秒針は、錆びたまま進む





「―――――…には、やはり?」
「ああ…何より、関係がない。お達しもあった事だし、わざわざ言う事もないだろ」


青く晴れた空の下、生命力に満ち溢れた生垣の緑には見事な色付きの花が散りばめられて、温かい日光を浴びている。
その半ばで二人は、鳥のさえずりに掻き消されそうな程の声音で話していた。

「……そうですな。特殊な境遇とはいえ、ただの人間のようですし。さして面倒にはならぬでしょう」
老人は土いじりの手を止めず、呟くように言葉をこぼす。そこで会話の主点が元のものから特定の人物へと移った。
皺の多い顔が思いを馳せる事で幾分か虚ろになったのを、ガイは何とはなしに眺めながら言葉を待ってみた。
「少し話しをしてみましたが……ひどく臆病じゃ。あれは人と接する事を怖がっているように思います」
大したもんだ、と、息こそ吐かなかったが、たった少しの時間の会話で人の本質と悪目を口にできる事に感心した。
見解も、自分と同じだ。果たして老人の観察眼が鋭いのか、かの人物が解り易い程に極端なのか。
しかし、こうして誰かの事について二人で語るというのも珍しい。
良くも悪くも、後にも先にもいなかったタイプだからな、と思う。苦笑をして見せた。
「はは…手厳しいな。昨日会ったばかりだってのに」
ぱちん、と植木バサミで伸びた枝木を断ちながら、老練の庭師は言葉を受けて笑みを含んで頷いた。
「…ええ、そうですね。どんな環境で育ったやら…異世界なぞ私には想像もつきませんが。
 性格や外見はともかく、……どこか昔の貴方に似ている気がします」
すました顔のまま放たれた言葉に、ガイはほんの僅かに眉間を歪ませ、唇を噤む。
微かな感情の揺らぎが伝わったのか、庭師は此方を仰ぎ見て穏やかに言う。
「本質はきっといい人間なのではないですかね。何だか懐かしい感覚で」
「…相変わらずだなぁ、ペール。残念ながら、彼女は本質のいい人間みたいだから、俺と同じようにはならないだろうさ」
ふふ、と笑うペールを前に肩を落としてうな垂れた。
昨日といい今日といい、とんだ職場を斡旋してしまったものだ、とガイは溜息をついて困ったような曖昧な笑いを浮かべる。
けれども、ペールなら、と思う。この屋敷の他の人間は駄目だ。
ラムダスを始め、使用人は彼女を化け物だとしか認識していない。溶け込ませようとしてみた所で、先程のペールの言である。
人と接するのが怖いのでは、辛いばかりだ。
かといって、自分が手を貸し続けてやるのも、放っておいていいというものでもないだろう。
よって、こうしてペールに預けるのは、間違いではないように思う。
「どうかお手柔らかに頼むぜ。まだ間が無くて不安だろうし。あくまで、俺はに仕事を紹介したんだ。そのへんよろしくな」
心得ております、とペールは笑みを湛えたまま頷いた。
「そちらの方も宜しくお頼み申しますぞ。物置の中の音機関に、わしでは触れませんからの」
部屋に備え付けられた物置の事を指して言われた言葉に、ガイはああ、と返事をしながら苦笑した。
まあ、確かに殆ど占拠してしまっているのは自分の私物…自作その他拾ってきた音機関であるが。
「さァて。…どこへ仕舞ったかな」
頼まれたものは、大分前に使われなくなって久しく、奥深くに片付けてしまったから。










中世のお城を思わせる美しい廊下を歩くのには、やはり違和感があるけれど。
着心地も動きやすさも抜群のペールの服は、申し分なかった。
やはり元の服と比べればデザインの文化は全く違ったが、ここで過ごす分には違和感がなく、また控えめだ(地味とは言わない)。
通りかかった所で、備え付けられた大きな美術品の鏡に自分が映っているのを見た。
あまり自分の姿を見るのは好きじゃないが、昨日の執事服やメイド服とは違ってどこにも笑われる要素はない…と思う。
うん、良く似合っているな、と気分よく頷いたが。
(……って、シャツと繋ぎが似合わなきゃどうするのよ、私…)
のしかかってきた現実に気付いて肩を落として息をつくと、とぼとぼと歩みを再開させる。
相変わらず、鏡にもなりそうな光沢の床に、重厚な出立ちの柱、豪奢な壁天井…飽きる事無く呆け見ながら歩いた。
ここに住んでいる実感なんて夢にも湧いてこなくて。…住んでいいなんて思えなくて。
努力して手に入れたわけでもない、歓迎もされていない。
眉間に皺が寄ったが、だからこそこうして仕事にありつくことで活路を見出そうとしてるんじゃないかと言い聞かせた。
統一された装いの続く広大な屋敷の中で、考え事をしながら歩いていると迷いそうにもなるが、今回はそんな心配もない。
この公爵邸は目的地である大きな円形の中庭をぐるりと取り囲むように建っている。取り敢えずは一階まで降りて
まっとうに出口から中庭に行く事を目指しているのだが、いざとなればショートカットすればいい。
と、しばらく進むと前方に屋敷付きらしい兵士が二人、直立しているのが見えた。
おそらくあそこが出口―――――二人はその場の番なのだろう。
出入り口をいちいち人に見張らせるなんて、さすが金持ちは人件費も使うところが違うな、と妙な感心をした。
それにしたって何だか通りづらいじゃないか。別の出口を探そうにも、何処も同じだろうし。
気が引けたが、中庭に出るだけだ、悪いことをしようとしている訳でもない、と止まってしまっていた足を踏み出した。

「……………!」
「……………っ」

流石に幾分か近付いた所で、こちらに気付いた兵士はそれぞれが息をのんで驚いたようなリアクションを取った。
(………う…)
しかしそれが数瞬後に落ち着いてからは、やはりとてもじゃないが友好的とは言えない態度に変わる。
ピリピリとあからさまな警戒をしてくるのは勿論、揃って渋い顔になり、不愉快そうな様子を隠そうともしない。
更に近付こうとしているこちらをとどめようとはして来ないが、寄越される冷たい視線は充分にその効果を持っている。
流石に、怖気づいた。更には彼らの纏う雰囲気の中には苛立ちさえ含まれていて。
いったい何だというんだ、まったく。
最初が最初だっただけに、こちらが攻撃するとでも思っているのか。
そうなら、とんだ誤解だが、あのカルミアといい兵士達といい化け物だと認識しているからって態度が極端すぎやしないか。
一日目の騒ぎ以来、慣れない環境と謎の能力に悪戦苦闘しつつも人間らしく(人間だけど)振舞っているじゃないか。
無視してくれるならまだいい。嫌いなら避けて通ってくれればいいものを、こうまで態度で示されるとこちらとしてもやりにくい。
そう思うと、なんだかその対応に腹が立ってきた。
一度大きく息を吸って吐き出すと、拳をぎゅっと握り締め。威圧してくる二人に構わず、つかつかと肩を怒らせて出口へと向かう。
怖いのは常の事だが、それを相手に覚られてはいけない。気にしない、気にしない。
しかし、すれ違い様に明らかにこちらに聞こえるように、と気性の荒そうな右手の兵士が舌打ちをした。
むっとして、思わず「何なんですか!」と、食って掛かりたい衝動にかられるが、こちらも心のうちで舌打ちを返してやるのと
拳を更にきつく握り締めるのとで、なんとか収めた。
「こういうの」にいちいち反応して、いい事はない。
通り抜けた先で息をつかないうちに、背中に二人が言葉を零すのが聞こえた。

「……化け物め」
「…よくも堂々と、歩けたものだ―――…」

音量からして、「聞こえるように」話しているのかと、思われる。被害妄想じゃなくたって話している内容の性質が悪い。
悔しい思いが巻き上がって、振り返って文句の一つも返してやりたい気持ちが山々だったが、実際そんな事を
出来る勇気も口の強さもない。
それこそ、ここで問題でも起こせば風当たりが強くなるだけだと納得させて、その場から重い足を引き摺って立ち去る。
気にしない――――気にするな。この程度なら、今までだって経験は少なくない。平気、だ。
…こんな事にいちいち傷付く柔な自分じゃないはずなんだから。

深呼吸をして気持ちを宥めようと、一度空を仰ぎ見る。
今日も青くて澄んでいて…電線も飛行機雲もないそこは、人の手に負えない場所に見えて、何だか心細かった。
視線を落として自分の立っている場所を確かめると、ちゃんとそこは、穏やかな中庭で。
昨日の朝見た時も美しかったが、また時間的な趣も加わって、それは更に。
見ていると、暗く沈んだ気持ちも少しは晴れてくる。
ルークの心を癒すために、と美しく整えられた庭が、自分をも慰めてくれているのに苦笑した。
(すごいな…ちゃんと効果あるみたい)
自分には、効果があったのだから、ルークの方にもあるといいのだけれど。
(中庭には来る事あるのかな…)
結局朝食に出て行った後、自分も朝食を済ませて少し待ってみたのだが、ルークは帰って来なかった。
…謝り損ねたまま、出てきてしまった。誤解の場合、早いとこ謝ってしまった方が溝は浅くて済むだろうから、気が焦る。
しかし焦ったところで解決はしない。出来ることをやるべきだ。
こじつけでも、庭師の仕事が少しでもルークの為になるというのなら、それを一生懸命やらせて貰うのが今出来る謝罪だ。
今日から上司となる人物を探して歩いていると、向こうの生垣の合間からひょっこり立ち上がって腰を叩いている
影を見つけた。
「ペールさん」
この屋敷の中、ごく少ない自分の味方を見つける事が出来た事に、思わず弾んだ声で名を呼ぶ。
声に気付いたペールは、皺の深い土と汗にまみれた顔をこちらへ向けて微笑んだ。
「おお、来たか。話は聞いておるぞ。よろしく頼む」
はい、と、自分でもちょっと驚いてしまう程張り切っては答えた。










日も、大分高く昇ったな――――と、微かに埃のにおいのする書斎の中、光のよく入る窓辺にいて、ルークはそう思った。
机の上の置時計を見ると、もうすぐにも昼食の時間を報せに世話係のメイドが自分を探しに来るだろう。
パラリ、と、目に入っても頭に入って来ない文字を追いながら、本のページを捲る。
むき出しの腹に、手を当てた。けれども、空腹感は全く無くて。
むしろ、またあの味気ない食べ物を胃に詰め込まなければいけないのかと思うと嫌気がさした。
朝食の時もそう感じて、結局殆ど手を付けずに下げさせたのに。
パンを齧ってみて、それでもう、喉がつまって。
(……昨日は、どうしたんだっけな……)


まず、水分補給をしろ、と言われて。

『人間って寝てる間に、信じられない程汗かくらしいから』
本当かよ、と思った。そうなら、何で服とかベッドとかが濡れてないんだ?
でも、喉の渇きは本物で。ああ、そうか。渇いた喉に、パンなんて通る筈がない。
紅茶を飲んで、それからスープをすすめられて。

それ、から。


それから――――あんまり美味しそうな顔で食べるから。まるで、何日も食べてないみたいに夢中に。
そんな変な人間、屋敷の中で見た事がなくて。
だから、何だか見ていると変に腹が空いてきて。

『食事をする事が嬉しくて堪らないの』

そういえば、食べてる時だけ、笑ってた。

今朝下げさせた料理が殆ど載ったままの皿を、が見たら何と言うだろう。
あれだけ食べ物について語っていたんだ。きっと悲鳴をあげて怒るかも――――…


(…ああ…クソッ!)
頭を乱暴に掻き毟って、煩わしい思考を掻き消す。
何を、考えているんだ。こんな事許せない。あの化け物の事を考えてやるなんて、まっぴらなんだ。
医者によって手当てされた部分の手を、反対の手で押さえる事で走る痛みに顔を顰める。
だいたい、こうして珍しく書斎で時間を潰さなくてはならないのものせいだ。
部屋に戻ると顔を合わせなくてはならないかもしれない。
ガイやペールの所に、いるのかもしれないし、いなくても二人からの話を聞かされるのも嫌だ。
あんな奴の顔を見るのも、話を聞くのも、今はごめんだ。
いらいらする。折角落ち着きかけていたのに。
今もこうしてじっとしている自分の知らない所で、本来…一昨日より前までは完全に自分のものだった取り巻く世界が、時間が、
――――居場所が、に少しづつ侵されてきているのかと思うと、気が気じゃなかった。
「…っ、」
行儀悪く組んだ足の上に置いていた本を、乱暴に閉じる。
幼い頃から、文字を覚えてから、何度も読み返してきた中々気に入りの冒険小説だった。
海も、川も、広い草原も、賑やかな町も見たことは無かったけれど、全てこうして読み聞く事でどんな物なのかを思い描いて。
初めて読んだ時は胸がどきどきして、以降何度も読み返しては空想の海や草原や町の中で自由を味わう事が出来たのに。
久々に開いてみれば、馬鹿みてえ、としか思えなかった。どうせ出られないのに。
約束まで、あと三年。自由になったとしても、今更取り立てて行きたいとも思わないようになってきた。
…自由?何が、自由だ。こんな風に屋敷の中でさえも、満足に身動き取れないでいるのに。
自分だけが、みじめに思えてならなかった。



書斎を出て、ぶらぶらと宛てを決めずに廊下を彷徨う。
やはり部屋に帰る気にはなれない。さて、どうしたものかと考えあぐねていたところ。

「ルーク様!」

背後から慌てたような声が掛かったので振り向くと、メイドが息を切らせて小走りに近付いてくる。
見覚えがある…といっても、自分付きの世話係なのだからあって当然だが、名前すら覚えていなかった。
「何か用かよ」
不機嫌なせいでいささかふてぶてしい返事になった。
丁寧な所作を心付けられているこの屋敷の使用人にしては、随分と慌しい行動だ。
別に咎める気なんてさらさら無いけれども、自分の前で胸を押さえて乱れた呼吸を整えようと必死なその人を、訝しく眺める。
「こ…こちらにおいででした、か。すぐに…お時間です。お食事をなさるなら、お急ぎくださらないと…」
息が落ち着くよりも先に用件を、といった焦りように首を傾げる。さることながら、時間を告げるメイドの言葉だ。
この気だるい長閑過ぎる毎日の中、差し迫る予定など思い当たらない。
父も、朝会った時には何も言っていなかったし――――何があるんだ、と、思考を巡らす間に姿勢を直したメイドに問うと。
「もうすぐ謡将がお出でになられます。それで、ルーク様はご昼食をどうなさるかと…」
一瞬、豆鉄砲に打たれたかのような顔をしたメイドが、ひどく戸惑ったように返してきたのも無理は無い。
自分だって驚いた程だ。
定期的にやって来てくれる、日々の潤い――――この日がなければやってられない。
いつだって心待ちにしているそれを、まさか忘れていた、なんて。
もう午前中にあった様々な不愉快な出来事も、嫌な気持ちも、全部吹き飛んだ。
代わりに、思わぬ希望の到来にむくむくと嬉しさが込み上げてくる。
(ヴァン師匠が来てくれる!)
心が明るくなるのに連動しそうになった頬の緩みを、目の前のメイドが窺っているのを思い出して慌てて引き締めた。
「ルーク様のお食事は食堂の方にご用意いたしておりますが…謡将にお待ち下さるよう、申し上げましょうか」
師匠を待たせる?冗談じゃない!一分一秒でも、師匠との修行の時間を長くしたいのに。
「そんなん、いらねーから片付けとけ!もう師匠来るんだよな?俺は部屋戻って準備すっから、
 師匠に中庭に来てくれって伝えとけよ」
「は、はあ…」
戸惑ったような曖昧な返事しか返せないでいるメイドに構わず背を向けると、意気揚々と
あれだけ帰りたくなかった筈の部屋へと足を踏み出す。が居たって気にしない。
ヴァン師匠がいる。
自分にはヴァン師匠がついてるんだ、と、そう思うだけで安心できた。
今朝ガイと後味の悪い別れ方をしてしまったのは確かに痛いが――――それも師匠に相談してみようか。
彼ならばきっと、解ってくれる。味方になってくれる。でも、
(いや――――やっぱ、駄目だ)
そうなると、の事も話さなくてはならなくなる。師匠が自分を見捨てるような事は絶対ないとは思うが、
これだけは、ここだけは、譲る訳にはいかない。絶対に揺るがない、不可侵の自分の居場所だ。
(師匠に隠し事すんのは嫌だけど……地味ゴリラの事は、黙ってるか)
その方が、いい気がした。

唇を軽く引き締めると、足を速めた。


ここらへん、書いてるこっちも辛い

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