目覚まし時代





やけに静かな目覚めだった。
いつも、けたたましいだけの不快な音で自分を起こしてくれる安物の目覚まし時計は、黙ったままだ。
まだ眠気の覚めない頭をもたげ、上半身だけを起こしたまま暫し考える。
時計の針が2時56分という有り得ない時刻を示していたからである。
東向きの窓から入ってくる新鮮な光は、夜明けを、一日の始まりを告げている。なのに、だ。
もう一度、安いプラスチック製の時計を凝視する。おかしい。
東から光が入ってくるという事は、紛れもなくあれは朝日だ。
だとすれば現在が午後3時であるという事だけは免れた。よかった。そうであったなら、自分は今完全に
ここに居てはいけない。アルバイト先で、馬車馬の如く働いていなければならないのだから。

だが。しかし。

凍ったまま動かない時計の針を見ているうちに、だんだんと自分の置かれている状況が解ってきて、
サッと血の気が引いていく。安心している場合ではない。いつもの朝からしてみれば異常事態である。
何故なら、朝日が昇るまでに家を出発していないとアルバイト先の事務所に定刻までに着けないのだから。

「…っっ(ひいぃいぃぃいッ!!)」

壁が極めて薄いボロアパートは、くしゃみの音すら隣人に伝わってしまう。
朝っぱらから、上げるに上げられない悲鳴を呑みこんで、転がるように蒲団から這い出し、上着を掴む。
(うそ!!何時!?今いったい何時なの!?)
テレビや携帯電話なんて贅沢なものがあるはずもなく。
この電池切れでおそらく深夜に力尽きてしまった時計が、世の中の時間の流れを教えてくれる唯一のもの…
と、いうわけではなかった事を思い出した。
微妙に古びた懐中時計を引っ掴む。
見た目からして明らかに安物であるが、両親が死んでから、それが自分の手元に残った唯一つのものだった。
しかし手に取るたびに感慨に浸るというわけにもいかず、それが指し示す時刻を見てはさらに
体の温度が急激に下がっていくのを感じた。
(ま、ま、間に合わない!!)
とにかく格好など気にしていられない。
身だしなみを整えるのが、社会人としての最低限のマナーだとしても、その場に居なければ意味が無い。
まず重要なのは現場に自分がいなければならないという事で、そんなものは二の次だ。
といっても可能な身だしなみといえば、顔を洗って歯を磨いて、ひどい寝癖は水をつけて直して髪を整えるだけ、
それすらを行う時間さえ今はない。
無くても生命活動に支障ないものは、極力持たないようにしているから、身を飾るものなんて一切持っていない。
皺が残っているが気にせず、もう随分くたびれてしまったジーンズを履く。
靴下を探すが、何処にも見当たらない。いらいらしながら周りを見回していて、あっ、と思い出す。
靴下は台所の流しの洗面器に浸けたままだった。
洗い物は、顔も歯も食器も服も、全て此処で洗う。
汚いと思う事無かれ、水の出る場所が此処しかないのだから仕方がないのだ。
引き出しに残っていた靴下を見つけたので、助かったとばかりに足を突っ込むが、開いていた大穴から
親指と人差し指が飛び出てしまった。修理をしなければならなかったものを放ったらかしていたらしい。
顔を顰めつつも、一日中靴を脱がない作業だし平気か、とそのまま慌しく靴を履く。
お弁当の用意が出来なかったから、今日は夜まで物を食べられないのか、と溜息をついた。
外で何か買おう、なんてとんでもない。一回の食事で3日は生きられる金額になるじゃないか。
空腹で地獄を見る事になるかもしれないけれど、丈夫な自分のこと、気を失う事は無いだろう。


鍵を閉めるのを忘れずに、玄関から飛び出して死に物狂いで走る。
給料が減らされたら、ギリギリ保っている今の生活は成り立たない。
安い石鹸で洗っている髪は寝癖がついたまま、靡く事もなくあおられて絡まるし、
手入れした事のない肌はシミだらけで風に晒されてガサガサする。
こんな自分に比べたら、断然優雅に遅刻決定の登校ライフを満喫している派手な男子高校生のグループが
すれ違いざまにこちらを指差し馬鹿にして笑っている。
どんな野次を飛ばしてきているのかを聞いてやる余裕も義理もない。
うるさいなあ。形振り構ってられないのだから仕方ないじゃない。
走って走って、バス停も駅も走って通り過ぎていく。
交通機関を使わない理由については、くどいので敢えて言うに及ばないだろう。
だから夜明け前に家を出なければならないのに。
途中でクリーニング屋の看板の大きな時計で時刻を確認すると、このままのペースで約2分の遅刻。
ペースを上げようにも運動不足を訴えるかのように、わき腹に激痛が走る。
(いたた……うえぇ、お腹も空っぽだから気持ち悪うぅ……)
それでも仕方ない、と走る事に専念しようとした矢先、すぐ目の前に人が歩いていたのに気が付いた。
そのままぶつかるほど運動神経が鈍いわけでもないもんね、と咄嗟に横にそれる。
が、同じ方向に歩くそのサラリーマンは、が避けたのと同じ方に移動した。
(えっ、……もう! ……まあいいや)
結果的には狭い歩道に抜かしやすいスペースが出来たので、急いでる身分としては
戸惑いながらもその先へ飛び込む事にしたのだが。

「きゃっ!」
「わっ!?」

出来たスペースを通ろうとした女性と鉢合わせになる。
そっか、この人を避けるためにサラリーマンは横に退いたのか、と頭で理解しながらも、
咄嗟の事態に対処仕切れずに足がもつれた。勢いそのまま女性にぶつかったのでは、
お互い無事にすまないだろうと、ブレーキをかけたところまではよかったけれど。
バランスを崩して倒れた先には、車道との線引きであるガードレールが。
「ちょ…わ、うわああっ」
結局受身を取れずにガードレールに引っかかって仰向けに倒れてしまった。何か漫画みたいだ。
空を見たのなんてどれ位ぶりだろう、と、恥ずかしさから逃れるため、一瞬現実逃避してしまう。
「大丈夫ですか?……ちょっとおばさん、気いつけなよ!」
少し体が当たってしまったのか、よろけている女性を支えながら、サラリーマンが怒鳴りつけてくる。
「す……すみません……」
何だいこの差は、と憤慨したくもなるが、自分に過失があったのは紛れも無い事実だ。
ガードレールに引っかかった足を外して立ち上がり、背中や足についた砂や誇りを払う。
その際手の平に痛みが走った。転んだ時に擦りむいたのだろう。
ああ全く、絆創膏だってタダじゃないのに。
顔を歪めながら振り向くと、女性が足を庇うように男性に支えられて立っていた。
どうやら軽く足を挫いてしまったらしい。
(……踵の高い靴履いて歩いてると、咄嗟の時に危ないと思うんだけどなぁ……)
咄嗟の事態を起こしてしまった自分が言うのもなんだが。
スパンコールで綺麗に装飾された高そうなミュールとかいうやつ。そういう靴を履く人の気が知れない。
それは紛れもなく履けない自分のひがみだったし、彼女に非があるわけじゃないと解っていたので、顔を歪めている
女性が心配になって謝った。
「あの……本当にすみませんでした。大丈夫ですか?」
「……ええまぁ、いいですけど……」
何すんのよ、とか何処見て歩いてんのよ、とか、罵声を浴びせられないだけマシだったと思う。
けれども何だか納得がいかなくて、微妙に眉間に皺をよせる。
つまり、状況的には私が全て悪かったという事なんだろうか。まぁ、そうかもしれないけど。
腑に落ちないのは自分の性格が悪いからなのかなあ、と、ちょっと溜息が出る。
謝罪もそこそこだが、いよいよ間に合わなくなってきたので、もう一度軽く頭を下げて再び走り出す。
サラリーマンは自分の事でもないのに、女性の気を引きたいのか、まだ後ろで悪態をついているようだった。
ていうか、「オバさん」って何だ、「オバさん」って。
さっきの女性は恐らく20代半ばに見えたが、それと並んでもこっちはついこの間やっと十代から抜け出してきたばかりだ。
20歳という人生の節目に、何か少しでも華やかな事をしようと、特売品のイワシにロウソクを立てた事は記憶に新しい。
上等な化粧品で肌を整えていたら、年相応か、それ以下に見られるだろう。
逆もまた、然り。
ヨレヨレの数少ない服も相俟って、年齢は軽く+10歳には見えてるのかもしれない。
それを気にしないのではなく、気を遣いたくともできないでいるのだ。


見た目地味。始終俯き気味。口下手。性格は後ろ向き。人付き合いが苦手。
そんな自分がこんな時勢、運良くありつけたのが、掃除婦という今のアルバイト。ひたすら掃除して低賃金。
でも、何だってやらなきゃ生活できない。
お金が無い。お金が壊滅的に無い。
そう、全てはお金が無いために上手く回らないのだ。
飛び出して来てからずっと走っているから喉が渇くが、自動販売機でジュースを買うお金もない。
お腹が盛大に空腹だという音を響かせえて訴えかけてくるが、それに応えてやれる余裕もない。
今日バイトに間に合わなかったら、また色々と切り詰めなくてはならなくなる。
もう何が起こっても気にするもんか。人でも車でも轢き逃げてやる。
そうしなければ、来月の自分が死んでしまう。



体の限界を振り切って更に加速した。
「貧乏暇なし」。
その言葉を誰が最初に言い出したのかは知らないが、上手い事を言ったものだと思う。
いつか、この生活から脱出できる日が来るのだろうか。
切に願う。
早くそうなってほしい、と。
いつかは、きっと。



そんな日が案外、突拍子もなく早くにやってくるのと、
そうなった後、楽になるのかどうかは、この時、知る由もない。


とにかく今はどん底で、女らしさの欠片もない主人公。 突然ファブレ公爵邸という華やかな舞台にトリップし、
恋や友情を通して素敵なレディに成長していく… ような物語には決してなりません。←何が言いたい
けれども、ジアビスの世界に立って、歩いていく一人の女性を描いていけたらなぁ、と思います。

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