忘れていた筈なのに、ふと思い出す。 決別した筈なのに、時折振り返ってしまう。 治りかけた傷口をなぞって、痛みを思い出す事で、傷を治さない事で 強くあろうと、しているのだろうか。いいや、そうしないと、自分が解らなくなる。 だから、なんだ。 苦い思いをするのは自分なんだから、思い出したくもないのにね――――― 顔に触れる短く切り揃えた金の髪を、ガイは無造作にかきあげる。 年端もいかない頃から、使用人として、この屋敷に召抱えられて。 毎日穏やかに、過ぎていく。 何気ない言葉を交わしては、笑い合ったり、ふざけあったりして。 仄かな暖かさをはらんだ日常を、幸せを、優しさを、いくつもの日に重ねて、長い時間に癒されていく筈なのに。 …―――――それが、逆に恐ろしくて。 本当に立つべき場所を、間違えているような気がして。 そんな時、心の奥の奥の片隅で蹲って消えかかった、冷たい目をした自分を見つけるのだ。 月の下、夜に咲く花は、香りが強い。 ふと目に留めた花を見て、ガイは思い出す。夜に花に集まる虫は、強い芳香を好んで寄ってくる――――確かルークに そんな事を教えたような気もするが、果たして覚えているだろうか。 「覚えていない」に、1万ガルドだな、と、中庭のアーチの下、石の階段に腰を下ろしつつ、苦笑する。 不真面目この上ない我が主殿は、興味のある事以外、それが例え常識だとしても教わった傍から忘れていく。 成長ねえよなぁ、と、小さく呟きながら、青白く緑掛かった色の月を仰いだ。 丸い、けれどよく見れば少し欠けた淡い輪郭を、知らず細めた目でなぞる。 冴え冴えとしたそれをずっと見ていると、心が静まり―――――そして温度を失っていく。 「…………鍛錬、ねぇ」 目を伏せ、頬杖をつきながら口の中で溜息と一緒に言葉を転がした。 意識外に動いていた左手が、ちき、と腰の剣に触れて音を立てる。 一度冷え始めた心は、どんなに持ち直そうとしたって暖まろうとはしない。 更なる冷たさを求めて、痛みを求めて、孤独を求めて―――――憎悪を生む事で、自分を確立出来る。 そんな事をしたって、無駄なのは解りきっているのに、時々でもそうしないと「本当の自分」を忘れそうになる。 ほんとうの、じぶん。そうなのかさえ、もう時々わからない。 (……どうしようもねェんだよなあ) こればっかりは、と、自嘲しながら、ぐしゃりと右手で前髪を潰した。 こうなってしまえばもう、ベッドに納まっていても、朝まで眠れまい。こうして、発散して、受け流すしかない。 潰していた髪をそのまま一梳きすると、払うように顔を横に振って、立ち上がった。 すら、と、幅の狭い剣を抜く。月の光に、濡れたような刀身が艶かしく光る。 (―――――キレイ……なんかじゃ、ないさ) ふと、記憶に新しい言葉が浮かんで、そう否定した。今、こんな自分とは無縁に、裏庭にいるだろう人物の言葉。 「………こんなのは…」 きれいなじゃない。 ごくたまに、こうしてふって湧いて出る闇色の感情を、吐き出そうとしているのだから。 シュッ、と、鋭い音がして、刃が月の光を斬った。 夢は、心の奥底にある記憶が表れたものなのだと、誰かから聞いた。 家庭教師のうざったい話なんて覚えていないし、父と母からは小言くらいしか言われた事はないし。 多分…ガイか、ペールか…ヴァン師匠の口から出たのだろうと、思う。 何でなんだ、と眉を顰める。 心の奥底にあるのなら。封じ込めてしまってるだけなのなら。 ほんの少しでいい――――忘れたという自分が垣間見えたっていいじゃないか。 …そんな事、考えてもどうしようもないし、過去なんて、正直どうだっていい。そうは、思うけれど。 ―――――以前に、お会いしているでしょう?ルーク ―――――そんな事も知らないのか、お前は ―――――ああ、そう…覚えてらっしゃらないのでしたね… ―――――記憶を失う前の貴方は、もっと… 何なんだよ、勝手に。勝手にそうやって、落胆して、呆れて、失望して。知らねーよ……知るもんか! 剣が上手だった、とか。行儀作法が優れていた、だとか。聡明だった、とか。民の上に立つ者としての自覚があった、だとか。 誰なんだ、それ、と思う。 一体どんなヤツだったんだ?ルーク・フォン・ファブレって――――「俺」、って。そんなん、全然別人じゃん。 ……忘れたっていうそれを、思い出せるのなら、みんなに、そうやって馬鹿にされる事もないんだろうか。 前のルーク・フォン・ファブレみたいに、閉じ込められる事も無く、貴族として、一人前として扱って貰えるんだろうか。 けど、そうなった時、自分は自分でいられるのだろうか?それこそ、別人じゃないか。 ―――――何で、皆は俺を見てくれないんだろう。 俺は俺だって、そう言ってくれたのは、 この屋敷(セカイ)の中で、俺の、ちゃんとした居場所は、――――― 「……………、」 霞んだ思考が、急激に現実味を帯びる。 頭が三つ並んでも余裕がありそうな柔らかい枕に埋もれながら、暖かい光を漏らすカーテンをボンヤリ眺めた。 その光の色が、珍しく新鮮なものに見えて首を回して時計を見ると。 (んだよ……まだこんな時間じゃねーか…) まだ暫らくは午前7時にも届かないような、早朝もいい所の時刻を示している文字盤を見て、驚く。 周りに口やかましく言われているような、早起きには理想的な時間と言えるが、いつもの自分にしてみれば珍し過ぎて 気味が悪い。しかし、二度寝をするまでの眠気は襲ってこず。 ゆっくりと、ベッドの上に身を起こした。 「……………チッ…」 不愉快な夢見のせいだろうか。今更だ。 今更何だってこんな、どうにもならないって解ってる事、諦めきった事…どうでもいい苛立ちを思い起こしてるんだ。 折角の早起きなのに、清々しい朝日なのに、気分は最悪だった。 俯くと視界に落ちてくる赤い長い髪が邪魔くさくて、掻き揚げようとしたが。 「…―――――ッ」 キン、と音を立てるような痛みが、突然頭を走った。 思わず、両目頭を押さえる。また、か。この痛み―――――よりにもよって、こんな朝っぱらから。 「…い…ッ…く、そっ……またかよ…!」 誘拐の後遺症…記憶障害だけではなく、時々襲われるこの頭痛と、幻聴。忌々しいったらない。けれど、今回は。 (……あ…れ、おさまってきた…) 幻聴が聞こえて来るまでには至らず、またそれ以上痛みが強まる事もなく引いていく。 嫌な汗をかいた手で両側のコメカミを揉むと、まるで何事も無かったかのようにそれは霧散した。 大した事がなかったのには安堵したが、それによって更に苛立ちが募る。 もう一度舌打ちをすると、ベッドから離れ、クローゼットへと手を伸ばした。 そういえば、と、この部屋に二つあるうちの、自分の使っている方ではないベッドへと目を向ける。 いない―――――…もしやと思いつつも、当人にとって定位置になろうとしている其処にも視線を移動させると。 (……ノンキなやつ…) この上なく、呆れる。昨晩の記憶では、苦悶の表情を浮かべつつもベッドに納まっていたのに。 わざわざ起きてまで―――いやまさか無意識?―――床に移動するほど、ベッドが嫌いか。 (…………やっぱ、解んねーわ…) 相変わらず直の床に転がって寝ているを尻目に、ハンガーに掛けてあった服を手に取った。 そういえば、昨日はこの不思議生物が女だなんて気付かなかったし、それ以前に気にするのも面倒だったので、 何も考えずに普段どおり着替えた所大騒ぎされた、と、寝巻きのボタンに手を掛けながら思い起こす。 何をそんなに喚く事があるのかも解らないが、とにかくウザったい記憶が甦ってきて眉間に皺を寄せた。 まあ、今はも起きていないのだし、相変わらず気にするのも面倒だったのでさっさと着替えを進める事にした。 もっとも、起きていても、騒ごうものなら追い出してやる気満々だが。 「んっ……あーぁ、…」 いつもはメイドがしてくれるのだが、今日は自分でカーテンを開けて、窓を開けて。朝日を浴びながら目一杯伸びをする。 起きた時には、皆がとっくに働いている光景が専らなのだが、やはりこの時間は少し空気が違う。 人の気配がまばらで、静かだ。風が…少し冷たいんだな、と思う。 人並みな寝起きが、不思議な感覚だった。 不機嫌な気持ちを少しでも散らせようと、ボンヤリと窓の外に広がる最低限の景色を眺めてみる。 ふと、耳に微かなうめき声が届いて目を部屋の中に戻すと、居心地のいい筈の床に寝ていながらも尚、顔を歪ませる がいる。…ただでさえ不細工な顔が余計にヒデェ事になってんなオイ、と心で呟きつつ、そちらへと足を向けてやった。 「……………」 の数歩手前に立ったのに、彼女が起きる気配はない。 ただひたすらに、体を何かから守るように丸めて、眉間に皺を寄せている。顔にうっすらと汗が滲んでいた。 悪い夢でも、見ているのだろうか。 それでも――――それでも、こいつにはちゃんと記憶がある。思い出せる過去を持っている――― 先程のおぼろ気な夢…のようなものを思い出して、奥歯を噛み締める力が強まる。 の事はよく解らない。まだ3日目だ。別に解りたいとも思わないが…コイツはどっちの類の人間なんだろう、と、考える。 …こいつも、何も知らない、と馬鹿にして失望だとかを押し付けてくるのだろうか。 昨日の時点では違うかもしれない、とは思うが、まだ解らない。とにかく。 の事だ。どんな下らない夢を見ているのか知れないが、このまんまだと視覚的にも聴覚的にもウザったい。 けれど起こそうかと手を伸ばしかけた先で、が身じろぎをした。その拍子に、胸の中に何かを後生大事に 仕舞うような形を取っていた手がほどけて、床に落ちた。 片方に、何か小さな物が、柔らかく握られている。 (………ん?…何だコレ…) 所々汚れていて、手入れをしても追いつかないのか、メッキが剥がれ、色あせて錆びた箇所がいくつもある、 「……うっわ、汚ったねぇな……何持ってんだコイツ」 ―――――小さな時計だった。 夢だ。 過去の記憶をそのまんまなぞるような夢。 今までずっと思い出すまいとしていたせいか、頑なになってるみたいに、見なかったのに。 久しぶりにこんなにたくさん、人と接したから? 忘れていた事まで、こんなに鮮明に。 滅多に歩く事のないデパートの、時計売り場のガラスケースを覗き込んで、顰め面をした母が声をあげる。 「時計って、こんなにするものなの?」 値札の0の数を数えている母に、カウンター越しに立っていた店員が眉をひそめながらも、笑顔を保った。 きっと、相場はこんなものなのだろう。世間的に母が恥ずかしい発言をしてしまったのに違いないと思った私は、 慌ててガラスケースにへばりつくようにしている彼女の服を引っ張った。 「ちょっと、お、お母さんやめてよ!ふ……普通なんでしょ、これくらいが……」 小声で母を窘めながらも、恥ずかしさに熱の上った顔を、金色や銀色をした時計が並ぶそこにチラリと向ける。 (うわあ…高い……こんなにするんだ…) 人の事を言えないような思いが浮かぶが、見栄を張って口には出さない。 そもそも、父の記念すべき40回目の誕生日に、プレゼントをしたいと我儘を言い出したのは私だ。 大抵の雑貨を100円均一の店で揃えてしまう我が家だからこそ、この機にちゃんとした物を贈ろう と、こんな所に来てしまったのが間違いだった。 実用的な事を考えて、プレゼントは時計がいいと提案してみたがここに並ぶのは、生まれた時から今現在までの 財政難を思えば到底手が出せない物ばかり。落胆して、密やかに肩を落とす。 プレゼントの額に糸目をつけなければならないのは悲しいが、その辺の雑貨屋を見に行った方がいいかもしれない。 質は劣るが、100円のものよりはマシだろう。 そう提案をしよう、と口を開きかけたのだが。 「あら。……、。これ、これ。ちょっと見て?」 店員の微妙な表情に対して無視を決め込み、ガラスケースの端を覗き込んでいる母が、私を手招きしている。 ああもうこの人は。 どうせ無理なのにこの上まだ恥を塗り重ねるか、と思いつつも、滅多に出来ない買い物に母の浮かれている様子が 微笑ましくて、同じく私も嬉しくて。苦笑しながらも、素直に従って隣に屈み込む。 「……なに?」 「これなら、安いと思わない?高そうに見えるし!」 けれども、大手百貨店の時計売り場にて何と言う貧乏臭さ丸出しの発言を!と、その瞬間口を塞いでやりたくなった。 またも店員が、微妙な顔でこちらを窺っているのが気になったが、平静を保って指差された先を見る。 言われてみれば確かに、この中では珍しく良心的な値段表示だが。 「そちらはメッキ加工製品となっておりますので、お求め易いですよ。贈り物でしたら、ラッピングもさせて頂きますが」 振り仰ぐと、気を取り直したような笑顔が近付いて来る。 まずい。と、ぐぐっと下あごに力をいれて、牽制だか笑みだか解らない表情を作る。 買い物中に店員に取り付かれると、気の弱いうちの一家は流されて買わなくていい物を買ってしまう事が多い。 早くここを離れないと、またいつもみたいに狩られる――――― 「まあ、ラッピングもしてもらえるんですか?じゃあこれ下さい」 横にいた母があっさりと口にしたのに対し、畏まりました、と頭を下げた店員がガラスケースの鍵を取り出す。 止める隙のなかった一連の流れに、呆けるしかなかった。 おいおいおい。だって、ウチには。 真っ白になる頭の中で考える。ウチには、トイレットペーパーを買うのに動かすお金にさえ、余裕がない。 切実な所で言えば今日の晩御飯だってどうしようかと…。 「って、おっ……お母さん、何であっさり決めてんの!?」 「……どうして?きっと、お父さんも喜んでくれるわ」 ラッピングの為に店員が離れた所で、やっと声のトーンを落として母の袖を引っ張った。 そんな私に対して、何をそんなに慌てているのか、と不思議そうに返事をしてくる。 そりゃあ……と、言いかけて、眉の間に皺が寄った。 苦労のためか、白髪が割合多くて年の割りに老け込んだ様相の、けれど優しい父。 身に着ける物も使い古しのクタクタよれよれの物ばかりで。一つくらいちゃんとした物を持っていて欲しかった…のだけれど。 「喜ぶ……って、そりゃあ、喜ばなくてどうするの、そんな高い物を…」 高い物じゃなくっても、いい物なんかじゃなくっても、父は喜んでくれると思う。 だったら、こんなものを買わなくとも、もっと彼の為になる事をしてあげた方がいいに決まってる。 きっと、私がいつになく我を通すような事をしたから、母が無理をしているんだ。 「あの…やっぱり……諦めて、美味しいものとか買って帰った方が…」 「ほら、ねえ。」 言い聞かせるように、優しい響き。 世界で、この世で、一番優しく母は私の名前を呼んでくれる。父も。 「………」 学校と限らず、誰も私を呼んでくれない。 だから、こうして両親に名を呼んで貰えるのが大好きな私は、食い下がるつもりの言葉を引っ込めて黙った。 私の母親だから、決して美人じゃないけれど、この人はとても柔らかく笑える。ふわりと、上手に。 「お金なら、大丈夫だから。あなたが生まれてからずっと、おやつを我慢してくれてたから、その分余裕があるのよ」 そして、意味の解らない事を言う。おやつが、何だって?どこから余裕を持ってくる発想だ。 口を開いてやろうとする所だが、けれど笑顔を湛えたまま母は続ける。 「あなたに言われて、お父さんにちゃんとプレゼントした事ないの、思い出したわ。ありがとう」 だから、と納得出来なくて眉を顰める。どうせ喜ばせるなら、もっと潤いのある形でした方がいいと溜息を吐くのに。 「だったら……もうちょっと栄養のある晩御飯の方が…」 「食べちゃったら、終わりでしょう。そんなの寂しいわ」 「え?……ぁ……そう、かな」 ―――――ああ、そうなのかも。 やっと、納得出来た脳みそに、雪みたいに降ってきた言葉が、しん、と溶けた。ああそうか、 「……これなら、」 「お待たせ致しました」 抑揚の無い店員の声が言葉の途中に割り込んで来る。 ガラスケースに並んでいた時には無機質だったそれが、淡い桃色の紙でラッピングされた箱に入れられただけで、 沢山の気持ちが詰まった贈り物に変わっていた。 胃が痛くなるような額を母が店員に支払うのを見ながらも、手に取ったそれに視線を落とすと、口元が綻んだ。 きっと。 お父さんは喜んでくれるんだ。ずっと、大切にしてくれると思う。 私が大人になっても、持っていてくれるといいな。 そしたらちゃんと働いて稼いだお金で、メッキじゃないヤツを買って、また贈ろう。お母さんにも。 帰り道に、切れた言葉の続きを母が話してくれた。 暫らくの間は、ご飯がちょっと貧相になるねえ、と、笑いながら、歩いた。 わたしは、誰からも相手にされなかったけれど、誰も要らないくらい、嬉しかった。 なのに (はやく大人になりたい) 向けられたのは、ゴミをみるような、目―――――だった。 (強くなれれば、何でも平気なのに) 高校受験を控えて、季節も寒くなってきた頃。 知らない人から電話が増えてきた。 だんだん頻繁に掛かってくるようになって、家計が逼迫して電話も使えなくなると、男の人が訪ねてくるようになった。 その度に、悪い事をしていない筈の父や母は頭を下げていた。 男はそんな時、額を床に擦り付けている二人を冷たい目で見ている。 その度大切なものを馬鹿にされているようで、腹がたって―――けれど恐くて何も出来ずにいた。 でも、それは、一回だけは違った。 両親共に仕事で出かけていて、家には私だけ。 「何もねえ家かと思ってたのに、いっちょ前に上等な懐中時計なんて持ってやがる」 嫌いな人たちの声。両親が帰ってくるまで待ってると言って居間に居座っていた。 思わず、恐ろしさも忘れてその声の方を見た。 まさか。 引き出しをあさっていて何かを見つけたらしい男が手に持っていたものを見て、冷水を掛けられた様な感覚に襲われる。 布に包んで、大事に仕舞われていたはずの「あれ」だ。 父が勤め先の作業場に持って行って汚れるのが嫌だから、と置いていった銀の光沢の懐中時計だ。 全身が冷たくなったと思ったら、かあっと頭に血が昇る。触って欲しくない。 「メッキかあ。質に入れても大した担保にはならねえな。ま、無いよりはマシ…」 「あ、あ、あの…それ。か、返…してください」 小さくて掠れた声しか、出ないのがくやしい。 精一杯、叫んでやるつもりだったのに。 いつもは隅で隠れて震えている私を、驚いた様子で男は見たが、直ぐに下卑た笑みを浮かべると さも面白そうに口を歪ませる。奮い立たせた精神が、いまにも崩壊しそうな軋んだ音を立てた。 「返して?……あのねえ、お嬢ちゃん?返して欲しいのは俺なんだけどなあ」 頭の悪そうな笑い声も、汚い言葉も、全部、全部頭に入らなかった。 足の先は冷え切って、胸から上は吐き気がするくらいに熱くなっていて。 「それは駄目なんです!返してください!」 今度こそ腹から叫ぶと、対峙するのが大人である事も気にせずに手を伸ばした。 だって、それは、大切だから。 知らない奴が馬鹿にしていい物じゃない。メッキだからそれが何だ。値段なんかつけるな。 「何だよ……うぜえんだよ、ガキが!」 無我夢中で取り返そうと無様に縋る私を避けた男に、戯れに頬を張られる。 それでも、なんとか逃げずに立ち向かえた。今のところ、その一回だけ、最初で最後の強い私だった。 嫌な事は、全部夢だよ。 恐い事は夢にすればいいから。 台所の机に顔を横に突っ伏して、私は安堵の笑みを零していた。 未だ震える体に、大丈夫、もう終ったんだと言い聞かせた。 かかげた銀の時計が、最後の西日に反射して光った。 口の中で鉄の味がする。 大した事はないかもしれないけど、痛くて、今更とてつもなく恐さが込み上げてきて。 それで涙がにじんだから、余計に時計がキラキラ光ったように見えて、キレイだった。 とっても、綺麗だ。 あの日も夕焼け。 買い物から帰る道で、母が言った事は、今でも覚えている。 「これなら、」 ―――――これなら、ずうっと、一緒にいられるでしょ? 私、笑いながら、何て返したっけ。ああそう、冗談めかして、 ―――――でも、それ、一緒にいるって… 「…時計…じゃない」 「……はぁ?」 ふ、と夕焼けの台所が闇に落ちて、気がつくと全く別の場所にいた。 瞼が重くて重くて、視界に何が映っているのかすら解らない。 …どこ、だっけ、ここ?お父さんとお母さんは…帰ってきたんだっけ?私、何を……ああ、バイト行かなきゃ… ……って、あれ…受験生なのに、私、バイトなんてしてた? ごちゃごちゃと、記憶が混濁していてわけが解らない。 混乱する頭で、とにかく確かめなければならない事は。最優先で気付かなくてはならない事は。 「……と、けい…?」 空ろに呟いて、感触を確かめようとして。しかし。 (な―――――い……ない!?) 手の中に有る筈の、取り戻した筈のものが無かった。慌てて起き上がって周りを確認するが、見当たらず。 「な、何なんだよ…」 近くに響いた声に驚いてそちらを向くと。 「…あっ…!」 目の前の、声を発したらしい人物が、その手に探していた懐中時計をぶら下げている。 「…さ、触らないで!」 まだ夢と現実が混ざり合っていて、「奪ったのが誰か」なんて、解らなかった。咄嗟に、時計を取り返したいという本能で。 そんなもの、言い訳にもなりはしないけれど。 「―――ぃてッ…!」 パシン、と音がした。 大切な物を取り返してしまってから、ようやく気付いて、はっとする。 ちがう。この人は、あの、こわい男の人じゃない。 何も知らない、関係ない少年。 私、何て事を。 左手を押さえながら痛みに蹲る目の前の、赤く長い髪の人物を見て、体が血の気を失って冷えていく。そうだ、私は―――― やっと、全ての現状を思い出した。 こんな力で、ルークの腕を払ってしまったんだ。途端、法則に従って、きりっと頭が痛んだ。 けれど、そんな事はとにかく今はどうでもいい。加減をしなかったからルークは腕を痛めてしまったに違いない。 「あ、ご…っ、ごめん!…ごめんね!わ、私、わからなく……あの、大丈…」 彼が心配で、慌てて手を伸ばしてルークの腕を看ようとする――― ―――が。 ぱしん、と同じような音がして。今さっき私がそうしてしまったように、払われた。 「…っに、すんだよ…!何だってんだ!!」 「あ…」 本格的な戒めの痛みが途端体に絡み付いて来るが、それを甘んじて受け入れる。悪かったのは、自分なのだから。 「ご……ごめんなさい…」 もう一度口にするが、何故だか彼はとても苛ついた様子で、あの時と同じ。遠い存在のような目で。 「何なんだよ……お前も……お前まで!」 「……え?」 コンコン、と、場にそぐわない音が部屋に響く。次いでメイドの声。 「ルーク様。お目覚めですか?朝食のご準備が整いましたけれど、今日もやはりこちらに、」 気を利かせた彼女の言葉は、けれど途中でルークの怒鳴り声に掻き消された。 「食堂に用意しろ!コイツなんかと一緒のトコで、メシなんか食いたくない!」 言い捨てると立ち上がり、自分では解らないけれども、顔色を失っているだろうこちらを、睨み付けた。 「あの……あの、」 何かを、言わねばと口を開いた。 けれど何も出てこなくて、言葉が浮かばなくて。 だって、こんなに些細で。きっとこれは、双方の思い違いで、誤解で。 そんな不甲斐無い様子を尻目に、聞きたくない、と言うかのようにルークは踵を返すと乱暴にドアを開け、 驚くメイド諸共部屋を去っていった。 バタン、と拒絶を示すかのように閉められた扉の音を聞きながら、呆然とする。 どうしよう、と、そんな言葉ばかりが寝起きの働かない頭の中を駆け巡っていて。 きっと、彼の機嫌も今日は特別悪かったのだ。確かに言われた事はショックだったけれど、それは私が悪くて。だから。 だから…ルークが戻って来たらちゃんと話そう。それで、誤解は解けるだろう。 手の中の懐中時計を、自分自身に言い聞かせるように、握る。 歪(ひず)みが生まれてしまったのは、早くも三日目の、―――――朝。 |
それぞれの抱える歪みがぶつかり合っていく章になります
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