やっぱり格好悪い。 「……はて…ジミゴリラ……とは一体…?」 「…えっ」 予想外の切り返しに、ぎくりと今度はルークが怯んだ。 てっきり来るはずだと思って構えていた内容のツッコミは帰ってこず。 ああ、そうか。このあだ名の事をペールはまだ知らないのだったと、今気付いた。 「だ……っ」 拍子抜けはしたものの、この問いにも何だか答え辛いものがある。咄嗟に答えようとしても、何と言えばいいのか 解らなくて、口の中に未完成な言葉を転がした。目の前で首を傾げている彼を恨めしく思う。 何だってそんな解りきった事。ああもう解れよ。 「……だから!アイツだよ、アイツ……お前今言ったろ!」 「召喚獣」なんて、いまだ胡散臭い言葉を使うのも嫌だし、ガイには「化け物」なんて呼ぶなと言われているし。 結局を指す呼び方が名前しか残っていない上に、これ以上手っ取り早い事もないのに、どうしてかそれを したくない。認めてしまうみたいで、納得いかない。 それ以上に、向こうがこちらを名前で呼んで来ない事が何より気に入らない。 その事を言い争った記憶もあるが、折れるべきは向こうだ。 「あ……ああ、の事ですか。しかし何故名前…」 「決まってんだろ!不細工で怪力だからだよ!"地味ゴリラ"で充分だっての」 案の定更に突っ込んで来ようとするペールの言葉を、半ば乱暴に遮った。これ以上は気まずい。 それ以前に何だって口にしたくもない奴の話をしなくちゃならないんだ、と、自問した。 自分の日常には、不要な人間だ。顔も地味だし、何にも出来ないし、言う事やる事腹が立つ。 何にも悪い事をしてない自分が、不自由な生活を強いられている自分が、どうして更に不快な思いをしなくては ならないんだ。苦々しい思いで歯を強くかみ合わせると、戸惑ったままのペールをそのままにして踵を返す。 とにかくムカつく。とにかくウザイ。 けれどそれが、その原因が、本当の所は何処にあるのか。 これ以上ペールと向き合っていると、解ってしまいそうになる。至極簡単なそれが、今は絶対に認めたくない。 「……っくそ!わーったよ、戻りゃいいんだろ部屋に!」 そう言いながら、近くに転がる愛用の木剣を拾い上げる。 大儀そうに溜息をつくと、薄く闇の落ち始めた中庭を後にしようと、歩を進めた。 苛立ちは収まらず、いまだ募るばかり。部屋に帰る事が、やはり嫌で嫌で堪らない。 「ルーク様」 半ば逃げるが如く足早に進む事で後ろになびく赤い髪に、優しげな老人の声が絡まった。 この期に及んで、何を。 「――――よい呼び名ですな。なかなかに、似合うております」 柔らかい声が、その口に微笑が湛えられている事を物語る。 何だよ、知った風に。 振り返りはしないし、立ち止まってもやらない。 けれども、確かに自分に届いたその言葉に、どこがだよ、と心の中で言い返してやった。 「……んあ」 ふと気がつくと、壁に寄りかかって変な体勢のまま寝入っていた。 いつの間にか薄闇に覆われた部屋の中、開けっ放しになったままの窓から入る冷たい風が身体を撫でている。 ぼんやりと、状況理解に勤しんだ。 何度経験しようが、自分がブルジョアな部屋に何故いるのかが咄嗟に解らなくなるのは、 貧しい感覚がもう修正不可能な程に出来上がってしまっているからか。 それもあるが、まだここでの目覚めに単に慣れなくて、軋む身体を壁から離して考えた。 右手の平から、懐中時計の時を刻む音が、微かな振動となって身体に伝わってくる。 床の上に直に座って、投げ出された足の上には薄っぺらな本が乗っていた。 (……あ、いつの間にか寝ちゃったんだ……この文字があんまりにも眠気を誘う形をしてるもんだから…) 自分の置かれた状況を思い出して、眠気の覚めない身体に鞭打ち立ち上がる。 窓を、閉めないと――――…って、閉めてもいいんだよね…? この部屋を使っていい、とされても、元々ルークに宛がわれた部屋はにとっては居心地が悪く、 また遠慮も勝ってやりにくい。…更には今日の朝からは、それに気まずさまで加わって余計に動けない。 三冊も本を受け取った手前机で勉強したいという願望はあるが、人の部屋の家具を勝手に使うのも何だし。 それに、今は何がルークの気に障ってしまうのか解ったものじゃない。 結局寝る場所同様、一番確実な安心できる場所――――部屋の隅の床で本を広げる事にした。 ……ところまでは、よかったのだが。 (駄目だ…) 取り敢えず窓を閉めて、改めて定位置に戻って来ると、今までトライしていた本を拾い上げて渋い顔をする。 「考えが……甘かった…」 重い溜息をついて、がっくりと肩を落として項垂れる。 目標は、こうだ。 ペールにちゃんと仕事をさせて貰いたい(多分彼は勉強する機会を与えてくれたのだろうが)→認めて貰うには 花を咲かせる事が必要→咲かせ方は分厚い専門書に書いてある→その本を読めるようになるために薄い子供用 教材から始めよう。 …実に良く出来たサイクルだ。文字が読めるようになれば見聞も広がって、ペールに頼りっきりにならずとも 選択肢は多くなってくるはず。今は苦しくても、知り続けていけば、きっと生き易くなる。 しかし、その道のりは今のところ果てしなく、長い。 それでも、「咲かせます」と威勢よく答えた時には気力もあった。読み方さえ解ってしまえば何とかなると思っていた。 子供用の教材なんだし、きっと大丈夫だと思っていた…のが、間違いだった。 思えばガイに手渡されたその時に、中身をパラリと見ていたのだから気付くべきだったのに。 「……何て書いてあるのか、さっぱり解らない…」 うんざりと、言う。 そう、全くもって理解不能なのだ、子供用教材さえも。それも当たり前じゃなかろうか。 確かにとても要領良く、解りやすく、大きな文字で書かれてあるいい教材だというのは伝わってくる。しかしだ。 書き方の説明から読み方は勿論、問題、答え、ヒントやアドバイスに至るまで全てがあの丸クネ文字とあらば。 解答欄のミミズが這ったような文字に、赤いペンで添削がしてあるが、これの何がどう間違っているのかも解らない。 「あぁ……どうしよう…どうしろってのよ…」 苦手な英語だって、単語や文法の説明は日本語、という救いがあったからこそ何とかなったというのに。 一歩たりとも前に進めない状況に、思わず頭を抱えた。 元の位置に座って、遣る瀬のない盛大な溜息をつく。どうにかならないかと考えすぎて、火照ったような脳を 休めようと、暫し何をするでもなくぼうっとする事にした。 ぱらりと薄い古びた絵本をめくると、この世界の誰かが描いたんだろう、美しい絵。 太陽と、月と思しきものが描かれている。持ち主は何度この本を繰り返し読んだんだろう。 苦笑がもれるほどに、ページの端はボロボロだし、綴じ代には、修繕の跡もある。 (この本、好きだったのかなぁ…。きっと、凄く面白かったんだ) 読めないのを残念に思いながら表紙を閉じ、傍らの、まだ正体不明の植物を見やる。 先程危うく落として駄目にしてしまう所だったなんて思えない程、しゃっきりと緑の茎が伸びて元気な様子である。 どんな形の花が咲くのだろう。どんな色をしているのだろう。 取り敢えず水はあげておいたのだが。 (大抵の植物なんて、水あげて日光にあててれば育つんもんじゃないのかな…?) まだ硬いけれど、蕾はしっかりと咲く準備を進めているようなのだ。日を待てば勝手に咲いてくれるのではないか。 そんな淡い期待も、再びついた溜息と共に散っていく。 (だったら、こんな無駄な事させないよね…。何かしなきゃいけないのかな…) 日に当てる時間とか水のあげ方とか。実は結構難しいものだと聞くし。ここは異世界。何か特別な手法があるのやも。 とにかく急かして咲くものではない、と、半ば諦めて専門書の方を手に取る。せめて名前が解らないものか。 駄目もとで開いてみたのはいいものの。 「……って、もっと読めない。暗くて」 もう文字自体が見えなかった。 理解よりも状況がそれを阻んできたのだ。日は完全に落ち、カーテンを開けても何処からも光など入ってこない。 「そういえば……考えてみたら、この世界って何で明かりとってるんだろ…?」 どうも発電をしているようには見えないし。暗闇の中、今更な疑問をポツリと呟くが、それに対する回答者はいない。 更にはエネルギー源から知らなければ、この暗闇の中で自分はどうする事もできないのだった。 頼みのルークはまだ帰ってきていない。剣の稽古…だったか。こんなに遅くまでしているのだろうか。 それとも、やはり自分と顔を合わせるのが嫌だから部屋に戻って来ないのか。その可能性は限りなく高いが。 (でも……ここに帰ってくるしかないよね。あの人の部屋なんだし…) 激しく緊張はするが、これからも同じ部屋で過ごすのだ(早いところ勘弁願いたいが)。 きっとその中で、関係改善も出来るはずだ…きっと。うん…多分。おそらく。いつかは。 そうやって、珍しく無理矢理プラスの方向に考えを持っていって、希望を抱こうとしていた矢先に。 ノックもなく、カチャリ、と扉が開いて廊下側の光が暗い部屋に漏れ出してきた。 心臓が跳ね上がって、思わず息を殺してしまう。 光の世界へと通じる扉の方を、誰が入ってきたのかと目を凝らすが、そんなのは決まっている。 長い髪のシルエットが、開けた扉の先が真っ暗な事に僅かに驚いたように揺れる。 その素振りの後、軽く息をついて光の漏れる出入り口はそのままに部屋に、"誰か"は踏み入ってきた。 は何故か妙な緊張にかられて、気配を殺して指一本動かせずにいたのだが。 そうして彼が灯り元を探して、軽く辺りに視線を彷徨わせた時にやっと。 「……ッ!な、にやってんだよお前っ…!」 闇の中にひっそりと人がいる事に気付いたルークは、悲鳴こそどうにか抑えたようだが当然の反応をする。 「え、あ、いや!その……灯りの点け方分からなかったっていうか…」 不可抗力だろうが、久しぶりにルークから話しかけてくれた事に興奮しつつ、明るい声になるように必死に返す。 極力愛想の悪くならないように、刺激しないように、努めて明るく…ルークへの対応に冷や汗が伝う。 「……………」 けれどもやはり、ルークは言葉をかけてしまったのは不覚だったと言いたげな仏頂面になると、口をへの字に曲げて こちらに背を向けた。そうして廊下の明かりを頼りに、壁伝いに進んでランプのようなものに明かりを灯す。 あ、結局どうやって明るくするのか見損ねた。 途端に部屋中の全てが、白い光に照らされて現実味を帯びた。 二人、この場に対峙しているのだという状況も。 さりげなくと言わず、あからさまに目を合わそうとしない――そもそも体ごとこっちを向いてくれない彼の様子に落胆する。 時間が経てばいつの間にか仲直り、というわけにはいかないらしい。 「あ、あの、」 だったら、と、勇気を振り絞って声をかけるも。バサ、と、衣擦れの音にそれを遮られてしまう。 「ちょっ!?うわ!ちょ……と、待ってよ、あの…」 またもや、目の前にはいつか見た唐突な着替えシーンが再現されようとしている。 何で。自分は一応女だって言ったはずなのに。 構う事なしに稽古着の袖から腕を抜こうとするルークに、悲鳴じみた声をあげるが。 「……何だよ」 付け入る余地のない声と、棘のある視線がこちらを向いたのに、びくりと肩を揺らす。 「………あの」 親しむどころじゃない感情の壁にぶつかって、臆した身体は指先さえもまともに動かない。 駄目だ、やっぱり――――人が恐い。 ガイやペールと接する事で、少しは心がほぐれてきたと思っていたのに。 目を見て話す事が大切?――――こんなに、怖い色を宿した目なんて、見ていたくない。 きっと、このひとも、こわいひとなんだ。 ルークと接していると、自己の中にある巨大な「負」を呼び戻される。 どんなに前を向いたところで、認めて貰えないのは、「私が駄目な存在」だからだって、思えてしまう。 もっと可愛かったなら、もっと声がよく通っていたなら、もっと明るい性格だったなら…無いものばかりを切望する。 悲しいかな、それが本来の自分だ。笑いもしないで後ろを向いてばかりの、元の自分だ。 だって、前を向いたぶん、返ってくるものが少ないと疲れるのだもの。 「気に入らないなら、出てけよ。ここは俺の部屋だぞ。……あと、あんま馴れ馴れしくすんな」 不機嫌そうな顔をこちらからまた背けると、突き放すように、言う。 所在のない手が、服の裾を握った。 「…―――そう……ですよね。」 学習能力、本当にないな、私は。またいつの間にか主人にタメ口を使ってしまっているし。 「…ごめ……あ、申し訳有りません……かな」 震える口だけに曖昧な笑みを浮かべて、どうにか言い繕う。笑っているのは最後の虚勢だ。 「じゃあ、外に出てます、ね」 一昨日までは使用人達が向けてくる否好意的な視線が恐くて、部屋の外に出るのが恐ろしかったけれど。 今はそれよりも。 指先が。ああ、指先が冷たい。 早く外に行かなくちゃ。ここから出たい。恐い。 慌てて逃げ出た先の廊下には、幸い誰もいなかった。後ろ手に扉を閉めて、ずるりともたれ掛かる。 「……ふぅ…」 溜息すら、まともにつけなかった。 それでも必死に、胸の中で冷えた空気を毒のような暗い気持ちと一緒に吐き出してしまおうと、頑張った。 前髪をむしりそうな強さで掴みながら、くしゃりと潰した。結局臆病な自分は震えている。 自分を拒む人は、恐い。 恐いから、逃げて、避けて、会わないようにしていたけれど。 けれどそれが出来ない今は、どうすればいい? わからないよ、どうすればいいっていうの、何を言えば自分は楽になるの。 どんな自分になればいいのか、教えてくれればいいのに。 学校という閉鎖空間に通っていた時には、もっと酷い事を言われた記憶があるのに、社会に出て暫らく 自分は弱くなってしまったのだろうか。これぐらいの言葉、耐えられるはずなのに、何でだろう。 ううん、大丈夫なはず。落ち着いて。ここは異世界で心細いから、気持ちが余計に昂ぶっているだけだ。 平気。 平気だ、頑張れ。 「…………」 力いっぱい引っ張りながら潰していた前髪が、力の抜けた指の間からするり、と離れていく。 じい、と、顔から離した両の手の平を見つめながら、確認する。 (……私は、) 生きている―――――生きてさえいれば大丈夫。恐くない。 嫌われても痛くない。罵倒されても死にはしない。 でも―――――苦しい時や、悲しい時は、一人きりでどうすればいい? (……そろそろかな……) 気持ちも、大分落ち着いて。 頃合を見て遠慮がちに開けた扉の先には、着替えを終えたルークが、くつろぐでもなくそこに居る。 けれど。 「………?」 背を向けた姿しか見えない。表情も見えないけれど、身体が少し、震えている気がした。 「あの……どうかし、」 片手で頭を押えている。何かに耐えているみたいに見えて、声を掛けたが。 「うるさいッ……何だよ…何なんだよお前は、そうやって…、…―――――ッ!」 「……!?」 聞く耳を持つものか、と言い募ろうとしたルークは、言葉を続けられずに頭を両手で抱える。 苦しそうに呻くと、その場にがくりと崩れ落ちた。何が起こったのか、には解らなかった。 さっきまで何事も無さそうに見えたルークが、ふっと顔を歪めたと思ったら、今目の前でうずくまっているのである。 事態の急転についていけず、目を白黒させる他できない。 「な、あ……え…!?」 「く…っそ!何、だよ……朝の続き…だって、のか…っ!」 握りつぶさんばかりに頭を抱えて、のた打ち回る様子は、ただ事ではない。常の状態ならば、頭皮に食い込む爪の方が 痛いだろうに、それすらも苦しみを紛らわすための行為だというのか。 暑くもないのに、ルークのこめかみから幾筋もの汗が伝った。俗に言う脂汗というやつだ。 「…っ、……マジにやべ…っ」 支えきれない身体を、どうにか必死に膝と片手で立てながら、更に込み上げてきたらしい吐き気に口を抑える。 「だ、だい…じょう…」 ルークの様子にあまりに吃驚して、痺れて動かない口から芸の無い言葉が漏れたが、明らかに無事ではない。 どうしよう、どうしよう、どう、しよう。 彼はどうしてしまったの?この状況は何なの?何が起きたの? 私はどうしたらいい? 何とかしなきゃって、思うのに、やらなきゃいけない事が全然分からない。 意味のない情報が溢れてパンクした頭も、石のように固まった手も足も、役割を見つけられなくて動かないまま。 「あの」 そんな自分に叱咤して、無理矢理脳から出させた命令に従い、ぎこちなく手を伸ばす。 もう少しでその赤い髪に触れる、というところで、ぱしん、という音と衝撃が手の先から伝わった。 「……っ…さわんな!お前なんかに関係ないっ!!」 ああ、そうだよね。 私なんかが、君に触れることなんて出来やしないんだ。 「……ごめ…、申し訳、ありません……。ご主人様が、あまりにも苦しそうだから……わっ、私、誰か呼んで…」 そうして、今度は固まった足を無理矢理動かそうとしたのだけれど。 「…すぐにおさまる!どうせ……いや、いいからそうやって……俺に構おうとすんな!」 うずくまりながらも、投げつけられる否定の言葉が、悲痛に響いた。 「――――ご、」 結局、私は。 「……ごめん、なさい…」 一切の関与する事なんて出来なくて、もはや何も―――唯立っていることしかできないんだ。 「…っく…痛…っ」 「…ごめん…」 朝から、何度そう言っただろう。だって見ている事しか出来ないから。こんなに苦しんで、いるのに。 けれど、何度も口にするうちに価値のない言葉に成り下がってしまったそれが、届くはずもない。 ―――――「どうせ、本当は俺の事なんて心配してないくせに」 口に出して言ってやらなかったけれど、解ってる。 自分が主人だから、逆らえないから、ご機嫌を取ってるつもりなのかな、なんて思うと悔しくなってくる。 あれから一言も話さないまま、お互いの存在を無視して過ごし、床についた。 変な話だ。一緒の部屋にいなきゃならないのに、これだけ馬が合わないのだから。 寝苦しさに身じろぎしながら、ルークは虚ろに考える。 あれだけ、悲しそうな顔をしてみせるくせに、泣かないんだ、あの生き物は。 やっぱり、演技だからか? なんだって、ペールもガイもと仲良く出来るんだろう。なんではペールとガイにだけは親しそうにするんだろう。 元の世界に帰りたいって、そう思ってるくせに。 何にも話してくれないくせに、笑ってくれないくせに。俺は何も悪くない、全部向こうが悪いんだ。 『――――よい呼び名ですな。なかなかに、似合うております』 何が、言いたかったんだろう、ペールは。 振り切るように布団を引っ張って頭まで被ると、それ以上は考えないようにぎゅっと目を閉じた。 |
何で怒ってるのかってのは、単純そうで複雑だったり
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