「それじゃあ私、部屋に戻って早速本を…」 言いかけたところで、離れた所から誰かが石畳を踏みしめる音が聞こえた。 この中庭という空間が屋敷からも切り離されたかのように穏やかなのは、人の気配の少なさも理由に入る。 故に、踏み入ってきたその気配にもでさえ容易に気付いて顔を向けた。 「……あ…」 「!」 彼の人が目に入った瞬簡に、思わず声を上げる。 同時に向こうも気付いて驚いたようだったが、息を呑む程度にどうにか留めた様子であった。 「……そういえば、今日は」 「そうじゃったな…もう直ぐにでもお着きになるじゃろう」 現れた少年を見て、微かな焦りを含んだような声を立てるガイとペールを背後に差し置き、前方に意識が向く。 気まずくて会いたくなかったと言えばその気持ちの方が強いが、会わなければならなかった相手と言える。 いつもの、裾の大きく割れた白いコートに腹がむき出しの格好とは違い、動きやすさに特化したジャージのような服は 変わらず身分に対しては不相応だったけれども、先の服よりずっと健康的である。 せっかく機動性の良好な格好をしているというのに、纏めずに下ろされた赤い髪が緩い風に煽られていた。 一昨日と昨日、部屋でだらけている格好しか見かけなかったから何だか意外な気がする。 「……ええと、ご…ご主人さま」 まだ言い慣れないし、何だか自分の口から出るとイマイチ間抜けになってしまう呼び方が、非常に気まずく響いた。 朝のあの時からほんの数時間しか経ってはいないというのに、気持ちの持ち方で顔を合わせるのが久々にさえ感じる。 自覚したくはないが、溝が広がってしまったという事か、それとも自分の被害妄想か。 「………」 しかし、返された無言の間は、こちらの杞憂ではない彼の怒りを確かに伝えてくる。 今までは離れた場所にいたせいだろうか、ここにきてまた、ぴり、と誓約の痛みが頭の芯を縛るように走る。 その発生源に思い当たる事が無くて、困惑するしかなかった。何が気に入らなかったのだろう。 危害を加えてしまったしまった事は、確かに謝ったはずだ。それとも一回謝っただけじゃ、足りないという事なのだろうか? ならばまず話をしなければならなかった筈なのに、一体彼は部屋に戻らずにどこにいたのだろう。 それよりも、あの怪力を受けた腕は今どうなっているのか、大丈夫なのだろうか。 「……あの」 湧いた疑問を咄嗟に口にしようというのに、 「」 呼ぶ声と共に、くん、と後方から腕を引かれて遮られた。 水を差された事に苛立ちさえ覚えながらも顧みると、僅かに眉を寄せている以外に感情の窺えないガイの顔がある。 彼は一度ルークの方に視線をやって様子を見た後、こちらが優先とばかりにそれを戻した。 「悪いが、ルークとの仲直りは後回しだ。ここを早く離れないと……人が来るから」 「人?……わっ」 そうと定められた時間が迫っているのか、いつになく強い調子で促されるのに逆らえなかった。 半ば引っ張られるようにされて、持った荷物のバランスを崩しそうになる。 「ああ、悪い。……でも、言ったろ昨日。屋敷の外に出るなって。外部との接触は、禁止って事だ。 ……もうすぐ此処に、ルークの剣の師匠が来るんだよ」 の問題は屋敷の内部だけで対処し、極力広める事のないようにした方がいい、と公爵は判断したのだろう。 賢明だと思える。何でここにいるのか、どうしてこんな体になってしまったのか。自分さえも自身の得体が知れないのだから 害がない内に、多くの人が存在を知らない内に解決出来ればいい。どんな事に巻き込まれるかも解らない。 そうと解れば、と、先程よりも幾分か力加減をして引かれる方角へと身体は向くが。 「……いや、でも」 どことなく、放置しておく訳にはいかなさそうな感情に捉われているルークを、首だけで振り返る。 しかし彼の方は、こちらの顔を見たくもない、と言うかのように顔を背けていた。 何とか取り繕う方法はないのかと彼を良く知るガイの方を見るが、こういう時には何を言っても無駄だ、と肩を竦める。 何なのよ、それは。結局後で気まずい思いをするのは自分なんじゃないか、と諦めの悪い内心で舌をうった。 もう、仕様が無い。 「あ、あの!」 使い慣れない声帯が、軋むような音量をルークへ向けて喉から出した。 未だに話し慣れないのが丸分かりの、制御の取れない聞き苦しい声だと思った。 それがルークの耳に届いた証拠に、呼ばれた彼は少しだけ此方を向く。 「、後にした方がいい。今は…」 ペールの言から、今は本当に時間がないのは解る。解っては、いるのだ。 …ルークは、剣なんて習っているのか。 確かにガイも腰に下げているし、この世界では一般的に必要な技術なのかもしれない。 稽古用の服なのだろうか、長い袖のその下で、叩いてしまった箇所は見えなくて患部がどうなっているのかは解らない。 けれど、その手にルークは木剣を握っている。その様子に、また罪悪感がわいた。 (そっか。利き腕……叩いちゃったんだ) そういえば昨日成り行きで食事を一緒にした時も左手を主に使っていたような。 あの時もお互い印象最悪で色々と気まずかったが、今は何だかそれにも増して―――――遠い。そんな面持ち。 「その…――――ごめん、なさい」 何度同じ事を言おうが、それ以外の言葉で許されるものがあるというなら、教えて欲しい。 言い訳なら後回しにできるけれど、気持ちは後回しにはできない。 何も言わないよりは、一言だけでも。 ……なにを謝ってんだろう、コイツ。 複雑な感情が腹から湧いて、顔を顰める。 木剣と着替えを目的に部屋に戻ってみると、の姿が見えない事にどこか安堵した。 けれど中庭に来てみれば、時間がまだ早いせいか頼りのヴァン師匠はいなくて。 そのかわりそこで、親しげに話す三人の姿を見て、取り残されたような自分が浮き立った。 自分を前にしている時は脅えたような様子しか見せないくせに。 ガイやペールにはちゃんと柔らかい表情をしてみせるが無性に気に食わない。 こっちの気も知らないで楽しそうに、嬉しそうに。そりゃあ、そこは居心地いいだろう。 そんな事、嫌って程解ってる。だってそこは、俺の居場所だったんだから。 そこを奪った事を謝っているのか? それなら、俺も輪の中に入れて下さいって、言えばいい? 冗談じゃない。 何で後から来た人間に、そんな事を言わなければならないんだ。 プライドがそれを許さない。 謝罪の言葉が空気に溶けて暫らく、ガイが引く手はそのままにルークを窺う。 少しだけ俯いているせいで前髪に目元が隠されて、表情の読めない顔を筆頭に、彼に動きはない。 「…………」 駄目、か。落胆の息をついた。また時間のある時に改めて話してみよう。 流石に諦めて、今度こそ促されるままにルークが入ってきた方とは逆側の屋敷の入り口へと向かう事にする。 その際、引き続き庭で仕事を続けるのだろうペールにも軽く会釈をした。 「じゃあ、ペールさん。本当に、有難うございました」 ペールの方は今しがたルークの様子がおかしいのに気付いた様子だった。 戸惑ったようにルークの方を気にかけつつも、微笑を浮かべて頷いてくれた。 「あ、ああ。そう……明日からも、午前はこうしてつまらぬ事を片付けに来てもらえるかな。 机にかじりついてばかりでは気が滅入るから……と、言い訳しておこうかの」 最後までの心添えに感謝しつつ、ええ、と頷いてからガイを追って歩を進める。 どうやら見当のつかない入り口から入った事で迷うかもしれない自分を導く役をかってでてくれるらしい。 「………」 背を向ける事になる最後まで、ルークは何も言ってくれなかった。 好かれようとした分だけ嫌われるのは、どうしてなんだろう。 ―――――いなくなればいい。そうすれば元に戻るのに。 思っても言葉にこそしないのは、それがとてつもなく人を傷つける言葉だと、どこかで解っていたからだ。 瞬間、カンッと音がして、しっかり持っていたと思っていた筈の木剣が弧を描いて飛んでいく。 「あ…!」 いつにない失態に、反射的に背筋がすくんだ。 「ルーク」 低い声で自分の名が呼ばれるのにビクリと肩を揺らし、恐る恐る振り仰ぐが、予想していたよりもずっと彼の顔は静かだった。 相手が気分を害した訳じゃ無い事が解ると、心の底からほっとした。 「す、すみません師匠。……俺、考え事してて…」 思わず口走ってしまってから、あっ、と重ねてしまった失態に慌てて手で口を塞ぐ。 何度も、集中力の無い自分を注意されてきたのに。 案の定、逞しい眉が若干下がり、口から溜息が漏れたのに、ルークは身を縮める。 「剣を振るっている時の雑念は、厳禁だと言っているだろう」 「……はい…」 口走ってしまう事さえなければいいと言う訳でもなかったが、心の中で自分自身に舌打ちをする。 まだ20代後半だとは思えない程の貫禄を湛えた顔で叱られて、返す言葉もない。 何てことだろう。憧れて止まないヴァン師匠を前に、考え事をしてしまうなんて。 いつだって、彼に少しでも褒めて貰いたくて、認めて貰いたくて必死だっていうのに、今日に限って何て情けない。 いつもの調子が、やっぱりあのの存在に崩されているような気がして、奥歯を噛み締めた。 離れた所に転がった木剣が余計に格好悪く見える。 「ほ、ホントすみません師匠!俺、直ぐに拾って……」 慌ててそれに走り寄ろうとした肩に、力強い温度を感じた。 「……ルーク。何か気にかかる事でもあるのか。それと…その左腕はどうした」 先程とは違い、穏やかにそう言葉を掛けられて目を丸くする。 肩に置かれたその手は、まるで「大丈夫だ」と言い聞かせているようにさえ感じられた。 何で、どうして解ったのだろう、と、ただただ驚いた。 「せ…師匠……何で…」 見上げる先で、ふ、と切れ長だが優しげなサファイアブルーの瞳が笑む。 「長くお前と過ごしてきたのだ。多少の事なら……解るつもりだ」 「――――…!」 やっぱり、ヴァン師匠だ、とルークは心が熱くなるのを感じた。 この人から貰える言葉が嬉しくて、嬉しくて。ちゃんと、自分は自分だって、扱ってくれるから。 いつでも気にかけていて、くれるから。 「俺―――」 この三日間の、随分変わってしまった周囲、その原因、今の自分…語りつくせない程の出来事が口から出かかったが それをどうにか喉までに留める。 この事を話せば、ヴァン師匠の興味がに向いてしまうかもしれない。そうなれば、また自分の居場所が狭くなる。 もしも万が一、ヴァン師匠さえも自分よりの方を気に入ってしまったら? 絶対にそんな事はないって、信じたい。けれど、恐ろしくて考えたくもない。 ぶんぶん、と首を横に振って払い、息を吐いたルークを、ヴァンは訝しげに窺う。 「いや、何でもねーんだ……それよりも」 縋る思いで目の前の、唯一慕う事のできる大人を見て、ルークは確かめるように言う。 「師匠はさ……ヴァン師匠は、俺の味方、だよな…?」 唐突な、悲痛ともとれるようなその問いかけに、ヴァンは暫し瞬きをした後に、慈しむような眼差しで深くしっかりと頷いた。 「ああ、そうだともルーク。例え世界中がお前の敵になろうとも……私だけは、お前の味方だ」 欲しい言葉、欲しい感情。この人はいつだって、望むものをくれる。 今回も期待した以上の、自分を満たしてくれる暖かい言葉に、思わずつんとした鼻を擦り上げた。 それを隠しつつ、嬉しくて笑って頷く。 「そ……そうだよな、師匠!」 それを見た彼も、湛えた顎の髭を撫でながら、優しく笑んだ。 「……では、不本意ながらも次期副団長は、そのように」 「うむ。いた仕方がない。手の付けられなさに追放されていようが、彼もあの家の血を引いている」 卓の上で手を組み、頷くと、沈黙が落ちた。粗方話し合いは終ったのだ。 「……時に公爵。クライブ殿の件……真にございますか」 公爵邸の来賓用の応接室に、城の官職が数人迎えられていた。 「……どういう意味かね」 そのうちの一人から言葉を求められ、ファブレ公爵は人知れず疲れの見て取れる息をつく。 問いかけはやや下座に座る使者から発せられたものだが、上座にせまる者達も同じような問いを顔に貼り付けていた。 「いえ、妙な噂を耳にしたもので。何でも3日ほど前、魔物が邸内に現れて暴れたとか。 ……そういえば中庭の向こう側に見えました一角……随分と酷い有様のようでしたが?」 「……事実無根だ。あれは息子が玩具の音機関を暴発させてしまってな。噂にあるようなものとは関係ない」 くどい、とばかりに威圧的に放つそれに異を唱えるものなどいない。 もう、何度勘繰るような城の使いに同じような言い分を口にしただろう。 当の彼らは何かないかと、顔を見合わせたりもするのだが、程なく落ちた長い沈黙の時間に、 使者達は息をついて椅子に身を預けた。今度こそ、この長い会議が終わったのだと、認めざるをえなかった。 「…ラムダス、今一度、使用人達にの事を口外しないように、きつく申し付けておけ」 城の者を帰して、がらんとなった広間のテーブルに、公爵だけが残っていた。 少し離れた所に控えるラムダスに公爵がそう指示を出すと、彼は「かしこまりまして」と言って頭を下げた後退室する。 「……魔物、か」 しんとした応接室に、小さく呟く。 魔物だったらよかった、いっそ。この世界の理の中に準ずる魔物だったなら、難しい事は無かった。 白光騎士団で毎年行われる儀礼での預言など、形式的なものに過ぎない。それでも、預言だ。 そこで詠まれた預言に祝福を受けて、一人の青年が騎士団の副団長に就任する筈だった。 けれどそれは、あの時、が現れた事によって不可能になった。 破られたと言うのだろうか―――異なる存在に。 もし、そうであるならば。いや、だからこそ。 それが言い知れぬものだからこそ、末恐ろしい。これ以上広まってはいけない。 事を大きくせず、の事をひた隠し、侵食箇所を最小限に収めて何も無かった事にしなければ。 預言は遵守されるべきもの。 それは一番自分が解っているものだと、自嘲気味に息を漏らす。これも、始祖ユリアの導きなのか。 緩慢な瞬きを一度すると、公爵は目頭を押さえて頭痛を紛らわせた。 |
言葉を持っていても、伝わらない時は伝わらない
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