安寧なる檻





「いやあ、服一つで女は変わるって言うけどさ、ここまで豹変するとはなぁ」
「…ええ…マイナスの方向にね」
笑顔で言うガイに、それは褒める時に用いる表現だと、いまだ虚ろな笑いを浮かべたままは心の中で突っ込んだ。
そういえば昨日の朝、形振り構わず必死に爆走していた自分を男子高校生のグループが馬鹿にして笑っていたな、と思い出す。
あの時のそれと先程の状況は似た感じはあったが、ああも正面きって大爆笑されたら、いっそ清々しい。
「なあ、それ脱げよ。折角面白かったのによ」
「…笑われると知っていて、脱ぎますか」
ルークが、不満そうに口を尖らせながら、自身にとって凶悪なメイド服を隠すために被っている元の服の上着を指す。
体の線が全く出ない程のオーバーサイズ(実は父親の若い頃の服)のお蔭で、足以外をすっぽりと覆い隠すことが出来ていた。
その強固なシェルターから決して出るまい、と、ますます上着をきつく着込む。
それを見て、ちぇ、と舌打ちをしたルークは少し機嫌を損ねた様子である。
としても、ここで彼のご要望に応えてメイド服を曝け出し、更にドジョウすくいでもしてやれば、好感度がうなぎ登り
間違いなしな事は解っていたのだが、その次元にまで自らを堕とす気は、今の所ない。まだそこまで自分を捨てたくない。
「必死なとこ、悪いんだけどもな、?」
言い難そうな響きの声に、ガイの方へと顔を向けると、やはり苦笑を浮かべるその人がいる。
「それ、意味ないから。…脱いでくれないと、仕事を探しにいけないぞ?」
汗のつたう頬を掻きながらの指摘に、反論するべき所が見当たらず、ぐっとは言葉を詰まらせる。
確かに、そうだ。
元の服が、こちらの人間にとっては奇異と受け止められてしまうから着替えたというのに、それを覆い隠してたら意味がない。
例えこちらの服を着た自分の方が、悲しいながら万倍滑稽だったとしても。

…そうだ、考えてみたら元の姿で怪しさ100%だとすると、メイド服姿は怪しさ240%だと考えられる。
増えているじゃないか、どう考えても、不審指数が。やはり納得いかない。
「……一応提案してみますけど…元の服で仕事探した方が、当たりいいなんてこと、ないですか…?
 別に屋敷の中じゃなくて、外だったら何処かに一箇所くらい雇ってもらえる所が…」
「あ〜、…」
の言葉を聞きながら、思い出した、と言うようにガイが微妙な響きの声を上げる。
「外」と口にした時から、どこかばつの悪そうな顔になった彼に、言葉を中断せざるをえない。
どうしたのだろう、と彼の反応を待つ。
「…残念…って、いうかな、」
「……?」
いつも笑顔で妥協案を出してくる彼だからこそ、何だか、「どうにもならない」という雰囲気が言い知れぬくらい恐い。
眉尻が下がり、実に申し訳無さそうに、ガイは恐らくこの屋敷のほぼ全員に通達されたであろう命令を告白する。


「お前を、屋敷の外に出してはいけない、というお達しが出た。送還の書の捜索も、先に見送られるみたいだ」
「…え!?」
苦笑の消えた真面目な彼の顔には、冗談を言っているような有余は全くない。
けれど、言われた事は冗談であって欲しい内容に違いなかった。
「どういう事だよ?城下くらいなら、帰る方法探しに行くぐらい、いーじゃん」
のみならず、その横にいたルークまでもが目を丸くする。
外に出れない、送還の書も放置、という状態のままでは、一向にの事は解決しないではないか。
ルーク的にも、それは困るようである。
暗に、早く帰って欲しいんだ、と失礼な事を態度で示しているルークに、不満を抱くような余裕さえには無かった。
ただ、どうして、と、理由を知りたいばかりで、ガイを窺う。
「ルーク、お前は知ってるよな。今、キムラスカとマルクトが、どんな状態なのか。を屋敷から出さないのも、
 お前と同じだよ……危険を考えての事なんだ」
真剣でいて、重さを感じる内容をガイは話しているなずなのに、「知ってるよな」と言われた筈のルークはというと、
よく解っていないのか、ふーん、と、腑に落ちないような面持ちで納得のようなものをしている。
しかし、その傍らで聞いていたの方は、突然出てきた聞き及んでいない地名らしきものと事実に、
疑問の色が濃くなるばかりである。
危険?…どういう事なのだろう。
呼び出されたばかりで、全く信用のなかった昨日。たった一日でその溝が埋まるとは思えないが、それでも深まるとは。
このまま見捨てられるのか、やはり、都合の悪い事として、無かった事にされるのか。
疑問と不安を抱く事しかできないでいるの方に、次にガイが向き直る。

「ここは首都だからな…前線から離れてるせいで、いまいち伝わりにくいかもしれないんだが――――…
 このキムラスカ・ランバルディア王国と、隣のマルクト帝国という国は、極度の緊張状態にあるんだ」
「ちょ…っ、ちょっと待って下さい!」

どうも彼は、事実であるならどんなに重くても途方もなくても、躊躇する事無くさらりと言ってのけてしまう性質のようだ。
それでいつも、こちらは出遅れる。慌てて理解に追いつかなくてはならなくなる。
今回もそうだ。国同士の緊張――――?
戦争放棄をしてから長らく、事実を知る人物が世を去りつつある中、「とにかく大変だった」と伝え聞くばかりの日常。
生まれてから「国」という存在すらも、遠く感じて生きてきたにとっては、話は呑み込めても事の次第がどれだけ
重いのか、なんて、計り知れなくて。ただ、「とにかく大変なのかもしれない」。

「…それって…この国が、戦争をするって事…ですか?」
自分で口にしつつも、あまりにも実感がなくて、「センソウ」という言葉が浮く。
問われたガイは、滅多な事を言うもんじゃない、と、首を横に振った。
「その可能性がある事は、否定できない、ってだけだよ。…戦争なんて、誰も望んじゃいないさ」
「……………、」
放り捨てるように投げられた言葉は、けれど、何の権力も持たない希望の言葉に過ぎない。
上が起こすと言えば、例え何万の民が反対しようとも、悲劇は起こる。何て、理不尽なのだろう。
可能性――――それだけでも、は肌があわ立つのを感じた。
どうしてガイは…ここの人達は、"戦争"なんてとんでもなく恐ろしい事が起こるかもしれない場所で、
自分達が死ぬかも知れない事実の前で、落ち着いていられるのだろうか、普通に生きていられるのだろうか。
情けない事に、自分は慄くしかない。
とんでもない場所に来てしまった――――改めて、自分のとことんな不運を呪う。
持ち前のマイナス思考に、どこまでも沈み行くこちらの顔を見かねてか、ガイが引っ込めていた苦笑を再び浮かべてくれる。
「そんな顔するなよ。お前を屋敷から出さないようにするのも、ひいては戦争を起こさないようにするためなんだからさ」
「え…?そ、そう…なんですか?」
いつの間に、自分はそんなにビッグになってしまったのか。覚えが全くないので、目をしぱたいて首を傾げる。
"戦争"という国家の大事に比べれば、マイナス要素を人より多くひっさげている事以外、際立つ所のない自分など、
毛ほどの影響も及ぼす事はないと思うのだが。
理解し難い事象に、むう、眉間に皺を寄せるこちらの思考を理解したのか、ガイがその解をくれる。
「お前がどう自己評価を下そうとも、事実というのは何処までも言い広げられるもんさ。
 …『王家と姻戚関係にあるファブレ公爵家が、新たな兵器として、異界から化け物を呼び寄せる実験を行っている――――』
 そんな話が、マルクトに伝わったら、」
「何だよそれ!言いがかりもいいとこじゃねーか!」
を喚び出してしまった張本人としては、黙っていられなかったのだろう。
仮定として話しているだけなのに、と、本気で怒って声を張り上げるルークに言葉を遮られ、ガイが困ったような笑いをする。
彼にとってマルクト帝国は、忌々しい記憶障害の原因にあたるだけあって、怒りも強まるというものだ。
肩を怒らせるルークを宥めつつも、遮られた言葉の先を、ガイは続ける。
「そう否定した所で、失った分の信用も立場も、取り戻す事は出来ないもんなんだよ。……解るだろう?」
案の定、ガイがそう言っても納得いかないのを顔に貼り付けたままのルークはさておき、窺うように言葉を投げかけられ、
は伏せ目がちに頷く他ない。
自分だって、納得なんかしたくない。だったら帰る方法なんて、どうやって見つければいいんだ、という話である。
けれど。戦争の引き金になる事を思えば、無理なんて言えるわけないじゃないか。
溜息ついて、顔を上げた。
「そうですね…。国が落ち着くまで、しょうがないですよ、ね。……解りました」
が首を縦に振る傍ら、ルークが面白くなさそうに舌打ちをする。彼もしぶしぶ、どうにもならない事を受け入れたようだ。
しかしながら、納得の言葉を口にしつつも。
戦争が起こる起こらないという状態が、にわかに一ヶ月や二ヶ月で解消されるとは到底思えない。
短くて数ヶ月、長くて数年――――頭が痛くなる。そこまでになると、逆に帰りたいという気持ちは薄れてきそうだ。
家賃や光熱費滞納で、住むところなんかとっくに引き払われているだろうし、バイトはクビになってるだろうし、
それどころか、行方不明、もしくは死亡扱いされていたりして…。
…とにかく、社会復帰が大変そうである。
納得をしたのにも関わらず、眉を縦に並びそうな程の八の字にして、深い溜息をつくに纏わりつく空気は、
果てしなく淀んでいる。それを吹き飛ばそうとでもいうのか、の返事を聞いた時から笑みを取り戻したガイが、
ますますその笑顔を輝かせる。

「と、いうわけでだな、」
過剰な程のそれは、不審なまでに朗らかで。

「何…ですかね…」
何処と無く嫌な予感というか、威圧感を感じるのだが、それを口の片方の端が引き攣るというだけに留め、平静にガイに問い返す。
「働きたいんなら、どうしても屋敷の中しか無理なんだよなぁ、残念ながら」
「は、はぁ…」
まあ、屋敷の外に出ることが出来ない以上は選択肢がぐっと減ってしまうのは避けられないか。
ガイの話を聞きながら、その点も納得はしていた。
「でもな?もしも来客があった時なんか、そんな異世界の服被って働いてたら、見つかった時ヤバイと思わないか?」

解った。ガイの意図が解った。回りくどく自分をその結論に導いていこうとしている。
「いや、それはそうとも言えますけど…ええと、でも」
やっと気付いて逃げに廻ろうとする自分を、ガイが逃すはずもない。笑顔が、また更に明るく爽やかになっていく。
思わず後退る。しかしガイも一歩近付く。
「な、。いい加減観念して…」
「…脱げ。」
むんず、と上着の首根っこの部分が背後から何者かに掴まれた。
「!!?」
それはもう、仰天して振り仰ぐと、退路になるはずだった方角には憮然としたルークが立ちはだかっていて。
畜生――――と、は思った。妙な打ち解け方をしてしまった事が、この上なく悔やまれる。
ほんのちょっと前の彼ならば、自分の事なんて完全無視で、忌々しそうにも放っておいてくれたはずなのに。
今も、態度としてはあまり変わらないが、こと此方を虐める事に、どことなくある種の楽しみを見出してらっしゃる気がする。
恐いのですが。普通に考えて、私恐いのですが。
二人の美形に前と後ろから迫られるなんて至上の喜びじゃないかと仰る人がいるんなら、謹んで代わってあげたい。
自分にとっては、前門の虎、後門の狼状態に他ならないのだから。

「い…い…嫌だ…嫌だ!だってあんなに笑ってたじゃ…」
思い起こせば尋常じゃない大爆笑。
もはやあの状況は、セーラー戦士のコスチュームで環状線一周の旅と同じ位の衝撃だった。人前に出られるはずがないのに。
本気で嫌で、目尻に涙さえ浮かぶが、どうやら「女の涙」という武器もこの顔では威力がほぼ皆無らしい。
「あ?何つった?」
泪目で見上げるこちらにも全く動じず、ルークは細めた目でねめつけてくる。
いらいらと威圧感が膨れ上がり、それと共に背中にちりっとした痛みが走れば、に拒否権はない。
「……………………………脱ぎばず(涙声)」

いやしかし。成人女性に対して、「脱げ」はないだろう、少年よ。
まだ微妙に女性扱いされてないような気がしながら、その実そうなんだろうなあ、と考えて涙した。





ゴシゴシ。
「はぁ……」
ゴシゴシ。
「はぁ……」

一定のリズムで床のブラシ掛けと溜息を交えながら、は耐えていた。
何にって、時折通りすがっては、もれなくビシビシと自分をメッタ打ちにしてくる屋敷の人々の痛い視線である。
「うわぁ…」「何だあれは…」「ひええ…」「うわアレっ…」
と、いうような声が、心の耳に聞こえる。凄くよく聞こえる。
けれど、人の着る服を着ているんだから、例え似合わなくてもそこまで酷くはないはずだ。
だからその視線の痛さは、自分が「召喚獣」だからだという事に向いているのだ。…うん、そう信じたい。
屋敷の、あまり主要ではない、目立たない廊下の一角。
とはいえ、人通りが皆無ではない廊下の掃除を与えて貰えた事は、とても嬉しいし、助かる。
あとはもう、この屋敷に被害を与えようなんて気は更々ないのだから、ここの人達が早いところ自分に慣れてくれさえすれば
不満など、一切ない。しかし、それの実現への道は、他の何をおいても一番果てしがなさそうなのであった。
いま一度、深い溜息をついてから、気持ちを改めて掃除に集中する事にする。
こする床は、毎日うっすらと降り積もるホコリだけで、他に目立つ汚れなんかは一切ない。
いつもが受け持っているような、吐き捨てられたガムや唾、菓子等の包み紙に汚された薄暗いコンコースとは大違いだ。
さすが公爵家だなと感心しつつ、綺麗な床に気分が弾む。
掃除のしがいがないのではと思いそうにもなるが、それはそれで、更なる美しさへのレベルアップへの試行錯誤が楽しいのである。
知らず、うへへ、と口がニヤケて、それを不運にも見てしまった使用人がビクリと引いていたが、気にしない(気付いてない)。
(そうよ。やっぱり人間、働いてこそなんぼのもんよね…)
久しぶりに取り戻した自分のペースに、うきうきと体を動かした。
こうして無事に仕事にありつけたのも、ガイのお蔭である。自分を見て、脅えるメイド達に頭を下げてくれたのだ。
そのうちの、勇気あるメイドの一人が、自らの受け持つこの廊下の掃除を分け与えてくれたのである。
ガイの面目を守るためにも、使用人達の信頼を得るためにも、頑張らなければならない。

「…ふう」

始めてから、およそ2時間くらい経ったろうか。
頬へと伝わろうとした汗を手の甲で拭い、ずっと曲げていた腰をのばした。
とん、と傍らにブラシをついて全体を見渡してみると、その8割が美しく磨き上げられている。
納得の出来に、誰からも褒められていないのにも関わらず、ふふん、と胸を張った。
さて、あと少し、と、残った仕事の方へと向き直ると。
その先の曲がり角が何やら騒がしい事に気付く。
「…?……何?…"ガイ"…?」
黄色い声…恐らくメイド達数人の可愛らしいきゃあきゃあという声の中に「ガイ」という言葉がふんだんに混じっている。
(ガイさんっていうと……あいつ…えーと、ご主人様の所に戻ったんじゃなかったっけ…?)
メイド達に口利きをしてくれた後、彼はルークのご機嫌取りに、部屋へと帰っていったはずなのだが。
もう終わったのだろうか。動かす手はそのまま、耳だけをそちらに向ける。

「もう〜ガイったら可愛いんだから〜!」
「ねえ、いつになったら、デートしてくれるのよ?」

何とも甘い声が聞こえて、は思わず苦笑する。
(そりゃそうよねぇ…あれだけの美形だもの…)
世界が違っても、顔のいい人物がモテる理は変わらない。おまけに気遣いは出来るし、優しいし面倒見もいい。
普通の女性に、そんな男に惚れるな、と言う方が無理であろう。
よくもまあ、あれだけのアイドル男に対して、自分は普通にやりとり出来たものである。今思えば恐ろしい。
はてさて、声を聞く限り5、6人はいるであろうメイド達。この仔猫ちゃん達(イタイ表現)を前に、
ガイ様は一体、どんな華麗なイイ男ぶりを披露してくれるのやら、と、期待を胸に窺っていたのだが。


「かかか…勘弁してくれぇえぇ〜〜〜……」


(…………………………は?)
思わず耳が馬鹿になってしまったのかと思った。
到底、あのガイのものだとは思えない…けれど、紛れもなくガイの発したらしい声。それも、そうとうに悲痛な。
今のは一瞬の夢かと、ブラシを持つ手も止めて曲がり角の先へと意識を集中させる。

「ひ、ひぃッ!近付かないでくれって!知ってるだろ!?」
「まあ、そうなんだけどー…なあんか、かまいたくなっちゃうっていうか」
「ねー?そう脅えられちゃうと、余計にそそられちゃうっていうか…」
「じょ、冗談はやめてくれよぉお!!」

「…………」
たり、と、汗が伝う。
何だ。何が起こっているんだ。曲がり角の先で。
やはり、見る影というか、聞く影もない声を出しているのはガイらしい。それを取り囲む、甘ったるくも穏やかでないメイドの声。
虐められているというわけではなさそうなのだが…あの余裕綽々のガイがここまで取り乱しているなんて、一体どうした事か。
無性に確かめたくなって、趣味が悪いとは自覚しつつも、そろりと角の壁際に寄り添い、直接様子を窺う事にする。
見えたのは、やはり数人のメイド達と、それにとり囲まれているガイ。
暴行を加えられているという訳でもなく、しかし、別段何か特別な事をされている訳でもない。
ただ、華やかな輪の中で、一人ガイが震えているだけ、といった、何とも奇妙な光景だった。
(な、何…?どういう事…?)
漫画などでよく目にする、ファンに囲まれていや参ったなははは、という絵ヅラそのまま、違うのは中心にいる人物が
白い歯を見せる余裕もない程に顔を青くして脅えている、という事だけだ。
不可解な目の前の場面に、やっぱり、首を傾げるしかない。

「と、とにかくっ…俺、用事があるから!また今度な!」
さながら、群がる悪霊でも掻き分けるかのように、ぎゅっと目を閉じながら、ガイがメイド達の輪の突破を試みる。
向う先は、何とこちらの廊下だ。まずい。今のこんな体勢じゃ、盗み見していたのがバレバレで格好がつかない。
慌てて身を引くのだが元掃除をしていた場所まで戻るには至らず、角を勢い良く曲がってきたガイと、
中途半端な状態のまま視線がぶつかる。
お互い、顔に「あ」という言葉を貼り付ける以外、特に何という事はない再会だった。しかし。

「もう!ガイ!逃げないでよ!そんなだから、いつまでも女嫌いが治らないのよ!」
追いすがったメイドの一人が、がしり、とガイの腕を掴んだ。
――――女嫌い?
咄嗟に耳に入ってきた言葉を、頭の中で咀嚼しようとの脳が動き出すのが早かったか、
ガイが息を呑むのが早かったか。
大爆発の前兆の、独特の空気の収束が、そこに生まれる。
の目の前で、ガイの全身の色素が抜け落ち、体が石のように硬直した。



「ひ、わあああああああ!!!助けてくれええええええッ!!!」
凄まじく悲愴な叫び声と、がばっ、という音。がまともに認識できたのは、そこまでだった。


覚えていない、というよりは、意識が飛んだ。そんな表現が正しい。
何も見えない。
視界いっぱいが、オレンジがかった茶をベースにした服に覆われ、けれど、直の肌…鎖骨が目の前にあった。
両腕と背中を、ぎゅうぎゅうと二本の腕が締め付けてくる。でなかったら、背骨が折れていたかもしれない。

一体、何が、起こったのか。全く、理解できなかった。
「こ、恐い…恐いよ…許して…」という、何とも情けない泣き声もごく近い場所から頭に響くが、脳を素通りしていく。
の体をすっぽりと覆う"何か"は、自身が状況を理解しないまま、小刻みに震え、しがみつく力を強くしていく。
とにかく、自分の顔に押し付けられているのが、どうやらガイの胸だというのを何とか理解出来た時。
脳髄から、白いような黒いような閃光が、ぶわ、と広がった。
何を思ったのか、何を考えたのか、全く解らない。きっと、条件反射だった。
どんっ、と音がするのも、どこか遠くに響く気がする。
「うわっ!?」
「きゃああ!!ガイ!」
意思とは関係なく手が動き、思い切り目の前の"男"を突き飛ばしていた。

男。男なんだ。いつも私を馬鹿にして、罵倒する男。近付けもしない、自分から触ることなんて出来ない、男なんだ。
こわい、こわいこわいこわい――――!!
ガイを押し返した格好のまま、突き出た自分の手を見つめながら、は呆然と、驚きに言葉を失ってしまった。
平気なつもりだった。別に話せもするし、肩を叩かれても、何も思わなかった。なのに。
(は…恥ずかしい!!恐い!!何これ…!?)
生まれて初めて、肉親以外の人間で体験した抱擁は、あんまりにも衝撃的だった。
頭を通過する血はサァッと冷えていくのに、心臓からばくばくと送られる血は、馬鹿に熱い。
しかし、取り戻した意識と、視界の先に見たものは。

渾身の力で突き飛ばされたにも関わらず、どうにか持ち前の運動神経で危うく受身をとるガイと。

けれども、そのガイの腕が当たってバランスを崩す、廊下に飾られていた大きな美術品の壷。

「あ」という言葉を、誰しもが頭の中に抱いても、口に出すまでには至らなかった。その前に。


グワシャ――――――ン


と、いう、時価数十万ガルドのそれが、床の上で粉々に砕け散る音がその場に響く方が早かったからである。







悶々と寝転がっていたベッドから身を起こしたルークの眉間には、不満や怒りによる皺が溜まっていた。

「何やってたんだよ、ガイ!すぐ戻ってくるって――――…って、何で地味ゴリラも一緒なんだ?」

部屋に戻って来たガイの横に、仕事を探すために出て行った筈のまでいる事に気付いて、つりあがっていた眉が
下を向く。さらに、この上なく曖昧で複雑そうでもある引き攣ったガイの苦笑と、憔悴しきってげっそりと佇むの顔を見て、
ますますルークの顔の疑問符は深まるばかりであった。



「はあ?クビぃ?…んだよ、たかがそんな事でか?」
だらしなくソファにかけて、ルークが片眉を上げる。
テーブルに備え付けられた椅子に腰掛けながら、ガイは微妙な笑顔でため息をついた。
「たかが…って…あの壷、聞いた話によると、80万ガルドはくだらないらしいぞ…。ラムダス様の知人からの贈り物だとか」
「はち…っじゅう…ま…」
先程から色々とショックで、俯いたままガイの隣で同じく椅子に掛けていたのだが、彼の口から出た衝撃の値段と事実に
は更に心を痛めた。
あの後、仕事を任せてくれたメイドの、ガイのフォローを受けながらも悲しそうな、脅えたような、悔しそうな顔…
「やっぱり任せなければよかった」と言いたいような表情を見てしまい、これ以上ない位には落ち込んでいた。
弁償しようにも、こちらのお金なんて一銭も持っていない。手持ちの向こうのお金でも、439円。
レートが全く解らないが、1ガルドが1円だったとしても、80万円なんて、途方もない金額だった。
顔色を無くすどころか、青くなっていくこちらの様子にやっと気付いて、慌ててガイが取り繕う。
「あっ、わ、悪い!大丈夫だって!本当に大事な物なら、あんな場所に飾られてないしさ!
 …そりゃ確かに値は張るけど、80万ガルドなんて、この屋敷にとっては大した被害額じゃないから…」
な、な、と、必死で訴えてくれているフォローの言葉も、動かせない事実の前に右から左へ抜けていく。
それでも、こうして凹んでいたって無かった事にはならない。
ここは気持ちを切り替えて、別の償いの道を模索すべきなのかもしれない…と、仄かに立ち直りかけていたのだが。
「どんくっせーなぁ、お前。壷割っちまうくらいなら、やっぱ大人しくしてた方が迷惑じゃねーんじゃねえ?」
「なんっ…」
「ま、まーまーっ!俺が悪かったんだって!ちゃんと女嫌いなんだって、に言ってなかったもんな!」
ルークの無神経な発言に、思わず頭に血が上って掴み掛からんばかりの勢いで立ち上がりかけ、ガタンと椅子が音を立てる。
ソファの上から「何だよ」と、ねめつけてくるルークと真正面から睨み合うが、横からガイが押さえつけて来て椅子に戻された。
その際、掴まれた両肩から一瞬、先程の激しくうねるような恥ずかしさと恐怖が呼び起こされそうになるが、一定以下の
レベルのスキンシップには、やはり反応が無いようだった。……――――それよりも。

「壷を割ったのは俺なんだし、は気にしなくても……、………ん?…どうかしたかルーク?」
必死でフォローに徹しようとしているガイだったが、ソファの上で掻いたあぐらに肘をつき、反論もせずにジトーッと、
何かを言いたげなルークの視線に気付き、首を傾げる。
「……ってかな、ガイ」
やっとこちらの様子に気付いたか、と、溜息をつきながら、ルークはスッと指でこちらを指してくる。
「そいつは、いいのかよ」
「…へ?」
指摘されて、甘いマスクに間抜け面を貼り付けたままのガイが、肩に置いた手はそのまま、視線をこちらに落としてくる。
意外にもルークから指摘してくれたのには驚いたが、取りあえず目下、目が合って数秒経つというのに理解してくれない
様子の伊達男に、細めた温度の低い視線を送ってやる。
「ガイさん。わたくし、おんな なんですけれども。」
一字一句、魂を込めて言ってやる。でないとこの男、絶対気付かなかった。一生、疑問符を浮かべてた。
言葉と共に、何度言ったら解るんだ、と、目で訴えれば、ガイは驚いた顔に冷や汗と曖昧な笑みを浮かべる。
「…え。う。いや…その。…えーと…」
わさわさ、と、置かれた彼の手は白々しい動きを見せた後、やっとそろり…と離れて距離をとってくれる。
「確かお前、触るのはもちろん、近付くのも駄目だったはずだよなあ」
ただでさえの送る冷たい視線で居竦まっているガイに、ルークが楽しそうに口だけ歪んだ笑みを浮かべ、
意地悪な言葉を放つ。どうやら、先程まで放っておかれた事に対する腹いせのつもりらしい。
ルークと自分が息を合わせるなんて、何だか不思議で新鮮な感覚だが、取りあえず今はガイである。
「へえー…そうなんですか、ガイさん…。…近付く事すら出来ないはずなんですか……」
だったら何で、私などに抱きつく(しがみ付く)なんて芸当が出来たのでしょうねぇ。
そこまでは言葉で言わなくても、ガイにはそれが充分伝わっているらしい。
ますます顔には焦る色が募り、だんだんと背筋が前にのめって小さくなっていく。
流石に可愛そうな気もしない事もないが、こればかりは許す訳にはいかない。
後ろ指さされまくりの女らしい格好をさせられて(ちなみに現在元の服の上着を着用中)、しかもさせた本人はこちらを女だと
認識していないなどとは、言語道断。例え誰が許そうとも、自分だけは許せない。許してはいけない。
冷や汗を頬に伝わらせているガイは今や、困惑の極みに達しているだろう。

「…………す……すみません。平気じゃなくなるよう…努力します」
「それ…何か違うぞ」

ギリギリと締め付けられるような空気に耐えかね、思わず意味不明な方向へと結論をかっ飛ばす使用人に、普段ツッコミを
入れられまくりの主人が珍しく突っ込んだ。
も確かに何か違う…とは思うのだが、ガイの言っている事も正しいような気がして溜息をついた。





厨房からガイがくすねて来た(にしては本格的に一式揃っていたが)ティーセットで、3人、部屋のテーブルで一息つく。
何だかんだで、時計はもう午後の3時を回っていた。
何というか、濃い一日を送っているなあ、と、は脱力気味に考えた。
結局得ることが出来た職もすぐに失ってしまい、こうして見目麗しい貴族様とそのご友人と、恐れ多くもご一緒に紅茶などという
至高の液体を啜ってはいるが(まだ水以外の飲み物に慣れない)。
何だか、バイトに追われていた毎日よりも一日が長く、疲れるような気がする。特に精神的な方面で。

「しかしなぁ…」

ぽつり、と、落ち着きを取り戻したガイが言葉を漏らしたので、そちらに視線を向けた。
「も、言ってくれればよかったのに。男嫌いだってさ。そしたら俺も…」
「ちょっと、待って下さい」
ぴたり、と、言葉と同時に手を上げてストップを申し出たので、困惑を含みながらもガイは口を閉じる。
「…誰が、男嫌いなんですか」
まあ、確かにその気はあるとの自覚もある。
しかし、ガイと違って近付いたり、触ったりといった、一般的な事は出来る。得意ではないというだけで、平気な範囲だ。
申告しなければならない程の男嫌いといった、大袈裟なものではない。
しかし。
あの時。咄嗟に抱きつかれた時の予想外の自分の反応は、今までああいった行為とは無関係に生きてきた所為もあって、
ちょっと理解できない。そりゃあとんでもなく恐かったし、恥ずかしかったのは事実だが、この上にまだ、
自分にとってマイナス要素となるだろうカテゴリを、増やしたいとは思わない。
けれどもその否定を受けて、ガイは納得がいかない、という表情になる。
「そうは言うけどな。あの時のあの反応………何か俺と同じニオイがしたぞ!」
「に、ニオイって…」
意味不明の発言に、が脱力して項垂れる。コブシを握って力説しだすガイを、ルークも呆れた顔で眺めていた。
妙な所で、力の入る男である。
「アレじゃねー?咄嗟に、ガイが何かしようとしたんじゃねーの?」
自らの中に膨大な持論を見出したらしいガイの目を見て、それがあふれ出さない内に蓋をしようとでも言うかのように
適当な理由付けでルークが言葉を投げる。
それにもめげずに、ガイは握るコブシに更に力を入れた。
「違う!そりゃあ俺だって可能なら、どさくさに紛れて女性にあんな事もこんな事もしたいがな!の場合は女性じゃな…」
「殴りますよ。」
「…い、こともないし、キュートで愛らしいが、別に何もしなかったんだ!」
今、言葉を遮らなかったら、本気で殴り飛ばしていたかもしれないような事を口にしたガイを、またも細めた目で睨む。
キュートで愛らしいなんて事を初めて言われて嬉しくなる所の筈だが、あまりに白々しいので効果は皆無である。
と、いうか、はガイの言動に、一女性として呆れた。どさくさに紛れて、あんな事もこんな事も?
全く不届きな。これじゃあ「女嫌い」じゃあなく、「女好きの女性恐怖症」だ。
何だか益々一緒にされたくなくて顔を顰めたのだが、勢いの衰えない彼の顔はまだを同類扱いしてくる様子で。
「じゃあ…何だってんだよ…」
適当な理由付けにはっきりとした否定を返されて、やっぱりお前もガイみたいに男嫌いなのか?と、いうような視線をルークが
向けてくるが、自身、実際の所がどうなっているのか、なんて解るはずもなく。
確信を持って頷くガイの横で、眉を八の字にして首を傾げるほか無い。
とはいえ、今はもう平気なのだし、異性に抱きしめられる状況なんて、一生ないだろうと思っていた。
これからも、今回を除いて今後一切無いだろう事だと思う。そうなると、確かめようもないし、確かめる必要もない。
まあ、マイナス要素が増えるといっても、「男嫌い」なら相手にそんなに影響を及ぼすものじゃない。黙っていればいいのだ。
むしろそれがバリケードとなって、美形コンビからの余計なコミュニケーション(虐め)から、少しは守ってくれるかもしれない。
どうにかプラス方向の結論を無理に導き出し、溜息をついた。
折角、小器用なガイが入れてくれた紅茶が冷めないうちに、とカップに口をつける。
しかし、次の瞬間、口内に紅茶を導き込んでしまった事を後悔した。

「お、そうだ。なあ、ルーク!お前もに抱きついてみろよ!」
ぶふぁっ!!
「………はァ?」

食道を通るはずだった紅茶が、あまりの衝撃に、大量に気管の方に入り、盛大に噴出した。
その後はもう、怒涛のごとく止まらない咳で、軽く死を覚悟するほどの地獄の苦しさ。
それにも増して、ガイの発言の破壊力にの精神は大ダメージを受けていた。
例え咳なんて出てなくても声を発することなんて出来なかっただろう。
の噴出しを軽くスルーして、飛び散った液体を拭くガイは、いい考えだとばかりにこの上なく呆れ顔をしたルークに迫る。
「俺だけじゃ、解らないだろ?ルークも同じようにしてみて駄目だった場合、晴れて男嫌い決定、ってわけだ」
何が一体「晴れて」なのか。
冗談じゃない。何でそうなる。そして一体、どんなぶっ飛んだ提案なんだ。
どれか一つでも口に出そうとするのに、どんなに頑張ってもウェッティな咳は止まってくれない。
口に手を当てて蹲りながらも、これ以上ガイの提案が実現に向かうのを何としても阻止しようと、懸命に手を伸ばそうとするが、
震えるそれが届かない上に彼は気付かない。「な、」と了承を求めて、にこにことルークに笑顔を向けている。
勢い付くガイに、引いた反応を見せるルークが、眉間に皺を寄せたまま此方にチラリと視線を寄越してくる。
不運にも目が合ってしまった事で、大変気まずい思いが胸の内に生まれた。
…なんというか、いいと言う筈がないのである。ルークが自分に抱きつくなど。普通に考えて有り得ないし、彼も嫌だろう。
だからガイに対して、ある種恨めしい思いがわく。
「嫌だ」と言われるのが目に見えているからこそ、直接その言葉が耳に入るのが嫌だった。
だって、異性から抱擁を嫌がられるなんて、こちらとしても望んでない事とはいえ、多少なりとも傷つくじゃないか。
渋面のまま、から視線をガイへと移し、その往復をもう一度繰り返した所で、ルークは答えを出す。
案の定、そんなに時間はかかっていない。

「ヤなこった。気色悪い」

キ シ ョ ク ワ ル イ 。
成る程そうか、気色悪いときたか。これまた本人を前に、いっそ清々しいまでの暴言だ。
別に「嫌だ」までは予測できていたからいいが、付属のそれは「何で俺が」とか「馬鹿じゃねーの」止まりが良かった。
当然、その言葉を聞くや否や流石に黙っている事が出来ず、蹲っていたは拳を振り上げて復活を果たした。

「き…ゲホッ…気色わグフゥッ…とは…ゲホゴホッ…何なのよ―――!!?」
「何だよ当たり前だろ!?ブスだし色気ねーし、
 そんなのに抱きついたって嬉しかねぇっつーの!!」
「いや、ルーク。嬉しいとか、嬉しくないとかの問題じゃなくてだな…」
すかさず、冷静と見せかけてガイが尤もらしくツッコミを入れて来ようとするが、元はと言えばという話だ。
抱きつく抱きつかないの問題じゃない。何でそっち方面に話が進んだんだ。
「そういう問題でもないでしょうがっ!!!」

割れないように、と力加減は充分にしたつもりでも、有り余った怒りとやるせなさを込めてに叩かれた机は、
メキョ、という、明らかに物の寿命が大幅に縮まった音を立てた。


ガイが仕事を斡旋する→しかしガイが壷を割る→クビになった上、更にメイド達の主人公への心象低下。
…やはりガイが主人公を陥れている疑惑

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