――――それは、燃えるような。 目の錯覚なのだと、は視線が合ってから数秒後に、やっと気付く。 何故なら彼女の、その本来の瞳の色は、灰色がかった青色をしていたからである。 美しい色が、羨ましいとさえ思える。自分が持っているのは一般的な茶色の瞳だったから。 茶色って、どう綺麗だったとしても微妙だよなあ、と、青い瞳から目を逸らすことが出来ずに、思う。 それが赤く色付いているように思える程、彼女の瞳には激しい感情が宿っていた。 裏庭に通ずる出入り口を今回も見つける事が出来ず、ショートカットさせて貰おう、と窓枠に足を掛けた状態のままで、固まる。 「………………」 少し離れた廊下の先に、一人の女性が立っている。 メイド服を着用したその人は今、炎さえ灯りそうな瞳でこちらを睨みつけていた。 数瞬間前、彼女はこんな時間にうろつく自分を偶然発見し、やはり驚いた顔をしたのだが、 他の使用人と違うのが、それからの反応である。 彼女の顔に翳が落ち、俯き加減のそこには、みるみると憎悪の念が膨れ上がる。 他のメイドのように慌てて逃げ出す事もなく。唯々、ひたすらに、憎ましく、怨めしく―――― …――――全身全霊をかけて、こちらを呪っているかのようだった。 向けられた、激しい負の感情の波に、思わず背中といわず、ぞくりとする。 (…………な…に……?) 苛むかという位の視線と感情とに、身に覚えがあまり無い…と、思う。 此処の人間に迷惑や被害を与えてしまった事は確かにあったが、それでも。 ここまでの恨みをぶつけられるような事は…恐らく、無いはずだ。 が顔に疑問符を浮かべて彼女に何事かを問おうとした矢先、フイ、と翳を落としたままの顔が背けられた。 「…………?」 息を呑むような力を宿した目が外れた途端、金縛りが解け、やっと手のひらに汗を掻いていた事に気付く。 一体何なのか、と去っていくメイドの後ろ姿を見るが、彼女が何か言葉を発する事は無く。 またにしても声を掻ける勇気が出ず、曲がり角の先へと彼女が姿を消すまで、片足を上げた格好のまま 見送る事しか出来ないでいた。 腑に落ちないながらも、結局後を追う気も起こらず、裏庭に通ずる窓に両足を乗せる事にした。 (誰……何…だったんだろう…) トン、と、朝にも同じようにして足を着けた地面に着地する。相変わらず、どうしてか体が軽い。 今回も捻挫する事もなく無事に着地出来た事に息をついて、そこを見渡す。 やはり、朝日の下とは全く印象の異なった裏庭があった。 この屋敷の一番の特徴…象徴的とも言える大きな中庭のそれよりも、若干無造作に生えた木々や草花が、月の明かりに 夜露を光らせる。どこからともない、草の下から響く微かな虫の声。 そこかしこに容赦なく落ちる月の下の翳りは闇が濃く、真っ黒なそこに、何かが潜んでいるかのような錯覚が生まれる。 人工の音も一切無いそこは、幻想的、とも言えなくもないが、少し恐いな、とは思った。 しかしそれを振り払い、水道があった筈の場所へと、記憶を頼りに歩を進める。 と、暗くて気付かなかったのか、思わず足を止めたそこから少し離れた前方の暗がりに、人影があった。 いいや、暗かったからというばかりではない。気配が完全に絶たれていたから、というのも、気付かなかった原因の一つだ。 「………ッ!」 丁度、おっかなびっくり進んでいた所だったので、思わず上げそうになった悲鳴を両手で塞ぎ込んで必死に押さえ込む。 ――――その人物は、の方に背を向け、スラリと抜身の剣を手に構えていた。 左手を、腰の鞘に。少しだけ反った刀身の剣を持つ右手を、水平に。 肩から切っ先までがまるで、直線を描いているかのように、ぴいん、と、真直ぐに伸びている。 足の先、手の先、髪の先に至るまで、そこに一切の隙はない。 まるで、一枚の絵画を見ているかのように。 それはそれは、美しいともとれる目の前の光景に、は魅入ってしまった。 だが、それは魅せるためのものではない。 それを証拠に、と言うかのように、軽く、けれど力の込められた刃が、すぅ、と動く。 ゆっくりとした、けれども遅すぎない絶妙な速さでの移動だったが、少しでも触れるような事があればたちまちに ばっさりと斬れてしまうだろう事が、動きから窺える。 緩やかな動作で斜め上へと移動した剣は、次に何ものをも断ち切る事が可能であると言わんばかりの勢いで 振り下ろされる。かと思うと、目で追いきれない内に、ヒュッ、と音がして、また水平に薙ぎ払われた。 「…………………」 あまりの、一連の見事さに、は息をするのも忘れて目を釘付けにする。 地に足が貼りついたかのようだった。 やがて、ヒュ、ヒュン、と二つ程の動作の後、舞うかのような動きでこちらを向いて剣を払った人物と、目が合う。 「あれ?何…やってんだ、?」 シャープな体勢はそのまま、顔には何処か見慣れてしまった間の抜けたような表情を浮かべて、ガイは問うてくる。 「………………」 そのギャップから抜け出せなくて、は完全に呆けた。 何か、ええと、そう、人魚だと思っていたものがジュゴンだったとか、得体の知れない落胆、というか。 「…おーい?」 「…っ!……ガッ…ガイさん!?………こそ、何やってるんですか?」 ヒラヒラと振る手と共に、目を点にしているこちらを窺おうと覗き込んできた顔が近付いてきたので、慌てて意識を引き戻す。 思わず、後ずさってしまった。何だか夢から覚めたような感覚だ。 「何…って。まぁ、日々の鍛錬…かなぁ」 言いながら、ちん、と音をたてて刃を鞘にしまう。慣れた手つきだった。当たり前だが、それが空恐ろしい。 けれども、にこ、と向けられた普段通りの笑顔に、その思考を振り払って片眉を顰めて聞き返す。 「…たんれん?」 「そ。毎日毎日使いっぱしり。暇を貰っても、今日みたいにルークお坊ちゃんとダベッてばかり…てな状態じゃ、 体が鈍っちまうからな。いざって時のために、こうして日々見えない努力をしてる、ってわけさ」 にへ、と苦笑に近い笑みを浮かべながら言う様子は、お茶らけたものだったけれど。 さっきの動きは、違う。 真剣そのもの―――――とてつもなかった。 ガイはやはり、冗談を抜いて、只者ではない。 月の光に冴える姿はある種、一線を越えた人間――――今までに出会った事の無い類の。 思い出せば冷えるような圧倒感に、無意識に溜まった唾を飲み込んだ。 「す…すごいんですね、ガイさん。吃驚しました……とても、綺麗で、」 「きれい?」 思わず口をついて出た正直な感想に、ガイは目を丸くする。男の人に、綺麗、は失礼だったろうか。 しかし。 ふと、目が伏せられたかと思うと、僅かな翳がガイの顔を隠す。 「…――――キレイ…なんてモンじゃねえよ。こんなのは……」 少しだけ低くなったような、少しだけ乱暴になったような、少しだけ吐き捨てるような。 そんな、いつにないガイの言葉と様子に、途端は胸の底が冷えたような感覚に陥る。 失言だった――――そう、瞬時に理解した。 「ご、御免なさい。……私、剣術とかそういうのが、どんな物なのかあまり解っていなくて……すみませんでした」 謝れば、いいというものではないかもしれない。 何も知らない人間の無責任な言葉ほど、覚悟をした心を侮辱するものは無いだろう。 そうだ。 どんなに美しく見えたってこれは―――――人を傷つける、他の命を奪う技術なんだ。 並大抵の覚悟で、あの動きが会得出来る事はないのだろう。 料理で包丁を持った位のが感想を言える立場では、到底ない。 顔を上げられずに猛省する自分に、けれどガイは取り戻した優しい笑みを向けてくれる。 取り戻した?――――隠したようにも見えた、けれど、いつものガイに何だかひどくほっとした。 「…や、いいよ、謝んなって。褒められて悪い気はしないしさ」 ぽん、ぽん、と肩を叩かれて、手袋越しの暖かさに、また安堵する。 …この際、何でさわれるのかは気にしない事にした。 それより、と、腰に手を当てたガイが続けたのでやっとも顔を上げる。 「の方こそ、どうしたんだ?こんな遅くに裏庭になんか…しかもそんな荷物持って」 お情け程度の荷物しか入っていない鞄を除いて、の所有物ほぼ全部。抱えている物を見てガイが問う。 こんな人目の無い時間に、こっそりと、最低限必要な荷物を持って、裏庭に。 条件をプラスしていってある答えに辿りついたのか「まさか、」と呟いてを見る。 逃げる気なのか?と、いう言葉を顔で訴えかけてくるガイを見て、慌てて首を横に振った。 「ち、違いますよ、体を洗いに来たんです。……さすがに二日目ともなると、気持ち悪くて…」 苦笑するにガイは肩を下ろして、ああ成る程、と頷いてみせた。 「そう、だよな。悪かった…気が回らなくて。でも、浴場は西棟にあるから、こことは逆方向だぞ? それに、もう時間的にも終わって…」 「いいんですよ、私はここで洗わせてもらいますから」 ガイのせいではないのに、申し訳なさげに紡がれる言葉を遮って、言う。 例え浴場が西棟にあるのが解った所で、使う事なんて出来ない事は承知済みだ。 こっそり使ったとしても、バレてメイド達に「あの化け物がここ使ったんだって!!」と、騒がれるのも面倒だし。 「…………へ?」 そんなこちらの苦笑交じりの返事に、ガイは若干裏返った声を上げる。 ああ、そうだ。よく考えたらガイはここの先客じゃないか。 「あ、その…だから、鍛錬中の所本当に申し訳ないんですけど…少しの間だけでいいんで、ここ、譲って貰えませんか?」 あつかましいのは解っているが、ここが一番人気のない、が広い屋敷の中で唯一把握出来ている水場だ。 自分的には、ここで済ませたい。けれどいくら女扱いされてないとは言え、まさかガイの横で素っ裸になる自信は絶対無い。 そう、退散の申し入れを、彼に入れるが。 「ちょ、ちょっと待て!」 ひどく慌てた様子で、こちらに向かって両手を突き出し待ったをかけてくる。 「ごめん、。よく解らなかった。どこで、どうやって、体を洗うって?」 一字、一句、丁寧に、と確かめるように問うてくるガイのコメカミから、一筋の汗が伝っている。 何をそんなに慌てているのか、と、訝しく思いながらも、は指を動かした。 やはり記憶違いではなく、少し離れた所に設置されている水道を指す。 「そこで。まあ、浴びたり、体拭いたり。」 の指の先から、それが指し示す方向をしっかりと確認しつつ、ガイが視線を辿らせる。 そして、戻した。その往復を更に2、3度繰り返す。 やがて指の先に据わらせた目をやったまま溜息をつくと、重々しげに口を開いた。 「………。俺にはあそこにあるのが、水道にしか見えないんだけど。」 「………私にも、水道にしか見えないんですが。」 真剣に言葉を向けてくるガイに、こちらもいたって真剣に返してやる。 「………………………………」 「………………………………」 そして、幾ばくかの沈黙が、その空間を支配した。 「な」 「?」 「何考えてんだよ!水道だぞ!?水なんだぞ!?庭木用なんだぞ!?」 「ガガガガガガガイさん、しーッ!しーッ!!」 信じられない、とばかりに爆発して喚きだすガイを前に、人差し指を口に当てつつ必死に訴えかける。 今は夜中、繁華街でもないここにとっては、草木も眠る深夜もいい所だ。 そんな中大声を出しては周囲に人影が無いといっても、いい迷惑である。 思わず腹から出てしまった声を諌められて、う、と呻きながら反省の色を浮かべるガイだったが、負けられない、と言い募る。 (お前な!遠慮のつもりかしれないが、悪い事は言わないからやめとけ!水道で…水で体を洗うなんて、体壊すぞ!) (だ、大丈夫ですよ!別に今まで、そうやって洗ってきたんですから!) (今までずっとソレなのか!?何もここまで来て同じ様にする事無いだろ!?公爵家で預かってる人間に、それは無いって!) (そ、そんな事言ったって…じゃあ、どうすればいいって言うんですか!今からお風呂使わせて貰うわけにもいかないし!) 小声の激しい舌戦が繰り広げられたが、の方の言い分に、ガイはとうとう言い返せずに喉を詰まらせる。 ぐっと口を閉ざして身を引かせるが、納得がいかない、という様子で頬が引き攣っている。 常識として、普通の事を言っているのはガイの方の筈なのに。 彼はそのまま、う"うん、と唸り声を発したかと思うと、が見守る先で俯いて考え込んでしまった。 「…………………よし、解った。…俺は、ちょっとココを離れる。」 やがて顔を上げたガイが発した言葉に、納得してくれたのかとは顔を綻ばせた。 礼と謝罪の言葉、どちらを先に言おう、と口を開きかけ所に、ガイが片手の平を突き出してきたのでそのまま固まる。 「離れる、が!直ぐに戻って来る。それまで待ってろ。水浴びもするな。」 「………ぇえ…?」 思わず眉を顰めるに更なる抗議の声を上げさせる暇も許さず、ガイはそのまま背を向けて走り去った。 その後ろ姿は何故かとても、ウキウキ活き活きとしているような気がする。 不可解な事の次第に、は横に深く首を傾げるしかなかった。 (な…何なのよ…一体) 時間にして、およそ15分ほど。 心細い暗闇に閉ざされた庭で、所在のない体を持て余していた。 一人きりなのだから、戻って来る確証が100%でないガイの言いつけなんか破って、さっさと水浴びを済ませれば よかったのかもしれないが、いつ彼が戻って来るとも知れない恐怖空間ではその勇気が出なかった。 やがて、 「よっ!お待たせ!」 と、満面の笑顔で戻ってきたガイの顔は、夜の闇にも負けない位輝いていた。 別段、何か特別の物を取りに行ったという様子もない。小さな手荷物以外、彼は去っていった時と殆ど変わらぬ装備である。 不可解だ、と顔で訴えかけてみるが、それに対して無視を決め込んだガイに水道の方へと急かされた。 「ま、ま、いいからさ。水、出してみてくれよ!ホラ早く!」 声の音量をを抑えるという意識も、どこか興奮した様子に吹き飛んでしまっているようで。 勢いに負けて咎める事も出来ず、え?え?と戸惑ったまま蛇口の前まで押しやられ、導かれるままそこに手を掛ける。 何だというのだ。彼の行動の意図が、全く掴めなくて困惑を極めた。 水が一体何だというのか。何か魔法の液体でも出てくるのだろうか? とにかく、この目の前のコックを回せばガイの気が済むのだろう、と、ゆっくりそれを開放する。 「……ぅわっ?!」 冷たい水の感触を受けるために水の出口の下で構えていた左手が、あまりの驚きにビクリと揺れる。 そこに触れるのは、 「あ…暖かい…?」 「湯加減、どうだ?」 丁度いい温度のお湯だった。 得意げに問うてくるガイに、何がどうなっているのか解らないままだったが、とにかくこくこくと必死で頷く。 彼はこちらの反応に気を良くした様子で、至極満足げな笑みを口に浮かべた。 「どうやったか、気になるか?聞きたいか?なあ、聞きたいよなぁ?」 とてつもなく嬉しそうに迫ってくるガイに、は異性だからという以外でも言い知れぬ恐怖を感じて後ずさる。 あまりの迫力に、聞きたくない、などとは絶対に命にかえても口に出来ないような気がして頷く他なかった。 それがとんでもなく間違った行為だったと、はこの後、多量の後悔の念と共に嫌と言う程思い知る事になった。 「…………………」 とにかく、水しか出ない筈の水道の蛇口からお湯が出たのは、ガイが最近自作したらしい…音機関…とか言ったか、 装置みたいなものを、配管の点検口を利用して取り付け、暖めているとか、何とか。 物凄く、それはもう事細かに原理やら何やらを説明してくれているのだろうが、時折交じる専門用語らしきものに 理解が引っ掛かり、それが段々募って、今ではガイが何語を喋っているのかすら解らない。 「…でな、この火を司ってる第五音素を利用した訳なんだけど、この第五音素を応用した技術ってのがまた、凄いんだ! バチカルの旧市街の近くに、少し前に完成した第五音素専門研究機関ルエベウスってのがある。ルエベウスでは毎日 キムラスカのほぼ全域から廃棄されるゴミを処理するのに、第五音素を利用してるんだ。音機関の本場、ベルケンドって 町から技術者が来て研究しつつゴミ処理業務を行ってるわけなんだけど、その利用方法ってのがな! 普通、ゴミっつったら直接的な第五音素での焼却を思い描くだろ?違うんだよ、コレが!特殊な装置から粒子状の 第五音素を大量に散布する事により、物質を構成する音素を分解してあらゆるゴミというゴミを消滅させる事が 可能なんだな!分解された音素はこのオールドラントを覆う音譜帯に自動的に戻るから、衛生的に、かつ環境に優しく ゴミ処理が出来るってわけなんだよ!はあぁ…ホント、スゲーよな…!あと、港近くにも今、第四音素の研究施設の 建設計画が持ち上がっててさ!実現したら…」 (…………はぁ………) 最早人形のように、そう、ああそうなんですか、へえそれは凄い、と機械的に頷く事しか出来ないでいた。 魂の抜けた笑みを浮かべながらはひたすらガイの気の済むのを待っていたのだが、一向に収まる様子は無かった。 …ああ、嫌という程、解った。 人間誰しも、完璧ではないというのは、紛れもない真実であった。 容姿、性格、身体能力共にパーフェクトで、女性恐怖症以外に人間的な欠陥は無いと思っていた彼に、 こんな落とし穴があったとは。 「でもやっぱり譜業といえばシェリダン製の…」 マニア。それも、窺い知る事が出来る範囲では、超が付くほどの。 音機関、とはの世界で言う機械全般を指す言葉だと思われる。ガイは間違いなく、機械偏執狂だった。 この上なく嬉しそうなガイの言葉を遮る勇気はには無く、弾んだガイの声はその後約小一時間裏庭に響いた。 しかし更けていく夜に流石にもう限界だと悟ったは、言葉が切れたほんの一瞬の隙をついて声を上げた。 「…ガイさん!ものっ凄く為になる説明、有難うございます!つきましては、そろそろご自作の音機関とやらの 性能を確かめると共に使わせて頂きたいのですけれども!」 そこでやっと、は、と我に帰った様なガイが後ろ頭を掻きながら、悪い、とはにかむ。 「…ああ、ゴメンゴメン。つい、夢中になっちまった。こんなに語らせて貰えた事、無かったからさ。ありがとな、」 そりゃあ、そうだろう。自分ほどのチキンハートも、そういないだろうし。 …だから何だか、暖かい笑顔でお礼を言われても、複雑だ。 「あー、それとコレ。体とか、髪とか洗う時に使うといい。…あと、タオルもな」 言いながらその手に持っていた物、小さなボトル二本と、白いタオルをこちらに渡してくれる。 こっちが体用、こっちが髪用な、と、ボトルに記された文字も読めないに、ガイは指で示してくれた。 本当にまあ、よく気のつく男である。この上なく感謝の念を抱きつつ、頷いてお礼を言った。 「じゃあ、俺は中庭の方にいるから。終わったら呼びに来てくれるか?…装置を取り外しておかないと、 明日の朝、ペールがビックリするからな」 花に水をやろうと蛇口を捻ったペールが、出てきたお湯に驚いている様が想像出来て、思わず噴出してしまう。 「…あははっ、……そうですね。ペールさん、腰抜かしちゃうかもしれませんね」 がそう言うと、ガイはそう言えば、と目を丸くした。 「面識あったっけ?…ペールと」 問うガイに、ええ、とは頷いてみせる。 「朝に、お会いしました。…凄く、いい人ですね。色々…教えてもらいましたよ、ルークの事も」 その言葉を聞いて、そうか、とガイは微笑んだ。 「どうりで。ルーク坊ちゃんはあの性格だからなぁ…随分譲歩して接してくれてるなー、と思ってたよ」 今日のアレでもな、と、その笑みが苦笑に変わる。 それでも何回かは抑えきれずに口論になった場面もあったが。 ――――もしも。 もしも彼との出会いが朝一番に無かったら、この一日はもっと、別の一日になっていただろうと思う。 結局、なんにも解らなくて。周りは敵だらけなんだと、脅えたままで。 欠点ばかりに埋もれて殆ど見える事のない、否、見ようともしなかったルークという他人の事情など理解する事もなく、 彼の(いまだに在るのか疑わしいが)本質的な小さな優しさにも、気付く事はなかったろう。 オールドラントという世界の夜明けの空気を知らないまま、私は。 部屋の片隅で、全てを拒絶していたかもしれなかった。 とんでも無く疲れたし、大変だったし、色々有り過ぎた一日だったけれど、それは何年かぶりの、悪くない一日だった。 ペールには勿論会えて良かったけれど、それ以前に感謝しなければならないのは。 「言いそびれてましたけど、有難うございました。ガイさん。…ペールさんに、私の事を話してくれて」 ペールはガイから聞いた、と言っていた。元はと言えば、それがあってこその出会いだった。きっと。 ずっと、無機質な「アリガトウゴザイマス」という言葉しか使う事のない日常だったから、気付かなかった。 本当に感謝をする時には、自然に頭は下がるものなんだ。 「な、何もお礼なんか言う事じゃないさ!ペールには別に、特別何かを言った訳じゃない。 …そのまんまを、伝えただけだし。な。顔上げてくれよ」 こちらの様子に、いささか慌てた様子のガイが手と首を振って頭を上げるよう、諭してくる。 本当に困った様子に、言われた通り姿勢を直すと、予想通りの苦笑したガイの顔。 「あっ…と、そうだ。今日は結局、色々台無しにしちまったけど、明日からはペールの所を手伝うってのはどうだ? 希望の掃除…って訳じゃないから悪いんだけど。…よければ、話してみるよ」 ばつが悪くて言い繕うかのような彼の口から出た申し出に、は一瞬言葉を失う。 それは、この上なく、また願ってもない提案だった。声が咄嗟に出ない代わりに、力いっぱい頷く。 「い…っ、いいんですか!?…す、凄く有り難いです……ぜひ!」 ペールの下で、働けるなんて。 今日のように冷たい視線地獄で働く事なんかに比べれば、極楽浄土である。 作業内容の違いなんかは全く問題にならない。断る理由なんか、あるはずもない。 それはもう、思わず顔を明るくするを、ガイは笑顔で見届けると、頷いた。 「分かった。そう言っとくな。……やっぱり、笑顔の方が可愛いよ、。じゃあ、どうぞごゆっくり。」 「…………………」 白い歯を輝かせると、この上なく最強の捨て台詞と恭しい所作を残して去っていくガイ。 はその背中を、動かずに見送った。いや、固まってしまって動けずにいた。 解っている。お世辞だという事は、それはもう嫌って程。自分がどんな容姿をしているのかも、自覚はあるし。 それに過去何回か、口の悪い異性から「笑顔が気持ち悪い」というような罵倒も受けた。 だから、いまだに笑う事が恐くて、ぎこちなくなる。…なのに。 ――――可愛いよ―――― とか。 そんな事を真面目に言われたのは、生まれて初めてだ。 「…………………アレで女性が駄目なんだから、ほとんど詐欺よね…」 しかも自分は、女扱いされてないときた。 遣る瀬無さがふんだんにこもった溜息をついて、少し皺の付いてしまったメイド服の胸のボタンに手をかけた。 情けない程熱を帯びた顔が、ひどく虚しかった。 |
次回から第二章突入に伴い、ここまでの話と雰囲気が変わります
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