新鮮な光の射す公爵邸の広い廊下に、全くそぐわないまでに重い空気を纏いながら、一人のメイドが歩いている。 角を曲がってきた所でそれを見かけた別のメイドは、あんまりにも沈んだ様子の同僚を心配して声をかけた。 「顔が暗いわよ、エレナ。ラムダス様に見つかったら、叱られてしまうわよ」 しかし今の彼女の状況を察すれば……朝食の載った銀のトレイと、先程伝え聞いた話を思えば、その様子も無理もない。 「ごめんなさい。……だって、やっぱり恐くて。今お部屋にルーク様はいらっしゃらないというし…何かあったらと思うと…」 話しかけたこちらを振り仰いだエレナだが、すぐにまた俯いてしまう。 明るく聡明な所が認められ、彼女が公爵子息の世話係に任命されたのは最近の事である。 今も解決に至っていない屋敷を震撼させる大事件が起きたのは3日前だったが、彼女の就任はその5日程前だったか。 ただでさえ慣れない今だというのに、得体の知れない化け物が放し飼いになっている部屋に、朝食を持って行かなければ ならないのである。暗くもなるだろう。 それにしたって、気の利いた、または先輩メイドとして掛けてやれるような言葉が見つからず、言葉を詰まらせた。 「ねえ、よければその仕事、代わって貰えないかしら」 突然、その場に響いた予期せぬ3人目の声に、二人が咄嗟に顔を上げると。 振り返ったすぐそこには、見知った人物が腕を組んで立っている。 けれども申し出をしてきたのが目の前のこの人物であるというのが信じられなくて、二人ともひどく驚いた。 「カルミア……?」 「ルーク様のお部屋に、お運びするんでしょう?……だったら、あたしがやるわ。」 名前を呼んだきり言葉を失くしてしまっている相手に構わず、後ろで一つに纏めた赤みのさした金の髪を揺らしながら カルミアは歩み寄る。灰色掛かった青色の瞳からは、どんな感情も読み取れなかった。 「そ、そんな、あなた……平気なはずがないでしょう?だって、」 思わず口に出そうとしてしまったエレナの口元を、すかさず手で制するが。 静かな色の中に言い知れぬ強さを含んだ目を細めて、カルミアは冷めたようにそれを眺め見て口を開いた。 「平気よ。だって、私は恐くないもの。…―――――それと、ルーク様のお部屋係の仕事も暫らくあたしがやるわ。 いいでしょ?みんな、嫌だって言ってるんだし」 そうだ。皆、主人のペットとして屋敷に入り込んだあの魔物を恐れている。恐くないと言うのなら、願ってもない申し出だ。 しかし、いたってさらりと口にするカルミア…彼女自身の事を考えると、おかしな様子を不安に思った。 今、とてつもなく落ち込んでいる筈の彼女が大丈夫そうなのは喜ばしいが、でも、それが逆にかえって――――― エレナを制した手前だが、聞かずにはいられない。 「カルミア。解っているの?今あの部屋には、例の魔物しかいないの。ルーク様がいらっしゃらないと…」 そう問われたカルミアは、特に表情を動かす事無く、また平坦な表情でに頷くだけだった。 「ええ、……そうね。でも気にしなくていいわ」 エレナからトレイを受け取って振り返った時のその瞳には、揺らぐほどの感情が灯っていたように見えたのだが 静かに東棟の3階の一室へと向かう彼女の背中を見送りながら、気のせいだと思う事にした。 払われた腕が、ずきずきと痛い。 それが腹立たしくて腹立たしくて、ならなかった。 あの時――――心配そうにこちらに伸ばしてきた手を、怒りに任せて払い返してやった時は少し八つ当たりもあった。 嫌な記憶ばかりが甦って来て、目覚めが最悪で。記憶障害の後遺症は時間を選ばず襲ってくるし。 けれど今となっては、もっと力を込めてあの手をぶっ叩いてやればよかった、と奥歯を噛み締める。 「ル、ルーク様、あの……」 足早く歩く自分に追いつこうと、小走りにつき従ってくるメイドを顧みる事無く考えに没頭して進む。 自分は、主人なんだ。 あれが結局、化け物だろうと人間だろうと自分には逆らえないのであって、また逆らってはいけないのであって。 僕(しもべ)という存在は、いつだって自分の思い通りに動かなければならないはず。そういうものだと思っていた。 現にこの屋敷の使用人達は、食事の時間でなくとも腹が空いたと言えば好みの物を用意してくるし、寒いと言えば 上等の毛布をすぐさま持ってくる。 なのに、そんな主の腕を叩くなんて、従う者の立場である事を思えばのやった事は決して許されるものではないはず。 でも。 それだってあるけれど。でも、それ以上に許せないのは。 (―――――くそっ、……何なんだよ) あんなに認めたくなかったを、いつの間にか周りの使用人達よりも、少しだけ身近に感じてしまっていた、と、いう事だ。 繕うことなく、装うことなく。その代わり愛想で笑いもしないし突っかかってくるけれど。 ―――――装うことなく、接してくれていると、思っていた。 まだどんな人間なのか、判らない。そう思いながらも、どこか期待していて、知らずどこかしら好感を抱いていた。 だからこそ昨日の夜、ガラにもない事を考えたり、日記も――――ああそうだ、あの日記、部屋に戻ったら 昨日の日付の所を破り捨ててやろう。だって、全ては意味を持たない事なんだから。 ―――――「さわらないで!」 垣間見えた、激しい拒絶の感情。 容赦の無い力。咄嗟に本性が出てしまったんじゃないのか。 自分が主人だから、逆らわずに大人しくしていたんじゃないのか。そんなの、他の人間と何ら変わらない。 結局、は自分に心を許してなんていなかったんだ。認めかけていた自分が、馬鹿みたいで悔しい。 「ルーク様、腕が……あの、お医者様か譜術士の方に診て頂いたほうが…」 苛立ちがピークに達した頃合に、メイドが追い縋って声を掛けてきたので、思わずかっとなった。 「ウゼーなさっきから…!どうだっていいだろ!ほっとけよ!」 本心から、心配なんかしてないクセに。 どうせ世話をしている自分の不行届きを責められるのが恐くて、そんな事を言ってるのに決まってる。 怒鳴りつけてやると、メイドはさっと顔色を無くした。 「も、申し訳ございません、ルーク様……申し訳ございません!」 必死に謝ってくるのが、余計に癇に障る。こういう時は何もかもに苛々させられる。 さっきのだってそうだ。 心配そうなふりをしてこちらのご機嫌をとって――――けれどそこに好意なんてのは微塵もないんだろう。 主人である自分という存在から、己の立場を守ろうとしているだけなんだ。このメイドも、も。 (……何だよ…そんなに、俺) 自分だってどんな奴なのかも解らない…ルーク・フォン・ファブレが。ただ一人の公爵家の跡取りという存在が。 こんなに自分は偉いのに…言えば何でも思い通りになるはずなのに、どうして思い通りにならないんだろう。 手を握り締めると、左側の半ばにズキンと激しい痛みが走る。 その時、縋るかのように頭を下げていたメイドが、自分を通り越した先の廊下を見遣り、はっとする。 その後慌てて数歩下がった所で姿勢を正すという様子を、何だと思って見ていると。 「……ルーク」 この屋敷で、自分を呼び捨てにしてくる人物はごく僅かだ。その中でも、最も会いたくない人物。 背にかけられた威厳のある声が誰のものなのか、すぐさま理解したルークは顔を顰めたが、それを揉消して振り返る。 朝食を終えて、執務に向かうところなのだろう。傍に数人の官職を引き連れている。 「……………おはようございます、父上」 しぶしぶ、そう言うように、と言いつけられている挨拶を口にするが、それにファブレ公爵は応えなかった。 代わりに渋い視線をこちらに向けてくる。 ついでに、めったに部屋を出て人前に顔を見せない自分を、物珍しそうに見る周りの輩の視線がうざったかった。 「その腕は、どうした」 父の言葉の圧力に圧されて、そこでやっと自分の腕を見た。 なるほどメイドが口を出して来るのも無理はない。痛い痛いと思ってはいたが、予想よりも酷い有様だ。 赤くなって腫れたそこは、所々が鬱血していて青黒くまだらになっている。 さすが、化け物に叩かれただけの事はある、と心の中で嘲てやった。 「これは…」 と、口にしようとしたルークの言葉は、けれど溜息で遮られた。いつもの、溜息。 何度も何度も、説教をする度に父が吐くそれが、大嫌いでならなかった。 「……またお前は、何かをしでかしたのか。公爵家の息子として、自覚を持って行動をしろと何度言えば解る」 溜息も嫌いだが、父が自分に向ける言葉はもっと嫌いだ。 何をしても、何かあっても、ろくに理由も聞かずに自分ばかりを責めて、失望を見せ付ける。 吐き気すら伴う苛立ちが募って、ルークは顔を歪めた。 「お、俺じゃない!これは、あいつが……」 思わずいつもの口調で声を荒げてしまったのを見て、控えていた官職達が眉を顰め出す。 それに視線を少し遣って、ファブレ公爵は眉間の皺を深めた。 「自覚のある行動を、と、今しがた言ったはずだ。言い訳はよしなさい」 射るような厳しい視線を寄越されて、黙り込むしかなかった。悔しくて堪らないが、そのまま言い募る気も起きない。 父は、自分の話を、いつだって真剣に聞こうとはしない。いや、普通に聞こうとさえ、してこなかった。 小言だけが、浴びせられるばかりだ。 「……後で、医者か譜術士に診てもらいなさい」 それだけ言うと、打ち切るかのように廊下の先へと歩みを再開させる。周りのうざったい人間達もそれに付き従った。 忌々しく、それを見送る。 公爵家の息子として?認めようとしていないのは、話を聞こうとしていないのは、父の方じゃないか。 こんなに広い屋敷なのに、息子の自分が、好きに過ごしていていい筈なのに。親にも、使用人にも――――心を許せない。 安らげる自分の居場所は、何でこんなに小さいんだ。 メイドを下がらせて、一人廊下を歩く。もう不機嫌を通り越して気分が悪い。 朝食なんて、どうでもいい。ガイの部屋にでも飛び込んで、朝から溜まったこの鬱憤を吐き出してやろう。 と、そう考えていたところに。 「よ、おはよう……って言えるの、珍しいじゃないか?どっか具合でも悪いのかルーク?」 次の曲がり角に差し掛かった時に、相も変わらない憎まれ口が耳に飛び込んできたのに、思わず安堵する。 「ガイ!……へっ、何だよ、早く起きちゃ悪いのかよ」 こうして軽口を返せるのも、やっぱり幼馴染のガイだけだ。 自分の歩いてきた廊下に合流する形で続いている廊下に、ガイは小脇に小さな荷を抱えて立っている。 いつもはむっとして返してしまう自分が口元に笑みさえ浮かべてしまっているのを見て、彼は不思議そうな顔をした。 あわてて、余計な事を覚られないように、とわざと顔を不機嫌なものに変えて言い繕う。 「お、お前こそどうしたんだよ?何か眠そうじゃん」 そういえば、今日は何だか瞬きの回数が少し多くて、瞼も若干重そうで。 指摘してやると、あはは、と片手で目をこすりながらガイは苦笑をする。 「昨日遅くまで、と音機関について語っちまってさ。やー、話を解ってくれるもんだから、ついつい…」 調子を変える事無く、むしろ嬉しそうに軽く頭を掻きながら放たれた言葉。けれど。 「…!」 その言葉を聞いて、自分の中でガイと会えた事の嬉しさが一気に冷めていくのを感じた。 「…なんだよ、それ」 今は聞きたくない名前をガイの口から聞いて、ムッとなる。一体、いつ?自分は知らないのに。 「ん?ああ。大分夜中だったから、多分お前寝てたんだろ。可哀相に…の奴、裏庭の庭木用の水道で 水浴びしようとしてたんだぞ?」 その時の事を思い出してか、困ったように、けれど可笑しさを抑えきれない、とくつくつ笑う。 多分ガイは自分もそれを聞いて笑うだろうと思ったのだろう。確かに滑稽…では、あるけれど。 何故だかどんどん、心の温度が下がって、苛立ちが湧き上がってくる。 何でなのか解らなかった。けれど、笑いなんて浮かべる気分にも、ならなくて。 自分が知らない間に、勝手に自分の幼馴染と仲良くして――――そんなに、言い知れぬ不満が湧いた。 自分だけは、仲間はずれみたいで、出遅れてるみたいに感じた。 何でだろう、別段あんな奴と仲良くしたいなんて思うはずもないのに。 「――――でさ、昨日は俺、色々やらかしちまってに迷惑かけたろ?そのお詫びってワケじゃないけど、 ペールの所で仕事を貰ってやろうと思って」 こちらの様子に気付かないまま、ガイがの事を楽しそうに話せば話すほど、嫌な気分が増していく。 何だよ。ほんの3日前までは、存在もしなかった奴なのに。それなのに何で、そんなに仲良く出来るんだ。 考えてみれば、昨日からガイはの事ばかりだ。 自分を差し置いて、二人だけ仲良くなって――――気分が悪い。 「ペールも、の事を気に入ったみたいでさ。服も貸してくれたんだ。これならも―――― …って、どうかしたのか?」 ペール? ペールとも、いつの間に仲良くなったんだ。 何だろう、これは。 ……だって、俺を否定したくせに。 他の奴とはどんどん仲良くして どうしてだ、これはまるで、 ―――――まるで、居場所がとられてくみたいな―――― 「ルーク?」 「いてッ!」 突然走った痛みに意識を戻すと、ガイが笑みを消して自分の左腕をとっている。 「どうしたんだよ…これ」 その視線は、一点に注がれている。 父やメイドや、とは違って、本当に心配そうな様子と声に、荒れた心の中に小さな満足感が生まれた。 「これ」とは、腫れあがった左腕の一箇所、にやられて出来たものだ。 途端、意地の悪い考え――――いいや、当然の思いが生まれた。 「あいつに……地味ゴリラにやられたんだ」 「…え?」 そうだ、その通り。自分は悪くなかったのに。 それなのに、勝手に拒絶して攻撃してくるなんて、なんて奴だろう。 ガイがその事を解ってくれれば、少しはこちらを気にかけてくれるかもしれない。そう思った。 窺う先で彼は、患部を見つめたまま暫らく黙り込んでいる。ちゃんと動くから骨に異常はないだろう。 けれど、鬱血部分が広がって、剣の修行中でも出来た事がないくらいの状態になっている。 「ルーク…」 やがてガイは、小さくこぼす様に言葉を出した。 「お前……に、何かしたのか?」 出てきた言葉に対して頭に血が昇り、頬が怒りで熱くなった。 「なに、言ってんだよ!俺は何もしてねぇ!……あいつが、勝手に、」 「お前が何もしてないってんなら、信じるさ。…けど、理由もなくがそんな事をするなんて、思えないだろ?」 何がわかる。 主人である自分がわからないのに、どうして同じ出会って3日目のガイに、の何が解るっていうんだ。 ガイが自分の味方になってくれないのが、が自分を差し置いて周りに居場所を作っていくのが、悔しくて堪らない。 朝から嫌な事ばかりで気分が悪いのも、全部のせいのような気がした――――いや、きっとそうだ! やっぱり呼び出してしまったのが、ここに居る事が間違っているんだ。 でなきゃ、こんな妙な気分になる事もないはず。 「なぁ、どうしたんだよ?今日はお前、何か変…」 聞こうとしてくるガイを押し退けて、廊下の先へと進んだ。 「うっせーな!いいだろ、もう…俺に構うな!」 勝手に、の所にでも行けばいい――――みんな勝手に仲良くやってりゃいいんだ。 しばらくして離れた所から聞こえた微かな溜息を背に、心にもない事を思った。 思い返すと、また溜息が出た。 「……やっぱり、すんごく痛かったんだろうな…」 寝ぼけていて咄嗟に。 本当に悪かったとは思うけれど、起きてからまともに言葉も交わさないまま、いきなりあんなに怒鳴られて。 こうして覚めた頭で冷静になって考えてみると、何故あそこまでルークが怒ったのか解らなかった。 ふと、右手を見る。そこには取り戻した大切な懐中時計があるのに、何だかそれが苦々しく思える。 ルークを、叩いてしまった手であり、そして払われてしまった手でもある。感触は覚えている、のに。 本来なら年下とはいえ、17歳といったらの力で敵うはずも無い、その余すところのない力で払われたと思ったのに どこにも異常どころか痛みすら残っていなくて。 逆にそれが、そんな人間離れした身体であるのが悲しいように感じて、思わず目を閉じる。 ルークが怒ったのは…きっと、あんまりにも痛かったから? …そんな単純な理由だったなら、どんなにいいだろう。希望的観測でさえある。 ――――いちばん、恐いのは。否、可能性として最も高く、そうであって欲しくないと思うのは。 (……少しは、仲良くなれてると思っていたのは私の…自惚れ、だったのかな) 思うほど、ルークは自分を良く思ってはいなくて。むしろ最初からそうだったように、物凄く嫌われていたのかもしれない。 「…………、」 おそらく、そうなのだろう。ろくな言葉をかけた記憶も、またかけられた記憶もない…のだし。 大体まともな人間関係を築いた事のない自分が、そう簡単に上手く人と付き合える筈がない。 ああ、どうしよう、これ。 そう考えると、ルークが戻って来ても関係の修復なんて出来るのか――――修復する程の関係だったのか、不安になってくる。 コンコン、という音に、考えていた事が考えていた事なだけに口から心臓が飛び出そうな程驚いた。 ルークか、と思って一瞬肝を冷やしたが、彼だったならノックなどするはずもない。 慌てて扉へと走り、そこに手を掛けた。誰だろう…けれど、部屋の主がここにいない事は使用人達には伝わっているだろうし。 首を傾げながらも扉を引くと。 「は…はい、…――――!」 開いた隙間に見えた人物の瞳が、見覚えのある色をしていたので、そのまま目が離せずに固まる。 昨日の夜とは違って、そこには暗い水溜りのような光しか見ることはできなくて。 灰色がかった青色のそれが、今度は冷たいように見えた。 「………あ、…」 少なくとも好意的とは言えなかった様子の、昨晩廊下で出くわしたメイド、だった。 何故ここに?どうリアクションを取ればいいのか解らずに、戸惑ったあえぎ声しか返せなかった。 それを感情のない表情で見ていた彼女の唇が動く。 「………入っても?」 素っ気無い呟きに、やっと腕にある朝食の載せられた銀のトレイの存在に気付く事が出来た。 慌てて半開きにしていた扉を大仰なまでに開け放ち、導き入れる。 無言のままテーブルへと歩み寄り、銀のトレイを置いて手際よく食事を整えているメイドの背中を居心地悪く見守った。 何だか妙な圧迫感に声をかける事もできなかったのだが、仕度を整えて空のトレイを小脇に抱えた所を見計らい、声をかける。 「あ、あの…それ…」 恐らく自分用にと用意されたものなのだろうが、この際白々しくても話題の切り口にさせて貰おう。 とにかくこの頑なな空気は本意ではない、と緩和の道を模索しようと出た言葉なのだが、無視されたのかと思うくらい メイドの反応は緩慢だった。赤みがかった金髪が揺れて、ゆっくりと彼女がこちらを向く。 相変わらず感情のない…石のような目に驚いた。それとも、これは彼女の生来のものなのか? 「……様の朝食です」 「え、あ、そ…そうなん、ですか!わ…わざわざ有難うございます」 なるべく負の感情には気付かないようにしよう、と薄っぺらな頼りない笑顔を浮かべて礼を言うが、それきり返答はなく。 冷や汗を滲ませる自分を前に、彼女は口を噤んだまま此方を見ていた。 「…あ、と、ええと…」 暗い眼差しで計り知れない感情に全身を舐め回されるような感覚が、悪気がない相手なら申し訳ないけれど、気持ちが悪かった。 「その……様付けとか、私…して貰えるような立場じゃ…」 一向に動かない時の気配に、胃がねじれそうで。こちらの声が、彼女には届いてないんではと思う程、ひたすら。 ただひたすらに、言葉もなく、何をしてくるでもなく、メイドは静視してくるだけだった。 「………………」 「………………」 やがてかつてに見た憎しみの炎が奥にちらつき始めたのに、首を傾げようとしたところ。 コンコンッ、と、先程よりも強めで軽いノック音がし、それに声を返す間も無く。 「、いるか?……っと、悪い!」 殆どノックと同時にガチャリと扉を開けたガイが、中の様子を見て、まずい、と顔を歪めた。 助かった――――何故かそう思える程に硬くなっていた部屋の空気が一気に緩んだ。 ふう、と息を吐く気配がして目を向けると、今までの雰囲気を嘘のように掻き消したメイドが、ガイに微笑を向ける。 「あなた、ガイ…ね。ルーク様の幼馴染なんですってね。他の子達から聞いてるわ。 安心して…ラムダス様や旦那様には黙っているから」 それを聞いてガイは冷や汗を拭いつつ胸を撫で下ろす。 「そっか、サンキュ。……ところで、他の子達から聞いてるって……君は?」 やはりこれだけ広い屋敷だと、働く人間の数も尋常じゃない。ガイにも面識のない相手はいるのだろう。 「私は、カルミア。カルミア・オーヘルと申します。今日からルーク様のお部屋係をさせて頂きますので、 どうか宜しくお願い致します」 ガイから視線を移し、カルミアは丁寧な動作で頭を下げる。その顔には貼り付けられたかのような笑顔が湛えられていた。 しかし、 「では、私はこれで」 と言って部屋から下がろうとした彼女が最後に一瞬見せたのは、やはりまた――――冷たい炎の宿った瞳だった。 「……………?」 「、ぼーっとしてどうしたよ?ほら、朝食が冷めるぞ」 閉まった扉を見つめながら、首を傾げて突っ立ったままの背に、ガイの声が掛けられる。 「ああ……、はい。……ガイさんは?」 「俺はもう済ませて来たから。お前にコレを渡しに来たんだ。……ペールのお下がりなんだけど、作業には都合がいいからな」 ほら、と差し出された手に載った物を受け取ると。シャツとつなぎと、手袋などの小物。 昨日提供された執事服やメイド服なんかとは比べようもない程、遥かに着心地も勝手も良さそうなそれに、ぱっと顔が明るくなる。 ガイは庭師の使い古しを差し出す事が申し訳なさそうな様子だが、こちらとしては何より有り難い。 …むしろ最初からこれを持って来て欲しかったと、昨日の彼には悪いが心の片隅でそう思った。 それよりも、この服を渡して貰える…と、いう事は。 期待を含んだ目でガイを窺うと、それに応えるように微笑と頷きが返ってくる。ペールに話が通った、という事だ。 ありがとうございます、と頭を下げた。 「礼はいいって。……じゃ、俺は先に行ってペールに確認取ってくるから。朝食が終わったら着替えて中庭に来てくれ。 …ああ、それと」 そこでふと言葉を切ると、いつもルークに向けるような、悪戯っぽい笑みがガイの顔に浮かぶ。 「だからって、焦って腹に詰め込むなよ?ゆっくり、よく噛んで。な。 …流石に遅いと思ったら、喉詰らせてないか様子を見に来てやるからな」 にっ、と笑って言われた言葉には、親しみの感情がこもっていて。 一瞬面食らうが、次にはそれが嬉しくて嬉しくて、笑みがこぼれた。 「…し、しませんって、そんな事!お言葉に甘えて、ゆっくり味わって食べさせて貰いますから」 拙いながらも出来る限りの親しみを返すのに対し、ガイは笑ってくれる。仲良く、してくれる。 よかった…ほっとした。それだってまた自惚れなのかもしれないけれど、ガイとは上手くやれていると思う。 嫌われてない、それだけで確かな支えが出来たような気がした。 「あ。あー…のさ。聞いてもいいかな?今朝、ルークと何か、あったのか…?」 言葉の切れた穏やかな間の後、ふと、思い出したように…けれど言いにくそうに、ガイが尋ねてきた。 「……え…」 一瞬どきりとして、顔をあげる。知っているのだろうか。 …恐らく、ルークと会ったのだろう。何か言われたとか…? 「さっき廊下で見かけたんだけどさ…様子がおかしかったから」 会話の流れからガイの顔にはまだ笑みが残っていたが、澄んだ青い瞳が窺うように此方を見ている。 「……何か、…って…私」 何かあったも何も。 喧嘩…なのだろうか。それも、昨日や一昨日などに何度かした軽いものではなく、それはそれは苦い後味の。 けれど原因がまだよく解らない分、何とも言えるものでもない。 「そう、私……今朝凄く寝惚けてて。思いっきり加減なくルークを叩いちゃったものだから、それで……多分」 そういえば、説明しながら状況を自分の中でおさらいしてみれば、まさにその通り。 嫌な夢を見て混乱していたのもあるが、そんな事をルークが知る由もないだろう。懐中時計の事だってそう。 深く考えなければ、寝惚けて叩いて怒られただけ、それだけに過ぎないのに。 「…寝惚けて?ああ、あの腕…だから加減が出来なくてああなっちまったんだな。……けど、本当にそれだけなのか?」 追求されても、頷く他に思い当たる事もない。 首を横に振ると、彼の方も状況を考えた所で思いつく事がないのだろう。眉を顰めた。 どうしてこうなってしまったのか。ガイが溜息を吐いたのが、自分を責めているように感じられて顔を俯かせる。 「……しょうがないですよ。最初から、よく思われていなかったし。…思っていた以上に、嫌われてたのかも」 思わず自嘲と共に出てしまった自虐的な言葉に、自分自身に嫌悪感が湧く。 そんな事は、思っていたって人の前で口に出す事じゃない。至らなさに反吐が出そうだ。 ガイも、その言葉を聞いた途端、不愉快そうに顔を歪めた。 「そんな言い方は感心出来ないな、。……それと、俺の幼馴染をあんまり見くびらないでやってくれないか」 まっすぐとした目で、叱られて。またも失言を、それも自覚する程のものをしてしまった事が恥ずかしくて、居竦まる。 心の中に常にある大きなコンプレックスの塊は、いつだって自分を見失わせてしまうんだ。 「……すみません」 折角、いい関係を保とうとしている所なのに、何をしているんだろう。 何とも言えない気持ちを唇と共に噛み締めていると、肩に温度を感じた。 諌めてくれる時も、慰めてくれる時も、大抵彼はそうするみたいだ。肩に手をおいて、ぽんぽん、と叩く。 「あいつさ、小さい頃から――――っつっても記憶失くしてからなんだけど、癇癪持ちなんだよ。 ……時々、心が不安定になって、ふとした事で不機嫌になる時があるんだ」 顔はまだ上げられなかったが、声の雰囲気でガイが厳しい表情を消して穏やかに言い聞かせてくれているのが解った。 「ルークは、まぁ……あんなんだけどさ。無闇やたらに、理由も無く人を嫌うような奴じゃないから」 理由も無く? …理由なら、たくさん持ってる。今まで人から言われた陰口や、ルークがいつも浴びせかけてくるような罵詈雑言を、 実は自分が一番認めていて、それを心の中で反芻しながら傷ついている。 化け物だし臆病だし性格もよくなくて――――ああ、そんなにじくじくと考えている事を知られたら、また怒られるんだろうな。 結局、ルークに嫌われない要素が思い当たらない。 「俺は」 こんな私なんて。 「思うよ。多分…お前はルークに嫌われるような奴じゃないさ」 「――――――…」 ガイは、自覚無く女殺しだ。 そのストレートかつ巧妙な言葉回しも彼なりのフォローであり、お世辞なのだろうとは思う。 ルークも自分も何だか今日はおかしいから、必死で取り持とうとしてくれているだけなのかもしれない。けれど。 嬉しかった。 心の底から嬉しくて堪らなくて、文字通り、じーんと、した。 だって、他の人からそういう風に見てもらえた事も、評価をして貰えた事も、なかったから。 思わず言葉を失ってしまったが、とにかく彼に感謝の気持ちを、「ありがとう」を伝えなくてはならない。 けれど、上を向くと、思わず目を背けたくなるような整った顔が爽やかな微笑を浮かべていて。 何か、肩に置かれた手の温度が恐ろしく落ち着かなくて、恥ずかしくなってきて。 お礼の言葉が頭の中からすっ飛んでいった。 「……ガイさん」 「ん?」 いささか震える指でガイの手が乗っかっている方の肩を指す。 「……何で触れるんですか」 「あっ!わ、悪い!」 …やっぱり、こんな自分なんて大嫌いだ。 |
子供の頃に感じた、仲のいい友達に新しい友達が出来た時の、あの嫉妬心とか疎外感
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